** 冷たい舌 ** 



                           * * 6 **


           
                 
                 雨上がりの乾いた空気に、少し期待していたのかも知れない。

                 驟雨が、洗い流してくれた事を。

                 照りつける日差しが、カラカラに浄化してくれる事を。

                 あとは狂おしい夏が来るだけだから。





                            **


    雨は断続的に続き、リハ室では日に数回の床のモップ掛けがルチンワークに加わった。 湿り気を帯びた空気に患者等は一様に骨や関節の痛みを訴え、その一方で合間の陽射しは真夏さながらにきつく、蒸し風呂のような熱気は皆の意欲を失わせるに充分な効果を発揮した。 六月半ばを過ぎたその頃とは、概ねそんなだった。 じっとり重い大気は奮わず、曖昧な見通しに焦れ漠然とした不穏の気配を感じる、そんな夏がいよいよ到来する。



 「なぁー桧山ちゃん、夏休(なつきゅう)八月あたまとか入れた?」


 昼休みの休憩室、シフト表の束を翳して金森が問う。


 「いや、九月真ん中希望」

 「よーし、OK! OK! その予定死守な? 」


 例年通り、夏期休暇は七日で支給された。 それを七月〜九月の三ヶ月以内に、OT・PT各最低勤務者二人を確保しつつ消化する。 それぞれ希望通りに予定を立てるには、事前の打ち合わせが必要だった。 ましてや帰省や旅行など、決めてしまった後で動かし難い予定を入れる際は、互いの譲歩や調整が必須となる。 例えば自分と金森は同期で同じOTの為、丸々休みを被らす訳には行かない。 同じく、同期のPTである青田と安藤も、丸々同時期に休みを被らす訳には行かない。 この夏、笹本との旅行に漕ぎつけた金森は、スケジュール調整に必死だ。 


 「で、どこ行くんだ?」

 「石垣島。 めんそーれ海んちゅの夏・ダイビング三昧五泊六日、張り込んだぜ、俺は、」

 「・・・・そうか、」

 カナヅチの癖に沖縄なんて、よりによってダイビングなんてというのが顔に出たらしい。


 「アアア桧山ちゃんわかってねぇだろ? ダイビングは泳げなくても大丈夫だってスクールじゃ言ってたからな、それに俺は浮かぶ事は出来る、沈まないんだから溺れないんだよ、問題ないだろ? つーかしょうがねぇだろッ、どうしてもってンだから、あいつダイビング歴長くてさ、わー楽しみぃーだって言うしさ、」


 「スクールの成果は出てるのか?」

 「訊くなよ・・・。 俺、ここんとこ窒息する夢見て、ヤナ汗掻いて起きるぜ?」


 とは言うもののカナヅチなりに金森も愉しみなのか、先々週から週二で駅前のダイビングスクールに通い始めていた。 緩んだ顔をして桝目を塗る金森は、満更でもなく幸せそうだった。 勝気で姉御肌の笹本と元気な柴犬のような金森のカップルは、丁丁発止が小気味良く、見ていて微笑ましいものがある。 さぞ楽しい夏になるのだろうと、まだ熱いコーヒーに冷えたポーションを落とし、にんまりした金森が書き込むシフト表を眺めた。 

 方眼紙三枚分のシフト表は、既に所々が黄色のラインマーカーで塗りつぶされている。 お盆の予定のある家族持ちは八月半ばに、独り者は時期を外した七月九月に点々と予定を入れていた。 規定の七日に週休二日を前後につけて大きく11連休にするも良し、小分けに週休と合わせて小さな連休を数回で分割するも良し、取り方は人それぞれだった。 ざっと三枚目までめくるが、そこに安藤の記入は無かった。 夏休みはどうすると言っていただろう? まだまだ考え中ですよなどと笑っていたのは、確か先週だったか? 実家の弘前に帰るのだろうか? 彼女との夏を、今まさに計画中なのだろうか? 旅行にしても日帰りの遊びにしても、安藤ならば相手に困る事はあるまい。 自分はここでの安藤しか知らないが、地元にも前の職場にも 『親友』 は山ほど居るのだろう。 奴ならば、どこでもそこでも誘われているに違いない。 なんとも卒なく豊かな交友振り。 さすが出来過ぎ安藤だというべきだろう。 


