** 冷たい舌 ** 



                           * * 5 **


           
                 「知らない」 と 「知る事が出来ない」 とは違う。


                 「知る」 と 「知らされた」 が全く違うのと同じように。

                 前者はそこに在り、後者はそこに在り得ないのだから。


                 ならば何故、見せる?





                            **


      つるむメンバーが三人から四人になり、増えた1人は安藤だった。 


 あの時、 「予定が合えば」 と安藤は言い、翌日 「予定を合わせた」 自分は喫煙室に向かった。 リハ室の昼休みは前半・後半に分けて一時間ずつとられている。 各自の業務予定により、OT・PT各チームリーダーが采配するのが通常だが、希望があれば申告することも可能だった。 その日の自分は、前半 11時半からの休憩を得る為、わざわざ午後一13時からのプログラムを引き受け、安藤と過ごす時間を作った。 あたりまえの様に、そうした。 

 チームリーダーが他のスタッフに確認しながら、タイムスケジュールの前半休憩欄に名前を書き込むのを眺める。 掠めるような視界の端、半分開かれたパーテーションの向こう側、ミーティング中のPTら数人の中に安藤の姿を認め、俄かに高揚する自分を感じた。 不可解で力強い衝動が自分を動かしている。 


 やがて時間になり向かった先、喫煙所のL字の奥、膝に弁当の箱を乗せ行儀の良い子供の様な箸使いをして、安藤は薄っぺらな鮭をほぐしていた。 見目の良い職員が、昼食をとっている―――  珍しくもない日常だった。 けれどそこに自分が向かう事、それにより日常は非日常へと変わる。 日常から外れる事はそれほど困難ではない。 人は大抵それを意識せずに行う。 その非日常性に気付き、自覚して、初めて人は自らの逸脱に躊躇い戸惑う。 

 寛ぐ安藤の横に並ぶ自分は日常ではないだろう。 しかし、自分はその非日常を求めてここに居る。 だがここに来て、いざ安藤の姿を認め、そこで初めて自分の行動に躊躇が生まれた。 殆んど接点のなかった二人が、男同士が、わざわざ待ち合わせまでして という、今更のような気恥ずかしい事実。 しかもそれを優先順位の先頭に持って来る、自分自身への戸惑い。 掛ける言葉もタイミングも逸し、たった数メートルの廊下ををのろのろと歩く。 馬鹿げている。 こんな馬鹿げた葛藤を抱えた自分にも気付かず、暢気に弁当を食べる安藤への理不尽な苛立ちさえ覚える。 

 が、廊下中ほどで安藤はこちらに顔を向け、持ち上げた箸をそのままに片笑窪を浮かべた。 一瞬浮かんだ安堵の色から、小さな逸脱を自覚していたのだろう安藤自身の心中を察する。 なんだあいつもか と、力が抜けた。 軽い会釈でそれに答え、黙って隣に座った。 隣に座り、無言で弁当のラップを剥す。 パンと箸を割り、萎びた金平を摘まむ。 機械的に咀嚼する。 自分も安藤も黙っている。 何故か目も合わせない。 二人、無言で弁当を食う。 改めて湧き上が微妙な緊張感に、さてどうしたものかと戸惑う。 だが、切り出し方がわからない。

 暫くして安藤が 


 「これって、待ち合わせですよね?」 


 ぽつりと言った。 照れたような困惑したような口調で、視線を弁当に向けたまま言った。 

 あぁ確かに、これは待ち合わせだ。 大の男が放課後の約束をした小学生のように待ち合わせて、弁当を食べている。 しかも二人は、友達という関係でもない。 まだ違うのだ。 まだ、なのに一体、何をやってるんだろう? 


 「・・・・どうかしてるな」


 思わず呟きが洩れた。 全くどうかしている。 誘った安藤もどうかと思うが、乗った自分は更にどうかしていると思う。 その上いざ顔を合わせれば所在が無くなり、二人並んで黙々と弁当を食べているのだから、どうかしているにも程がある。 


 「ホントに、どうかしてますよね…」


 眉をハの字に下げ、安藤が 『らしくない』 苦笑を浮かべた。 ちらりとこちらを伺う目元が 参ったなぁ とでも言うように柔らかく緩む。 自分で誘っといて困るなよ と、何だか可笑しくなり、


 「せっかくだから、あらためて自己紹介からしとくか?」


 そう提案する自分は、どれだけ楽しげな顔をしていたか。 

 内側の温度が上がっていた。 わくわくするような、高揚を感じていた。 


 そうして、二人で話した。 改めて名前を名乗り合い、生年月日、血液型、趣味の事、興味を持っている事、職場での出来事、子供時代の思い出・・・クラス変え初日の学生のように、並んで弁当を喰い、合間に煙草を吸い、ポツリポツリと他愛のない話を交わす。 全部、どうでも良い話しだった。 意味も目的も持たない、話す事そのものを愉しむ為の会話を、安藤と交わす。 

 一般に聞き上手話し上手という言葉があるが、さしずめ安藤は話させ上手だった。 僅かに眼を見開き、興味深げに楽しげに相槌を打ち、微妙なニュアンスを正確に拾い上げて巧みに会話を広げてゆく。 警戒心などすぐに捨てていた。 言葉が詰まればそれとなく、滑らかな 『繋ぎ』 が入った。 一つの話題が終る間際にはちゃんと、次への布石がされている。 おかげで滅多無いくらいに、自分は饒舌だった。 そして上機嫌だった。 自分と安藤は気が合うとすら感じていた。 安藤との距離が、縮まった感じがした。 急速に近くなったと思えた。 なにより普段の出来過ぎた安藤ではなく、血肉の通った生身の安藤をそこに感じる事が出来た。 

