** 冷たい舌 **
* * 4 **
噂を確かめたかったんです ――― と、おまえは言ったが 奇遇だな。
自分もそう思っていた。
「知りたい」 という気持ちを、「欲する」 に置き換えてみる。
厭になるほどしっくり嵌った。
**
その日、OT室は大荒れだった。
通常、室内では常時3〜4人の患者が作業を行う。 それに対し、何らかの事情でスタッフの数が少ない時の例外を除き、患者にはマンツーマンでOTがついた。 自動・他動の運動介助を主とするPTと異なり、直接患者に手を下す事の少ないOTではあるが、その分相手の心理を読み、ともすれば投げ遣りに減ってゆくモチベーションを高め、支援してゆく上でも、 『見守る』 『支える』 姿勢として一対一が好ましい。
その日の午前中、作業室は三人の患者それぞれにOTが付き作業を進めていた。 1人は痴呆の疑いのある女性で、おはじきを並べる簡単なゲームをしていた。 もう一組は火傷の小学生で、切り離し後の不自由な指で紙粘土と格闘中だった。 そして、自分が受け持つバイク事故の18歳。
高三だという少年は友達のバイクの後ろに乗り、カーブで振り落とされ、後方からの車数台に跳ねられ、引き摺られ、右肘から下と左下肢を失った。 幸い右下肢の機能の殆んどは損なわれずに残ったが、捩じれて折れた左手には軽い指先の麻痺が残った。 こうした突然の不幸を、欠損の事実を、本人が受け入れるのは難しい。 失った機能の事、残された機能とそれらの回復に必要な長期リハビリ計画について。
だが受傷直後から繰り返された話し合いは、直ちに暗礁に乗り上げ難航した。 少年は一切を受け入れなかった。 取り決めは瞬く間に反故にされ、些細な事で少年は激高した。 興奮し、暴れ、怒鳴り散らす少年をその都度宥めて、その都度仕切りなおし、また振り出しに戻された。 実際、少年がここ、リハビリ室に通うようになってからまだ三ヶ月くらいしか経っていない。 全く容易ではなかった。 こうした容易でない遣り取りを根気強く行ったのは、例の突然退職になったPT森だった。
森は、受傷直後から少年と関わって来た。 森は無口で、どちらかというと目立たない男だったが、穏やかにひたすら受け止める姿勢を保つ事の出来るアプローチは、PTとして高く評価されていたと思う。 そんな森だから、ここまで漕ぎつけたのだろう。 森は少年にリハビリを促し、週に数回のOT及びPTプログラム導入を同意させた。 森と少年の間には、確かに信頼関係が築かれつつあった。 だが中途でそれが途切れ、ひょいと現れたような自分との間には、まだまだ警戒心の方が多く現れていた。 森は病棟を去る前、少年宛に長い手紙を残していった。 森が何を伝えたかはわからないが、森の居なくなった後もリハを続けるそれが、少年の答えなのだと思う。 しかし、納得した訳でもなかった。
現に作業する少年は、不本意だという表情を隠そうとはしなかった。
「なぁ・・・・・」
まどろこしい指で和紙を千切る少年が、画用紙の余白を睨みながら言う。
「なぁ、あんたさ、あんた女とかかなりモテねぇ?」
「・・・さぁ、どうだろうな」
少年の前の小皿にヘラで糊を継ぎ足す。
「嘘付けよ・・・・。 つーかあんた、これさ、こんなん馬鹿みてぇとかおもわね? こんなさ、イイトシしてさ・・・・しんじらんね、こんな指、糊ベタベタにして、ガキじゃねぇっての・・・・」
突き出された少年の指を濡れたお絞りで拭う。 少年が手掛けていたのは大きなひまわりのちぎり絵だった。 黄色の濃淡で花弁が四分の一ほど貼られていたが、麻痺の残る指で半月以上掛けたものだった。
「 ッたく千切り絵なんてよ・・・・・ ババァのおけいこじゃねぇっての・・・・・ なぁ、あんたさ・・・・ あんた、自分じゃこういうのヤンねぇだろ?」
「やるよ。」
「嘘くせ、マジやんのかよ、」
