** 冷たい舌 ** 



                                  * * 7 **


           
                 
                        二つはコインの裏表のように、同一であり、全く別の物でもある。

                        例えばそれが、誰かの幸いだとしよう。
                        例えばそれが、誰かの罪だとしよう。


                        そんな二人が出遭った時、裁かれるのはどちらなのだろうか?



                                   **

                        そこに出くわしたのは、全くの偶然だった。 

                                   **



    惰性のような夏季体制。 とりわけ今日は一部のエリアを除き、午後三時から順次に清掃業者が入る予定があり、リハ室も午後の訓練は一件のみで二時半には終業。 可能な限りの人払いがされた院内は、金曜の午後だというのに閑散としている。 つまり、絶好の機会だった。

  約束は、守る過程にこそ愉しみがある。 

  ―― 勤務終了後に一度、各々自宅に戻る。 今夜自宅に帰る準備をして車を出し、駅裏に回って安藤を拾う。 それから銀座に向かう。 

  あんな場所に車で行くのか? 車では飲めないだろう? と安藤は躊躇したが、車は新橋寄りにあるホテルの駐車場に停めるし、酒は飲まなきゃ飲まないで困らない。 それに、ホテルの駐車券は、父親が仕事の関係上利用する為、何枚か譲ってもらっているのだからこちらの懐はたいして痛まない 

  そう伝えると 「桧山さん、隠れお坊ちゃまでしょう?」 芝居っ気たっぷりに安藤は笑った。 そんなふうに行動計画は、初めて遠出をする小学生の様に詳細まで決められていた。 

  ここ数日、鉢合ったロッカールームで、休憩室のソファーで、擦れ違いざまの院内で、俺たちはとっくに了解している筈の段取りを何度も繰り返し確認していた。 確認せずにはいられなかった。 と、なれば当日の今更、あらためて話す事などもう無い。 それ故の沈黙を、秒読み段階の浮ついた衝動を、愉しんでいたのだと思う。 申し送りを終え、慌しく他のスタッフに声をかけ、リハ室を出た俺たちは多分、少し高揚していた。 

  ひと気の無い涼しいピロティを抜け、階段で地下に降りる。 非常扉を開け廊下に出ると、開け放した通用口からの熱気がムッと纏わりつくように押し寄せた。


  「すっかり夏ですね」

  こめかみに浮かんだ汗を、安藤が手首の内側で拭う。 僅かに上向いた首筋は薄っすら湿り気を帯び、通用口からの鈍い陽光に、仄白く浮き上がって見える。 身体を使うPTの業務は、空調の効いたリハ室でさえ夏場はきつい。 なのに安藤はいつも涼しげに見えた。 汗ばみつつも、触れればその皮膚はひんやりしているのだと何故か思えた。 と同時にそんな想像をするなんて、どうかしていると思った。

  午後の1件、安藤が担当したのは小山のように肥満した老人だった。 巨体を持て余す老人は、おおよそ意欲的でも協力的でもなく、毎回、無理だ、無茶を言うなと声を荒げた。 本来安藤の受け持ちではないが、勤務者の減る夏季体制中にはそうも言っていられない。 

  今日も苛立ちを隠そうともしない患者に、繰り返し安藤が答える。 ―― 頑張りましょう? 大丈夫ですよ あぁ、今度はとても滑らかです さ、もういちど ね?  ――― 絶えずパーテーション越しに響く、優しげな励ましの声を聞きながら、俺は骨折後の中学生と、暢気に紙粘土を丸めたり、貼り付けたりして過した。 空調の低く唸る音、決して荒げる事の無い、柔らかで耳障りの良い声。


  「おまえは根気強いな」

  多分あの老人も甘えているのだ。 無理や我侭を押し付けても、ちゃんと受け止める安藤に依存しているのだ。

  「え? なんですか急に」

  「いや、さっきの梗塞の。 あの人、毎度あの調子だろ? あんなのでも、おまえはキレずに、律儀に受け止めるんだな」


  協力しない患者、厄介な患者なら今まで自分も担当した事があった。 仕事ならばと割り切り、あからさまに怒りはしなかったが、けれど知らず威圧はしていたのかも知れない。 そうしたケースの多くは、訓練が進むにつれ、次第に患者の態度が軟化していくのを感じた。 それは治療的に見ればプラスの変化ではあるが、だがそれは意図した訳でもなく、自分自身は何一つ動いてはいない。 となると患者が自ら何かを察し、自ら良き方へと変化したのだろう。 

  おまえとは違うよ。 おまえには敵わないよ。 


  「うーん、それは買い被り過ぎですって、僕だってキレますよ。 ガー言う時がありますよ」

  「まるで想像が出来ない」 

  想像しないで下さいよと安藤が、翳した手のひらで顔を隠す。

  「確かにね、あの人はちょっと極端ですけど、でも、ちゃんとこっちの顔色見ながら文句言ってるところがあって、結構可愛いんですよ。」

  「可愛いか?」

  あれを可愛いと言える安藤には、やはり敵わないと思った。

  「念押されると言い難いですけども、頑固親父が小出しに甘えてる感じで、言葉は悪いですけど餌付けっぽい感覚ですかねぇ。 ・・…尤も、根気云々で言ったら桧山さんだって同じでしょう?」

  「俺は違うだろう?」

  「いや、違くはないです。 寧ろ、僕以上にフラットじゃないですか? プライベート見せないし、クールだし。 訓練中よく訊かれるんですよ、あの人だぁれ? なんて名前? 幾つ? 彼女いるのかなァ? って」


  わざとらしく瞬きをする安藤が  「もっと知りたいんですぅ」  としなをつくって自分で噴出した。 柄にもない悪ふざけに嵌ったらしい。 肩を震わせて笑う安藤の背を、良い加減にしろよと叩き、呆れるつもりがこちらも釣られて笑った。 

