ファンタジスタの人生 《11》 きみとぼくと爪先の石 編





   まず始まりはこうだ。 

   日記の冒頭には新聞の切抜きが貼られていた。 



 白衣で実験室みたいなところに居る中年男の写真と、民家の庭先で写した家族らしき三人の写真。 
二枚の写真を文章が囲むそれは、親父の会社が出した社内報の一部だった。 
写真に写るのは、俺たち家族だった。







   * **



   5月19日 月曜日

 ニュースです! 好きな人が出来ました! 名字は麻生君。 
 名前はまだわからない。 だって 「息子さん」 としか書いてないんだもの。

 とはいえ、ゆうはまだ、麻生君のことをほとんど知らない。
どちらかというと麻生君自身よりも、麻生君のお父さんの事を知っているかな? 

 麻生君のお父さんはK県にある、ゆうのお爺ちゃんの会社の研究所で働いています。 
系列とはいえ、末端の方にある小さな研究所。 
ゆうも、そういう機関があるのは知っていたけども、多分、今回の記事がなかったら気に留めることも無かったのだと思う。 
目立つ分野でもないし、麻生君のお父さん自体がずっと研究だけしていた人らしいから、表にでる事ってないんじゃないかな?

 うん、見た目もそんな感じ。 良く見れば整っているし、太ってもいないし、背も高いのだけども、
でも全体になると、ちょっとヨレッとしてて眠そうな顔をした男の人。

 そんな麻生君のお父さんは、研究が大好き。 忙しいと何日も家に帰らなかったり、お風呂に入るのも忘れちゃったり、
せっかくの休みでも気になる事があればすぐに、とんぼ返りで研究所に戻ってしまったり。 
そういうのをいつも、奥さんや麻生君は 研究馬鹿 って笑うんだって。 
それで馬鹿って言われたお父さんも怒ったりなんかしないで、 御尤もです なんて言って笑ってるんだって。 

   いいなぁ。
   そんな人、そんな家族、ゆうのまわりには居ない。 

 忙しくて滅多に家に帰らないのは、ゆうのパパと一緒。 だけどでも、パパはいつもバリッとしてるし、パパを怒るとか、
からかうとか、ゆう、考えた事もないよ。 恐いもの。 
おまけに仕事が 『好き』 だなんて不思議だよね。 『義務』 じゃないんだよ? 『好き』 なんだから。 
信じられないな。 仕事が好きなんて。 しかも仕事をし過ぎるから家族に怒られるなんて、どう? 信じられないよね。 
仕事する人って偉いんでしょう? お金を稼ぐ人は一番偉いんでしょう?

   ゆうの家とは違うんだね。 

 麻生君は、お父さんが大好きだって言う。 ゆうは、パパを尊敬しているけども、好きというよりは恐い。
好きって言うには遠くて、近づけなくて、誉められれば嬉しいけれど、なんだろう、見えない距離がある感じ。 
おかしいよね。 
親子なんだけど、恥をかかすな、迷惑をかけるな、世話を焼かすな、余計な事言うな…… 
そう、だったら係わらないのが一番みたいな遠慮がいつもある。 
第一に、ゆうはパパに笑って貰った事がないから。 遊んで貰った事だってない。

 勉強とか、良く遣ったと誉められる事はあっても、それは単純にノルマを果たしたとかそういう評価だけであって、
喜んでるっていうのとはちょっと違う。 
よしよしって頭を撫でられるではないし、むしろ出来て当たり前だって感じだし、かと云って失敗なんかしたら屑呼ばわりされて
次に結果を出すまで口を利いてはくれなかった。 
だけど、それで結果を出しても、今度は、次も上手く遣らねばならないっていうプレッシャーだけが残った。 
ゆうにとって、パパってそんなだから。

 パパは、多分、親子としてゆうの事を愛してはいないんだろうな。 
家の後継者として、将来利益を生む存在としてならば、多少期待を寄せている程度?