 けれど、ふと、思う。
 そうじゃない。 なにかが、違う。

 具体的にどうとは言い難い曖昧な欠片ではあったが、出来の良い端正な安藤を見ていると感じるチリチリした苛立ち。

 そんなのじゃない、見たいのはそんなおまえではない。

 たとえば子供じみていて、不安げで、時に酷く冷淡で空虚な表情を見せる安藤。 そんなのを見てしまうと、ざわめくものを感じる。 さながら美しい硝子の内側に走る、蜘蛛の糸よりも細い幾筋もの亀裂。 ふとした一瞬に現れ、水面の波紋のように消える刹那の歪み。 それらは平素の端正さを裏切る鮮烈な残像を残し、興味と呼ぶには深過ぎる衝動を生む。 つまり、魅せられていた。 歪で綺麗な安藤という存在に、自分は魅入られていた。



 そんな安藤の卒のなさ、親和性の高さは、金森・青田らに対しても同じだった。 岩の隙間を流れる水のように、するりと安藤は内側の近い位置に入り込んでいった。 

 連れ立って休憩から戻った自分に、一瞬ギョッとした顔をしてみせた青田と金森だったが、けれど安藤は、 喫煙所で一緒になったんですよ と屈託なく話し始め、他愛の無い雑談から、気付けば皆で飲みに行く約束を取り付けていた。 ものの数分の立ち話で、だ。 そうして話の最後 『予定大丈夫ですか?』 と、すっかり部外者の顔をしていたこちらに最終確認を振った。 そう簡単に決定権を振られても困る。 期待に目を光らせた二人分の視線を受けているのだから、頷く他あるまい。 

 当初戸惑いを見せていた二人だったが、呆気ないほど早くガードは解かれた。 そして安藤は、四人目になった。 いとも容易く、四人目のポジションに身を置いた。 以来四人で、何かというとつるむ。 


 とはいえ安藤一人が増えても、別段自分たちの行動は変わらなかった。 擦れ違いざまに軽く小突きあったり、一緒に昼飯を食べたり煙草を吸ったり。 勤務が終われば町に繰り出し、行きつけの店に足を運んでは腹を満たしたり、職場の愚痴を肴に酒を酌み交わしたり。 全部、今まで通りだった。 寧ろ変わらな過ぎた。 

 それはそれで異常だったのだろう。 今なら、そう思える。 人が人と出逢うなら、拘わるなら、良きにしろ悪しきにしろ何らかの摩擦が生じて然るべきなのだ。 個がぶつかると云うのは、極自然な事なのだから、ぶつからないとしたらそれは、故意だろう。 故意に、意図して、どちらかが巧みに避けているのだから。

 安藤は巧みだった。 擦り抜ける術に長けていた。 


 金森が青田をからかい、そこにしばしば安藤も加わる。 いつも通り。 金森のくだらない話にうんざりして見せる自分に、青田と安藤が貶しか誉めかわからぬような声掛けをする。 いつも通り。 違和感など一つもなかった。 変わらず鮮やかな笑みを浮かべ、安藤はそこに溶け込んでいた。 最初から居た付き合いの長い友達のように、安藤はその位置に馴染んでいた。 そしてさらりと相手のガードを外した。 いや、外させたのだ。 それと気付かぬ内にガードを外させ、心の深い隙間に入り込む。 警戒を解いた金森と青田にとって、安藤は既に親友の域だったのかも知れない。 

  それだからこそ随分色々を、安藤は手に入れた。 幾ら人見知りが少ない金森・青田といえども普通、面識のない人間には表向きの建前しか話さないだろう。 けれど二人とも、知り合って間もない安藤に本音を語っていた。 意を決してというのでなく、極自然に自ら話していたように思う。 そのくらい巧みに滑らかに、安藤は話題を引き出していった。 だが安藤自身は、巧みに滑らかに、話題を厳選していた。 無論、それと気付かせない巧みさをもってだ。 豊富な話題を持つ安藤だったが、決して触れさせない幾つかには掠らせもしなかった。 踏み込み、触れる事を許さなかった。



                            
                            * *



 「じゃー選手はマジに、選手だったの?」

 割り箸で焼酎の梅をほぐす金森が、隣りの安藤を顎でしゃくる。


 「うーん、選手は選手なんですけど、頭数揃えるのにもれなく選手っていうのか……何しろ初戦敗退の常連だから、」

 「ンだ、名ばかり選手か?」

 「うわ、金森さん失礼ですよぉー」

 「いや、でもホントの事なんです。」


 つまらなそうに口を尖らす金森を、青田が窘めつつ安藤を伺う。 当の安藤はニコニコと、揚げたての手長海老にレモンを絞った。 


 19時過ぎ、寂れた商店街の中程にある店は、呑んで食べたい客で溢れていた。 職場から私鉄の各駅停車で二駅。 急行の停まる隣駅周辺と比べ、ここでは滅多に同じ職場の人間に会わない。 愚痴や噂を気兼ねなく話すには、もってこいの環境だった。 入社以来自分たちは、そうした 『もってこい』 の幾つかを見つけては気分で選び、仕事帰りの溜まり場にしていた。 つるむメンバーは三人から四人になったが、変わらず自分たちは溜まり場を周り続けていた。 