  受容する事と傍観する事は違う。 前者は安藤で後者が自分だった。


  「おまえには敵わないよ。 俺はあのじいさんを可愛いとは思えないし、餌付けしたいとも思わない。 そう思う前に、ムッとしているだろう」

  おまえとは違うから。

  「あ、ムッとはしましたよ、僕も・・・・ だから実はさっき、結構ギリギリでした」


  とは言うもの、薄く口元を緩める表情は、苛立ちや激昂などとは無縁の静穏。 

  だから、すいとこちらに流された視線。 茶化してやろうと用意した言葉が、揺らめく残り火のような蔭りを瞳の奥に認め、発せられぬままに苦く咽喉の奥に貼り付いた。


  「だけど、結局は―― 」

  一瞬だけ垣間見た瞳の奥、その温度の低さにゾッとする。 

  薄く開いた唇の動きに、院内放送のくぐもった声が重なった。

  ――― どうせ、関係の無い事だから


  囁くような呟きが耳を掠めた。 


  音が言葉として変換されるには、僅かの時差があった。 意味を理解して、それだからこそ、空耳かと思った。 

  薄暗い、廊下の消失点を見つめて歩く安藤に、耳にした言葉の真意を問い返すことも出来ず。 その片鱗すら、今はもう何事もなく涼やかな安藤の横顔に見出す事も出来ず。 ささやかな齟齬と共に、更衣室へ向かった。 



  出入り口以外に窓もドアも無いだだっ広い長方形。 医者以外の全職員が利用する更衣室は、蒸し暑いコンクリートの箱のようだ。 林立するロッカーが空気の流れを塞き止め、気休め程度の空調が羽虫のような唸り声を上げる。 

  狭いロッカーから着替えを引っ張り出していた時、列向うから安藤の あっ という声がした。


  「桧山さん、すみません。 迎えに来てくれる時間、三十分遅らせて貰えませんか?」

  間も無く、並んだロッカーの端から、ユニフォームのままの安藤が顔を出す。 


  各患者のリハビリ計画はそれぞれ担当が立案し、評価は金曜の勤務で行う事になっていた。 自分の担当の患者なら評価後に計画の修正を、他の誰かの患者ならば評価と仮修正を行う。 

  安藤も自分も、今日は何例かの評価・修正を行っていた。 その中の一人は例の巨漢老人で、担当は六年目の木本だった。 安藤は木本の代行でその老人の評価・仮修正をしたあと、来週からのプログラムのプリントアウトせぬまま、保存したフロッピーをそのまま持って来てしまったのだという。


  「らしくないな」

  「言わないでくださいよ」

  気まずそうに身を竦める

  「明後日、出だろ? 明日は休診だし、印刷だけならその時で間に合わないのか?」

  今日は金曜。 修正した計画を実際に実施するのは、週明け、月曜からだ。


  「患者さんには間に合うんですけど、木本さんが明日出で二連休なんです。 木本さん、あの患者さんには手を焼いていたから、今度の休み中に思い切った計画の練り直しをしたいって」

  ならばしょうがない。

  「…… お疲れ」

  「ホントに」

  これ見よがしに溜息を吐き  「じゃ、また後ほど」  ロッカー群の向うに安藤は消えた。 


  思いがけず時間に余裕が出来、喫煙室に足を運んだ。 
  フィルターを咥えながら、壁に貼り付けてある、ニコチンに黄ばんだ時刻表を眺める。 

  駅と病院を結ぶ循環バスは、通勤・帰宅のピーク時こそ引切り無しに発着するが、それ以外―― こんな早上がりの日中などは ―― せいぜい一時間に二本程度と本数が少ない。 乗れば、歩いて20分の駅前までを、半分の十分弱で運んでくれる。 だが三十分近く待って更に10分掛かるなら、最初から歩いて帰るほうが早い。 その場合、正面玄関口からバス道路沿いに帰るよりも、裏の通用口から駐車場を突っ切るのが近道だった。 

  そして今、予定は変わった。 運行表の14時台に、58分というのがある。 待ち時間は20分弱だが、それでも安藤を拾いに行く時間に充分間に合う。 バス停は正面玄関を出てすぐ、楕円の中州があるロータリーの向こう岸にあった。 吸い始めたばかりの煙草を汚れたステンレスの灰皿にに押し付け、正面玄関に通じるピロティへと歩き始めた。


  気付いたのは、無人のピロティを横切ろうとした時だった。 

  時間的に、どこかで安藤と擦れ違うだろうと思っていたが、検査室へ通じる横道の、育ち過ぎたベンジャミンの葉陰。 姿勢の良い水色のユニフォームを着た背中、そのすぐ横に並ぶ小柄なシルエット。 

  咄嗟に七夕飾りの後ろに隠れたのは、単なる反射だった。 

  安藤と、女。 女はタイトなオレンジのTシャツに、ひらひらした短いスカートを穿いて、薄茶の長い髪を背中に流している。 小声で一方的に話す女に、一言二言答える安藤の声。 総ガラスの背景は、植え込みの緑と垣間見る青空。 午後の陽射しを浴びる二人は似合いのカップルにも見え、事情を知らなければ微笑ましくも思えた。 

  女が、髪をかきあげる。 細い手首で揺れる、飴玉みたいなカラフルなビーズ。 彼女には見覚えがあった。 少し前までリハ室に通っていた整形の患者だ。 そして彼女のリハの何度かは、安藤が担当していた。 

  確か、大学のチアリーディング部に入っていて、練習中の骨折で入院したのだと耳聡い金森あたりが言っていた気がする。 ともあれ目立つ患者だった。 訓練だというのに綺麗にメイクをして、松葉杖にしがみつく指にはいつも派手なネイルアートが施されていた。 もう退院したはずだが、わざわざ来たのだろうか。 わざわざ、安藤に会いに。

  やがて顰めた女の声は幾分高くなり、今や充分聞き取れる範疇にあった。 


  −− 好きです 本気です 付き合ってください 彼女とか居るんですか? でも、それでもいいんです 
  本命じゃなくても私は平気です なんでですか? 私じゃ駄目ですか? 