 だが、それは自分には関係ないこと。
 
 ポンとスチールデスクに放り投げた紙束の一枚目、表紙の七月下旬に七日分、黄色で塗りつぶされたラインの上に見慣れた青田の文字があった。 前半七月、支給の五日に週休をつけて帰省し、向うで大学時代の仲間と出掛けるのだと言っていたのを思い出す。 青田の家は山梨で不動産業を営んでいた。 歳の離れた妹が二人、どちらかが婿をとってくれない限り、いずれ家を継がねばならないのだとこぼしていた事がある。 それを他人事の様に聞いていたが、おまえだって長男だろう? と気楽な三男の金森に言われ、あぁと思った。 あぁそうかと。 改めて思い出さねばならないくらい、自分は家から遠かった。 

 あの怪我以来、桧山家の長男は実質弟なのではないかと思う。 本来自分に掛かるべき責任や 『家』 に纏わる役割全てを、家族は必死になって取り上げ寄せ付けまいとしていた。 家の中での自分は、未来を取り上げられた可哀想な子供だった。 挫折を知ったであろう可哀想な子供に、これ以上の負担を一つでも掛けまい、せめて思うように将来を進ませようと皆に気を使われ憐れまれる存在が、自分だった。 だが、それはそれで都合が良いと思っている。 そうして貰えるならそれに越した事はない。 いつしか期待されない気楽さに慣れきっていた。 だからここに来て、別方向からそれを科せられ戸惑う自分を持て余していた。



 先週末、美咲の誘いで佐倉にある美術館へ行った。 あの気まずい別れから、二週間が経っていた。 何度か連絡をとろうとしたが、結局、携帯の履歴を弄っただけで何もしなかった。 あの時美咲は何かに憤っていて、それが多分自分に関する事なのだと予想はついているが、だが、ならばそれは何かと問われれば答えられない自分がいた。 こちらから歩み寄るなら美咲は、謝罪に近い何らかのコメントを期待するだろう。 それが、流れなのだろう。 だが、自分は何に謝罪すべきかわからない。 けれどそれを美咲自身に問うならきっと、更に取り返しのつかない非難をされる予感がした。 だから、美咲からの電話は幸いだった。 向うで流してくれたのだと、ほっと胸を撫で下ろした。 美咲はあの件について一言も出さなかったから。

 土曜の早朝マンションを出て、そのまま市道を走り自宅近くで美咲を拾った。 走り出してすぐに後部席に手を伸ばし、美咲がCDの入れ替えをする。 オレンジ色のCDケースの中身は、殆んど美咲が持ち込んだものだった。 美咲は耳障りの良いフレンチポップスや、長閑なボサノヴァを好んでかけた。 舌足らずな女性ヴォーカルが古いシャンソンを歌うのを聴きながら、車はひたすら高速を走る。 不便な場所に在るそこは美咲曰く 『特別な場所』 だったが、往復だけで時間が掛かる為、行けばほぼ一日掛りになる。 けれど、これも一つの 『詫び』 だろうと車を走らせた。 

そんな長い道中、美咲は穏やかだった。 このあいだのそれが嘘だったかの様に、美咲は良く喋り、零れる様に笑い、時折CDに合わせ小声でハミングした。 やがて林の中ほどにある駐車場に車を停め、美術館へ続く小道を並んで歩く。 あとは勝手知ったる様子の美咲に続き、静かな館内を周った。 

 ゆったり歩く美咲はリラックスして見えた。 馴染みの作品の幾つかは見もせずに通り過ぎ、幾つかは立ち止まり、視線を落とし、距離を持ち、一度通り過ぎてはまた戻り、もう充分というまで美咲はそれらを堪能した。 そんな美咲にはいつもの微妙な不安定さがなく、いつだか、本当は美大に行きたかったのだ と、言っていたのを思い出す。 けれど、美咲が進んだのは名のある女子大の教育学部で、卒後は身内が重役だという中堅どころの企業に就職した。 ―― 同じ働くなら自分にゆとりを持てる所が良い、だけどいざという時の教職は持っていて損はない――  長女だから手堅く行きたいのだと そう語った美咲の口調は、ふわりとした普段にはない醒めたものだった。 


 言葉もなく、静かに二人で順路を巡った。 途中ミュージアムショップで美咲がポストカードを買うのに付き合い、敷地内にある散策路をそぞろ歩いて人工池の白鳥を眺めた。 多弁ではなかったが、会話は途切れぬ雨だれの様に続いた。 