 今回ここに来たのは、日本酒のメニューが多さからだ。 勤務終了後の休憩室、 「酒なら日本酒が好きだ」 と安藤が言い、よし来たとばかり金森が発起人になり、すかさず青田が乗った。 それじゃしっかり飲みましょう と、安藤ははしゃいだ声を上げ、こちらに視線を流すと 「明日が休みで良かった」 と片笑窪を浮かべた。 ならば決定なのだろう。 

 金森が一度車を置きに帰り、駅で待ち合わせて出発した。 ベージュのトレンチを手に駅の階段を駆け上ってきた安藤は、 出掛け宅配便が来ちゃってすみません と薄い手の甲で額の汗を拭った。 すかさず金森が 俺を七分も待たせたな! と ふんぞり返り、金森さんだって今さっきでしょうに・・・ と青田が告げ口をする。 じゃぁおあいこですねと笑う安藤は、切符どこまででしたっけ? と券売機を指差して見せる。 駅のやけに白っぽい蛍光灯の下、黒のVネックから伸びる安藤の首は更に白い。 280円だよと伝えると、お使いを頼まれた子供の様に嬉しそうな顔をした。

 仲の良い社会人四人。
 あの時の自分たちは、どこから見てもそんな四人組だったと思う。



 「それで安藤さん、剣道はずっと続けてたんですか?」

 店員から受取った二合徳利を 熱いですよ と、安藤に手渡しながら青田が問う。


 「あぁいえ、中二の真ん中で止めたんです。 俺、転校したから。」

 「え、どっからどこよ? っていうか選手ぅ、こっちの人じゃなかったんだ?」


 相変わらず金森の喰い付きは早い。


 「違いますよ、千葉から青森です。 純朴な田舎育ちですって。 中二の途中、家の都合で弘前へ移ったんです。 転校先にも剣道部はあったんですけど廃部すれすれで、二年も二人とかで・・・・。 どうしようか迷ってたら、生物部にしておけって担任が、」

 「つーか、何で生物なんだよ…・・・ 」

 「生物部も廃部すれすれで、顧問が担任だったんです。」

 「あーーーありがちーーー」


 途切れぬ安藤と金森の会話を、ぼんやりと聞いていた。 青田の合いの手が減ったと横を見ると、冷酒を舐める様に啜りながら上体は傾ぎ、既に相当回っている様子だった。 これを帰りに担ぐのかと思うと、少しうんざりした。 けれど、この空間は心地良い。 心地良い脱力に身を任せ、金森と安藤の話を聞いていた。 充分興味のある話題だった。 これまで話題に出なかった安藤の過去。

 安藤は中二の中頃、千葉から青森に移ったという。 綺麗な標準語を話す安藤が東北出身だというのには驚いたが、中二の転校なら言葉もそのままだったのだろうと納得した。 色の白さはいかにも北の人間らしいが、どうやらそれは地らしい。 転校して剣道をやめ、生物部に移った安藤。 それは残念だと思った。 胴着に袴の安藤は、さぞ似合っていただろう。 凛々しく張り詰めた表情で、流れるように竹刀を振るう端正な姿。


 「でー、生物部って何やんの?」

 「コケの観察したり、カエル繁殖させたり、解剖したり…」

 「・・・・増やしてバラすのか…」

 「人聞き悪いですよ…厭ですね…」

 「・・・あああ・・・なんか想像した・・・ 酒が不味くなった気がする・・・ 」


 金森が眉間に皺を寄せた。 安藤は相変わらずニコニコとしている。 確かに生物部の安藤というのはしっくりこない。 けれど、カエルにメスを入れる安藤は、あの白い手が、指が、小さな生き物の命を奪い、眇めた瞳で冷ややかに観察するという姿は、厭になるほど似合った。 そんな時も安藤は片笑窪を浮かべるのだろうか? 場違いなほど鮮やかに、一つの死を前にしても笑うのだろうか。


 「中二かぁ・・・安藤さんって、千葉に彼女いなかったんですかぁ?」

 呆けてた筈の青田が、間延びした声で会話に入る。


 「んだなー、どうよ安藤選手〜、剣道部の女マネとデキてて涙の遠恋突入とかってねぇの?」

 やはり金森は喰い付く。


 「いませんよ、」

 即答だった。


 「嘘だろぉ、隠すなよう…」

 金森の絡みが始まる。


 「いやホントにね、背も小さかったしモテなかったんですよ。 それに、剣道部のマネージャーは男です。」

 「だめじゃん・・・」

 「ちなみに生物部も男子しかいません」

 「使えねぇな…」


 興味を失った金森に、安藤が苦笑して言う。


 「だから、たいして目立たない生徒だったんですよ。 背が伸びたのは高校入ってからだし、しかも高校は男子校だから地味な青春ですって、」


 笑う安藤が、海老を摘まんだ指をお絞りで拭った。 


 「アッ…じゃ、じゃ、ラブラブの彼女とはどこで知り合ったんですか?」


 身を乗り出すようにして、青田が安藤を覗き込む。 

 安藤に彼女がいるのは有名だった。 本人が口にしたせいもあるが、それは噂という形で広がり、その実、実際にその彼女がどんな人物か聞いた者は少ない。 そういえば自分たちの間でも、その話題はあまり掘り下げた事がなかった。 居るのは聞いた。 たまに会っているのも聞いた。 だがそれだけだった。 隠されたとは思えないが、しかし、上手くかわされてそのままになった。 改めて聞き返すほどの事でもなく、また、あえて踏み込むのも躊躇われた。 

