** 冷たい舌 **
* * 2 **
――― 安藤です。 安藤コウイチです。 よろしくお願いします。
繊細で張り詰めた表情が、笑うと、無邪気な子供のように崩れるのを、瞬きもせず見つめた。
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高二の秋、バスケの試合中に腰と膝を痛め入院した。 そして、そのまま留年。
特待生から外れたリスクは少なくなかったが、いい加減、スポ根も飽きていた。 辛い努力をして勝つ事の意義が、自分の中には無かった。 目的と執念に満ちた周囲との温度差を、うっすら煩わしく感じていたそんな折の事故。 密かにほっとしたのも事実だった。 約二ヶ月の入院とその後一年近く続いたリハ通院。 退院後、一般生として一年遅れで卒業し、保健福祉科のある大学で作業療法士(OT)の資格を得て、世話になった指導教諭の紹介で神奈川の外れの大学病院に就職した。
そんな経過を答えると、バスケ時代の仲間は 「随分思い切ったな」 と、言う。 そして皆一様に 「色々あったのだろう」 と、その色々について口には出さないものの、かつての仲間の意外な進路に同情と支援を惜しまなかった。 がしかし、自分自身はといえば特別思い切った事も、乗り越え堪えるべき色々も無くここまで来た。 そもそも、自分に何かを期待した訳ではなかった。 単に、流れだった。 都合の良い流れがそこにあり、追い風に吹かれ都合良く乗れた自分は、案外運が良いのかも知れない。
だが、周囲はそれらを不運だと嘆いた。 怪我に拘わったチームの二人は、罪悪感をあからさまに示し、眼を合わせなくなった。 ましてや四六時中傍に居る家族は、容赦なく憐れんだ。 同情や憐れみをを受け、何が困るかといえば可哀想な振りをし続けなければならない事である。 自分の存在そのものが他人を糾弾する状況は気不味く居た堪れないものだった。 『思い切った』とされる方向転換に乗ったのも、そんな状況から手っ取り早く脱出したかったのかも知れない。
同県内の大学は充分自宅通学可能な範囲であったが、入学直後からS電鉄沿線のワンルームで一人暮しを始めた。 そこでは大学四年間と卒後1年を過ごし、去年、職場にも近いO電鉄沿線の2DKに移った。 付き合っていた彼女とは距離が開いたが、だからといって通えないほどでもない。 田畑が点在する辺鄙な場所だけあって地価が破格に安く、家賃は以前のワンルームと殆んど変わらなかった。 これも、運が良いと思っていた。 新しい我が家、仕事も人間関係も順調。 可も無く不可も無く。
そうした1人暮らしにも慣れた6年目、まさか風邪で死にかけるとは思いもよらなかった。
三月末、先輩スタッフの父親が倒れ、そのまま帰らぬ人となった。 長男だった彼は急遽実家に召喚されたが、3〜4日で予定された帰省はそのまま身内の諍いに巻き込まれて延びに延び、間も無く謝罪の言葉を含む速達がスタッフ一同様宛てに届き、書面のみの挨拶手続きで正式な退職となったのが四月の始めの事だった。
当然、職場は混乱を極めた。 管理業務をこなす、7年目の穴を埋めるのは厳しい。 何よりまた、時期も悪かった。 職場に慣れるだけで手一杯な新人二人は手が掛かるばかりで頭数にもならず、三月に一人を円満退職で送り出した現場に於いて、実質、抜けた穴は二人分だった。 チームの練り直しに頭を抱え、無い袖を振ろうとする上部は、無茶な勤務繰りを泣き落しで敢行する。 勿論、逆らえる筈がない。 ひたすら穴埋めとフォローに奔走する日々を余儀なくされたのは、3年目の自分を含む中間層だった。