 「今度、A.セルゲイの新作、銀座で封切るって」

 「テアトル?」

 「シネスイッチ。 再来週金曜からだって。 一緒に行こうね。」

 「ああ。」


 どうでも良いような話だった。 他愛のない話だった。 


 叔父の話を切り出したのは、遅めの昼食をレストランで取っている時のことだった。


 「バンコクって、タイ?」

 「そう。 市内でも観光地からは離れるけど、その分治安は良いらしい。」


 バンコクに住む叔父夫婦が、この夏一ヶ月ばかり帰国する事になった。 数日前、珍しく掛かって来た国際電話で叔父は  『元気か?』  『仕事は楽しいか?』  と問い、彼女と現地の留守宅に遊びに来てはどうかと言った。 『いいじゃねぇか、バカンスが旅費だけで済むし、うちは庭もベッドもバスルームもでかくていいぜ?』 電話口で叔父がくすくすと笑う。 


 華やかで捩じれた魅力のある叔父は、身内の異端だった。 大学在学中にゼミ講師だった八歳年上の女性と籍を入れ、その後は金融業界でエリート街道を走ると思いきや、四年前いきなり退職し、会社を立ち上げ、夫婦でバンコクに移った。 それらを親族は、全て事後報告で知った。 子供の居ない気楽さもあるのだろうが、茶目っ気と遊び心の抜けない叔父は行動の読めない大人だった。 そんな叔父は何故だか昔から、弟より自分をかまう事が多い。 異端同士、思うところがあったのかも知れない。


 「それってどのくらい? 九月に取れない事はないけど一週間丸々は無理だから、」

 「行き帰りを入れて4〜5日ってとこかな、」

 「だったら大丈夫だと思う・・・・・。 けど、やだ、パスポート切れてる・・・・・ 」


 美咲がぱらぱらと桜色の手帳を捲る。 細々メモをとるのが好きな美咲は、昔から手帳を愛用していた。 毎年吟味した新しい手帳を買い、意外に角張った小さな文字でみっしりと書き込む。 


 「なんか、楽しみ・・・・・。」


 ぱたんと手帳を閉じて美咲が笑う。 こんなに長い旅行は初めてだね と嬉しそうな美咲につられ、そうだな と自分も笑った。 あぁこれで夏の予定も埋まったと、ほっとして笑った。 二人でサラダとサンドウィッチをつまみながら、旅行の持ち物や日程についてポツポツと話した。 午後の陽射しが窓越しに、木立の陰影を白いクロスに落とす。 食後のコーヒーを飲み始めた頃、あ、と小さく声を上げた美咲が言った。


 「あのさ、ね、旅行の前にね、七月、一泊だけなんだけど下田に行かない?」

 「下田? 構わないけど、七月じゃすぐだろ? いつ頃?」

 「まだ先だけどえぇと、21日。 第三週の土・日で。」


 祖父母が残した別荘が下田にあるのだという。 そこには近しい身内が年に1〜2回集まり、海の幸やバーベキュウなどを楽しむ、いわば親族間の社交の場らしい。 今年は結婚したばかりの姉夫婦を中心に、若手が集まる予定なのだと美咲は言った。


 「・・・・・ そんな、せっかくの内輪の会なら遠慮しておくよ、」


 美咲の両親とは何度か会った事があったが、身内一同となるとぞっとする。 ましてやそこで一泊などに乗ろうものなら、その後の展開を考えると、止めておけ、断れと頭の中の自分が叫ぶ。 だが、美咲の思惑はまさにその方向だった。


 「うぅん、気にしないでよ、寧ろ是非呼んでって感じなの。 集まるのは従兄妹とか中心だから年も近いし・・・・・・ ナオユキはうちの親とは会った事あるでしょ? 私たち付き合って長いし、みんなナオユキのこと紹介して欲しいみたいな感じで・・・・・・ 私も、いずれちゃんとしなきゃなって、ナオユキの事身内に紹介しようって思ってたから、これって良い切っ掛けじゃないかなって思ったんだけど、」


 白いカップを手に、上目遣いで美咲がこちらを見つめる。

 甘えを含んだ期待が不安に勝った目だ。 断る筈は無いと思っているのだろう。 これまで自分は美咲の提案に逆らった事は無い。 積極的ではないにせよ、それで良しとしてきた。 他にプランがある訳じゃ無し、わざわざ余計な揉め事の種を撒く事も無いだろうと、ただ、そのようにしてきた。 