 尤も躊躇うような流れに仕向けたのは、恐らく安藤自身だったのだろうけれど、それがここに来て、酔った勢いの青田らが、酔っ払い特有の空気の読めなさで容赦なく踏み込んで見せる。 これは見ものだと思った。

 目を輝かした金森が安藤の一挙一動に注目する。 
 青い切子のグラスを手にして、安藤が唇を湿らす。


 「・・・ 知り合ったって言うなら中学の時、転校してからですね。 親が知り合いで、最初はただの顔見知りだったんですけど、なんとなく付き合い始めた感じですよ。 今じゃもう、腐れ縁ですかね。 」


 話し終えて微笑むのは、ここに居ない彼女への愛情のようにも見えた。 

 滑らかに答える安藤に、あらやむらは無い。 
 けれど、違う。 そんなじゃないだろう? 
 そんな安藤の答えに、得体の知れない齟齬を感じる。 


 「クラスが同じだったとか!」


 青田の投げた質問に口を開いた安藤だが、何故か言葉を発せず変わりに鮮やかな笑みを浮かべた。 御馳走様と言いたくなるような微笑。 けれど、どこかで警告を発するように思える笑み。


 「だぁぁークソ、幸せって奴か? つまりアレか、親公認か? そしてモテる野郎は彼女一筋ってわけか?」

 短気を起こした金森が、後ろ向きに座敷に転がった。


 「だぁから金森さぁん、あちこち目移りしてちゃモテないってことですよ、」

 「目移りしねぇ癖にモテやがってなんだよッ! 意味ねぇよ! 」

 「もー金森さん、そこは、誉めるところなんですよう」


 テーブル越しに遣り合う二人を、苦笑する安藤は見ている。 気心の知れぬ仲間との語らい、交流、ほのぼのした風景だった。 唇の端に笑みを浮かべ、じゃれ合う二人を見ている安藤。 が、その安藤の表情が、すっと刷毛で掃ったように消えた。 感情を映さないガラス玉のような目。 ただ見ている、観察者の目。 そこらの石だか虫だかを見る目で、安藤は二人を見ている。 今しがた鮮やかな笑顔を振舞った 「友達」 を、仮面のような無表情で安藤が見ている。

 けれどそれは、僅か数秒の事だった。 笑みは唐突に戻り、危い位置にあった金森のグラスを安藤はテーブルの奥にずらす。 淡い笑みのまま、こちらに顔を向け、


 「一筋って言えば、桧山さんも彼女とは長いですよね?」


 何気ない話の 振り だった。 黙り込んでいる自分への、自然な声掛けだった。 けれど、見透かす瞳に他意を感じた。 まるで試されているような。 根拠は無いが、挑発だと感じた。 涼しい微笑を浮かべる安藤を真正面から見つめる。 勘付いたのか? 追い詰められる様を静観していた事に、後ろ暗い愉悦を感じて眺めていた事に。 多分、安藤は勘付いていたのだ。 そして、これがお返しという訳か? こちらに話を振って、逃げようと思ったのか? 今度は自分が観察する側にまわるというのか?  

 冗談じゃない。

 まるで駆け引きじゃないか。 肉を切り骨を断つような、互いが痛みを伴うようなぎりぎりの駆け引きが、確かに、今、二人の間にはあった。


 「・・・・・・ 長いは長いな。 でもこっちは高校からだから、長さで言ったらおまえのが長いだろ?」

 「でもないですよ、俺も付き合い始めたのは高三だから、」

 「高校は男子校だろ? 彼女は幼馴染か何かか? 」


 意趣返しの悪意で話題を蒸し返した。

 件の彼女と知り合ったのは引越した後だと安藤は言った。 転校して・・ではない。 安藤は笑っただけだ。 答えなかった。 つまり答えたくないのだ。 そもそも同じ学校でというのでもなく、安藤はわざわざ親の知り合いでと言った。 親同士の付き合いがあり、違う高校に行っても交流が途絶えず、やがて付き合うと云うのならば 『彼女』 と安藤はどんな付き合いをしていたのか? どこで親密さを育んできたのか? 下世話な興味だとわかっていても、引く気持ちにはなれなかった。 自分は騙されないぞという、可笑しな競争意識もあった。 或いはそう、散した布石を横目で仄めかすような安藤の言動に、いっそ挑発されてやれという気持ちがあったかも知れない。 挑発じみた駆け引きに、に応じる自分が正しいのかどうかはわからない。 けれど、受けた。 ならば崩してやりたい。 

 おまえの地雷は、そこか? 
 おまえが俺に、知らせたんじゃないか?