「千切り絵もやるし、木工、水彩、ここには窯がないけど陶芸・・・・最近だとミサンガを編んだり、ビーズもたまにやる。」
「・・・似合わねぇ・・・」
「まぁな ・・・・・・そこ、黄色足すか?」
学生時代はもっと色々やった。 ボールペン組み立ての流れ作業を手伝ったり、養護施設では子供雑誌の付録詰めもやった。 仕事柄、用いる手段は多い方が良い。 しかし、どれも目的を持たなければ、馬鹿馬鹿しいという気持ちになるのは事実だ。 所謂労働の中に入る作業などまだ良い方だ。 特老の実習でお年寄りたちと指編みをしたときは、さすがに我ながら微妙な気持ちになった。 実習だと思うからこそ出来た。
要は、その自分を受け入れ、そうすべき状況に染まる事だと思う。 確かに、身体の大きな自分と、金髪鼻ピアスの彼が向き合いヒマワリの絵を貼り付けている姿は、状況を考慮しなければ普通に滑稽だった。 本人が受け入れるのは容易ではないだろう。 彼も、それが必要な自分と、客観的に見たこの状況とに葛藤しているのだろう。 というような、理解は出来る。
だが、結局のところ自業自得なのだ。 勝手に危険な状況に身を置いて、勝手に大怪我をした少年の愚かさゆえの結果なのだ。 受け入れるも受け入れないも、本音はどうでも良いと思っている。 だが、それが仕事だから、説得する。 それが仕事だから、こうして馬鹿馬鹿しいと思いつつも必要な事をする。 仕事の相手は選べない。 森はよくやったなと思う。 自分なら、どこまで向き合えただろう? 遣るだけは遣るだろうが、せいぜい癇癪を起こして斬り捨ててくれ、気に入らないなら余所へ行ってくれと、そんな風に思いながら向き合う自分がすんなり想像できた。
黄色い頭の男が黄色い紙を千切るのを、まさに愚かな結果だと眺めた。 面倒な仕事に就いたと思った。
それでも作業は淡々と続いた。 少年はなんだかんだとぼやき続けていていたが、まぁまぁ穏やかだったといえた。 が、思わぬ方向へ事態は進む。
紙粘土と格闘する小学生が、覚えたての口笛を披露しはじめた。 単身赴任中の父親が、一時帰宅として戻り、数ヶ月ぶりに面会に来たのだという。 少年は父親に口笛を教わった。 部屋で吹いて同室者に怒られ、プレイルームで特訓した成果は、アニメの主題歌をワンフレーズ吹くものだった。 だが誰もが知っているそのメロディは最後の微妙なところで終わり、また最初に戻った。 そして幾度も繰り返された。 さながら、壊れた音痴のレコードのようだった。
調子外れに繰り返す小学生に、担当のOTが止めるように注意する。 一時止む。 が、また幾らもしない内に吹く。 また注意される。 止む。 また吹く。 ここで、少し離れたテーブルで作業していた痴呆気味の女性が 『いい音がするわねぇ! あんた上手だねぇ!』 と誉める。 得意になった小学生はまた吹く。 注意される。 『好きこそものの、上手なれよねぇ!』 と、女性が誉める。 また吹く。 半端なメロディーの繰返しは、なまじ知っている曲だけに妙に癇に障った。
直に、目の前の少年が苛つき始めたのに気付いた。 眉間に皺を寄せ、不愉快なリフレインに舌打ちをする。 少年の背後、自分も口笛を吹こうと唾を飛ばす女性を、OTが制している。 おばぁちゃん違うよ、こうだよ! と、小学生が指導を買って出ようとする。 和紙を千切る手が、止まる。 調子外れのメロデーの合間、プップッと唾を飛ばす老女の 「音」 、ツバ飛んでますよ! 止めましょうよ! と制する女性OTの声。 少年の舌打ち。 声を掛けようとしたその時、
「うるせぇんだよ下手クソッ!」
少年が怒鳴った。