 何しろ美咲との付き合いは長い。 そしてそれは互いの親を含め周知の事だった。 あぁそうだ、公認という関係だった。 公認であり、それ即ちイコール『いずれは』という思惑を生み、比較的緩い規制でやって来れたのだろう。 けれど、『いずれは』は一向に来なかった。 それだからこそ、美咲は、『いずれ』の時期を、自ら近く儲けたのだ。 もう良いだろうと、思ったのだ。 もう、か。 


 考えてなかったとは言わない。 こうした展開が予想外だとは思わない。 だがまだだと思った。 他人事の様に思っていた。 10年近く付き合っている癖に、なのに、まだまだ先だと、自分には縁が無いと思っていた。 思うばかりで言葉がなく、見つめる美咲の目が不安そうに翳る。 返事をしろと、早く返事をしろ、取り敢えず頷いて笑えと、頭の中の自分がせっつく。 なのに、舌は張り付いたように動かなかった。 無理矢理笑おうとしたが、強張る表情では困惑しか表わせなかった。


 「・・・・・ごめんなさい勝手に私・・・・こいうの、迷惑だった?」

 「いや、迷惑じゃない・・・。 急だったから、」


 迷惑ではない。 そして急だというには俺たちは長く付き合い過ぎていた。 ただ、困っていた。 振って湧いたような災難だと戸惑っていた。 流れから言えばここでも自分はイエスと言うべきなのだろう、今まで通り、そうして来たように。 だが、言葉はすんなり出なかった。 

 答えを待てずに、焦れた美咲が繋げる。


 「…… あ、みんなもね、私の方が先だって思ってたって。 私はずっとナオユキと居たし。 高校卒業しても、大学卒業しても、就職しても、ずっと続いてたから、きっとそろそろだろうって、皆まだかまだかって訊いてきて・・・・・・。 でも、お姉ちゃんは知り合って一年なのに、さっと結婚が決まって、それで・・・・・・・。」

 「・・… わかった。」

 「あの、わたし」

 「わかったから」

 わかったから。 厭というほどもう、わかった。 問題は、それを自分自身が受け入れられないという事。

 美咲の言い分は尤もであった。 正論だ。 けれど理解するという意味ではまるでわかっていなかった。 ただ、いよいよ観念せねばならないのだという、絶望にも似た現状を突きつけられただけだった。 これが、現実だ。 曖昧にして来た岬との関係が、バカバカしいほどの長い時間を経て、やっと、ここで明らかにされる、それだけなのだ。 巡らぬ季節など無いように、長い長い春の終わりが来たのだ。 

 ならばとっとと幸せになりやがれ と、金森なら言うだろう。 今更の展開だとは思う。 今までその手の話題が出なかった事こそ異常なのだ。 男と女の先にある  『結婚』 という名の分岐点。 十人に聞けば十人が、ここらで結婚は当然だというだろう。 そのくらい当たり前の未来に、美咲との結婚は現実としてあったのだ。 あったにも拘わらず、見ない振りをしていたのは現実逃避でしかない。 そして今、ようやく自分が現実に追いついた、それだけの事なのだ。 ならばこの現実に乗るしかないと、そういう事。 

 だが自分は乗れるのか?

 流れで身体を繋げ、流れでそのまま付き合い出し、未だに正直、恋人同士という言葉がピンと来ない美咲と自分との間に結婚という区切りは唐突に思えた。 が、世間はそれを勧めるのだろうか? 流れで結婚を前にして、自分はまたしてもその流れに乗るのか? 

 湧き上がるのは不快感だけだった。
 纏わり付くような何かから、全力で逃げ出したいという拒否感ばかりがあった。


 「・・・・・・ごめんなさい・・・」

 そして、いつもの様に美咲が謝る。 俯く美咲の頬は白い。


 「べつに謝ることなんかないだろ?」


 優しく話したつもりだが、声は微妙に掠れた。 


 「・・・・でも・・」


 でも、美咲はいつも謝る。 自分に非が無いにも拘わらず、美咲はいつも俺に謝る。 そして、自分に非があったとしても、こちらはいつでもそれを受容する。 あたかも被害者の様に、 『許し』 を与える。 いつも、俺たちはそうだった。 そんなふうにして、俺たちは今日まで付き合ってきた。 そこに『終わり』の兆しはなかったが、それは単に美咲一人が必死に、終わりの糸先を次に結びつけていたからに他ならない。 