 どうやら同室だった高校生に、今日の安藤のシフトを聞き出して、こうして会いに来たらしい。 


   −− 好きなんです もう一度会いたくて 気持ちを伝えたくて 

  相手の都合も考えずに、か。


  馴染みのある不愉快なシチュエーション。 小さいピンクの唇が、忙しく言葉を吐き出す。 癖なのか何度もかきあげられる薄茶の長い髪が、逆光に透けて金茶に光った。 余程、自分に自信があるのだろう。 彼女が居るという男に、正面からアピールをして、やんわり断られても尚、その事実を納得出来ずに居るのだから。 自信たっぷりで幸せな女。 自分だけが幸せで、傍迷惑な女。

  だが、この状況は不味い。 

  『お母さんのつくるおいなりさんが食べたい』  『はやく学校にいきたい』  所在無く、目の前の短冊を読む。 厄介な事になった。 益々この場を去るタイミングを失っていた。 動けば彼らは気付くだろう。 だが、今更、通り縋りの偶然を装える状況ではない。 誰も居ないピロティで、七夕飾りに隠れ、図らずも立派な覗き行為をしている自分が酷く滑稽に思えた。 

  ならばしょうがない。 少々の後ろめたさを感じつつ、その場に身を潜めて遣り過ごす覚悟を決め、壁の長椅子にそっと腰を下ろした。 バスの時間を考えると、溜息が漏れた。

  そんなこちらの都合などお構いなしに、女の説得は続く。 
  途切れなく言い募る女に、『謝罪』と『感謝』を繰り返す耳障りの良い声。 


  −− ごめんね ありがとう でも、僕には彼女が居るから ごめんね 気持ちはとても嬉しいけれど 

  ほら見ろ、おまえはこんなにも根気強い。


  一体、どんな顔をしているのだろう? 根競べにうんざりした顔もせず、優しげに目を細め、困ったように少し眉尻を下げ、口元には小さな苦笑を浮かべ、さぞや誠意溢れる『お断り』をしているに違いない。


  やがて結論の出ない問答に焦れ、懇願する女の口調に苛立ちが混ざる。 
  けれど永遠に続くかと思えた押し問答が、唐突に途切れた。 

  静寂に好奇心が頭をもたげ、音を立てずに腰を上げて様子を窺う。 女は肩から下げた鞄の中を覗き込んでいた。 がさごそと何やら慎重な手つきで中身を探り、ほどなくペパーミントグリーンの箱を取り出すと、それを安藤に差し出した。 女は安藤を見上げ、何かを訴えている。 女の言葉は丁度流れた院内呼び出しに被り、こちらからは聞こえない。 安藤がどう答えているのかもわからない。 

  棒読みのアナウンスが、余程多忙らしい外科医の名前を呼ぶ。 
  女の唇は休まない。 後ろ姿の安藤は、身動ぎもしない。 

  二人の間にあるのは場違いに彩度の高い、小さな細長い箱。再び根競べが始まるのかと思いきや、ひょいと身体をかがめた安藤が女に何事か囁く。 不思議とセクシャルな意図を感じさせない、小さな子に話し掛けるような距離。 

  途端に、女がにっこりと笑った。 鼻から上は葉陰で見えないが、今までのはそれは何だったのだろうと思うような、晴れやかで無邪気な笑みだ。 そして意外にも、安藤は箱を受取った。 受け取り、軽く会釈をすると踵を返し、何事もなかったかのようにピロティへと歩き出した。 

  こちらに向かってくる安藤の目を避け、鉢合わぬように更に奥、カウンター脇に身を寄せる。 目と鼻の先、姿勢の良い痩身が滑るようにピロティを横切って行く。 唇には笑みの名残。 片笑窪。 その後ろ姿を、女は暫く見つめていたが、やがて大きく髪をかきあげ、背を向け、正面玄関へと歩き出す。 ちらりと垣間見えた表情は、決して暗いものではなかった。

  安藤は何を囁いたのだろう? 

  てっきり厄介な事になると思っていた。 さすがの安藤であっても、きっと、酷くやるせない遺恨を残すのだろうと思っていた。 なのに、呆気ない終わりだった。 あまりに鮮やかな幕引きは、トラブルの余韻すら残さない。

  安藤は何を、囁いたのだろう?

  そんな魔法のような手腕を、是非とも借りたいのは自分だ。 


  宙ぶらりんにしたままの、美咲との事。 靴の爪先に入り込んだ小さな砂粒のように、気のせいに出来ないギリギリの苦痛は、靴を脱ぐ終わりまでエンドレスに続く。 頭の隅に追いやった下田の件も、いよいよ来週に迫っていた。 連絡するタイミングならば実家に戻る今夜、それがベストだとわかってはいる。 

  だが、そうする気持ちにはなれなかった。 連絡すれば会わなくてはならない。 会ったら話しを詰めなければならない。 きっと極めて不本意な結論を出す羽目になる。 流れは綺麗に続くのだ。 そしてこの流れの先に逃げ道はない。 

  勿論、断る事もできるだろう。 別に強制されている訳でもない。 きっぱり断りを入れたところで、多分、美咲は 何故? とも どうして? とも言わないだろう。 だけど、言わないがゆえにそれは、重苦しい糾弾となる。 そこを無傷で擦り抜ける自信はない。 かと云って、向き合う誠意も持ち合わせない。 

  なぁなぁにして来たツケを、この場に及び、さらにツケようとしている自分。 なんて無様だろうと思った。 けれど、本音を言えばもうどうでも良かった。 無様だろうと卑怯だろうと、自然消滅という、利己的で都合の良い結末を切望していた。 

  でも、安藤ならどうするだろう? 安藤なら、これすら手際良く治めるのだろうか? 


  どちらにしろ、自分は見てるだけなのだ。 いつだって、ただ、傍観するだけなのだ。


  暫くの間、無意識に女の消えた正面玄関を呆然と眺めていた。 やがて自動ドアのガラス越し、通りの青々した葉桜の陰から、ベージュのバスが敷地内に滑り込んでくるのが見えた。 あっと我に返って、走る。 一瞬振り返ったピロティに、安藤の姿は見えなかった。


                                  * *


  ――― 男は親友から恋人を奪った。 女は、呆気なく身を引いた男を恨みつつ、奪った男の妻となった。 
       そして奪われ失った男が失踪して18年。 物語は消えた男が街に戻って来たところから始まる。
       舞台は閉鎖的で斜陽にある、ロシアの上流階級。 儚く短い夏の、残酷で美しい三人模様  ―――


                                  * *



  「・…なんか・・・すっきりしなかったですね」

  器用にパエリアを取り分けながら、安藤は言った。 確かに、すっきりしない映画だった。 
  映画そのものは素晴らしかったと思うが、そもそもの題材がすっきりはしないのだ。 すっきりする筈が無い。



  新橋に着いたのは17時過ぎ。 ホテルの駐車場に車を停め、さて飯はどうすると顔を見合わせてはみたが、まだ日も高く、二人とも昼が遅かった為、さほど腹は減っていない。 次の上映までは一時間弱。 ならば先に観ようと、銀座に向かってぶらぶら歩き出した。 時間は充分にあった。 横並びで少し視線を下げれば、いつもの横顔に見慣れない黒っぽいフレーム。