けれど、我武者羅に働くのを辛いとは思わなかった。 ルーチンの業務を行い、勤務時間外には新人教育のプログラムを実施して、その後、漸く自分の受け持ちの練り直しをして家に帰って死んだように眠る。 消化しきれない休日四日分が買い取りになった。 どのみち、休みに出掛ける気力も無い。 ならばその分貰える方がずっと得だと思った。 つまり、さほど不満は無かった。 生活に余計な飾りがつかない分、自分には向いているかも知れないと、身体の疲れを苦だとは感じずに毎日を過ごした。
やがて五月になり、新人からも手が離れ、多少、自分の時間が持てるようになっても尚、動き続けるペース配分は抜けずに残った。 頼まれもしない業務のフォローを買って出て、終日身体を使って家に帰る。 一日の終わり、何も考えずに疲れて泥のように眠るのが、心地良いと思った。
それでも中休み、GWには予定通り彼女と岩手の花巻へ行った。 手配やプランニングはすべて、宮沢賢治で卒論を書いたという彼女が行ったので、自分は言われるがまま車を運転し、牧場を眺め、のどかな景色を愉しみ、古民家風の民宿で田舎料理を食べるそれなりに楽しい旅行だったと思う。 途中、何度か顔色が悪いと言われたが、職場の状況を説明すると少し苦い表情になり、無理しないでねと言葉を切った。 無理はしていない。 無理だとは思っていない。 心配性だなと笑うと、 「看病歴が長いので」と、大袈裟に拗ねた顔をして見せた。 そんなおどけた表情を、素直に可愛いと思った。 可愛くて優しい彼女に不満など無い。 そんな彼女との付き合いは、もう10年近くなる。
男子バスケ部のマネージャーだった彼女は、受傷直後から献身的に付き添い、励まし、単調なリハにも付き合ってくれた。 暇を持て余した休学期間、担当の理学療法士(PT)と仲良くなって進路の話しをした時も、興味を持った自分より積極的に具体的な内容を調べたのは彼女だった。 その後、痛めた身体の負担を考慮し、作業療法士(OT)について詳しい幾つかの資料を入手してくれたのも彼女だった。 有り難いと思っている。 充分世話になったと思っている。 けれど、感謝し足りないその彼女が、いつから 『彼女』 になったのかはハッキリしない。
身体の関係だけで言えば、2度目の高二の夏だ。 パッとしない定期受診の帰り、彼女の家の彼女の部屋で寝た。 何故その日だったのか。 特別な何かがあった訳でもなく、ただ流れとしか言い様が無い。 そこに性的な興奮はあったが、それ以上の何かは見つからなかった。 さてどうしようと思ったのは、全てが終わったあとだった。
終わったあと、彼女は少し泣いた。 彼女に経験が無いのは、始まってすぐに気付き、出来るだけ負担を掛けないようにしたつもりだった。 だけど、彼女にとってはそうでもなかったようだ。 それまで自分が付き合ったのは二人で、二人とも 「慣れた」 女の子だった。 二人とのセックスに、特別気を使った覚えは無い。 お互い新しい遊びに夢中で、互いを思い遣る暇など無かったというのが事実だ。 そもそも、セックスに快感以上のものを求めてはいなかった。 だからこそ、純粋に楽しめたのだと思う。 取り立てて乱暴なセックスをして来た覚えは無いが、それが初めての女の子にとってどうだかはわからない。 正直、面倒な事になったと思いつつ、声を殺して泣く彼女の背中を眺めた。 こんなに後味の悪いセックスは初めてだった。
気まずい沈黙を持て余し、泣いている彼女の背中をそっと撫でた。 彼女は大きく何度かしゃくりあげて、それから急に身体の向きを変えしがみ付いて来た。 離れ離れの親に出逢えた子供のような、普段のぽわぽわした彼女からは想像の出来ない力だった。 必死に・・・という言葉が浮かんだ。 抱き寄せた肩も、身体も、細くて小さくて心許無い。 今まで付き合った二人はあからさまに 「女」 だったが、彼女はまだ未熟な 「女の子」 だった。 ならばしょうがない。 大事にしなければと思った。