 だから今だって、傷つけられた美咲を傷つけた俺が 『許し』 、美咲の結び付けた新しい糸先を辿るなら、俺たちに未来はあるのだろう。 二人は続いて行くのだろう。 これからも、こんな調子で微温湯のような平穏、可も無く不可もなく。 俺は心地良くただ居心地良く過ごし、その傍らで戸惑う目をした美咲が曖昧な笑みを浮かべつづけ、このままずっと、互いに、心変わりをしない限り。 心惹かれる誰かが現れない限り。 

 そう、美咲への『好き』は『好意』であって、心惹かれる『恋』ではなかった。
だから齟齬があるのだ。 会いたいと思い、恋しいと思い、共に居たいと思うその先の結婚が、自分と美咲には当て嵌まらないのだ。

 けれど、流れてしまえば何とかなるのだろう。
美咲がなんとかするのだろう。


 「会いたくなかったの?」 


 ふと思い出すあの時の美咲の言葉。 

 会いたいと思う誰か、同じ時間を過ごしたいと欲する他人への欲望。 
それらならば自分は、

 白い面差し、繊細な細い指、その先で揺れるフィルター、紫煙、探るような黒い目、クツクツと笑う片笑窪の、

 あぁ、勘弁してくれ。


 「七月の21日だろ? 予定は入れないでおくよ。」

 「・・・・でも・・・・」


 もの言いたげな美咲を視線で制し、眺めた窓の外には鱗の様に光る人工池の水面。 心が篭らぬ生返事に美咲が見る見る顔色を無くすのも自分はわかっているのだから、わかっていて尚、そうしている自分の歯痒い泡立つ内側に苛立つ。 

 声が、姿が、上向いた首筋の線、フィルターを食む唇、すんなりした指先で踊る銀色のライター、今に苛立てば苛立つほどに鮮明に断続的に、夜半に見た夢の切れ端の様にけれど執拗に再生される全てが、性質の悪い錆の様に内側を苛み始めていた。 虫が木葉を喰い散らかすように、しゃくしゃくと蝕み始めているのを感じた。 

 冗談じゃない。 


 「・・・ナオユキ、怒ってるの?」

 「いや、怒ってないよ」


 怒ってはいない、怒りでなくこれは憎悪。 こんなところでどん詰まりに嵌った自分に、眺めても活路を見出せない窓の外に、傷つけられても謝る美咲に、スカスカに喰い散らかす幻影と、頭の中を揺さ振るイメージと。

 空のお皿。 空っぽのカップ。 厭味なほど晴れ渡る、磨かれた窓の外の青空。 物見遊山なウェイターが、ちらちらこちらを伺う。 空っぽのカップの縁を美咲が指でなぞる。 八つ当たりだと承知の事だ、 「謝るくらいなら全部取り消してくれ」 と怒鳴りそうな自分の最低さを棚に上げ、酷い1日だと返事も返さずに冷めたコーヒーを飲み干した。

 残ったのは気まずい二人だけで。 


 どのくらいそうしていたのか。 興味を隠し切れないウェイターが四分の一ほど残ったデザートの皿を下げに来たのを切っ掛けに席を立ち、木立の細い道を歩く。 小学生の列を擦り抜け、前後に別れて歩く俺たちがカップルとは到底思えないだろう。 黙って車に乗り込み、エンジンをかけた途端ゆるゆるした音楽が流れた。 リピートでボサノバが掛かる車内は場違いに明るく、終始無言だった。 遣り切れない空気に、ぶつけどころのない苛立ちだけが募った。 

 途中、首都高を抜けた際、どこかに寄るかと尋ねたが、美咲は黙って首を振った。 そこであえて何か提案する気も起きなかった。 無言のまま自宅近くの三叉路に着いたのは、まだ日も高い四時前だったが 今日は有り難う とドアを開ける美咲はぎくしゃくした空気を纏ったままだった。 肩越し、また連絡するよ、と伝えたが、言葉は厭になるほどの棒読みだった。 ちらりと振り向いた美咲が小さく頷いたのが、何についての肯定なのかはわからなかった。 

 バックミラーに映る美咲の後ろ姿を眺め、心許無い背中が角を曲がるのを見届ける。 万年筆を見つけたのは、車を発進させてからだった。 助手席に転がる金茶の万年筆。 就職祝いに父親がくれたというそれが、ちょっと普通に手が出ない名品なのだと、いつか美咲が照れくさそうに話していたのを思い出す。 いつでも美咲は、それで手帳をつけていた。 丁寧にキャップを外し、滑らせるように文字を走らせていた。 