 失敗した時、上手く行かなかった時のひんやりした目。 ねぇ、そんな目で見ないで? ってゆうは震えそうになる。 
でも泣いたり怯えたりしたらもっと軽蔑されるから、男の癖に女々しい、恨みがましい、あの女にそっくりだって
ママの事まで酷く言われるから、ゆうは何でも有りませんっていう顔を一生懸命つくる。 

 ゆうは、いつから思い切り笑っていないんだろう? いつから思い切り泣いたり怒ったりしていないんだろう? 
そういえば、ママが死んでからパパと話すのは報告と命令だけだ。 
ゆうは、このままずっとそうしてパパの手足になるの?

 もしかしたらここで、何かを飛び越えて行けば、変わるのかもしれない。 たとえば歩みより? 
パパが変わる事はないから、ゆうが行動を起こす? 
けれど、ゆうにはそれが出来ない。 というよりも、そこまでしてパパに近付きたくはない。 
何故なら、パパはあまりにもゆうと離れ過ぎているのがわかって来たから。 
そしてゆうも、パパとはもう離れ過ぎてしまっているから。 
だから、この先もきっと相成れないのだとわかっている。 
いつか袂を分かつような、どうしようもない瞬間が必ず来るって確信している。 

 でも、今は何も出来ない。 わかっていながら言いなりな自分が、ゆうは嫌だ。 
違うよ、そうじゃないから! って、パパに意見一つ言えない自分が嫌だ。 

 でも、このままではきっと、居られない。 いつか、ゆうは、パパに従えなくなる。 
このまま進んで行くなら、ゆうの心は壊れてしまう。

   麻生君は、いいなぁ。


 「こういうお父さんをどう思う?」 って記者の人が聞いたとき、麻生君はこう答えているんだ。



 『 しょうがない親父でしょう? だらしないし、いい加減だし、もー俺とお袋が居ないと汚くなっちゃって駄目なんです。 
 でもね、俺、親父はスゴイって思ってるんです。 
 あ、あんな見た目じゃわかんないでしょうけど、本当に、中味勝負じゃそこらのお偉いさんとだって負ける気がしませんよ。

  趣味と仕事が一緒で、毎日楽しくて、家でも楽しそうで、そういうのってすごくないですか? 
 親父は会社の事も家族の事も、一回だって悪く言った事ないんです。 
 出世とは無縁の人だし、給料良い訳じゃないし、好きッたって時には研究が上手く行かない事だってある筈なんだけど、
 でも、それを周りのせいには絶対しないんです。 
 俺とかにもそう。 

  良い事は良い、悪い事は悪い。 
 今日は良いけど、次は駄目とかそういうダブルスタンダードつくんない人だから、筋が通ってるでしょ? 
 駄目な事からは目を反らさず、だけど良い事ならば手放しで評価してくれるんです。 何より、人と比べたりとかしないし。 
 人は人、自分は自分が徹底しているんです。

  例えば俺なんか、色々あってへこんだりしてても、 でもお前はこうだろう? って
 人よりも勝っているところを見つけて、そこを誉めてくれる。 その上で、今足りないところを一緒に考えてくれるから、
 正直、随分助かったなって思っています。 ちゃんと、欠点以上に長所を見つけてくれるんです。 
 そういうの、簡単じゃないですよね? なかなか出来ないですよね? 
 うちの親父ね、あんなだけど人として、格好良いんですよ。

  俺の周りには、そんなカッコイイ親父、いないです。 格好良くないですか?
 口ばっかりのオトナ多いけど、親父は違うから、中味は男前ですよ。 
 第一、親父自身の人生、滅茶苦茶充実してるから明日命がなくなっても後悔無さそうだし、羨ましい生き方してるなぁと思います。 
 そういう親父が俺ね、大好きなんです。』 



 ――― 多分ね、この記者の人はきっと、ちょっと意地悪な気持ちがあったのだと思う。 

 上手く言えないけども、見た目が冴えなくて、地味な職種で、管理職にも就いていない麻生君のお父さんを、
ちょっぴり見下しているのかなぁって感じが記事全体に見え隠れして。 ゆうはそれが嫌だなぁと思ってた。

 だけど記者さんの価値観は、麻生君たちには通用しなかったんだね。 
麻生君のお父さんは、記者さんには見えない凄い格好良さがあった。 見た目ではわからない、素晴らしいところがあった。 
麻生君は、そんなお父さんをちゃんと見てて、誇らしく思っていた。 それでいいって。 それがいいって。 