だが、これが恋愛なのかと思うと良くわからなかった。 わからないまま、そのままにした。 何も喋らず、黙ってただ抱き合ったまま、辺りが暗くなるまで眠った。 帰りしな、彼女に伝えたのは 「あとでメールするから」 それだけだった。 彼女が言ったのは 「じゃ、明日」 それだけだった。 ささやかな気まずさ以外、変化を見出せぬまま彼女との関係に 「肉体関係」 が加わった。
その日を境に、彼女は名前を呼ぶようになった。 「ヒヤマ君」 ではなくナオユキと。 それに習い、自分も彼女を 「美咲」 と呼び捨てるようになった。 それが多分、唯一の変化だった。 小さな変化だけを伴い、曖昧なまま彼女との関係は今に続いている。
花巻旅行からの休み明け、痰が絡み、咳が出るようになった。 彼女と出掛ける事は職場で公然になっていたから、冷やかしを流しつつ市販の風邪薬を飲んで様子を見た。 だが、咳は酷くなる一方だった。 マスクをして咳き込みつつ働き、患者に 「大丈夫か?」 と問われるのは職場的に体裁が悪い。 けれど、体調は落ちるばかりだった。 薬を飲み切っても咳は胸の奥から笛のような音を立てて続き、眠っていてもゼコゼコ年寄りのように噎せて、夜中にベッドサイドに置いた水を飲んで治めた。 そして金曜の朝、いよいよ熱が出始めた。 古い水銀計は八度後半を示し、それまでの有り様を知っている上司は、週末金土日できっちり休めと言ってくれた。
一日目、トイレと飲水以外は朦朧として眠った。 二日目、空腹と咽喉の渇きに起きたがいたが、スポーツドリンクは飲み切ってなかった。 仕方なく水道の水を飲み、職場で貰った薬を飲もうとして、その前に何か口に入れなければと思い立つものの、その何かが家には無い。 幸い、歩いて50メートルもしない場所にコンビニがある。 寝巻き代わりのジャージのまま、サンダル履きでふらふらと向かった。 やたら息切れがして、歩いては咳き込んで止まり、歩いては咳き込んで息を吐き、行って戻るだけで倍以上の時間が掛かった。 家に着いた時はじっとり汗ばんでいたが、ゼリー状のカロリー補給剤を一気飲みすると、ベッドに潜り込んで眠った。
次に起きたのは夜中だった。 咽喉を潤し、いい加減何かちゃんと食べねばと出来あいの鍋焼きうどんをコンロに掛け温めた。 ゆっくり半分をばかりを食べた頃、内臓が裏返るような吐き気に襲われ、その場で全部を戻した。 暫く呆然としていたが、取り敢えず着替え、後始末をしながらながらまた吐き、何をやっているのだと思いながらこのままでは眠れぬと、悪臭を放つ身体をシャワーで流した。 思えば、それが悪かった。 浴室から出ると、床に張り付くような疲労に逆らえず、ソファーに身を投げて浅く息を吐いた。 そして一旦座り込んだソファーから立ち上がるのが億劫になり、そのままゴロリと転がり眠ってしまった。
だが間も無く、尋常でない震えに目が醒めた。 寒くて仕方が無かった。 堪らず、ノロノロとベッドに潜り込んだが、薄い布団ではとてもこの寒さは凌げない。 けれど押入れの堆積群から冬布団を引っ張り出す気力はなく、止む無く冬からクリーニングに出しそびれていたダウンコートを着て、這うように戻りベッドに転がった。 動くと胸の奥がヒューヒュー音を立てた。 部屋の空気が薄いのでは無いかと思える息苦しさだった。 カチカチ音を立てるのが、噛み合わない自分の歯の音だと知って、まるで漫画みたいだと思ったのが最後の記憶だった。