  「気になりますか?」 

  少し、はにかむ表情の安藤が言う。

  「悪い、つい目が行って」

  レンズを通した安藤は、普段よりも神経質そうに、したたかに見えた。 だが、細いフレームの眼鏡は安藤に似合っていた。

  「いつもはコンタクトですからね。 身体を動かす時はその方が便利なんですけど、映画とかは瞬きが減るみたいで。 そうすると、あとで痒くなったり調子が悪くなるんです」

  一見、黒かと思うフレームは、光りの加減で深い緑にも見えた。 遊び上手なエリートといった感じの、洒落た眼鏡だった。 だがレンズはかなり厚い

  「目、悪かったんだな」

  「悪いですよー。 眼鏡デビューは小二ですから、人生のほとんどは近視です。 今は0.04ってとこかな?」

  「それ、そうとうに悪いんだろ?」

  小数点がつく近視なんて、見えないのと同じに思えたが

  「良くは無いですけど、でも、裸眼でも見えない訳じゃなくて。 あ、桧山さんとかと同じレベルでの 見える じゃないんですよ? 具体的に言うと……中越さんと深見さんの区別はつきますけど深見さんと堀さんはちょっと微妙……?」

  中越は痩せた小男で、深見はがっしりした中背。 堀は肋骨が浮くほど痩せてはいるが、背は深見とほぼ同じ。

  「それは見えるって言えないだろう?」

  「えーでも、わりに勘でなんとかなるんですよ。 まぁ慣れでしょうね、目が良かった事がないから」 

  パチパチ大袈裟に瞬きして見せる安藤に、幼い黒ぶち眼鏡の安藤が重なって見えた。 
  賢く、卒なく、今よりも幾分神経質な顔をした安藤の原型。


  途中、安藤の希望で、時間潰しに山野楽器に立ち寄った。 
  自分自身これといって欲しいものはなかったが、安藤がどんな曲を聴くのかは興味があった。 

  混雑といって良いほどの店内。 入ってすぐの一階は通過して、地下の洋楽の棚を流す。 とはいえ安藤は眺めるだけで、取り立てて興味があるふうでもなかった。 陳列棚の狭間を縫って悠々と、しかし立ち止まる事もなく歩く。 店内を歩く安藤は無駄がなく、なんらかの目的に向かっている感じがした。 

  「桧山さん、このへん聴くんですか?」

  ふいに立ち止まり、指し示されたのは、ボサノバやフレンチカリプソの一群だった。 

  「いや、特に好きというのでもない・・」

  そう答えると、一瞬 おや? という顔をして、意味有りげに目を細める。 そこで、今更のように気付いた。 行きの車の中、流していたのは美咲の置いていったCDだった。 入れっぱなしのそれを何とは無しにかけていたが、だが別段好きというほどでもない。 そもそも、音楽に拘りは無い。 余程のノイズで無い限り、はしゃぐアイドルのそれであっても、気にせず自分は聴くだろう。


  「何か探しものでもしてるのか?」

  「いや・・・… 駄目モトなんですけど」
  
  「安藤はどういうのを聴く?」

  「僕ですか?」


  質問に答えぬまま、安藤は店内の人ごみを擦り抜ける。 

  安藤が立ち止まったのはジャズのコーナーだった。 初めから、そこが目当てだったのだろう。 輸入盤の一角に目を留め、引き抜いた最初の一枚を、ほとんど即決のように安藤は買った。 絵も写真もない、タイトルと曲名を印刷しただけのチープなジャケットからは、どんな曲なのか皆目がつかない。 

  「これ。 古いライブ盤なんですよ。 レコードは実家に置いてきちゃったから、CDで探してたんです」

  疑問を察したように、安藤が言う。

  「…… 父親が、サックスをやってたんです。 ジャズマンって言ったら良いのかな? とは云っても、それで食べて行くのは無理だから、普通にリーマンしながら、スタジオミュージシャンみたいな事してました。 売れないアイドルのバックとか、正規のではないカラオケテープの演奏とか……  ―― ジャズはなかなか遣らせて貰えないんだ―― って、きっと歯痒かったんだろうなぁと思うんですけど、でも、いつもにこにこ笑ってて」


  父親を自慢する安藤は、嬉しいような恥ずかしいような、無邪気な小学生のような顔をしていた。 

  「知ってますか? テナーサックスって凄く綺麗なんです。 音もですけど、フォルムが艶かしいんです。 それを抱き締めるようにして 「コイツはお姫様だから我侭なんだ」 って父は言うんです。 それが子供心に、凄く大人で、格好良くって」

  CDの入った袋を細めた目で見つめ、口元を綻ばせる笑みは、今まで見たことがない無防備な表情だった。 

  「父親が自慢の種になるって言うのは、羨ましいな」

  「自分でもちょっと、ファザコン気味かなと思うんですけど。 でも、本当に自慢の父親なんです。」


  憧れなのだと、安藤は自分の父親を心底誇らしげに語った。 
  それに対して自分は、ありきたりの相槌しか打てなかったのだが、正直、そこまで素直に話す安藤が意外だった。

  そもそも、家族と自分の歴史について、ほとんど安藤は語らない。 話しているようでも、ありきたりの事ばかりで、その話にリアルな生活臭は無い。 その方向の話題は密かに、曖昧に誤魔化されて行き、その巧妙さから 『家族』 は安藤の鬼門なのかと思っていた。 

  だからこそ、そうまでして隠すその部分に、興味がないといえば嘘になるだろう。 だが、暴いてやりたいと思う半分、何が出てくるかわからない恐さがあった。 時折翳る瞳の奥の、その正体を知るのは躊躇われた。 興味より好奇心より、巻き込まれるなという心の警告の方が、まだまだ自分の中では強い抑止力を持っていた。 

  しかし、こうして自ら安藤が語ったのだから。 ならば、構わないのだろう。 ならば、もう少しと欲を掻いたのかも知れない。 
  もっとと、踏み込みすぎたのかも知れない。 

  器用に人波を擦り抜ける安藤に続き、俄かに混み始めた店内を入り口に向かって進む。 階段脇の通路に行列が出来始めている。 気付けば店内の客層に、明らかな変化が見られた。


  「あの子が来るらしいですよ?」

  壁に貼られたポスターを安藤が指差す。

  「見た事ないな」

  いわゆるメイドのコスチュームを着た女の子が、上目遣いにこちらを睨みつけている。 可愛いといえば可愛いが、両手を腰に当てて、頬を膨らませて口を尖らせて、上からのアングルで撮ったそれはどう見ても怒っている顔だった。 入り口近くから怒鳴るような拡声器の声が流れる。 どうやら店のスタッフが、整理券を配っているらしい。

  「声優らしいですね」

  ちらりと視線を流し、小声で安藤が言った。 あぁ、と納得がいった。 

  流行からは遠い服装をした、若いというには微妙な年齢の集団。 見れば彼らの何人かは、プレゼントらしき紙包みや、豪勢な花束を持参していた。 果たしてメイド服の彼女は、彼らのプレゼントを喜ぶのだろうか? あのポスターの顔で怒るのだろうか?