 咄嗟に路肩に停めて、携帯を取り出す。 数回のコールで美咲は出た。 どうしたの? と、答える声は硬い。 忘れものの件を伝え、なんなら今から戻ろうか? と伝えたが、次逢う時でいいから、と、幾分力無い声が返った。 じゃぁ・・・・ と、それなら会話は終わりだが、何故か互いに切るタイミングが合わず、携帯越しの奇妙な沈黙が流れる。 


 「・・・・・・ じゃ、また・・・・」


 いよいよこちらから切ろうと思ったその時。 小さな吸気と思い詰めた声。


 「・・・・ナオユキは、私のこと好き?」


 仲直りの切っ掛け作りだろうと思った。 甘ったるい、恋人同士の惚気合い。 だがこの気不味さをこんなので修正できるものなら、何度でも言える。


 「好きだよ。」

 好意に近いけれど、

 「・・・ほんとに?」

 「あぁ、本当に、」

 全くの嘘じゃぁない。

 こんな謝罪ならば簡単だった。


 「本当だから。 さっきはごめん。 余裕がなかった。」


 だから機嫌を直して欲しい。 何遍でも好きだと言うから、何遍でも謝るから、だからもういいじゃないか。


 「あ…あの…わたしもなんか・・・ごめんね?」

 「俺もごめん、お互いこれであいこってことで…」


 我ながらどうしようもない遣り取りだと、うんざりしていた。 けれどこれでまた先送りに出来た。 これでまた、ぬるま湯の中。


 「・・・・・ナオユキは・・・・ナオユキは箱の中になにを入れる?」

 「え?」


唐突な話題だった。 


 「お気に入りの箱があって、そこにナオユキは何を入れる?」

 「なにを・・って、」


 頭はフルスピードで計算を始める。 が、答えを出せないでいる。 
 質問の意図は何だ? 質問の正しい答えは何だ? どの答えなら、この場を収める事が出来る?


 「・・・・・・ 私の箱はきっと、ナオユキのことだけで一杯になっちゃうよ・・・・」


 「美咲?」


 震える語尾に、泣いているのかと思ったが。


 「・・・・・ごめんね・・・・ナオユキが好き。 好きなの。 それだけだから。」


 それだけだからと早口で言い、ぷつんと切れたその後には、ただ、半端に侘しい初夏の夕暮れだけが残った。 そうして、沈黙する携帯を暫くぼんやりと眺めていた。 やれやれと思った。 2回続けてこんなデートじゃ先が思い遣られると思った。 思った傍から、こんな状況で先を思う自分に呆れた。 けれど、一先ずこんなもんだろうと煙草に手が伸びた。 すっきりしないものの、美咲が自己完結してくれた事にほっとしていた。 

 しかし、わからない。 なんなのだろう? シートに背中を預け、溜息を吐く。 一体なんなのだろう? 観念的な美咲の話は時々理解し難い。 薄らぼんやりしたシルエットだけで正体を当てるような、答えが出ているのに正解は無いと言い放たれるような、釈然としない何かが確かにそこに存在するにも拘わらず、それを口にする事が酷く不粋に感じられるような。 

 多分、自分には永遠にわからないだろう。 それだけは確信する。 美咲と自分がわかり合えない根底とは、恐らくそんな曖昧な齟齬の積み重ねなのだろうと思った。 分かり合えないから、どちらかが 「理解不能」 である何かを受け流し、 「理解されない事」 を受け入れて目を瞑り、先に進む関係。 もやもやした何かが、厭な色に内側を染める。 

 だが、それで巧くいっていたじゃないか。 

 忙しく取り出したタバコに、苛々と火を灯した。 
 
 ひと心地ついて再び車を走らせてからも、美咲の言葉を反芻して考える。 
美咲の身内の事、美咲との今後、実際一つも解決していない厄介な未来と、美咲のお気に入りの箱。

 ――― 箱には何が入る? 