 あぁ、だから、馬鹿って言っても笑うんだ。 馬鹿って言われても笑えるんだ。 
ちゃんと本当の中味をわかっているから。 わかりあえているから。

   いいなぁ。 そういうの、いいなぁ。 

 ゆうが小さい時、ママはお菓子を作ったり、ミシンをかけたり、ゆうの古いセーターから縫いぐるみを作ったりして、
ゆうはそれを魔法みたいだって思ってた。 
一緒に台所に立って甘いクリームを舐めたり、半端な毛糸が綺麗な帽子になったりマフラーになったり。 
ゆうはそんなささやかでほっこりした事が好きで、優しくて素敵な事をたくさん知っているママが大好きだった。 

 だけどパパはそう云うのが嫌いだったから、コックが居るのに余計な事をするなって。
素人が作ったものなどみっともないって。 ママの作ったものは食べなかったし、綺麗で可愛い色んなものを捨ててしまったりした。 
ゆうは、嫌だったけど、哀しかったけど、でも、ママがいいのよいいのよって言うから、パパのいう通りよって言うから、
なにも出来ないで、ただ泣いていただけだった。 

 でも、今はそれを後悔している。

 麻生君だったら、どうしたかな?

 ママが死んで、ゆうは悲しくて、悲しくて、でも泣くとパパが怒るから、こっそりママの部屋に入ってクローゼットで泣いた。 
だからね、クローゼットの帽子の箱の中、ママがパパに怒られて捨てた筈の作りかけのレースを見つけたのは、
ママからの内緒のプレゼントだと思ったんだ。 
白くてお姫様みたいなレース。 ママが、死ぬ直前まで編んでいた細かくて繊細なレース。


 それだから、ゆうは、こっそりレースを編んだ。 
最初はとっても下手だったけど、ママの代わりに完成させたくて、何度もほどいてやり直して…… 

 不思議だよね、レースを編んでる時は色々ほっとする。 楽になる。 
優しい嬉しい気持ちになって、また頑張れそうな気がする。

 だけど秘密だった。 こんなのってくだらないでしょう? 男のする事じゃないでしょ? 
パパにばれたら捨てられてしまう、やめさせられてしまう。 
なのに、こんなくだらない事に依存しちゃってるゆうは、きっと間違ってると思ったから、絶対の秘密だった。 
誰にも言えない秘密。 
だけど、こういうのがゆうには必要だっていうのはわかった。 
キラキラしたもの、可愛いもの、ふわふわのもの、ちっちゃいもの、ゆうはそういうのに囲まれていると、ほうっと力を抜くことが出来る。 
そういう可愛くて綺麗なものを作るのも、見るのも、集めるのも大好き。 癒されるなぁって思う。 

 でも、大きな声で言えない。 駄目なんだよね。 
ゆうがそんな事してちゃ駄目だけど、でも、麻生君もそれ、駄目っていうかな?

 ゆうは小泉の家の為に頑張らなきゃいけないから、ずっとみんなの言う事を聞いて頑張ってきた。 
趣味っていうのは遊びの事で、怠け者のする事だと言われていた。 
仕事は辛くて嫌なものだけど、でも、我慢してたくさんする人が偉いんだと思っていた。 
そして社会で成功するという事は、人の上に立たなければ駄目。 
その為には頭を使え、情報を集めろ、敵を叩くのに容赦はするな、手加減はするなと教えられて来た。 
それが正しいと思ってきた。 

 だから将来っていうのは、そういう遣りたくない事ばっかりしてお金を稼がなきゃならないんだって思うと、
大人になるのも嫌だし、今すぐ全部投げ捨てたくなる気持ちになっていた。 

   でもね、それ、本当に正しいと思う? 麻生君。

   ゆうには最近、わからない。 

 正しい事と、大事な事と、小泉の人間としての自分の義務と。
そういうのがゴッチャゴチャでわからなくなっているよ。

 いいなぁ、麻生君のお父さんが羨ましい。 
好きなことと仕事が一緒で、ちょっと駄目でも、ちょっと情けなくても、それで良いんだって言ってくれる、見ててくれる人が居る。 
息子と奥さんと二人もだよ?  