不自由な掌で、勢い良く払い除けた千代紙の箱。 色とりどりの場違いな紙吹雪が舞い散り、一緒に滑り落ちた金属の盆がガランガランと床で音を立てる。 下手糞呼ばわりされた小学生が大泣きする。 泣きながら担当OTに八つ当たりをして、揉み合った挙句絵の具の水入れを倒す。 おもむろに少年が立ち上がり、椅子が派手な音を立てて転がる。 真後ろに居た女性が怯えて咄嗟に逃げようとしたが車椅子ごと傾ぎ、支えようとしたOTの女性が半ば下敷きになってもがく。 車椅子と老女を起こして同僚を引っ張り出し、乱暴に杖を突き出て行く少年を追いかける。 けれど、臍を曲げそっぽを向く少年は声掛けにもだんまりを通し、まぁ座れまぁ落ち着けと宥め、廊下のベンチに座らせてから、事情を伝えた病棟看護婦を交えての小一時間。
ひとしきり不満を吐き出させ、荒れた室内を片付け終ったのは、昼の休憩時間を大きく過ぎた頃だった。 幸い午後からの予定は単発の依頼ばかりで、遅れた分の休憩はきっちり休めと主任は言ったが、遅い時間に向かった食堂には、必ず胸焼けする具の無いカレーしか残っていなかった。 仕方なく売店を覗いてみたが、売れ残りの稲荷寿司と菓子パンが数点あるのみで、止む無く稲荷と太巻きの寿司折を買い、喫煙所に向かった。
まず、一服したかった。 自分の為に、溜息の一つでも吐いてやりたかった。
職員棟と呼ばれる地下エリア。 ロッカー室の向かいに自販機が数機並び、通常通行に使わない、非常口へと繋がるL字に折れた廊下部分が院内唯一の職員喫煙所だった。 吹き抜けになった中庭側の窓を眺める形で、反対側の壁沿いに、待合室にありがちな長いすが数台並ぶ。 スタンドの灰皿と可動式のミニテーブルが転々と置かれ、皆勝手にそれらを手繰り寄せ、巨大な空気清浄機の唸るような音を聞きながら暫しニコチンで肺を満たした。 昼のピークも過ぎた時間、そこには2〜3人が寛ぐ姿しかなかった。
自販機でお茶を買い、手近なテーブルに寿司折のレジ袋と煙草を入れた黒いケースを置く。 ドサリと腰を下ろしたその時、 アッ とあげられた声にL字の奥を見た。
「こんにちは」
返事をするよりも先に、僅かに見開いた黒い眼とかち合った。 そして、
「そっち、いいですか?」
端正な顔がくしゃりと片笑窪を浮かべた。
煙草のケースと財布を持ち、既に立ち上がった安藤が、長年の友達のように微笑んでいる。 そこで厭と言える筈もなく、条件反射のように 「おう」とも 「あぁ」ともつかぬ曖昧な返事を返した。 ずれたテーブルを直しながら、細身の長身が近付く。 日頃表情変化に乏しいと言われる自分を幸いと思った。 状況を飲み込めない素の自分は、さぞや間の抜けた顔をしている事だろう。
灰皿を間に挟み、安藤が腰を下ろす。 軽く身体をこちらに捻り、
「こんな時間に休憩ですか?」
昨日の続きのような、気負いの無い口調。
「あぁ、部屋で患者同士がトラブって、」
へぇ・・と軽く眉を持ち上げた安藤は、それ以上聞いては来なかった。
「俺、午前中一杯病棟番だったんで、部屋の事はわかんないんですよね。」
「最近、上から直で来る2外依頼、増えたんだってな、」
「えぇ、遣り難いんですよね、丸投げみたいで。 ・・・一先ずお疲れ様です。」
言いながら、指先はケースから煙草を取り出し、テーブルに置かれた寿司折りに目を遣ると
「あの、吸って良いですか?」
箱を掴んだ指が止まる。
「あらたまって聞くなよ。 吸う場所だろ? 喰うより一服したくて来たから。 元々吸いながらだって飯が喰える。 いちいち気にすんな。」
そう伝えて、自ら一本を咥える。 空きッ腹に吸う紫煙は、吐き気すれすれの酩酊を誘った。 眩暈に似た小さなぶれの向こう、目を閉じるとシンと意識が静まり返るような一瞬。 落ち着くというのを、体感しているのだと感じる。 煙を斜め下に吐き出し、灰皿の窪みに煙草を預け、食指の湧かない寿司折りに手を伸ばした。 乾いた米がもそもそした太巻きを口に入れる。 煙草の箱を掴んだまま、まだ止まっている安藤に、吸えよ、と促す。
じゃぁ遠慮なく・・・と掴んだ箱が、小さく一回、二回、三回振られる。
儀式のようなそれを無意識に、じっと見ていたらしい。