 子供の頃、母方の祖母は鳩サブレの黄色い箱に、着物の端切れやボタンをみっしりと詰めていた。 幼い自分や弟に、色とりどりで綺麗なそれらを取り出しては 「これはお父さんが小学生になった時、仙台の叔母さんがつくってくれた晴れ着の一部だよ、」 などと愛しそうに説明してくれた祖母の満ち足りた表情。 様々な思い出と想い入れの詰まった黄色い四角い箱。 四角い菓子箱にぎっしり詰まる自分自身の何かを想像すると、少しぞっとした気持ちになった。 それは怖い。そんな風な執着はぞっとする。 けれど自分だったら、

 乱暴にハンドルを切り、その先を打ち消す。 
 ぞっとする。 
 なにもかも、なにもかも、内側を蝕むなにもかも、このままで居させてくれないなにもかも。

 面倒だと思った。 面倒で厄介な事になったと、先行きの悪さに舌打ちをする。 けれど、どうにかしよう気持ちはなかった。 その時はその時だと、積み上げられた雑事と一緒に隅に寄せた。 ただ、出来るだけ面倒でなければ良いと、それだけを願った。 だからあの時、本当のところ美咲が何を思っていたのかなど、知る由もなかった。 知ろうともしなかった。


                                        **



 そして、また今日までが経った。 

 バンコクへ行く為の日程は、九月のシフト表に記入したが美咲からの連絡は無い。 その後休みがとれたのかどうなのか、例の下田はどうなったのかわからないまま、長い梅雨が明け、もう季節は夏、七月になっていた。 来るバカンスに金森は浮かれ、青田は一足先の帰省で不在。 休暇体勢の院内はどことなく覇気が無く静かで、一方人手の減った各部署は、残された者が突発的に激務に見舞われたり極端に暇だったり。 

 美咲からの連絡はない。 無論、こちらからもしていない。 しなくてはならないだろうが、そんな気になれないというのが本音だろうか。 下田行きが間近に迫っていた。 成り行きとはいえ、自分はあの時 「大丈夫」 だの 「予定は空ける」 だのと調子の良い事を言ったが、まるで大丈夫ではないし、予定など空けたくもない。 だがこれまでの在り様からいえば、強く美咲に押し切られれば厭と言える筈のない、むしろそうする他無い観念すべき展開なのだと、状況は十分理解している。 

 だが、気乗りがしない。 ピンとこない。 他人事のようであり、やはり、正直に厄介事だと思えた。 そんな卑怯な自分は、このまま連絡など来なくても良いと思っている。 連絡が入らないなら入らないで好都合だった。 訊かなかったなら、行かないで済む。 知らなかったで済むのだから、訊かなきゃ済む事なのだから。 それが余計に、こちらからの連絡を遠ざけた。 相変わらず、自分は一つも動いていない。 一つも動かず、その癖居心地悪さに不満を抱きつつ、美咲が下田の件も、あの日の会話も、居心地の悪いそれらを全部無かった事にしてくれるのを願った。 そして密かに、いっそこのまま済し崩しに終っても構わないのだと思っていた。 こんな宙ぶらりんの不愉快さに比べたらいっそ。


 『臨時』 の気配をさせる院内は、どことなく余所余所しい。 職員の夏期休暇が始まり、各部署とも少ない人数での遣り繰りで細々ルチンワークをこなしている。 


 その日、検査予定が入って早めに切り上げた患者を病棟看護婦に申し送ったのは、休憩時間より早い11過ぎだった。 余った時間で物品の整理をしていたが、たまにはゆっくりしろよとリーダーに仕事を取り上げられた。 誰も居ない休憩室で、皆の分のコーヒーを落とす。 窓越しの熱気は既に夏。 遠くで外来ホールのざわめき。 どさりと腰を下ろしたソファーは外科医の誰かの中古で、沈み過ぎる身体が微妙に左に傾ぐ。 

 腰骨に、ポケットの中の携帯が当たった。 取り出し日に数件入っているスパムメールを削除し、そのまま机の上に置いた。 美咲からのメールはない。 どこかで払い下げられた落書きだらけの古いスチール机。 誰かのお土産のモナカと、退院した患者が置いて行ったアラレの箱。 雑誌が数冊。 

 重なる数冊の中から最新号らしきタウン誌をパラパラと捲る。 目を落としたページに、幾つかのフォトグラフ。 白い壁の古い家。 緑の葉陰。 赤い林檎。 石畳。 互いに背を向ける二人の男。 凍った湖の上に立ち尽くす黒いベールをかぶった喪服の女。 

 A.セルゲイの新作 

 ―― 例の、美咲が行きたいと言っていたロシアの監督の作品だった。 
巻末の上映スケジュールを見ると、場所は銀座、既に先週末封切られていた。 


 「あれ? 早いですねぇ」


 軽いノックと同時に、安藤が顔を出す。 机の端に訓練計画書の束と筆記用具を置くと、頂きますね? と自分のマグにコーヒーを注ぎ、手にしたままスチール机の向かい、出しっぱなしのパイプ椅子に腰を下ろす。 

