次にマリアが目覚めたときには、アルベルトは隣にいなかった。
寝台を囲む帳の隙間からは光がさしこんでいて、空気が暖かいことに驚かされる。また眠ってしまいたくなるほど快適だ。
甘ったるく感じるほど心地よい豪奢な室内は、フォーゼ族の村の家とは大違いだった。
あの家の朝は寒々としていて、この季節――秋の終わりにもなると、窓に結晶がつく日さえあった。
起きたら一番暖かいワンピースを着て、ラウラと一緒に編んだショールをはおって、暖炉をつけっぱなしにしておいた厨房に向かう。まずは薬缶を火にかけて、少し遅れて起きてきたラウラと一緒に、井戸の水をくみにいって……。
朝食は、熱々のスープと黒パン。余裕があるときには、温めたワインを少し。
――それが昨日までのマリアの日常だった。
貧しく素朴だけど、たしかに幸せだった日々からは遠いところに来てしまったと痛感する。
贅を尽くした部屋の中、マリアの心は寒けに震え、エメラルド色の瞳からは涙があふれそうになった。
(わたし……あんまり涙もろいほうじゃなかったのに)
本当に、身も心も弱りきっているようだ。
涙を封じるようにまぶたを抑え、マリアは重いため息をつく。
シーツを探ると、アルベルトが休んでいた場所にはまだ少し温もりが残っていた。彼が去ってから、あまり時間が経っていないのだろう。
疲れ果てた心にぽつりとにじんだ感情に気づき、再びため息が出た。
(……どうして、心細いなんて思ってしまうの?)
女の本能なのだろうか。
たとえ無理やりであっても、関係を結んだ相手がそばにいないと不安になるとか……。
(違う。そんなのじゃない)
(ここにはわたしの知り合いがいないから。そのせいよ)
かぶりを振って、自分を納得させたがるみたいに胸中でつぶやく。
そうして身じろいだとき、マリアは自分が男物のシャツを着せられていることに気づいた。
もともと着ていた、フォーゼ族の文様を刺繍したものではない。飾りけは皆無だが、肌ざわりのいい上等の綿だ。
男もののそれのデザインを、どこで見たのかふと思い出す。
(アルベルト・ザクセンが、軍服の下に着てた……?)
意識のない自分に着せていったのか。
意外な気遣いに妙に動揺したとき、羽根枕に置かれた書き置きが目に飛びこんできた。
文鎮代わりらしい、重い銀の指輪をつまんでよける。
『――俺の花嫁、マリアへ
おまえの可愛い寝顔をずっと眺めていたかったが、仕事があるから先に出る。
夜までには帰るつもりだ。おとなしくしてろ。
屋敷の者には適当に説明しておいた。おまえを悪いようにはしないはずだ。
必要なもの、欲しいものは、遠慮せずに執事のヘルマンに頼め。
――おはようのキスの代わりに。A』
なんだか短い恋文のようだ。
いかにも軍人的な鋭気に満ちたアルベルトの容貌と、妙にロマンチックな文章が全然結びつかず、マリアは複雑な顔になる。帳を開けてみると、サードテーブルにこれを書くのに遣ったとおぼしき筆記具と紙入れの箱があった。
その隣にガラスの水差しを見つけたので、マリアはひと晩中嬌声を上げさせられて疲れた喉をまず癒す。重たい身体にしみこむ水は、ほんのり甘い薔薇の香りがした。
(薔薇水を……水で割ったもの?)
たしか何万本という薔薇を使って、ようやく小瓶一本分のエッセンスが作れたような。
(ぜいたくな……)
(でも、さすがは黒伯爵と言うべきかも)
芳醇な花の香りに癒されるものを感じながら見回すと、小さな屑籠が目についた。
くしゃくしゃにした書き損じが、中にいくつも放りこまれている。
奇妙に鼓動が早くなるのを感じながら、一枚一枚広げてみると、書き置きと似たような文章が綴られていた。
(こんなに何度も書き直しを……?)