「癖なんですよ、意味ないんですけどつい遣ってるんです。」
目尻が緩み、言い訳するような口調で説明する安藤が、もう一度箱を振って見せる。
「味、変わるのか?」
「いえ。 変わりませんよ、多分。」
すっと箱から顔を出した一本を指先で摘まみ、薄い唇がフィルターを食む。 細身のライターは斜めに細かい模様が彫られ、一見女物のようにも見えるが、清涼感のある繊細な安藤の雰囲気には合っていた。 彼女のプレゼントだろうかと思った。 溺愛しているという、安藤の彼女。 安藤を想いながら、安藤に似合うライターを選んだかも知れない安藤の女。
「稲荷寿司、好きなんですか?」
「いや。 これしかなかった。」
「食堂の方は? 俺も結構最後の方だったけど、」
「カレーだけ。 あれは、胸焼けする。」
「・・・それですかね・・・こないだ半日くらい気持ち悪くなって・・・」
眉根を寄せる安藤が思い出したように胸を擦る。 胸から鳩尾を上下する掌は意外に大きい。 だが白くて甲が薄く、指の長いその手は、容姿を裏切らない繊細な手だった。 繊細だが脆弱ではなく、無骨さの無い端正な手。 安藤そのもののような、良く出来た一つのパーツ。 話せば意外なほど人懐っこい安藤に、気付けば警戒を解いている自分が居る。 しかも、合間に見せるあの笑顔だ。 噂に違わずだと思った。 これだから皆、いとも簡単に警戒を解くのだろう。 純粋に憧れ、純粋に信頼を寄せるのだろうと、間近に居る男を眺め、あらためて納得した。
「話しするの、挨拶以来初めてだな、」
「ですよね。 こっちはずっと野際さんと回ってたし、顔合わせも兼ねて病棟とか外に出る事が多かったんです。」
「大変だ、そりゃ・・・」
「ここ広いし、場所覚えるだけで大変です。」
苦笑する安藤だが、大変だと言ったのは安藤に向けてではない。 野際との病棟行脚で、無差別に増やされた安藤信者はどれほどになるのだろう。 噂を流せと息巻いていた金森の不安は、当たらずとも遠からずとなった。 これは大変だ。 この先玉砕しに来る女たちに対し、安藤はどう付き合いどんな風にあしらってゆくのか。 意地の悪い好奇心が、こいつは見ものだぞと囁く。 剥き出しのエゴをぶつけられ、どこまでこの端正さを保っていられるか。 どこまで微笑んでいられるか。
軽く目を伏せて、安藤が紫煙を吐き出す。 斜めに吐き出した煙は綺麗に綻びて、撓る指先がリズムを刻むようにステンレスの縁で灰を散らすのを見た。 優雅な所作だった。 さすが出来過ぎ君だと感心して、さっさと目の前の稲荷寿司を片付ける。 くどい甘さの油揚げに、舌が痺れる感じがした。 付け合せの紅生姜はありえない鮮やかな発色。 恐らく染まっただろう己の舌を想像すると、うんざりした。 最後の一口を茶で流し込み、あっという間の昼飯が終わった。 口直しとばかりに煙草に手をやり、四分の一ほど減ったそれを唇に挟む。 甘過ぎる稲荷寿司の味を払拭するかのように、深く、ゆっくり吸い込む。 脳味噌の裏側で味わう、ささやかな酩酊と小さな眩暈。
それを破ったのは、やはり安藤だった。
「桧山さん・・・何吸ってるんですか?」
名前を呼ばれた。
同じ職場の同僚だ、名前ぐらい呼ぶだろう、それがなんだ? 大した事でもない。 驚く事ではない。 なのに安藤から名前を呼ばれ、俄かに動揺する自分自身にまた、動揺した。 思わず瞠目したのを、質問の意味がわからなかったと解釈したか、
「あ、煙草です。 煙草、桧山さん、何吸ってるのかと思って、」
「あぁ・・・・パーラメント。」
黒い皮のケースを開き、中をちらりと見せる。
「へぇ・・・ずっとそれですか?」
「そうだな、他のに変えたことはない」
「桧山さん、いつから吸ってます?」
「高二の終わり。」
