氷の守護者 番外編

かくも平穏な日々




「翔、進んでるか?」
 なれない調査仕事にかかりっきりになっている早川翔の後ろに回って、篠原隆二は声をかけた。頭に腕を置いて、その上に体重をかける。上から彼の仕事の 出来を確認するように画面をのぞき見てみた。うん。良い感じに進んでいる。この分ならこれからは、多少の調査仕事を任せても大丈夫そうだと何度か頷いた。だが、やっている本人にはまるで出来ている自覚がない。
「無理……。玲にさせた方が絶対に早いって。俺には向いてないよ」
 そんなことは百も承知でまわした仕事なので、篠原は全く意に介さない。それに、これは必要なことでもあるのだ。
 今、篠原総合事務所に来ている仕事は、全てが調べものという悲しい状況だった。いつもなら外でする肉体労働系が一つ二つあるのだが、ここ数日に限って何もない。普段なら外を回る翔までが内の仕事にかり出されている理由がこれだった。何時までも内の仕事が出来ないではすまされない。だが、口から出る理由はまた別のものだ。
「分かっているけど、仕方ないだろう? 玲は向こうの仕事とレポートにかかりっきり」
 二人の話に出ている本業、某所エージェント、副業学生の玲こと遠山玲は忙しい。篠原の事務所にも所属してはいるが、今はこちらに顔を出す余裕がないのだ。それは同じく某所イリーガル、桐生樹にも言えることだった。彼の場合は一応学業の方を優先しているらしいのだが。
「ところで、お前の方には話が来ていないのか? 玲は大分忙しくしているみたいだが」
 うーん、と首をかしげて翔はとりあえず今までの作業をセーブする。こんなところでうっかり消してしまっては話にならない。
 今は翔も、某組織のイリーガルとして登録されている。エージェントとしてその仕事をこなしている玲ほどではなくても、樹と同程度には仕事の話が来てもおかしくないのだ。事実最初の事件から今まで何度もかり出されている。
「今のところはまだ。俺は実行部隊扱いみたいだし。多分玲が忙しくなくなってからが出番なんじゃないかな」
 それこそそっちでも調べものなんて出来はしないと。翔は肩をすくめる。
「まぁ、そうだろうな。その手の調査なら俺がした方がいくらも早い。ところで……」
 篠原はそこで簡単に話を切って、以前から持ちかけている別の話を口にする。
「引っ越しの話、考えたか?」
「考えてはいるけど。翼が引っ越しを嫌がっているから……ちょっとすぐには無理かな」 
 引っ越し自体はその翼のためにしたいのだが、本人が嫌がる。多分彼的には今のままで問題がないのだろう。
 翔は篠原総合事務所に勤めているが、最近アルバイトと呼ぶにはすこしはばかりがある別の仕事を掛け持つようになった。無理強いされてしているわけではない。天職とまでは言わなくとも、今させられている調べものよりははるかに向いていると思っている。だがその仕事を始めたことによって、家に帰る時間が 頻繁に遅くなるようになった。
 翔は翼という弟と二人暮らしをしている。両親はすでに亡い。弟はすでに小学校の六年生で、卒業も間近。一人で留守番が出来ないような年齢ではないのだけど、それでもやはり夜間に一人置いておくのは気が引ける。たとえばそんな日が月に一日あるかないか程度であればまた問題も変わってくるのだろうけど、それよりは確実に頻度が高い。今は篠原がちょくちょく様子をみてくれていて家に呼んだり、逆に彼が翔の家に泊まるなどして翼を一人にせずにすんでいるが、この生活も続くと互いに負担が増えてくる。その負担を軽くするためにと篠原は引っ越しを提案してきたのだ。そう、篠原の家に。
 普通ならそんな風に甘えるわけにはいかないと断ることも出来るだろう。だけど、翔にはその断り文句を使うことが出来ない。そんなことを言ったりすれば……。
「翼を持ち出されると俺も強くは言えないんだが……」
 言いながら、篠原は翔の頭の上に置いた手をそのままするりと首にまわしてくる。何をという間もなく後ろから顎をとられ、ぐいと首をまわされた。そのまま抵抗する間もなく深く口づけられる。……まぁ、抵抗する気も無かったのだけど。少なくとも、本気で抵抗する気は。
「ちょっと、何するんですか、こんなところで」
 その甘い口づけにうっかり酔って身を任せそうになって、翔はあわてて自分が今どこにいるかを思い出して相手を押し返す。さほどの抵抗もなく押せば篠原はすんなりと身体を離した。それはそれですこし寂しい。
「……お前、俺がどれだけまともに触っていないか分かってるだろうな?」
 翔は翼がいるからと、外泊はほとんどしない。今はそのいくらかあった外泊の席を全て仕事に取られている。その上暮らす家も違い、仕事も真面目にこなしてそんな間にナニをする暇があるわけもなく……。
「この前やったの、何時だかおぼえてるか? いい加減俺も我慢の限界だぞ」