  レジ周りの合流地帯を脱出し、出入り口へと向かう。 カップルらしい男女が、整理券に群がる男たちを眺め、互いに囁きあっては失笑を洩らす。 嫌な感じだと思った。 当然の様に見下して、自分たちは違うと優越感に浸っているのだろうか。 だが、あからさまに奢る彼らよりも、好きなものに一途な男たちの方がずっと、人としてまともな感じがした。 けれど、男たちも少々はしゃぎ過ぎだ。 入り口付近には一際騒々しい集団がたむろし、通行の妨げになっている。 おのずと張り上げた声で、すぐ先を行く安藤に問うた。


  「…… 最近はどうなんだ? 親父さんは今でも?」

  深い意味は無かった。 先刻までの会話の流れだった。 
  けれど、瞬時に色を失った安藤の表情に、それこそが地雷だと悟った。

  「死んだんです」

  喧騒の中、耳朶に触れるほどの距離で安藤が囁く。

  「庭のガレージで首を吊ったんです。」


  ぶわんと音の溢れる雑踏に、溶け込もうとする背中を追う。 

  ピリリと伝わる拒絶に応えるのは、沈黙しかなかった。 けれど、何故だかそこに悲しみの気配は薄く、感じるのは、かすかな怒りと失望。 何に、腹を立てている? 父親に? その死を止められなかった自分に? あるいは家族に? そして、それ故に失望しているのだろうか? 終わらせてしまった父親に。 叶わなかった未来に。 密かに育ってゆく『陰』と生きる今に。

  なんともいえない空気を持て余し、和光のビルを見上げながら、二人無言で目的地へと歩く。
  大きな交差点を渡り切った時、ひょいと振り返った安藤が言う。


 「さっき結構長居してしまいましたよね? すみません。 ちょっと慌てちゃいました。 もう今、時間ギリギリです」

  こちらを見遣るのはいつもと同じ微笑み。 



                                  * *



  映画館から出ると、外はすっかり夜の銀座だった。 

  さすがに腹も減って来たが、夕食時真っ只中とあってはどこも混み合って、通りまで行列を作る店すらもあった。 どうしたものかと、多少知っている店を思い浮かべていると  「パエリアとか嫌いじゃないですか?」  と安藤が言った。 

  店は、ほとんど新橋に近い裏通りにあった。 半地下に降りる店内は細長く、寂れた場所にもかかわらず、銀座にしては若い二十代後半程度の客で賑わっていた。 


  「こんな穴場、良く知っていたな」 

  椅子の背に、鞄の紐を引っ掛けている安藤に声をかける。 

  「以前、店の前まで来たんですけど休みで。 入るのは初めてなんです」

  あぁ彼女とか、と。 例の彼女と、来たのか。 

  スペイン料理はわからないと、メニュー選びは全部安藤に任せた。 任された安藤はテキパキこちらの好みを訊き、手際良く料理をチョイスする。 

  先に飲み物を、とウェイターに言われ 「車だから気分だけ」 と安藤は、綺麗な水色の壜に入った発泡水を注文した。 運ばれてきた水を、ウェイターが各々のワイングラスに注ぐ。 雰囲気だけなら、シャンパンを開ける男二人だった。 「男二人であれですけど」 苦笑しつつ安藤がグラスを持ち上げる。 「お疲れ様」 と、翳すグラスの縁にこちらの縁をぶつけ、キンと小さく鳴らした。 

  そんなこなれた所作から、やはり、実はもう何度も利用しているのでは無いかと疑っていた。 だがやはり、ここは安藤にとって初めての店だったらしい。 メニューに1.5人前とあったパエリアは予想以上にボリュームがあり、足りないだろうと頼んだ魚介のサラダも、豪快な盛りの具付きで洗面器かと思う巨大なボールに入りやって来た。 そのたった二品で、テーブルの余白は消えた。

  「すみません、予想外でした。 いや、このサラダ凄いな、どうしよう」

  申し訳無さそうに眉根を下げる安藤を宥めつつ、二人で黙々と胃に納める。 

  食べても食べても一向に減らない御馳走だったが、幸い、味は悪くなかった。 魚介の味の染み込んだパエリアは、焦げた部分が絶妙に美味い。 一人暮しでは滅多口に出来ないのだからと、どうにか残り四分の一程度まで減らした。 だがそこで小休止になった。 どちらからともなく、溜息が漏れ 「よくやりましたよね」 安藤が煙草に手を伸ばした。 つられてこちらもフィルターを食めば、どうぞとライターが差し出された。

  食後の一服を愉しみ、満腹の緩みもあり、すっかり歓談モードの安藤が硬水の水色の壜を傾ける。 
  そうして、その日何度目かの 「すっきりしない」 を口にした。


  「…… やっぱり、すっきりしないんですよ……」

  眉間券に皺を寄せて呟くのは、大袈裟に芝居掛かっていたが、たかだか映画に安藤のこの拘り様とは、少し異質であるように思えた。 

  「まぁ、しょうがない。 元々そういう話だから」

  安藤の不服は置いておいたとしても、映画は淡々と美しかった。


  物語は漱石の 『こころ』 を下敷きにして、男女の三角関係を題材としていた。 

  男二人に女一人。 裏切った男と裏切られた男。 その間で、自分の感情を持て余す女。 エゴと良心と罪悪感。 どう転んでも、一人が切り捨てられる現実。 これではすっきりする筈がない。 実際、一人が切り捨てられ姿を消した。 残された男女は、それぞれの問題を抱え、後ろめたさと良心の板挟みに合いつつ、己のとるべき生き方を思索して葛藤していた。 