うっかり、可愛いところがあると思ってしまった。昨夜の暴虐を忘れたわけではないのに。
(……めちゃくちゃにされて、不安定になっているだけよ)
(気が弱くなってるだけだから)
しっかりしろ、と自分に言い聞かせ、マリアは今度こそ寝台から立ち上がった。
全身に疲労感があり、ことに足腰はまるで鉛でできたように重い。どうにか一歩踏み出せば豊かな乳房が揺れ、先端がシャツの布地にこすられる刺激にびくりとしてしまう。歩くたびに少し腫れた秘裂がくねり、濃厚な雫がこぼれて内腿を穢すのが惨めだ。
(綺麗にしたい……けど)
所在なげに室内を見回すと、大理石の暖炉にはちゃんと火が焚かれていた。
アルベルトに剥かれたマリアの衣服はどこにもなく、代わりに女性用の衣服が一式、長椅子の上に置かれてある。
見たところ、どれも清潔なのはもちろん、上質のシルクや木綿でできた高級品だ。帝国貴族の着るデザインである。
(……この屋敷の人が用意してくれたのよね、きっと)
(でも、いつのまに?)
熟睡していて、まったく気がつかなかったとは不覚だ。
帳は閉ざしていたし、首まで毛布に埋まっていたから裸身は見られなかっただろうが、恥ずかしいことには変わりない。
――ここの人間はみな、マリアの素姓を知っているのだろうか?
――マリアが黒伯爵に手籠めにされたことを、知っているのだろうか……?
あるじがどこの戦場に行ったのかを、知らないとは思えない。
秘薬漬けで欲情におぼれさせられた昨夜は、マリアは声を抑えていた自信がない。
(……穴があったら入りたい……)
身を清めたかったが、アルベルトの言う「屋敷の者」を呼ぶ勇気が出せそうになかった。
あるじに忠実な者ばかりだろうと、想像はつく。歓迎はされないはずだ。
(わたしはフォーゼ族だし)
(本当なら、伯爵さまのお相手なんかする身分じゃないもの)
途方に暮れたとき、部屋の隅に衝立で囲まれたスペースがあることに気づいた。
のぞいてみると、真鍮の板を巻いた大きなたらいが置かれている。
(! お湯が――)
近寄ってふたを開けると、中の湯は十分すぎるほど温かかった。
――これを用意するには結構な物音や人の出入りがあったはずなのに、それに気づかず寝こけていたのか、わたしは。
それでも気遣いに感謝して、冷めないうちに湯を使うことにした。
濡らした布で髪を拭き、肌を丹念に清める。
……昨夜は初めての濃密な快楽にばかり気をとられていたが、身体のあちこちにアルベルトが甘噛みしたり吸いついたりした痕が残されていた。恥ずべき場所に近い内腿にまでほの赤い歯の痕があり、陵辱の内容をまざまざと思い出させるのが苦しい。
唇を噛んで恥辱をこらえ、深奥によどむ残滓を、中に指をさし入れてかき出した。
「ん……ッ」
ぬめる狭隘で指をくゆらせるたびに自分の唇からもれる声はほの甘く、媚びる色さえ帯びている気がした。聞きたくなくて、ぎゅっと目を閉じる。
身体の奥に、昨夜の疼きの残り火があるのだ。秘薬のせいなのか、単に自分が淫蕩なのか。
――『少し前まで生娘だったとは思えんな』
アルベルトの残酷な言葉を思い出し、暗澹たる心地になる。
アルベルトの手、唇、胸板――望みもしない行為の濃密さを思い出しては、乳房の先端がふっと硬くなり、肌が震えてしまうのだ。肉欲に慣れていればそのまま自分を慰めていたかもしれないが、マリアの中ではまだ娘らしい潔癖さが勝った。
「――あの男のせいで……」
黒髪の帝国軍人に苛立ちをぶつけながら、湯から上がる。