バスケがなくなったあの頃、入院生活にも飽きていたあの頃。 面会に来た父親が、鞄に仕舞い忘れていった煙草を隠れて吸ったのが最初だった。 誰も居ない屋上で、洗濯物の陰に隠れて吸った。 咳き込む事こそなかったが、特別美味いとも思わなかった。 楽しくもないが、暇潰しがてら克服したくなり、数日掛けて一箱を吸った。 その数日後、院内の自販機で自ら買った。
「最初がパーラメントって、らしいというか・・・」
「親父のパクって吸ったから。」
「あぁ、そうか!」
合点がいったように頷く安藤の手元には、ラクダの印刷の箱がある。 安藤にはあまり似合わないような気のする、キャメル。 これまで自分の周りに、キャメルを吸う奴は居なかった。
「・・それ吸ってるの、わりに少ないんじゃないか?」
名前を呼ぼうとして躊躇した。 何も金森のように選手呼ばわりする訳でもない、ただ呼べば良いだけなのに、変に意識して言葉が詰まった。 自分は何故、今、安藤と並んで話しているのだろう? この場に及んで、今更のそんな事を思う。
取り出して見せた箱を弄び、苦笑混じりに安藤が言う。
「お菓子っぽい感じがしたから、ですかね」
意味がわからず、眼で詳細を促す。
「キャメルの箱って、なんか、外国のチョコっぽい感じしませんか? ・・・・俺が煙草始めたの、高三の受験終った頃なんですよ。 受験の結果もほぼ決まりな感じで、ポンとやる事無くなったとき、煙草の吸えない大学生はありえないって・・・・・なぜかそう思ったんです。 馬鹿みたいでしょ? 俺、結構良い子で来てたから、大学生って物凄く大人な感じがして、そこに自分が入るって言うのがピンと来なくって・・・。 でも直に現実になるって思うと、何が何でも吸わねばならない気持ちになって・・・煙草吸えたら大人になれる気がしたんですよ、大学生はお酒、大学生は煙草って。」
照れくさいのか、弄ぶ箱に視線を置いたまま、幾分早口で安藤が話す。 いつもより子供っぽく見える安藤は、端正で出来過ぎと言われる普段のそれよりもずっと、リアルで血の通う生身な感じがした。 自分の内側で、僅かに温度が上がる。
「・・・はは、改めて話してみると、ホントに馬鹿みたいですよ、なんだかな。 地方の大学に入るだけなのに、何をそんなに意気込んでいたのかって、」
「それでキャメル?」
「近所じゃ買えなくって、わざわざバスで二つくらい先に行って、人通りのない道の自販機で買ったんです。 その自販機が一列しか種類のないやつで、でも、そもそも何を吸えば良いかわからない。 親も吸わないし、周りも所謂良い子ばかりだから情報源なんか無いんです。 で、一番お菓子っぽい箱のを勘で選んで・・・・・ 」
「見た目ほど吸い易く無いんじゃないか? それ、」
「らしいですね・・・・と言っても、それがわかったのは随分後なんですけど。 とにかく、それからは義務のように吸いましたよ、親の居ない時と夜中。 バレたら大事だって、貯金下ろして空気清浄機まで買って、物音がすると濡れたタオル必死で振り回して・・・・ わー、話しててすっごく恥ずかしいですね、この辺、」
忙しく両手を擦り、思いついたように煙草に手を伸ばし、浅く吸い込んで吐く。 そんな所在なげな安藤と、挙動不審な有り様で必死に煙草を吸う高三の安藤とが重なり、思わず忍び笑いが洩れる。
「や、あー・・・笑わないでくださいよ、嫌だな、何でこんな話ししちゃったんだろう・・・」
軽く上向く安藤は、照れを削ぎ取るかのように掌で額から下を撫でた。 照れで高揚しているのか、目元から頬に薄っすら赤みが差している。 もっと見たいと思った。 生々しい感情を面に滲ませたリアルな安藤を、端正な仮面が崩れて現れる生身の安藤を、もっと見たい、見ていたいと思った。 そしてそれを今目にしている自分に、優越感を感じた。 特別なのだと感じた。 内側の温度がまた上がった。 高揚しているのは、安藤だけではない。 浮つく気持ちが、いつもより口を軽くする。
「俺もだよ。」
「え?」