  けれど消えた男が戻り、再び三人になった。 戻った男は十八年前の事など何も無かったかのように、屈託なく 『親友』 として振舞う。 だが、過去を無かった事にされた男女は、図らずも過去を再びなぞる様に演じる事になる。 

  結果、徐々に浮き彫りになってくる三人三様の歪み。 そこに罵り合いや、暴力的な諍いはない。 だが水面下で互いの足を掴み合い、内側の深い部分を斬り付け合う凄惨な応酬を、誰一人止めることが出来なかった。 

  物語の中盤と終わり、戻ってきた男が、それぞれ別の場面で、今は夫婦となった男女に同じ質問をする。

  『幸せか?』

  女は、最初答えなかった。 答えずに戻ってきたかつての恋人を責めた。 
  けれど、二度目の質問には幸せだと答えた。 それが自分の義務だとも答えた。 

  『幸せか?』

  男は、答えられなかった。 
  一度目も二度目も答えられず、逆に  『これは罰なのか?』 と自分が裏切った男を非難した。

  そして始まりと同様、唐突に男は姿を消す。 再び 二人 に戻った男女は、即ち、平穏という名の袋小路に取残されるが、もう、決して以前の自分たちには戻れない事を察していた。 やがて訪れた秋、残された二人は消えた男の死を知る。 男は遠い街の病院の一室でたった一人、この世を去った。 全身を病に蝕まれ、もう何年も入退院を繰り返していたという。 あの短い夏、病院を抜け出し、人生最後の自由を故郷で過した男。 死んだ男の背景を明らかにして、映画は終る。


  ――― という、確かにすっきりしない結末ではある。 

  けれど、どうしようもない。 そういう話なのだから。 ならば、自分ならどうする? 


  「おまえならどうする?」

  気付けば安藤に問うていた。 手持ち無沙汰の惰性で、サラダから魚介を選り分ける安藤が、眼鏡の向うで目を瞬かせる。

  「桧山さんなら、どうしますか?」

  質問を質問で返され、咄嗟に言葉に詰った。 こういう時、酷く不器用な自分を意識する。


  「…… 俺は、正直わからない。 男が居る女に手を出す気持ちがわからないし、平気で二股を掛ける女の気も知れない。」

  「桧山さん、それ言っちゃ話にならないですよ」

  話しながらエビの殻を剥く安藤の指は、器用に優雅に動き、濡れたお絞りで拭わずとも、指先は白く清潔そうに見えた。

  「おまえが訊いたんだろう? 俺は、この手の恋愛ものは苦手なんだ。 だからおまえに訊いたのに」

  「でも、実体験は豊富でしょう?」


  「おまえほどじゃないよ」  とぼやけば  「またまた御謙遜を」 わざとらしく人の悪い笑みを浮かべた。 
  いつだって余裕のある見慣れた安藤の表情。 

  確かに、こいつなら惑わないのだろう。 自分のように行き詰らないのだろう。 
  だが、何かがこいつを歪めている。 何かが、こいつの内側で温度の無い 『陰』 を育てている。


  「…… 何ていうのかな。 俺にしたら、あの二人はある意味似たもの同士で、カップル的にはあれで正解だと思う。 略奪した者同士、お互い希望が叶って万々歳だとでも、いっそ開き直ってくれたほうがましだとすら思う。 あぁ良かったって、堂々としてりゃいいんだよ。 なのに被害者ぶっているのが、厚かましい。 それに、あの男もあの男で何で戻って来たんだか。 今更だろう? 戻ればあの二人が揉めるのは明らかなのに、穿り返すようなマネをして、幸せかどうかも無いだろう?」

  「厳しいですね」

  安藤の指先から、紫煙が斜めに流れる。 

  何やら熱弁してしまった自分は らしくないな と、頭のどこかで思った。 だが、 『らしくない』 のはこの日の安藤も同じ。 「正論だけども、桧山さんは厳しい」 と、噛んで含めるように繰り返す安藤に

  「俺は、そういうふうにしか考えられないから」

  言い訳じみた言葉を返す。 けれど、安藤は薄く笑みを浮かべ

  「あぁ、桧山さんはそれで良いんですよ」

  含みのある肯定の仕方をした。 
  母親が、とりわけ出来の悪い子を諭すような響きに、少しむっとして  「なんだよ、それは」  不貞腐れた声がでた。


  「いえ、誉めてるんです。 羨ましいなって思ってるんですよ」

  羨ましいと思いますよ? と 再び繰り返す口調には、深い疲弊と諦観がある。 
  どうしようもないこと、諦めざるを得ないこと、それらを飲み込んだ人間の顔だった。 

  何故、そんな顔をする? 

 俺たちの知っている安藤は、そんなではない。 いつも凪いでいて、要量が良くて、賢く世間を渡ってきたはずの安藤を、こんなにも疲弊させるような事柄とは一体どんな難題だったのだろう?


  「で、おまえはどう思う? どんなだったら、すっきりできるか?」

  今度こそ、安藤自信の答えを問う。 

  「僕ですか?」

  言葉を捜すように視線が斜め下を泳いだ。

  「…… 欲張り過ぎたんですよ。」

  数秒の沈黙を経て、静かな口調で始まった。


  「みんな、欲張り過ぎたんだと思います。 奪ったの奪われたの、そもそも当人同士が知らなければ済む事でしょう? 何でわざわざ 「奪いました」 「奪われました」 って馬鹿正直に言い合うのか。 馬鹿ですよ。 黙ってた方が良い事ってあるでしょうに。 そんな風にあからさまに晒すくらいなら、リスクは負うべきでしょう? 全部を手にするのは、誰かを傷つけても構わないって言う覚悟あってのこと、逆に全部失っても良いと自分で決めたなら手放した物のその後を追わないのがルールです。」


  淡々と意見する安藤は、まさに断罪する口調だった。 
  こんなふうに罪を告発されたら、例えささやかな罪だったとしても逃げ道は無いだろう。 


  「おまえの方が、厳しいじゃないか」

  「そりゃ、厳しくもなりますよ。 みんな勝手過ぎるんですから。」

  「勝手か・・・・。 だけど、おまえのその話しだと、黙って不倫し続けてれば良かったってことになるぞ?」

  「その方がよほどマシでしょう?」

  吐き捨てるように言う。 

  「全部を背負う気も、諦める気もない癖に、半端な良心をさも大事に掲げるから愚かなんです。 未練がましい。 だから、罰なんです。 覚悟も無いのに、欲しい欲しいで欲張り過ぎた罰。 諦められないのに、物分りの良い振りして善人ぶった罰。 