 崩れる安藤が見たかった。 
 見惚れるような笑顔を滅茶苦茶にしたい、流れる台詞を哀願に変えたい、凶暴な何かが噴出しそうだった。 

 けれどその安藤は、落ち着き払った表情でこちらを見つめていた。 静かで底の見えない穏やかな湖面の様な安藤との対峙に、不可解な焦燥が生まれる。 罠ではないかと。 いや馬鹿馬鹿しい、引き摺られている訳ではない。 違う。 巻き込まれる前に、その前に、引き摺り落とせ、引き摺り落としてしまえ。 けれど連呼する声に駆り立てられるのは快感だった。 そんな危い渦中に自分たちは居た。

 だが、もう一言を捜す自分よりも先に、意外なところからリーチが掛かかる。


 「わかった! もしかして御近所恋愛ですかぁ? それとも家族ぐるみのホームパーティーとか? わーそれって海外ドラマみたいですよォ〜」


 軟骨を摘まんでいた青田が、急にテンションを上げて身を乗り出す。 

 ここで安藤の白い頬がヒクリと強張った。 

 これか、と察した。 はしゃぐ青田は気付かない。 
 目の上にお絞りを乗せた金森は一時休戦中。 

 僅かに吊り上げた唇は笑みの形だが、細めた目は笑ってはいなかった。 瞳は眇められ転げた箸を拾いに俯く青田を掠めてから、もの言いたげにこちらを睨む。 悔しいか? 思わぬ伏兵に、足元を掬われたか? やはり地雷はすぐそこなのだ。 それを隠したいのか見つけて欲しいのか、踏ますまいとするのか、いっそ踏みしめて欲しいのか。 不可解で作為的な安藤が、果たして何を望んでいるのかはわからないが、今のはおまえの失策だ。 微かに強張る頬、白い指が数回小刻みに机の端をカウントし、思索逡巡する黒い深い目。 自分は熱心な観察者だった。 意地の悪い喜びに満ちた観察者だった。

 おまえのせいだぞ? 
 おまえがあんな風に笑うから、誤魔化すから、色の抜けた顔を見せるから、あんな薄情な顔で仲間を眺めるから。 
 だから目が離せなくなる。

 薄い唇が最初の一音を探し、小さく息を吸い込むのを見つめた。 
 得体の知れない興奮に、自分は笑っていたかも知れない。


 「つまりオマエらどっちも円満だってこったよ、無駄に春がなげぇんだよ、畜生! 謝れ! 駄目モトで告るしかない女どもにオマエら心から謝れ!」


 話は簡単に反れた。 
 酒宴の決着ならば、酔客がつけるのが道理らしい。

 いつの間に追加の焼酎ロックを飲み干した金森が、丸めたお絞りを安藤に投げる。
 飛んできたお絞りをキャッチする屈託の無い表情の安藤。 煙のように霧散した、数秒前の緊迫。 


 「あークソッ、長い春なんか手っ取り早く切り上げて、てめぇらサッサと籍でも入れちまえよ! ・・・・・・・ そんで俺呼んで。 俺、仲人ってやってみてぇよ、」


 自分のグラスが空なのに気付き、青田の徳利をおもむろに煽る金森。 慌てた青田が、金森から徳利を奪う。


 「だぁから、金森さん呑み過ぎですって、」

 「うるせぇ! お前に言われたかねぇよッ!」

 「おい、そんなんでこれから電車乗れるのか?」


 頭をぐらつかせている金森に声を掛ける。


 「帰るよ、帰れますよー・・・・・・ ッていうか一人で居たくないから選手ンち泊めてー・・・」


 ゴロリと座敷に転がった金森が割り箸で安藤の肘を突付く。 


 「構わないですけど、俺んちこん中で一番遠いですよ? 遅い時間だとバスないから、駅から30分ちょっと緩い上り坂を歩きますよ?」

 「無理」


 やんわり子供に言い聞かすような口調の安藤に、金森が即答をした。 確かに、安藤のアパートは駅の大分先だった。 とはいうものの、行った事はない。 大まかな場所だけを知っている。 


 「もー大丈夫ですかぁ? 金森さん回り早いですよー、笹本さんと何かあったんですかー?」

 「何もクソも何もねぇよ! 無さ過ぎるにも程があるんだよ!」


 さり気なくまたしても地雷を踏んだテーブル越しの青田に、再び金森が掴みかかる。


 「揺すってやるッ!!」

 「いやっ、吐きます、止めて下さいッ! ぅぅぅッ」


 悔しがり青田に八つ当たりする金森。 
 今夜は二人を引き摺るのかと溜息を吐くと、ゆっくり冷酒を含む安藤と目があった。 


 「呑んでますか?」

 「かなり呑んでるよ」


 かなり呑んでいる。 あまり酔いが表に出ない方だが、今日はいつもより飲んでいる自覚があった。 自分も浮かされているのだ。 何だかわからないものに浮かされ、落ち着かないのだ。 


 「おまえ、何であんな遠いアパートなの?」

 「知らなかったんですよ、不動産屋では駅から7分って聞いてたんです。 まさか、バスでだとは気付かなかったんです。」

 「じゃ、契約すんなよ」

 「ですけど、時間もあまりなかったし、」


 視線を斜めに反らし、安藤が微妙な戸惑いを見せる。


 「だぁよなぁ〜〜、選手何であんな半端な時期にウチ来たわけぇ? つーか中二の真ん中ってのも半端な転校だしィ、ナニ? 選手のパパ、転勤族?」


 割り込む金森はあれで人の話を聞いていたらしい。 しかも、かなりの際どいところに入った。 以前の職場の話も、家族の話も、安藤が普段話さない領域だった。 おのずと伺うような視線を送ってしまう。 


 「都立は三月末日退職予定だったんです。 あっちの人間関係も条件も良かったんですが、他科との連係が無い分閉鎖的で、若い内に一度は総合か大学で働いてみたかったんです。 どうせ挑戦するなら二十代の内かなってのもあって。 だけど向うも慢性人手不足で、募集掛けてから、引継ぎしてからってどんどん延びて、結局あんな時期になったんですよ。 あ、転校の方は親の仕事の都合ですよ。 ・・・・・・ まァ、確かに半端な時期でしたよね。 なにするにも中途半端な区切りだから、結構親に動かされちゃったかな。」