発見してくれたのは、月曜の朝、無断欠勤をいぶかしんで見に来てくれた同僚だった。 運び込まれたのは、当然職場だった。 知り合いが入れ替わり立ち代り見物に来た。 命の恩人には 「こう云う時、彼女だろう?」 と呆れられたが、何故だろう、彼女を呼ぶという選択肢はあの時も今も、言われるまで一切浮かばなかった。 現に、身の回りの事は近所に住む仲間が何とかしてくれている。 別段、彼女に頼むほどの事でもない。 わざわざ知らせることも無いだろうと、連絡もしなかった。 そもそも、携帯すらあの金曜から鞄に入れたままだった。
こうして、気管支肺炎で10日間の入院を余儀なくされ、一昨日退院して今日からが働き始めだ。 十五日ぶりの出勤。 十五日も休んでいる間に、職場には新しいスタッフが入ったらしい。 切羽詰った現場を救うべく、半端な時期の求人募集に乗ってくれたのは、都内のリハビリセンターから移った3年目のPT(理学療法士)だと、情報源の金森が言った。
その金森に会ったのは出勤前の朝一だった。
混み合う地下更衣室を出てすぐに捕まり、そのまま奥の喫煙所に引きずり込まれ ホイよ とコーヒー缶を渡された。
金森は忙しくタバコを吸い、待ってましたとばかりに話し始めた。
「これがまた爽やかな男前で、腰も低いし覚えもめでたい出来過ぎ君で。 なぁ桧山ちゃん、ミスター・リハキングの座も三年目にして漸く待った掛かりそうな予感? けどな、こんな半端な時期の募集に乗るんだから、アレよ、なんか向うでやらかしたんじゃないのって、女とか?」
噂のニューフェイスは、たった一週間でリハ室のみならず整形外来の話題を攫っていた。 金森曰く、本人自身も背景も、話題の種には困らない素材らしい。 しかし、こうも噂の渦中にあっては、本人も居心地悪く思っているのではないか?
「馴染んでるの? そいつ、」
「アーそれはもう馴染み捲くり。 悔しいけどイイヤツなのよ。」
「じゃ、ほっといてやれよ」
「うぅん、おまえとかはこう、人の事なんかもともと関係ない人だけども、でもさ、橋ヤン退職、森さん退職、で、おまえリタイアだろ? ああああ責めてる訳じゃなくて。 みんなもー疲れが脳味噌に回ってるからな、ココゾと飛び込んだゴージャスな餌に、夢中なのよ、虜。」
茶化す金森だが、愛嬌のあるどんぐり目の下には薄っすら隈が浮いている。 同じ三年目である自分の穴を誰よりも埋め、諸々を肩代わりしたのは間違いなく金森だったのだろう。
「迷惑掛けたな、」
「つーかデートする暇もなくて、俺らすっかりメル友やってんの。 万一破局したら、 『桧山さん、認知だけはして下さいッ!!』 って、おまえ宛の社内ファックス一斉誤送信するぞ? 覚えてろ!」
引寄せた灰皿に吸殻を放り 「やっと明日ッから2連休よ」 とぼやく金森は、4月頭の新人歓迎コンパで、レントゲン室の女の子と付き合い始めた。 既に日課になっているのか慣れた調子でメールを打ち、送信した瞬間、なんとも幸せそうに笑った。
幸せなのだろう。
会えなくても、あんなに嬉しそうな顔が出来るのだから。
ふと、ポケットの中の携帯に触れた。 最後に美咲に連絡したのはいつだったろう? もう半月以上前だ。 旅行から帰ったその晩、美咲からのメールに短い返事を送ったのが最後だった。 その時自分は、どんな顔をしていたのだろう。 全く思いつかない。 表情などあったかどうかも怪しい。 だいたい、メール如きで幸せそうに出来るのか? いや金森はどうだ? だけど自分は違う、そうではない。 最初からそんな風ではない。
自分は美咲との間で、あんな顔をした事は無いのだ。
