広大なハイデルベルク帝国に、等しく夜が訪れる。
まだ冬の冷たさを残した闇は、東のザクセン伯爵領をすっぽりと包み、領内の〈黒い森〉はまるでうずくまった怪物のような不気味さをかもしだしていた。森の見える丘に建つ黒薔薇屋敷にいても、月明かりの底に眠る木々が風でざわめくのがなんとなく感じられるほどだ。
――黒薔薇屋敷の一室。
白い大理石の暖炉で燃える炎が、ぱちりと爆ぜた。
火の温もりに包まれて――さらってきたフォーゼ族の少女は、まだ夢の世界にいる。
「…………」
彼女のそばに腰を下ろしたアルベルトは、無表情のまま苦いため息をついた。
戦場は何度も経験しているが、こんな形で女を奪ったのは初めてだ。屋敷の人間もだいぶ面喰っている様子だった。
アルベルトは昔から、帝国軍の同胞たちがそういう掠奪をするのを冷ややかに眺めてきたほうだからだ。非戦闘員をもてあそぶ趣味はなく、女に不自由したこともなかったのだ。
なのに――とアルベルトは、自分に初めての衝動を抱かせた少女を見る。
(フォーゼ族の少女か)
(――『あの男』にバレたら面倒なことになりそうだな)
(いや、確実に面倒なことになるか)
それでも、今さら手放せはしないが。――この、昼の光よりも夜の闇が似合う少女を。
美しい少女だ。
アルベルトと対峙したときの瞳の強い輝きが忘れられない。炎の中で、彼女は極上の宝石よりも美しくきらめいていた。
可愛い女性、妖艶な女性、美貌の女性――
アルベルトは帝国貴族の世界でたくさんの女性を見てきたが、この少女の美しさはそれらとは別世界だし、別格だと思う。たとえ皇宮の舞踏会にまぎれこませたても、彼女の存在はだれよりも際立つはずだ。
「起きろ。――フォーゼ族の娘」
声をかける。
待つのは飽いた。戦場ではまともに見られなかった瞳の色が見たい。
昏倒させる前に名を聞いておけばよかった。名を呼んで起こすほうが楽しかっただろうに。
二十五年の人生でもっとも強い切望が、アルベルトの身の内を静かに焦がしていた。
「――起きろ」
深みのある低い声。聞きなれないそれは、マリアを夢の底から外に連れ出そうとする。
無性に心細さに襲われて、マリアは救いを呼ぶように手をもたげた。
伸ばした手は、空を泳ぎ――だれかにつかまれる。
(え?)
ラウラではない。男の硬く大きな手。革手袋の感触。
あまりの驚きに何度も瞬いて、ようやく目の焦点が合い――マリアはごくりと息をのんだ。
若い男がそこにいた。
と言っても、マリアよりはだいぶ年上だ。三十路かその手前か。
すべてを見透かすような冷たい青の瞳が印象的である。
黒髪の大半を後ろに寝かしつけており、黒い革手袋まできちりとはめたストイックな装いが怖いほど似合う男だ。
まとうは黒ずくめに金装飾の軍服。上着の上から締めるいかついベルトの、留め具が金色に輝いている。金モールと赤い布で壮麗に彩られた肩章も、鉄十字と双頭の鷲をモチーフにした紋章も、彼の素姓をまるで見せつけるように示している。
――フォーゼ族の宿敵、ハイデルベルク帝国軍人だと。
(そうだ……わたし、この男に――)