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 マリアは、こくんと空唾を呑んだ。緊張に顔がこわばるのを止められない。
 男の切れ長の瞳は鋭気をはらんでいるが、造作そのものは彫りが深くて端正だった。
 軍人らしい厳しさや精悍さとともに、どこか貴族的な知性と気品を強く感じさせる。
「――アルベルト・ザクセン」
「俺を知っているのか」
 アルベルト――『黒伯爵』ザクセン一族の当主は、わずかに眉を上げた。

 貴族として申し分のない権勢を誇りながらも、ぜいたくに溺れず、帝国のために戦場に出ることを誇りとする当代の黒伯爵は、帝国の象徴のひとりだ。つまり《黎明の翼》にとっては敵の大将首の一人である。知らないわけがない。
 マリアも直接の面識はないが、似顔絵なら何度も見ていた。

「あなたはたぶん、自分で思っているよりも有名人よ」
「そうか。ではおまえの名は?」
 彼女の動揺をよそに、アルベルト・ザクセンはあくまでも淡々と問いかけてくる。
 どう答えるか考え――初めて自分の状態に気づき、マリアの顔が赤らんだ。
 なんと、下着の上に、男物のシャツのみをはおった格好である。
 暗器や隠しナイフを仕込んだ上着やズボン、靴を残らず剥ぎとられたせいだろうが……。
 ふとももから下が完全にむき出しで、ひどく心もとないし、何よりも恥ずかしい。
 下肢をできるだけ隠したくて、シャツの裾をこっそり引っ張っていると。
「名を言え。手荒に扱われたくなければな」
「…………」
 鋭い眼光に射すくめられ、マリアは現実に戻った。
 だいぶ迷ったが、こうして捕えられた以上、名乗っても名乗らなくても自分の末路に大きな差が生まれるとは思えない。
「……マリア・シュティール」
「マリアか。似合いの名だな」
 アルベルトにさらりと褒められ、マリアは反応に困る。
 聖女めいた名はマリアには昔から少し悩みだったのだが、アルベルトはどうも素で褒めてくれているようだ。だいたい彼には、敵の娘なんかに世辞を言う理由がないのだし。
「傷は痛むか」
「傷?」
 言われて初めて、気絶したのは彼にこめかみを打ちすえられたせいだと思い出す。
 殴られたところに手をやると、すでにかさぶたになっていた。どうやら薬を塗ってもらえたようで、指先に少しべたつきが返ってくる。捕虜に対して思いのほか丁重な扱いだ。
「大丈夫です。――ところで、ここは」
 得体は知れないが、アルベルトに危害を加えてくる様子はないので、マリアは思いきって訊ねてしまった。

 暖かい部屋はとても牢獄や拷問室とは思えない。
 壁紙は、黒地に紅茶色で絡みあう植物を刷りだしたシックなもの。調度もこっくりとした色合いで統一されている。春が近いとはいえ外はまだ寒い日が続いているのに、白磁の壷には赤い薔薇がこんもりと生けられていた。
 村の家がすっぽり入ってしまうほど広く、まるで貴族の私室だと思っていたら。

「ここは俺の領地にある屋敷だ」
「黒伯爵の?」
 予想外の答えに、マリアは目をまるくした。
 たしかに《黎明の翼》の村から黒伯爵の領地はそう遠くなかったが、捕虜を連れてくる場所ではない。どうやら完全に彼と二人きりのようだし、一体なんのつもりだろう。



2011.1.9 up.

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