 穏やかな笑顔を浮かべ、淀みなく安藤は答える。 模範解答のようだった。 面白味の無い返事だが取りたてて過不足もない為、それ以上の興味も湧かなくなる安藤の返事だった。 ふぅん、とつまらなそうに金森が生返事をする。 


 「いいなぁ、俺、転校生って一度やってみたいんですよねぇ〜」


 うっとり言う青田に、俺も〜と金森が同意してグラスをカチンと合わせた。
 そして、食べたり呑んだり話したり。 



 それから店を出るまでの数時間、何事も無かった。 

 何事も無い事にするかのような、ゆるゆる流れる日常の続き。 そして寄り添うかのように見えて歯を剥き、手を差し伸べながら暗闇に引きずり込もうとする、不可解で見えない安藤の真意。 ぎりぎりの部分までは許すが、それ以上は踏み込ませなかった家族の事、彼女の事、以前の職場からこちらに移るまでの経緯 ―――つまり安藤のバックボーンたる部分。 どれも模範的な答えを安藤は用意していたが、生憎それらを鵜呑みにする浅はかさは持ち合わせていない。 全部がそうではないにせよ、そこにはかなりの部分、より本質に近い部分での虚偽が隠されているように思えた。 安藤の隠し持つ酷薄さ、空虚さ、滅多に面に出ない歪みの部分の多くは、恐らくそこに端を発するのだろう。

 だが誰も気付いてはいない。 疑う事すらない。 皆は綺麗な安藤の笑顔しか見ていない。 出来過ぎの安藤は笑顔で虚像の煙幕を張り、自らの欠落を巧妙に隠した。 木の葉を落ち葉の中に隠すように。 砂粒の中に塩を隠すように。 けれど、気付いてしまった。 自分は見てしまった。 綺麗に片笑窪を浮かべつつ、時に互いに刃を向けることすら厭わない、血肉の暖かさと微妙な歪みを持つ安藤。 フラットな感情の隙間に見え隠れする自嘲、陰影、揺らぎ。 見てしまった自分には、完璧すぎるそれこそがありえない違和感だった。 

 では、何故見せる?

 あれほど巧妙に隠していながら。 安藤自らが丹念に巧みに作り上げた 「安藤」 と云う作品の裏側を、脈絡のない場面で、子供が小石をばら撒くように見せつけるのは何故なのだろう?


 例えばそれはサインであり、警告であり、安藤は発していたのだ。 そしてこちらが気付き、受け止めた事をも察し、何らかのレスポンスを期待していたのかも知れない。 ならば自分は安藤に問うべきだったかも知れない。 あえてそのまま、そうあの時も自分は地雷を踏むべきだったのかも知れない。 いや踏まないにせよ、そこに何か埋まっているようだと 『本人にはわかっている事』 を言葉で、態度で安藤自身に知らせるべきだったのかも知れない。 その上で、安藤が新たに発する 「何か」 を受け止めるべきだったのかも知れない。 ちゃんと聞くべきだったのかも知れない。 

 そしてそのチャンスは、今日も山ほど在った。

 けれど全部 『かも知れない』 憶測でしかなかった。 宛て推量の話だ。 そして自分はといえば、そうしなかったのだ。 わかっていたが、踏み込まなかった。 


 安藤を知りたいという気持ちは依然、自分の内側の深い部分で燻っている。 それらはともすれば 「欲する」 と云う感情に摩り替わるほどの渇望だというのも、薄々自覚はあるつもりだ。 何が自分を駆り立てているのかわからない。 欲しがる自分が何を、具体的にどんな事を安藤に求めているのかも曖昧なままだ。 けれど、事実、そう思っている自分は意識している。 安藤の何に浮かされてしまうのかわからない。 わかりたくもない。 いやそもそも、そこはわかるべきじゃあないのだと、それだけは何故か確信している。 確信は接する機会を重ねるにつれ深まり、にも拘わらず、と騒ぐ己との間でしばしば葛藤を生んだ。 

 恐らく、自分が思う以上に深い。

 迂闊に踏み込み溺れるのは、賢いとは言えないのだ。 踏み込むべきではない。 踏み込む自分を躊躇した。 一歩踏み出した途端に、湧き上がるかも知れぬ何かを恐れた。 すべてがあからさまになった時、それ相応の変化が無い筈がない。 如何なる変容を遂げるのか、如何なる方向へ進むのか、自分自身を見届ける自信がなかった。 安藤を見届ける自信はもっとなかった。 予測不可能な変容を来すかも知れぬ安藤自身を、何よりも恐れた。 

 ならば別にこのままでも良いじゃないか。 このままでも困っていない。 寧ろ非常に居心地が良かった。 「快」 「不快」 で言えば紛れもなく 「快」 だ。 あえてそれを崩す事もあるまい。 それに、このままそのままならば、安藤はこの先も自分にだけ何かを発し続けるだろう。 何故、どうして、そんなのはわからないが、なんらかの理由で自分は選ばれたのだろう。 安藤に、選ばれたのだ。 

 揺さぶる者、揺さぶられる者 そんな呼び名が正しいかどうかはわからないが、選ばれたからには歪で危い生身の安藤を、ずっと見ていたいと思った。 いうなれば独占欲だ。 自分はそれを満たす事を優先した。 駆け引きは味わいたいが、けれどそれには乗らない。 ずるくても卑怯でも、ただ傍観していたい。 ここから動きたくはない。