   ね? だったら、息子の麻生君をゆうにください。

 大事にするから、幸せにするから、綺麗で優しいもので包んで宝物みたいにするから、だから、ちゃんと見てくれる人を神様、ゆうにください。 
一緒に笑ったり怒ったり喜んだりしてくれる人が、ゆうは欲しいよ。

 ゆうだって仕事を好きって思いたい。 
でもやっぱりそうは思えなくて、嫌だなぁと思っていても、でも、そうやって頑張ってる事をちゃんと誉めてもらいたい。 
それでそんな風に頑張ったのだから、可愛いモノ綺麗なモノに囲まれる事も、それで癒される事も、ほっと安心する事も、悪い事じゃないよ、良いんだよって言って貰いたい。 認めて欲しい。 
大丈夫、間違ってないよって言われたい。 

 ねぇ、麻生君 「それでいいよ?」 って、ゆうにも言って。 
言ってくれないかなぁ。 

そしたらゆうは、もっともっと頑張れる。 どんなゆうでも良いんだって、ちゃんと前を歩ける。 
駄目なゆうでも、いいって言ってくれないかなぁ。

 そう、もしも、ゆうがお金とか無い人だったとしても。 
ゆうのパパが、普通に会社に勤めてたり、うんとちっちゃな家に住んでいたりしても、でも麻生君はきっと、
急に態度を変えたり、陰口言ったりなんかしないと思うんだ。 
勿論、大きな家に住むゆうにだって、お金や何かを当てにするような、そういう嘘の親切や優しさを麻生君がするようには思えない。 

 これは確信。

   麻生君だったら、多分、ゆうを見た目で判断しない。
   麻生君だったら、多分、ゆうの後ろにあるものでゆうを判断したりしない。

   だからもし、麻生君がここにいたら。 
   もし、ゆうのお友達が麻生君だったら。 

   もし? 

 変だね。 会った事もないのに。 
あんな小さな記事の、ホントにそう言ったかもわからない、どこかの記者が書いた文章だけなのに、ゆうは麻生君が好き。 
あぁ本当に、好き。 
どうしたんだろうってくらい、大好き。

 ずっとこんなこと考えていると胸の中がホカホカして、ぎゅうって切ない嬉しい気持ちになったよ。 
これもう、好きよりも大きい気持ちじゃないかな? 

 これって恋だよね? 
 わぁ、ゆうの初恋だよ!

 だから、麻生君のことを日記に書くことにします。 


 恋が叶うおまじないだから、緑のインクで書きます。 おまじないに頼るばっかりじゃないよ? ゆうは頑張るから。 
ゆうは、生まれて初めて自分のために頑張ります。 自分の本当にしたい事の為に絶対頑張るから。 
今は荒唐無稽だけど、ゆうは麻生君と恋愛をしたい。 絶対。 

だから、ゆうの本気をわかって欲しいのです。 頑張ればきっと、叶うと信じてるから。


* 身辺調査を原に依頼 → 継続した調査を要する為、報告は適宜。 長期化する事を考慮して。
* 協力者数人、ピックアップ  → 父との癒着がない者を





   * **********



 「…… 買い被り過ぎだろう?」



 けれどこれが、始まりだったのだ。 

 結果、小泉の頑張りの方向性が著しく逸脱するソレはさておいて。



 社の広報から打診が来たのは、四月の初めくらいだったと思う。 

 確か、 【縁の下の力持ち達】 とかいうベタなトピックスで、全部で五回だか六回だかの一つ。 
知る人ぞ知るマイナーな現場の活躍を紹介しようという、そんな社内報の取材だった。 
だけど、そもそも研究さえ出来りゃいいと思ってる親父にしたら、活躍も何も世事には無関心な訳だし、受けたところで、まともな返答は期待出来ないだろうと俺も母親も思った。 
だが向こうはわりに強引で、なんとなく押し切られる形で承諾をする。 
だがそこまで強引に取り付けた取材なのに、それからしばらくは音沙汰がなかった。

 実際、記者とかいうのが来たのは、四月も終わり近くになってからだった。 
それも突然連絡が入り、家族も一緒に二日後という、一方的で勝手な対応でだった。 
まぁ、本社の人間と云うのは、そんなもんなのだろうと親父もお袋も苦笑していたが。 

