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 ひとつしかない扉の向こうにある人の気配に気づき、輝夜はさっと蒼褪める。

「――何も言うなよ。鍵はかけてあるし、心配すんな」
 輝夜の口元に軽く手を押しつけ、リオンが警告の響きでささやく。
 あまりの事態に凍りついた輝夜は、うなずくことすらまともにできなかった。

 そして、愛撫を止められて初めて、室外の物音などにも意識が剥いた。声の主の気配。規則的な波のさざめき。すぐ上の甲板を歩いている船員の足音。遠くの船室からかすかに聞こえてくる、酒盛りのにぎわい。

 ――恐怖と背徳感で、ぞわりと肌があわだつ。
 こんな場所で、わたしは。
 悲鳴を上げることも一瞬考えたが、すぐに没にした。先刻リオンは、この船には家畜以外は男しかいないと言っていた。しかも海賊だ。その中に、船長に逆らってまで、見ず知らずの異国の小娘を助ける善人がいるとは思えない。
 唯一、輝夜を助けてくれる可能性があるのは……リオンだけ? なんて皮肉だろう。

 震える輝夜をまるで隠すように抱きかかえたまま、リオンが扉に向かって声を張った。
「さっきの子供なら、具合はよくなってきたが、まだ話ができる状態じゃないぜ。今晩は俺が寝ながら看病するから、おまえももう副長室に戻れよ」
「おお? めずらしくやさしいのう。子供は嫌いじゃなかったんかい」
「うるせえ。他の野郎には、海戦になったら呼べって伝えといてくれ」
「――了解、船長さん」
 気さくそうな声に似合う軽やかな足音が、ゆっくりと遠ざかる。

 輝夜の身体の上で、リオンが息をついた。
 落ち着いているように見えても、彼なりに緊張を味わっていたのだろうか。目が合うと、薄く微笑まれた。
「ちゃんとおとなしくしてたな。賢いぞ」
 いい子だ、とリオンは唇を重ねてくる。
 ほっとした反動だろうか。いとおしむように抱きしめられて、ありえないくらいに身体と心が震えた。だが、自分を辱めている男にどうしてこんな切ない想いをさせられなければいけないのかと思えば、反発と怒りもくすぶる。

「……わたしは、あなたを絶対に許しません」
 けれどなまじ育ちがいいせいで男を詰る言葉が上手く思いつかず、輝夜は苦しまぎれのにそう口にした。半裸の彼女を抱きしめるリオンは、予期せぬ反撃に一瞬目をみはり、それからほろ苦い笑みを浮かべた。
「許さないか。――まあ俺も、許せとは言わねえよ」
「何を開き直って……ッ」
 かっとなり、輝夜は思わず彼の胸板を拳で叩いてしまったが、意外なことに、リオンは怒りもしなかった。ただ黙って、輝夜の激情をこめた拳や爪を受けとめている。

 ひとりで逆上している自分が馬鹿みたいで、情けなくて、彼の腕さえ押しのけられない無力さが切なくて――とうとううつむいて嗚咽をもらすと、抱擁が深くなった。
 ぐっと引き寄せられ、リオンの胸に額がぶつかる。
 密着した場所から伝わる体温の生々しさにおののき、圧倒されていると、リオンは彼女の耳元で懺悔するみたいにささやいた。

「開き直ってるんじゃねえよ。言い訳をさせてくれるなら――俺は、どうしてもおまえが欲しい。世界中のどんな宝もいらないから、おまえだけが」
 熱く真摯なささやきが肌に直接響くようで、輝夜は息を詰めた。
 まだ残っていた理性のかけらが、これはわたしをなだめるための嘘に決まっていると頑なに叫び、同時に違う場所が――心が、彼は嘘を言っていないと反論する。
 戸惑いをあらわに見上げた輝夜に気づいて、リオンは初めて、自分が何を告白したのか気づいたようだ。照れくさそうに視線を外す。その姿に、思わず胸が疼いた。直後にはっとして、うかうかと甘い雰囲気に流されかけた自分を輝夜は責めた。

 うれしくなんかない。うれしいはずがない。
 たとえ本当に本気の言葉だったとしても、自分を辱めている張本人にそんな告白をされても迷惑だ。頭の中で何度もそう叫ぶのに、胸の奥でたった一度感じた切ない疼きが消えてくれない。
 だって、初めてなのだ。
 そんなふうに人から切望されたのは。
 あんなに慕っていた実の兄にさえ、必要とされなかったのに――
(……やめて。わたしの心までもてあそばないで)
 今日初めて逢ったくせに。
 わたしのことなんて、何も知らない異国人のくせに。
 そんな嘘のない瞳で、わたしを見ないで。欲しがらないで。大事そうに抱かないで。
 わたしの弱い部分を、これ以上揺さぶらないで――

「――輝夜」
 惑乱のあまり声も出ない輝夜の唇を、リオンがおもむろにふさいだ。
 性急に口内を蹂躙する口づけは、まるで今の甘い時間を打ち消そうとするかのように激しい。輝夜もそれ以上彼の言葉を考えるのが怖くて、振り切るかのように男の舌に自らのそれを絡ませていった。
「んッ……」
 喰らいあうような長く激しい口づけの果てに離れた唇の間に、一瞬、銀糸が張られる。
 慣れているのか、もともとの肺活量が違うのか――リオンは多少息を乱した程度だが、輝夜は息も絶え絶えになっていた。酸欠でぼうっとしている彼女にもう一度、重ねるだけの口づけをすると、リオンはひどく自然に、唇を落とす場所を変えていく。



2010.09.01 up.

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