 結局、店を出たのは0時近くだった。 人通りの少ない商店街を安藤と二人、それぞれに潰れた金森と青田を引き摺りノロノロと歩く。 どちらかといえば痩せ型の二人だが、酔い潰れた大人の男が軽い筈がない。 途中、歌を歌ったり、青田に膝蹴りしようとしたりする金森を窘めつつ引き摺る。 安藤は安藤で、しきりにしゃがみこむ青田を引き上げ、吐き気を訴えればビル影に引き摺り、うんざりする嘔吐の時間待ちを苦笑しつつこなした。

 やがて駅前のバスターミナルが見え、そこにタクシー乗り場を認めると二人ホッとして数秒足を休めた。 
 ふと顔を見合わせる安藤は、自分と同じく額に汗を浮かべていた。


 「酷い目にあったな、」

 「まァ、こういうのもありですよ・・・・」


 眉を下げ、息が抜けるような笑い声。 

 最終電車に間に合う時間だが、厄介なお荷物を抱え、ホームまでの長い階段を上がり降りする気力が自分にも安藤にもなかった。 あとでタクシー代は丸々請求してやろう と、安藤が青田・自分は金森を送りに、二台のタクシーに分乗する事にする。 5〜6人が待つ列に、それぞれ一人を引き摺って並んだ。 タクシーは順調に乗客を乗せて走った。 だが運悪く、二人ばかり前から急にタクシーが途切れた。 その為、先に来た一台を、より家が遠い安藤に譲る。 既に熟睡している金森は、乗り場のすぐにあるベンチに転がしておく。


 「・・・・ 桧山さん、彼女と最近会ってますか?」


 ぐんにゃりする青田を後部席に押し込めながら唐突に、安藤が言った。


 「・・・会ったよ。 こないだの土曜。 」

 「・・・そういう時はやっぱり、地元で会うんですか? ここからはそんなに近くないでしょう、」

 「電車で一時間半。 車なら40分。 」


 遠距離とも言えないが、近いとも言い難い美咲との距離。 けれど不満は無かった。 互いに仕事もある。 そうしょっちゅう、逢う訳でもない。 特に困る事も無いと思っていた。




 土曜、美咲と会ったのは久し振りだった。 久しく動かしてなかった車を走らせ実家に向かい、そのまま美咲を拾って海沿いの映画館に行き、ショッピングモールを歩いた。 そして食事。 そしてセックス。 それなりに楽しい1日だった。 

 だが別れ際、コンビ二の駐車場で美咲は 


 「ナオユキ入院していたの?」 

 と問うた。 膝に置いた鞄を抱き締めるようにして、


 「言ってくれれば良かったのに」 

 少し責める目で見つめた。 


 隠したつもりは無い、口止めしていたわけでもない。 言う必要が無かったから言わなかった。 何よりもう過ぎた事だ。 だがこうして蒸し返されると、こちらが悪い事をした気持ちになる。 美咲は昨日それを、たまたま近所のスーパーで会ったうちの母親に聞いたらしい。 急な入院で何かと出費がかさみ、渋々入院中に実家に連絡をしていた。 次の給料日まで待てない支払いを、立て替えて貰おうと思った。 だがまさか、それがこう繋がるとは思わなかった。 だが、今更の事だ。 

 じっと見つめる美咲に、改めて入院までの経緯をざっと話し、もうどこも悪くないからと話しを括った。 美咲は黙って聞いていた。 話し終えると俯いて黙り込んだ。 車の中で黙ったまま二人、両手で包んだ缶コーヒーが冷えてゆくのを感じた。 暫く二人で黙っていたが、埒があかないと、そのままエンジンを掛け、美咲の家まで走らせて門柱の近くで停めた。 だが、美咲は車からなかなか降りようとしなかった。 どうしたのかと尋ねようとしたその時、膝に乗せた鞄を掴み、美咲が助手席のドアを開ける。 身体半分降りたところで美咲は振り返り、 


 「会いたくなかったの?」 

 と言った。 

 向き合ったのは切羽詰ったような表情で、震える細い声だった。 


 「会いたかったよ」


 正直に答えた。 

 暫く会ってはいなかったが、会えば楽しいと思う。 いつも想い出して・・・とまではいかないが、全く忘れていた訳ではない。 一人、マンションでぼんやりしている時、ふと会いたいと思う事はたまにある。 だから嘘ではない。 自分は嘘を吐いてはいない。 

 けれど、美咲は薄く笑って踵を返した。 「また連絡するね・・・・」 小さな囁くような言葉を残して、絶望したような失ったような、救いの無い表情をしたまま、薄く笑って門柱の中に消えた。 酷く後味が悪かった。 自分が悪者になった気がした。 しかし、その見当がつかない。 なんだというのだろう。 何故美咲があんな顔をするのかわからなかった。 あれは自分のせいだというのだろうか? 責められているのだろうか? ならば、それは何故だ? 何故あんな顔をする?