 だから、聞きたい事があるなら何でも話しましょうと気負いもなく、至って普段通りによれたジャージでうろついたり、バイキンに餌を遣りに行ったりする親父ののらくら振りも、 「アナタ急に明後日来るとかいわれても、色々こっちも予定があるものなのよ?」 などと、庭で隣家の老人の散髪をしながら対応するお袋の普段着対応も、歓迎されて当たり前とでも思っていたその記者の目には、少し不快に映ったのかも知れない。


 それでも、取材は始まった。 
親父も母親も何も言わなかったが、それは小泉が文面から察したように、少なからず上から目線のものだったと思われる。 
現に学校から戻った俺はカメラを下げた男に、鞄を部屋に置く間も無く、庭に出ろと借り出される。 
 家族が揃わなきゃぁ写真になんないですからねぇ と、男は笑顔を作ったが、苛ついた様子から察すれば、 「こんな日に学校なんざ行ってるんじゃねぇよ、ピッと揃っとけ」 辺りだと思う。 

 そして散髪も終わり、うちの縁側で日向ぼっこをしていた鈴木のお婆ちゃんは、
 「そこ、写るから奥行って」 と、日当たりの悪い端っこに移動させられて、俺たち家族はと云えば、制服のまま父親とキャッチボールをする息子と縁側でそれを見て微笑む母親という、今時どうだろうという陳腐な写真に納まる。

 そんな慌しく参加させられた取材の最後、本当に帰り掛けの一言が、あの質問だった。 

 今思えば、あれは質問なんかじゃなかったのかも知れない。 
ろくすっぽ質問にも答えられず、風采の上がらない親父へのあてつけで、 お前、こんな親でイイの? という、あからさまな嫌味だったのかも知れない。 
だが、俺は答えた。 
そして意外にも、俺は自分が親父を尊敬しているのだという事を、自らの答えで再確認する事になった。 
予想外の息子答弁に、記者は面食らっていた様子だが、内心、記事になんかせず、流す気満々だったと思う。

 けれど 「あんた、今日は良い事いうじゃないのぉ〜!」 すかさず合いの手を入れた母親と、感極まって下を向く親父。 
駄目押しの様に 「ちょっとアンタね、今のタッちゃんの話し、きちっと書いといてやってよッ! でないとインチキだって上の方に言いつけてやるからッ!」  鈴木の婆ちゃんの鶴の一声が、記事の方向性を決めたのだと確信している。

 そんなふうに、あの記事が出来た。 

 出来上がったそれは美談を前面に打ち出したものの、どこか胡散臭い匂いのする記事だと俺は思った。 
だが、まぁいいやとも思っていた。 

 世の中は、そういうものなのだろう。 

 そもそも俺んちや俺自身が少しズレてるのを、俺は認めているのだから。 
だからこそ、俺はいつも、みんなと一緒が難しい。 
みんなの思うことと、俺のは確実にずれる。 
そのズレを、親父は良しとしてくれた。 
母親も、個性だといってくれた。 
そんな両親の接し方、考え方には随分勇気づけられたものだ。 
だから俺は、無理せず有りの侭でやって来れた。 
だが、でもそれは、解決というのとは違う。

 例えば靴の爪先に入り込んだ小石のように、絶えず付き纏う小さな違和感。 
けれど、それを苦痛に感じたとしても、取り出さない自分の責任なのだから。 
一度履いた靴を脱ごうとしない、自分が悪いのだから、誰のせいでもない。 
しょうがない。 
まぁいいやと思う他はない。 
どうする事も出来ない。 
しょうがない。 
無理をすれば必ず、別の歪みが生じて新たな苦痛になる。 
つまり俺が俺である限り、そこは、普通に流すものだと思っていた。 
通信簿に毎回書かれる 『協調性に欠けます』 と同じように。 

 いつだってそうだった。 

 空気の読めなさを、天然などと耳障り良く誤魔化され、浮いているのを目立つと変換され、唯一誉められる容姿ですら自分じゃたいして良しとも思えず、得する訳でもなく、個性と言われれば変人の間違いだろうとこっそり心の内で思う。
 しかも、シクッた事に気付くのはずっと後からだった。 
その時はわからないから、噛み切れなさがいつまでも続く。 