 「そっちこそ早いじゃないか?」

 「あぁ、それは、」


 安藤はカップに手を伸ばさずグルグルと腕を回し、


 「予定の三分の二くらいで、疲れたって帰っちゃったんですよ」

 「患者が?」

 「そう。 梗塞後の男性だったんですけど。」


 患者は麻痺後の他動運動中だったが、トイレに行くと告げたまま病棟に戻ってしまったらしい。 


 「さすがの安藤も、男には振られたか、」


 「アハハ、やめてくださいよ。  でももう、2回目なんですね、その人これやるの。」

 「そもそもの意欲が無いんじゃしょうがないな、」

 「・・・・なんですけど、こっちは結果を求められるんで辛いところです。」

 そう言って、首をコキリと鳴らし 物凄い重量級なんです と、苦笑した。

 夏季体制の静かな院内。 静かな部屋。 ブラインド越しの陽射しが、クリーム色の壁にストライプの影を落とす。 コーヒーの香り。 差し向かいにマグカップを手にする安藤は、ボンヤリ視線を落としている。 


 「おまえ、休みどうすんの?」

 「夏休(ナツキュウ)ですか?」

 問い返されて、返事に窮する。 
 聞いてどうすると言うのか? それを知ってどうしたいのか? 何故、訊いたのか?

 いや、別に不自然ではない。 

 「実家、戻ったりするんだろ?」

 「どうでしょうね・・・・今年はちょっと考え中です。」


 不自然なんかじゃない。
 同じ職場の、友達同士の、ありきたりな極普通の会話。


 「・・・ふうん、親はともかく、彼女はそれでいいのか?」

 「・・・・ 実は彼女と揉めちゃってて、」

 さらりとした口調だった。


 「だから、成り行き任せに予定が無いんです。」


 薄い笑みを浮かべた表情に悲壮感は無い。


 「桧山さんは彼女とタイでしたっけ? 」

 「・・・・あぁ、一応予定では、」

 「・・・・・・・・・・ 暑いんでしょうね、」


 そう言ってコンと置いたカップの音が、何かの区切りのように響いた。 

 「・・・・じゃ、夏は暇だな」

 「暇ですねぇ」


 間抜けな会話だと思った。 気の利いた返しも出来ない。 が、しかし、気を利かす必要など無いのだ。 ただの同僚との、男同士の会話に。

 ひょいと手を伸ばされて、切り揃えた爪が紙面を弾いた。


 「こういうの、観るんですか?」

 広げた雑誌のページを安藤が示す。


 「滅多に撮らない監督だから、新作が出たなら観に行こうとは思っている」

 「彼女と、ですか?」

 だから?


 「いや。 わからない。」

 注がれる視線には温度があった。 ひんやりした熱。 黒い目の、不可解な意味を探りたい自分と探りたくない自分。 なのに意図して『普通の会話』を勧める自分を、もう一人の自分が 滑稽だな と眺める。

 そもそも、何故 普通 にこだわるのか。 何に動揺しているのか。


 「こっちも揉め中だから。」

 そう言って反応を伺う自分は滑稽。


 「まさに冷戦中で、誘えそうに無い。」

 捉えた視線に意味を探す自分は滑稽。


 「これじゃ旅行もどうなる事やら」

 どうもこうも関係ないだろう。

 自分が何処に行こうと、誰と行こうと、この目の前の男に意味付けする理由など無いだろう? 
 意味を求める行為そのものですら無意味で馬鹿馬鹿しい。

 どうもこうも、関係ない。

 けれど眇められた瞳は、捕食する猫のようだと思った。


 「へぇ。 奇遇ですね」

 残酷で、綺麗。 


 「じゃ、一先ず映画、どうですか?」

 優雅で、獰猛。


 「崖ッ縁同志、一緒に観に行きませんか?」  




 それは『普通』といえば普通で、特別な意味などはないありきたりな、自然な流れの、極普通の日常的な誘い文句だったのだと。 珍しくも無いありがちな職場の一コマなのだから、真意も何も無い、深い意味など求めるなとと、必死で言い聞かせる自分自身の、なんと愚かで必死な滑稽さ。


   けれど流されたと云えば流されたのだろう。
   いつもの様に、自分は流されたのだ。 
   安藤という流れにまんまと流されたのだ。


   だが、約束は残った。














                                 
** 冷たい舌   6. **        7. へ続く