 プワンと交差点でクラクションが鳴り、ぼんやりしていた事に気付いた。 


 「桧山さん、デートでどんなところ行きますか?」

 「どんなって、この間は映画行って、買い物付き合って、食事して・・・・・・普通だろ? 」


 押し込める青田の靴が脱げ、車外に転がる。 ひょろ長い身体を中腰で支える安藤に代わり、車体の下に身を屈め、妙に綺麗に履いているナイキを拾った。


 「今後の参考までに、」

 「参考になんかなるか? 俺は地元から殆んど出ないし、この間まで東京に居たおまえの方が、その手の場所は詳しいだろ?」


 おかしな遣り取りだと思った。 この場にそぐうようでまるでそぐわない、腹の内を探るような遣り取りだと思った。 座席で海老のように丸まる青田を抱え込み、自分も乗り込んだ安藤は真っ直ぐ視線を外さない。 続きを促す目。 探るような目。 探り、暴き、訴え掛ける挑戦的な目。 あぁさっきも見たなと店でのそれを思い出す。 けれど、それを持ち出してどうこうする気はない。 


  「お客さん・・・ 寝てる人、足挟まないようにもうちょっと縮めて下さいよ」  焦れた運転手が後部を振り返り、弛緩し切った青田の胴中を安藤が引き寄せる。 上体がずり上がった拍子に、ドアの外に片足が飛び出した。 座席からずり落ちそうな青田を安藤が抱える。 止む無く自分が足首を掴み、膝を折り曲げて中に押し込んだ。 折り曲げついでに捲くれたシャツを直し、座席下に落ちた鞄を腕組みさせるように抱えさせる。 ジャケットのポケットから半分飛び出した携帯を、胸に抱えさせた鞄の外ポケットに突っ込んだ。


 「桧山さん・・・意外に面倒見良いですよね、」

 「普通だろ」

 「・・・・・・噂通り、彼女には優しいんですか?」

 「それはおまえの話だろ?」

 「俺が?」


 鸚鵡返しの唇。 笑ってはいない微笑。 こう云うのはわかる。 見覚えがある。 美咲だ。 美咲がたまに浮かべる不可解な笑みだ。 疲れたような自嘲するようなすっきりしない笑み。 美咲も安藤も、兆候ばかりをばら撒き、気付かぬからと無言で責める。 何を内包しているのか何を知らせようとしているのか、殊更わかりにくいアプローチは歯痒くて苛つく。 考えてもわからないのだから、全部流すようにした。 気付かなかった事、無かった事にして、まっさらな次へと進んだ。 美咲にならそうした。 してきた。 けれど安藤に対しては、そこで、もう一歩進もうとする自分がいる。 苛つきながらも、流す事が出来ない。 興味に負けるのだ。 傍観しきれずに本能が欲するのだ。


 「そう、おまえの彼女の話し」

 おまえの話しだよ、おまえが自分の話を俺にするんだよ。 
 ほんの少しの闘争心と興奮。 

 その時、後部席の青田がウゥウと声を上げて身を竦める。  「吐かせないでくださいよ、土曜の晩なんかに吐かれるとコッチは堪んないですよ!」   と、運転手が半泣きに叫ぶ。 

 不意にUターン目的か、軽トラックがターミナルを走り抜ける。 風圧が瞼を掠める。 ヘッドライトの閃光が車内の安藤を一瞬だけ照らす。 ガラス玉みたいな目。 浴びた光りに膨らんだ瞳孔が猫のように細くなる。


 「・・・普通ですよ。 桧山さんと同じくらい、普通です。 」


 バタンと勢い良く閉まったドア。 青田に押し潰されるような安藤が、 月曜にまた とひらひら片手を振った。 タクシーは深夜のターミナルを半周回って走り去る。 ベンチの金森が 「ここどこぉ?」 寝惚けた声を上げた。 二台目はまだ来ない。 思い出すのは最後に見た、ガラス玉のような安藤の目。 何も移さない無機質な目。 

 逃げやがって、と思った。 わざわざ去り際にあんな顔をして、逃げを打つ前提で言葉を置き土産にして。 ずるい男だと思った。 ずるさを身につけるほどに安藤は、やはり何か重いものを内包しているのだと思った。 けれどこうして喧騒を離れてみれば、それを暴きたい気持ちは次第に曖昧になった。

 あの張り詰めた空気に少しだけ未練はあるが、けれど薄っすら酔いが醒めた分、取戻したいと思う理由も目的も無い。 たとえ理由があっても、そこに自分は踏み込むのか? 例えばさっきの話が途切れなかったとして、安藤が地雷をココだと示したとして、いざその場で自分はそれを踏むか? 踏んでも、その先の安藤を見ていられるか、見てどうするのか、知ってどうするのか?

 どうもこうもない。 やはり、そこまで入り込みたくは無い。 そこまで奥に進み、戻れなくなるのは御免だ。 その先にあるべく安藤の姿に興味はあるが、それ以上の恐れが自分にはあるのだ。 

 恐れ。 今が崩れる恐れ。 今の自分が平静で居られなく恐れ。 

 そこまでリスクを犯す意義が、あと一歩のところで見出せないでいた。 いや、見ないで済むなら見たくないと思った。 見たくない。 このままで良い。 現に、何も困っていなかった。 何も、問題はなかった。 ただ、心地良かった。 それが続けばよいと思った。 たとえ嘘でも欺瞞でも続いてしまったのなら、もう別にどうでも良いと思った。 



   知りたくない事を知らされるのは厄介だと思った。
   そこに巻き込まれ、尚且つ立っていられる自信が無い。
   何か切っ掛けでもない限り。 掛け金を外す弾みがない限り。



   その勢いが、自分にはない。












                                 
** 冷たい舌   5. **        6. へ続く