 そう。 俺はずっとこんなだ。 
にも拘わらず、平気でそのままに生きている。 
変わらないのだから、たまに苦い思いをするのはしょうがない。 
非難は受け止めよう。 
周囲が全部都合良く解釈するならば、あえて訂正はしない、それで良しとするのだ。 
悩む事はない。 
ひたすら前を向く。 
それで良し。

 でも本当は、俺は、密かに憤りを感じていた。 
歯痒かった。 
そして、誰かにそれをわかって欲しかった。 
俺が、俺の周りが、微妙に軸がぶれているのを有りの侭に認めながらも尚、決して真っ直ぐには正せそうにないそれを、でもそれで良いのだといって欲しかったことに、俺は気付いてしまった。 

 何故なら俺に、そう言ってくれる人間が現れたのだ。 

 そいつは四六時中俺に引っ付いて、四六時中俺を肯定してくれる。 
そんな奴が今の俺には存在するのだから、こんなにも心強く安心出来る事はないだろう。

   なぁ、小泉? 
   俺もな、多分、あんまり普通じゃないだろ?

 けどもそれで良い、って言ってくれる親が居た。 
有り難いことだよな、一人で抱え込んでたお前に比べたら、天国くらいに恵まれてるよな? 
けどなぁ、人ってそれじゃ納まらないんだ。 
親は所詮、親なんだ。 
一緒に泣いたり笑ったりして、リアルタイムで大人になって、年をとって、腹が出て、薄毛になってもジジイになっても だァよなァー ッてわかりあえる、そういう誰かが俺はずっと欲しかったんだ。 
欲しいよ、一人は誰だって嫌だ。 
酸いも甘いもひっくるめて、そういうのもアリじゃね? って、同じ目線で言ってくれる誰かが、俺は欲しかったんだ。

   なんだ…… 
   俺ら、グルリ回って同じじゃん。




 両開き一杯にみっしり何ページも書き連ねられた緑の文字。 
これが、始まり。 
ここから始まる。

 これまでのどの日付けよりも文字量が多く、長く、一人称は 『ゆう』 に戻って大いに語る。 
内容は相変わらずの内角ギリギリだが、それ以上の追い詰められ感があって、俺は笑えなかった。 
俺に対する外しッ振りよりもずっと、奴の心の中がギリギリだから、痛々しくて歯痒くて。

 緑の配列を指でそっとなぞる。 

 文字の跡が薄っすらへこんでいた。 
小泉の焦燥に近い熱気が、行間から伝わった。 
余りに切実。 
なんだか苦しい。 


 ハァッと腹の底から息を吐き、パタンと閉じた日記は、一見ハードカバーの洋書の様に見えた。 
俺はその、つるつるした背表紙を、無意識に撫でていた。 
大事な何かみたいに、撫でていた。




 一冊目の日記を施錠してブックエンドに挟み、二冊目を元あった通りに机に広げる。 

 そして、改めて、この乙女部屋を見回すのだ。 


 過剰に愛らしく、ファンシーで、繊細なものに満ちている浮世離れした秘密の部屋。 
これは小泉のシェルター。 
ここで小泉は、何を考えて過していたのだろう? 何を思って、細かな手仕事に精を出していたのだろう? 
隅にあるトルソーは、多分、俺だ。 
貧相で丸みのないラインは、こうして客観的に見ても、色んな意味で微塵も食指が動かなかったのだが。


 「あたったか小物とか、着せてくれんのか?」

 それも良いだろう。 

 拘りのない俺なのだ。 
大喜びで着るだろう。 
そして誇らしげに嬉しげに幸せそうにする小泉に、有り難うと言うのだ。 


 ―― うわすっげぇ嬉しい! お前凄いな! 何でも出来るんだな! 
 今度は帽子作ってくれよ、こう、天辺にポンポン付いてる奴、電車とかでなくさないように派手なのな?


   で、いいんだよ、な?