  桧山さんの言う通り、今更なんですよね。 今更後悔して、今更帰って来て ――― 僕はあの男、帰って来たあの人が一番嫌です。 映画では、綺麗に物悲しく描かれていたけども、違いますよ。 あれは普通に偽善です。 残り少ない人生を逆手にとっての復讐しです。 現にあの二人の間はもう、どこを歩いてもあの男の撒いた地雷だらけでしょう? かと云って、元はといえば自業自得だし、相手は死人だから恨みの八つ当たり所もないし。 

  あぁそうだ、いっそあの人、ジェイソンみたいにチェンソー振り回してくれれば良かったのに。 そしたら多分、今頃僕らはスッキリとパエリアを完食してますよ」

  「それじゃ、もう、別物だろう?」

  最後はおどけて瞳をグルリ回す安藤を茶化して、会話は一段落をした。


  けれどもこの時、この瞬間も、もやもやした何かがカタチをとり始めたのを感じた。 いつになくネガティブな方向で感情的な安藤。 微妙な引っ掛かりを残して断ち切られた、先刻の父親絡みの遣り取り。 

  妙にリアリティのある言葉は、映画の話しをしているようでいて、実はそうではないのかも知れない。 そうではない。 実は、それは安藤自身に関する何か。 歯痒くて、どうしようもない何かを抱えている、諦めている ――いや諦めようと自制してるのか―― 安藤の内側に燻る未消化の何か。 

  茹で過ぎたイカが噛み切れず、発砲水でそっと飲みこんだ。 安藤はパエリア鍋のお焦げを、スプーンの減りでゆっくりこそげている。 映画はすっきりしなかったが、こうして安藤の内側を垣間見ることが出来たのは収穫だった。


  「ね、桧山さん、口直しにこれ、頼んでみませんか?」

  水だけというのも味気ないからと、安藤が、サングリア風味のノンアルコールフルーツカクテルとやらを二人分頼んだ。 だがてっきり飲み物かと思ったそれは、大きなパフェグラスにザクザクとフルーツを刻み、そこに葡萄味の子供シャンパンのようなものを注いだ代物だった。

  「本当に、すみません」

  向かいで申し訳無さそうにオレンジを突付き、今日何度目かのスミマセンを言う安藤を眺める。

  「いや、これはコレで良い経験をしたよ」

  毒々しいチェリーと崩れた桃をを押し退け、太いストローで吸えば、甘ったるい炭酸が舌で弾けて咽喉に絡んだ。 「滅多に出来ない体験だ」 改めて、  男二人でパフェを喰う馬鹿馬鹿しさに笑った。 本当にすみませんと、安藤も力無く笑った。




                                   **



  夜の高速はスルスルと流れた。 

  電車で帰るという安藤を半ば強引に説得し、実家の横浜を素通りして車を走らせたのは、まだ家に帰りたくないからだ。 

  スペイン料理屋を出て、歩きながら携帯のマナーモードを解く。 その時数件のメールを確認して、その中に美咲からのメールを見つけた。 件名は  【明日】 。 明日といえば明日だろう。 今日帰ることは今朝、家の留守電に入れておいたのだが、美咲には伝えていない。 大方母親が言ったのだ。 

  わざわざ連絡をしてというのは考え難いが、実家と美咲の家は近所といえるほどの近さだった。 駅の向こうとこちらなので普通に出会う事は少ないが、互いの家の中間には大型スーパーがあり、そこで美咲と母親がしょっちゅう出くわせているというのは以前から聞いていた。 

  いずれにせよ、直接美咲には伝えていない帰省を、間接的に知られたのは不味い。 噛み切れずに飲み込んだイカの様に、消化出来ないもろもろが、内側でじわじわと膨張し始めるのを感じた。 今解いたマナーモードをもう一度セットする。 気付かなければそれまでだ。 知らなかったのだから、連絡もしなくて良い。 会わなくて良い。 話なんかまた今度で良い・・…。

  全てを振り切るように、安藤を強引に車に乗せた。


  「これ、今聴いていいですか?」

  走り始めて間も無くの信号待ちで、安藤がさっき買ったCDを鞄から取り出して言った。 

  わざわざ探していたという曲がどんなものなのか、純粋に興味があった。 それまで小さく流れていたボサノバを取り出し、代わりに安藤から受取ったCDを入れた。

  古いレコード特有のチリチリする雑音から始まり、司会者らしい男の上機嫌な声、歓声、拍手、バンド名のコール。 だが非常に音が小さい。 「ちょっと上げようか?」 と、ボリュームを上げた途端、滑らかなテナーサックスのソロ。 追い駆けるようなピアノ。 疾走感溢れるメロディ。 


  「50年以上前の音源使ってるから、音、ちょっと悪いんですけどね」


  ジャズを真正面から聴いた事は無かった。 中でもこれがどんなジャンルに当たるのかはわからなかったが、嵌めを外し過ぎない品の良い弾けかたは、安藤らしいと思った。 ベースの刻む軽妙なリズムは、夜の高速道路に似合う。 かつて、安藤の父親もこの曲を奏でたのだろうか。 そしてその傍ら、綺麗な女を抱くようにサックスを吹く父親を、小さな安藤は見上げていたのだろうか?