 わざわざ言われなくても覚えている。多分、一月半前。最初にUGNの仕事を手伝った翌日にしたのが最後で、その後は今のように篠原が時折ふざけて口づけをしてきたりする程度。
「一緒に住めばせめてもう少しどうにか……」
「ちょっとまって。まさか翼のいるところでするつもりじゃないだろうね?」
 そう。篠原が同居を言い出したのはもちろん翼の為もあるが、半分は自分の欲望の為。だがそれは翔にも言えることで……。それでもまさか翼が同じ屋根の下にいるのにそんな行為にふける気にはなれない。翔が同居を渋る最大の理由がそれだった。もちろん、翼が乗り気ではないというのも嘘ではないのだけど。
「するだろ。翼とは部屋分けるし。あいつだってうすうすは気づいてるだろうが」
 篠原はあっけらかんと答えて、翔の腕を引き立ちあがらせる。そのまま奥の応接の椅子にとんと押して、何故か事務所の入り口にカギをかけにいった。翔が何をしているのかと見ている間にすぐに戻ってきて、翔の横に座りそのまま体重をかけてのしかかる。
「ちょっ、何をっ!」
「大丈夫だ、カギは閉めてきた」
 抵抗する翔に、篠原はにやりと笑って服のボタンをはずしていく。すこし開いた胸元にするりと手を入れて、なめらかな肌の感触を楽しみ始めた。
「カギを閉めたとかそういう問題じゃないッ! 仕事場だろう、ここは。……っ、ちょ、止めっ……ぁ」
 男の下から逃れようと翔は抵抗するが、すでに身体の弱みなど知り尽くされている。しかも随分長い間放置されていた身体はほんの少しの刺激であっという間に反応し、どん欲に快楽を求め始める。うるさくわめく口を口でふさがれ、先ほどよりもずっと長くて深い口づけをされれば、翔にはもう抵抗することなど出来なくなっていた。
「さっき中途半端にキスなんてしちまったから、我慢できなくなったんだよ。お前だって、したくない訳じゃないだろう?」
 確信犯の笑みで翔の胸を強くつまむ。喉を引きつらせ、もれる喘ぎを必死でこらえる相手に篠原は楽しそうに胸を刺激し続けた。あっという間にシャツの前を全てはだけて肌を露出させ、赤くふくらみ始めた胸元を舌先で刺激する。それだけで翔の身体がびくんと跳ねた。こんな風になってしまってまで否定できるわけがない。目の前に答えが全てさらけ出されているのだ。翔はせめてもの抵抗に悔しげに唇をかみしめて、視線を相手からそらした。
「素直にしてくれって言って見ろよ」
 からかうように言う相手を誰がと怒鳴りつけようとしたところで、いきなり携帯が鳴り出した。翔の携帯。呼び出し音は、某組織に関係する相手限定のもの……。あわてて身体を伸ばして電話を取ろうとする翔の腕を、篠原は押さえた。むなしく呼び出し音が鳴り響く。
「ちょっ、離せって。あの音、玲か樹か明日菜さんからッ……」
 その名前の羅列でどこからの電話か分かったらしい篠原は、ため息をついて仕方なさそうに翔の上からのいた。翔はあわてて男の下から這い出し、携帯を掴んで通話のボタンを押す。玲だ。そこまではディスプレイを見て冷静に判断することが出来た。
「もしもしっ」
『遠山です。お取り込み中にすみません。今事務所の前なんですが……』
「はっ?」
『ですから、今事務所の前にいます。カギがかかっていて入れないんですよ。中にいるのは声が聞こえたので分かったので電話をしたんですが……』
 さーっと、翔の顔から血の気がひいていく。携帯からもれる声を聞いて相手が分かったらしい篠原が固まった翔から携帯を取り上げて変わりに電話に出た。
「もしもし、玲か? 忙しいんじゃなかったのか?」
『忙しいですよ。だから早川さんを借りに来たんじゃないですか。カギあけて下さい』
「ちょっとまってろ。今翔が服着るから」
「さっさとあけてきて下さいっ!」
 間抜けな会話がすぐ横で繰り広げられていて、やっと正気を取り戻した翔は、はだけられた自分の服の前をかき合わせてあわててボタンを留めながら叫んだ。笑い声と共に篠原は携帯の通話をきり、機械を翔の方にぽんと放る。それを受け取っている間に素早いキスを仕掛けてきて、「続きは後でな」などと囁いてから事務所のカギを開けに行く。
「お前な、せめてアポ取ってから来いよ」
 文句を言いながらも自分は涼しい顔でアルバイトを迎え入れ、奥の翔がまっているソファまで連れてくる。バイトなのにアポも何もあったものではないが、丁度良いところで乱入されては文句の一つも言いたくなると言うところなのだろう。もちろんこんなところで情事に突入しようとしていた篠原と翔に、一方的 に非があるのだけど。
「留守電にしていたのは誰ですか。ちゃんと向こうを出る前に電話をしましたよ」
 それはつまり十分ほど前と言うことだ。なるほど、篠原はカギをかけるだけでなく留守電にして音まで消していたのか。
「まぁ、それは置いておいて。“氷の守護者”に仕事の要請です。今からなんですが、大丈夫ですか?」