   * * *


 静かに部屋を出て、傾く壁を直した。 
 小泉はまだ、戻らない。


 ずずずと動く壁は何事もなく、ピタリと元の一面に戻る。 
一仕事終えた気分で卵色のソファーに戻り、深呼吸して、それからとっくに氷の溶けた小泉の分の冷茶を飲んだ。 
なるほど、これが水出しの味か。 
とりあえず感心してみたけども、そもそも小泉家の玉露なんだから、そこらのお湯で入れても普通に美味しいだろうと思った。 

 だが、そういう問題じゃぁない。

 よいしゃと勢いをつけて、ソファーに寝転んでみた。 
ぼわんと程好く凹凸を包み、柔らかなスプリングに沈む。 
万歳して爪先まで伸びた身体に、着物の紺地がぴったりと沿った。 
ふんわりうけとめて、みっちり張り付く……あー……ンンンンンン・・・ 背筋を伸ばせば全部、どうって事無いように思え、寧ろ、急に奴の顔が見たくなる。 

 着物特有の拘束されてる感が、安心と鬱陶しいのギリギリだと思った。 
そして昔の訳有りカップルが、水深一メートルもない川に飛び込んで簡単に心中成立させた理由も、コレかッ! と、体感出来た気がする。 
いや、こんなん水ン中で張り付かれたら、動けやしないからそりゃすぐに死ぬだろう。 
身動き出来ない愛と現実の結末とでもいおうか、あぁ身に詰まされる気がするけども、そこはソレ、あれはアレ。 
ま、色々だよ、色々。 


 「要は、ハッピィエンド目指せば良い訳だろ?」

 天井に腕を突き出して、滑り落ちる袖を摘み上げ、繁々と眺めてみる。 


 「手縫い?」

 和服は手縫いだ、ミシンは使わない。 
ならば、たかだか3日か4日とかであいつ、


 「夜鍋ッてお前……どこの母ちゃんだよ……」

 だがある意味、母のようでもあり母以上でもあり、心配し続けるのだろう、世話を焼き続けるのだろう、あの男は。


 「で、窓際のアレは星じゃねぇだろ、覗きだろ?」


 まァ、そんなところもタマニキズ。



 * * *


 やがて場違いに慌しい足音がして、息せき切った小泉が飛び込んで来る。 


 「ごめん、ちょっと遅くなっちゃって、」

 風も冷たい11月、額に薄っすら汗を掻き、慌てて戻って来たお前がどこで何をしていたのか、何を策略していたのか。 


 「いや、そんなでもない」

 俺は、知らなくたっていい。 
 お前も、言わなくっていい。


 「麻生君、具合悪いの?」

 転がったままの俺を見る心配げな優しい顔。


 「いや、眠いだけ。 ここ静かだからさ。」

 「でも、ゲームもしてないしDVDも、」

 「冷茶、すげぇ美味かった。 柿もお前の分まで食べちゃった。」

 「あぁ、それは良かった。 でも、ねぇ大丈夫なの? 僕も急いだんだけど道が混んじゃって、あ、熱は……ないみたいだけど、
でも、なんだか静かだし、いつもの麻生じゃないみたいな、ごめんね、やっぱりさっき濡れたのが」

 「いやいや具合なんか悪かないから」

 どこも悪いところなんかない。 
ただ、色々と、俺も思うところがあるだけで。

 下から見上げる顔はいつもの男前。 
情けなくて、心配性で、思いきり眉をハの字にして二枚目度二割減だけど、勝手に自分でグルグルし始める小泉だから。 
だからひとつ、小一時間の自習の成果を、フルに発揮しようと思う俺なのだ。 


 「なぁ」

少し上体を持ち上げて、空いたソファーの隙間。 
チョイチョイと指先で呼びつけた小泉を、さぁさぁと座らせる。 
そうしておいて、戸惑う小泉の膝にゴロンと頭を落ち着ける俺。 
さぁ、そうしたらば、鳩が豆鉄砲喰らったみたいな小泉に言ってやるのだ。 


 「なぁ、すッげー寂しかった。 一人はすっげー退屈だった。 だから頭撫でてくれ。 あとでぎゅうッてしてくれ。 
そんで、噂の絶品蜜豆とやらを持って来てくれって、あああ、それは人呼ばないで、お前が、自分で、冷蔵庫ッからな?」



         * ****************





   で?













 *ファンタジスタの人生*11.                               第12話に続く