  思いあぐねた事は色々あったが、結局何も言わず運転を続けた。 安藤も会話らしい会話をせず、けれど安心したような、力の抜けた顔をしてテールランプの行列を眺めていた。 音だけが雄弁に、エンドレスで車内を満たした。



  道が空いていたこともあり、アパートまでは一時間も掛からずに着いた。 そこは以前、酔った金森が 無理だ と言ったとおり、駅裏から緩やかで長い坂を上り、さらに横道に入って少し上がった急坂の途中にあった。 細い坂道の両端からは、更に細い私道が葉脈のように走り、ランダムに点在する民家や集合住宅を結ぶ。 坂沿いにある安藤のアパートは、道路側から眺めると、一階部分が半分地下に潜っているように見えた。

  車を路肩に停め、さほど遅い時間ではなかったがエンジンを切る。 安藤が居住まいを正し、シートベルトを外しかけた時、後ろからのビームライトに思わず息を飲んだ。 道は辛うじて舗装はしてあるものの、一通でないのが不思議なくらいの道幅しかなかった。 路肩に余裕の無いこの場所では、二台の乗用車が擦れ違うのはまず不可能だろう。 

  後方からの車が早く行けといわんばかりに、苛々クラクションを鳴らす。 不粋に姦しい音が、夜の住宅地に響く。


  「あぁ、も、僕は大丈夫です、桧山さん出ちゃってください。 この先少し行ったところで、車、そこでターン出来ると思います。」

  手早く鞄を掴み、安藤がドアを開ける。 車外に飛び出した安藤が 「今日は有り難うございました」 早口で言い、会釈をする。 返そうとした返事より早く、後部からクラクションを鳴らされ、慌ててエンジンを掛けた。 
 

  追い立てられる様に、狭い坂道を上がる。 暫く走るとなるほど、安藤の言ったとおり少し道幅が広がり、同じような作りの住宅が桝目のような道路に挟まれて並ぶ。 右に右にと整備された道を曲がり、再び例の坂道を下った。

  無事引き返すことが出来てほっとしたからなのか、ふと、車内に流れている音に気付く。 追い立てられるような帰り際、安藤はCDを忘れて行ってしまった。 だが幸い、もうすぐ安藤のマンションの前を通る。 せっかく買ったのだから、一人でじっくり聴きたいだろう。 他の車が通るのではと、先刻のドタバタを苦く思い出してはいたが、さっと降りて手渡せば、さほど時間は掛からない。 ならば、ちょっと寄ってやろう。 そして忘れ物だよ と、渡してやろう。

  ―― というのが建前の部分。

  本音は、まだ帰りたくなかったのだ。 
  家に戻り、 『メールが着ていることに気付き』たくはなかった。 無理矢理用事を見つけてでも、先送りにしたかった。 

  幸い、坂の前後に車の気配はなく、坂を照らすのはぼんやりした街灯の灯りのみ。 念の為に安藤のアパートを少し過ぎた所、一台分の駐車スペースのある工務店があり、とりあえずちょっとの間だからと、そこのシャッター前に車を停めさせて貰った。 そうしてCDを手に、薄暗い坂道を早足で登る。 

  アパートの正面は道路の反対側の面になり、坂を迂回する横道から入る。 細い路地を入ってすぐに、建物の境界を囲むフェンスにぶつかった。 くの字に曲がったフェンスの端、入り口らしき場所から敷地内に足を踏み入れて、外階段のある駐輪所の方へと向かった。 

  駐輪場は階段下のデッドスペースを利用して作られ、白い外壁に 【コーポ春山】  の表札が埋め込まれていた。 駐輪場の脇には、アパート専用らしい小さなゴミ集積場がある。 真横の街灯に照らされた、二畳ほどの四角。 病院関係者が多いこの辺りは、夜勤や当直の為、その日の朝にゴミを出せない事が多い。 ゴミの夜出しは、日常的に行われていた。 ここも例外ではなく、半透明の袋が既にぎっしりとスペース一杯に並んでいる。 階段を昇り始めながら、なんとはなしにそれらを眺めていた。 

  その時、一点に目が止まった。 白く盛り上がったゴミの小山の一つ。
 詰め込み過ぎて口を開けたゴミ袋の隙間、街灯の灯りをスポットライトのように浴びて、場違いに鮮やかな彩度のパステルカラー。

  キンと、耳鳴りがするような緊張に襲われた。 

  階段を昇ろうと上げた足を戻し、踵を返して、吸い寄せられるようにそこに向かう。 静かな夜。 虫の声だけが響く夜。 それを見たいのか、見たくはないのか。 自分の心臓の音にすら、息苦しさを感じる。 

  開いた袋の口、紙屑だの割り箸だのラーメンのカップだの。 まるで分別されていない雑多としたゴミの中、無造作に頭半分を差し込まれて、それはあった。 

  ベンジャミンの葉陰、姿勢の良い水色のユニフォームの背中。 そのすぐ横に並ぶ小柄なシルエット。
   ――好きです 本気です 私じゃ駄目ですか?――   
  必死に言葉を紡いだピンクの小さな唇。 金茶に光った長い髪。 優しい声。 
  答える耳障りの良い響き。     ――ごめんね、ありがとう――


  箱は、最初から袋に詰めたのではなく、後からそこに差し込まれたように見えた。

  ―― 覚悟も無いのに、欲張り過ぎた罰ですよ。

  罰か?  これは、安藤、おまえが下した罰なのか?


  逃げるように、その場を後にした。 
  小走りで工務店の前まで戻り、追い立てられる様にキーを回し車を走らせる。 坂を下りきった踏み切りで、そっと苦い深い溜息を吐いた。 

  本日三度目の高速に乗ったところで、安藤のCDをカーオーディオに差し込んだ。 チリチリしたノイズが自分自身の様に思える。 今現在、焦燥感で胸苦しさを覚える自分自身のようだった。 

  華やいだ男の声、歓声、拍手、タイトルコールとサックスソロ。

  知りたかったのはこれか? 俺は、これを知りたかったのか? 

  目の当たりにした安藤の闇は、想像以上に生々しく陰惨な匂いがした。 
  それは知らず周りを巻き込み、絡め取り、気付けば後戻りの出来ない最下層、冷えた汚泥の中に容赦なく突き墜とすのだろう。 

  そんなトラップを、わざわざ暴いて始動させたのは誰だ? わざわざ隠してあったものを、わざわざ引き摺り出したのは誰だ? 
  知らなければ、それまでだったのに。 知ろうとしなければ、決して見つからなかったのに。

  だけど後悔と同じくらい、後ろ暗い喜びを覚える自分がいる。 


   ―――  どうせ、関係の無い事だから


  「どうせ」 と言われ、 「関係の無い事」 の中にカテゴライズされる自分を想像した。 
  雑多としたゴミ溜めの中、無造作に遺棄される自分を想像した。 その時、自分はどんな罪を犯したのだろうか?


  途切れる事の無い、官能的なサックスの音色。 知らずボリュームを上げ、溺れる様に浸る芳醇な音の中。 
  その時、美咲の事など欠片も思ってはいなかった。


  そんなちっぽけな事、思い出しもしなかった。








  5/29/2008







                                 
** 冷たい舌   7 **        8. へ続く