 言われて翔は思わず篠原の方を見る。こちらの仕事の状況が今ひとつ掴み切れていない。元々篠原は細かいことが得意だ。頭もよく、学校の成績というレベルなら国立の大学をトップクラスで卒業しているし、機転も利くので調べものなどにも長けている。総合事務所などという訳の分からないものを続けていられるのも、その調査能力のなせる技だ。つまり、翔がわざわざ時間をかけてやらなくても、篠原なら半分以下の時間で積み上がった資料の片づけやら調べものは 出来ると言うこと。
「仕事の方は良いんだが……」
 途中で邪魔されたんだよなと冗談めかせて言う相手の頭を翔は一発はたいた。そしてそのまま出かける準備を始める。
「まぁ、気をつけて行ってこい。翼は預かっておくから」
 元々止める気はなかったのだろう、篠原はそんな風に言って翔を送り出した。





「にーちゃんまた仕事?」
 篠原が早川の家に行くと、翔の弟翼はそんな風に聞いてきた。このところ彼が尋ねることが増えている。その時には翔が帰ってこないとをさすがにもう理解していた。
「そう。今日は俺で我慢しとけ」
 笑って入るぞ、と翼の頭を撫でて篠原は家に入る。翼もそれを止めるようなことはしない。彼が家に入ってくることなんて、本当に当たり前のようにあることだからだ。
「とりあえず飯作るか。何食いたい?」
「オムライスー」
 篠原が着いたのが夕方だった。いつも翔が帰るよりもすこし遅い程度の時間。翼の答えを受けて冷蔵庫の中を探り、何とかなるなと頷くと必要な材料をテーブルに出していく。翼はその間そのテーブルについて、篠原の手際をずっと見ていた。手伝ってみるかと呼び寄せてみると、嬉しそうに頷いて手伝いに来る。
「そういやお前、引っ越しは嫌なんだってな」
 なんでもないことのように、色々な指示を出すついでに篠原は聞いてみる。理由が知りたかった。それを取り払うことが出来れば、翔を手元に引き寄せることが出来るかも知れない。もちろんこうして翼の面倒を見に来るのも楽しいのだが、どうせなら一緒に住んでいる方がずっと楽に色々出来る。
「なにそれ? 僕そんなこと言ってないよ?」
 きょとんと。音がしそうな様子で翼が首をかしげた。おかしいなと思う。翔は確かに翼が嫌がっていると言っていた。そんなところで嘘は付かないだろう。嘘を付いたところで、こうして簡単にばれるのだから。
「そうなのか? じゃあ、引っ越ししても構わないのか?」
「えーっと……あ。今すぐはダメ。もうすぐ卒業だから」
 その後なら良いよと。翼は軽くこたえる。そうしてそういえば、兄に学校が変わっても良いかというようなことを聞かれて、嫌だと答えた事があると教えてくれた。確かに、今に限らず引っ越しをすれば学校が変わる。学年が変わった後でも親しい人の誰もいない場所に行くことになるから、本人がそれを嫌がっている と思えば翔も強くは出られなかったのだろう。だが。
「つまり、卒業してから、中学からなら別に構わないのか?」
「うん。いいよ?」
 なんでそんなこと聞くのと翼は不思議そうだ。翔が聞き出せずに、あるいは聞かずにすませていた事を、篠原はどんどんと聞いていく。その間も手は動いていて上手に薄焼き卵を焼き、赤いケチャップライスをくるりと巻いていく。
「じゃあ、誰かと同居するのは?」
 オムライスを作り終え、野菜室にあったものを適当に使ってサラダを作る。それらをテーブルに置いて、頂きますと手を合わせると二人は食事を始めた。
「うーん……相手による、かなぁ?」
 問いかけにスプーンを口にくわえて翼は一生懸命考える。「俺」と篠原が簡単に立候補を伝えれば、なんだ、と少年はものすごく簡単に頷いた。
「じゃあ、いいよ」
 返事が早いな、と苦笑がもれる。だが、その理由を少年はちゃんと持っていた。
「だって、りゅーちゃんご飯作れるし、掃除も洗濯も出来るもん。一緒に住んでたらにーちゃんがしなきゃいけないことが減るでしょ? 僕も一生懸命手伝ってるけど、まだ全然たりないんだもん」
 つまり、篠原と同居をすれば翔の家事負担が減るから構わない、というのだ。何ともしっかりとしている。ついでに篠原から料理を習って、ゆくゆくは自分でどうにかしたいとまで言い出す。
「だってね。今もにーちゃんに教えて貰ってるけど時々なんだよ。まだ火とか包丁はダメだって言うし」
 そういうのは段階だから仕方が無いと翼も分かってはいるのだけど、それでもやはり不満はあるようだ。最後にはお払い箱にされそうだなと苦笑しながらも、篠原はとりあえず頷くにとどめた。
「じゃあ、兄ちゃんには俺から言っておいてやるよ。春休みの間に引っ越しだと、大変そうだな」
「今からちょっとずつ片づけとくよ」
 翔のいない場所で、あっという間に話がまとまっていた。





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