「俺も、吸わねばと思って吸った。 一つも美味しいとは思わなかったけど、暇だったし、他に打ち込む事も無いから親父の煙草を吸った。 」
「バスケ、やってたんじゃ無いんですか?」
安藤の聴いた噂の中には、バスケを辞めた理由は入ってなかったらしい。
「高二の秋、ゴール下のリバウンドに飛んだ時、シュート打った奴ともう1人と三人絡まって転がった。 でかいの二人の下敷きになって、腰と膝をやられた。 膝はともかく、腰が結構時間掛かって、ダラダラ入院して、退院してからもリハ通いして。 結局留年して、高二を二回やった。 二回目なんてのは出席稼ぐくらいしか遣る事ないし、部活も辞めたから暇だらけだったな。 じゃ、煙草でも吸うかって、親父の煙草くすねて特訓。」
「特訓・・って、桧山さんスポ根ですね・・・」
「そのまさにスポ根、やってたから、」
言葉尻を取り笑って見せたが、安藤にさっきまでの高揚はない。 微妙に困惑している。 どこまで流すか深刻になるべきか、話の内容に迷っているのだろう。 そして、無難な慰めに決めたらしい。
「バスケ、残念でしたね」
他意の無い表情だった。 純粋に不測の事故を悔やみ、それにより被った諸々を慮る、労わりの言葉だった。 しかしそれはもう、さっきまでの生々しい安藤ではなく、誰もに好ましい出来過ぎの安藤だった。 それが、面白くなかった。 だから、普段は言わない事を言った。
「いや。 べつに残念じゃなかった。」
そう、バスケを辞めた自分は一つも後悔していない。 そんな、いつも言わないでおく本音を、あえて話してみたくなった。 それにどう反応するか、安藤を試してみたかった。 安藤は、軽く眼を見開き静止する。
「バスケそのものは楽しかったけど、勝つとか負けるとかどうでも良かった。 背がデカイのを買われて勧誘されて、入って、すぐにスタメンになって。 べつに努力して勝ち取った訳じゃない。 だからなんだと思ってた。 たまたま出来る事を遣ってた。 それだけだ。 不満は無いが、心底楽しくもなかった。 練習が厭とかじゃあないが、周りとの温度差っていうんだか、何かが違うような気がずっとしてたからな。 だから正直、事故って清々してたんだよ。 これで大手振ってバスケ辞めれるって、辞める言い訳考えないで済むってホッとしたね。」
「・・・・なんか・・・桧山さんらしいですね、」
溜息を吐くように、安藤が言う。 力の抜けた表情だが、そこに軽蔑や失望の色は無かった。
「誉め言葉だと思っとくよ」
「えぇ、まァ実際そうです。 誉めてるんです。 そういう執着の無さっていうかフラットな感じ、噂どおりで。 」
「・・・どんな噂だか」
「良い噂です。 大体は良い噂ですよ。」
「気ぃ使うなよ、」
自分の事ならば、良く知っている。
常識的に間違った事をしているつもりはないが、人として誉められたものでもない自分の立ち位置は、いつだってちゃんとわかっている。 わかりきっているそんな自分だが、別に、それを理解して欲しいと望んだ事はない。 他人にそこまで求めようとも思わない。
けれど
「違うんです、」
ピシャリと安藤が言った。
「俺とか転校生みたいなもんだから、みんな色々教えてくれるんですけどね。 物の在処から人の事まで色々、色々教えてくれましたけど、皆必ず一回は言うんです、桧山って奴がいてさ、って。」
「休んでた分、ネタになったんだろ?」
「いや、多分そういうのばかりじゃなくて、クールで男前で物凄くモテるけど、あ、これ間違ってないですよ、」
「女に冷たい人でなしだとか? その癖、彼女と旅行に行って、肺炎になったって?」
「あぁ、そういうのもありましたね、長い付き合いの彼女が居るっていうのも。 けど、でもそういうのも含めて桧山さん、みんな桧山さんの事、言うほど悪くは思って無いんです。 結構それ酷いなぁッて話ししてても、最後は でもいいよなぁ って羨むんです。 不思議ですよね。 不思議でした。 酷い奴だ、冷たい奴だって言いながら、でも、アイツはいいよなぁって落ちがつくんです。 男女問わずに。」
そこで言葉を切り、安藤はこちらを見つめる。 返事を待っている様にも見えたが思い当たる言葉も無く、かといって無言の行間を読むほどに器用な性質ではない。 他人が自分に下す評価など、どうでも良い。 好かれるに越した事はないが、薄情と言われ様と屑と言われ様と、直接の実害が無ければべつにどうでも良いと思っている。 だからくだらない噂話を持ち出してまで、安藤が何を言いたいのかわからない。 何を擁護してくれているのか、或いは何か、別に言いたい事が他にあるのか、、要するに、自分は目の前の男に何かを期待しているのだと。
焦れるギリギリの沈黙に安藤が区切りをつける。
「・・・・話してみたかったんです。 話してみたかったんですよ、噂の人と。 そういう不思議な評価をされている噂の桧山さんって人に、自分で会って確かめてみたかったんです。 興味が湧いたっていうのかな。 いかにも薄情な二枚目だって言うのに、みんなに受け入れられているって、ホントのトコどうなんだろうって、すみません、純粋に興味です。 凄く興味があったんです。」
そう言って、視線を反らさず唇の端を上げた。 爽やかな蕩ける笑みではなく、悪戯を隠しているような笑みだった。
「・・・で、確かめられたか?」
それを安藤が興味というなら、これも純粋な興味だった。
純粋に知りたかった。 終ぞ抱いた事のない他人への興味と好奇心に、気持ちは先へと走り出す。 こうして話して、接して、安藤が自分をどう思ったかが知りたい。 目の前の男が自分をどう思っているのか知りたい。 そしてそれは、今ならすんなり聞けるような気がした。
問い返され少し驚いたように眉を持ち上げた安藤が、何かを言いかけて唇を開く。
だが声を発する前に、安藤の右手で小さくアラーム音が鳴った。
「あ・・・・すみません、時間切れです・・・・まずいな、これ二分遅れてるんですよ・・・あの、」
手早く小物を手にし、慌しく安藤が立ち上がる。 けれど立ち上がったまま歩き出さずに、息を詰めて見下ろす。
知らず、こちらも息を詰め見つめる。 あぁそうだ、見詰め合っているじゃないかと、傍から見れば険悪にも見えるだろうこの光景を、薄ら笑うように茶化す自分は高揚しているのだ。
確かに、高揚していた。
自分と安藤を取り巻く半径50センチ足らずの世界で、時間が流れを止める。
「俺、明日多分、先休憩です。 ここで何か摘まむつもりです。 桧山さん、予定が合ったら、」
合ったらどうだと?
答えも質問も叶わない。
糸を断ち切るように唐突に動き出した時間。
ひょいと会釈してそれきり、安藤は立ち去る。 自販機の角を曲がり、忙しく歩いていった安藤の残像を、未練がましく追視する自分。 尻切れ蜻蛉の言葉に、応える時間すらなく こちらの答えなど関係無しに、言いたいだけ言って、可笑しな約束まで取り付けようとして。
けれど、噂を確かめたかったのは自分も同じだよと、居ない男に呟いてみた。
噂の男はリアルな感触を持ち、生々しい血の通った一人の安藤という男になってここに居た。
さっきまで居た。 ここで共に過ごした。
明日、自分はここに来る。 来るのだ。
はっきりしているのはそれだけだった。
久しく持ち得なかった感情を持て余し、キャメルの残り香を捜す。
捜し求めて何を知りたいのかわからなかった。 確かめたい何かがわからなかった。
「知りたい」 という気持ちを、「欲する」 に置き換えてみる。 置き換えは、馬鹿馬鹿しいほどすんなり嵌り、不測の動揺を生んだ。
ばら撒かれた言葉をうろたえつつも拾い、反芻し、やけに丁寧に内側に仕舞い込む自分を、どう説明して良いのかわからなかった。
けれど、不快ではなかった。
** 冷たい舌 4. ** 5. へ続く