これが幸せなのだと意識して思った事はあっても、無意識に幸せを感じた事は無いのだ。
だからと云って、べつに困る事もない。
何も、不満は無い。
「昼飯奢るから」
ポンと膝を叩き、勢いつけて立ち上がる金森に声をかける。
「ヨシ言ったな? 俺は今日、2食(第二食堂)の特選カルビ定食しか食べないから、そこんとこヨロシクね!」
携帯の電源を切り、並んでエスカレーターに乗った。 歩き出してから、メールチェックすらし忘れた事に気付いた。 けれど、もう一度電源を入れる気にもならなかった。 そんな事より、十五日ぶりの現場の有り様の方が気になっていた。
ホールを大きく横切り、リハ室は整形外来のすぐ裏、一階の最奥にあった。
新館へ続く廊下の先。 突き当たり右側が外来エリア、左の一角は手前にレントゲン室。 その更に奥にあるリハ室は、学校の教室二つ分の大部屋が可動式パーテーションで左右に区切られて、 幾分広めに区切られた右側が理学療法(PT)のブース、左側が作業療法(OT)のブース。 PT室には各種トレーニングマシンと、家族風呂程度の大きさのプールが設置。 折り畳まれたウレタンマット、跳び箱、フラフープ、ボールなどのスポーツ用品が点在する様はちょっとしたスポーツセンターのようにも見える。 一般にリハビリというと想像するのはこちらだろう。
片や左のOT室はは一部プレイマットが敷かれているものの、机や椅子がならび、机の上にあるのは粘土や毛糸や絵の具、制作途中の工作やら用途不明の小物。 「動」のPTに比べOTは「静」のイメージがある。 ここではちぎり絵、紙粘土、ビーズ、織物など作品の制作を通して機能回復を計る。 それは、単に運動そのものの機能回復ばかりでなく、精神・心身の障害を持った患者を対象とした自立訓練のひとつとしても有効とされている。
OTもPTも現場に於いてはそれぞれ別個に活動しているが、通常 「リハビリ室」 とひと括りにされ、同じ患者をそれぞれ診ることも多く、何かと横の繋がりが多い業種ではあった。 両スタッフは軽い飲食や休憩に、リハ室とレントゲン室の間にある十畳ほどの部屋を使い、OT・PTの交流は、概ねそこで図られていたといえる。 いわばそこは社交場だった。 そんな十五日ぶりの休憩室に入るなり、PTチームの主任に噂の新人を紹介された。
「安藤!」
四十にしてはガッチリしたPT主任の野原に呼ばれ、振り返ったのは背の高い細身の男だった。 神経質そうな細い顎、日に焼けていない肌。 男臭さの無い端正な顔立ち。 一見、華奢に見えるが、決してそうではない、適度に筋肉のついたバランスの良い骨格。 少し視線が下がる頭の位置から、177〜8はあるだろう。 薄っすら口角の上がった唇。 涼しげな切れ長の目。 真っ直ぐ向ける視線は見透かすように強い。 だが、不快には感じない。 白い作業衣から伸びる清潔感のある襟足。 なるほど、これは噂になる。
だが、金森の言うような爽やかで腰の低い 『柔』 のイメージは、目の前の男からは感じられない。 もっと繊細で冷やりと肌に触れる硬質な何か。
「おう、まだ見てなかったよな? この男前、桧山。 三年目のOT。 でかいだろ? 元バスケットマン。 こっち、安藤。 俺んとこの救世主。 えぇとどこだっけ、あぁK大付属のリハセンターからの三年目。 同期の色男同士、よろしくやって。」
野原主任の大雑把過ぎる紹介を受け、じっと見つめる興味深げな顔に軽く頭を下げる。
見透かす視線への軽い意趣返しに、あえて不躾なくらい真っ直ぐ目を合わせた。
「OTの桧山です。 よろしく」
お約束のような意味の無い挨拶。 けれど男は視線を外さぬまま律儀に答えた。
「ずっとお休みされてたんですね? 噂はかねがね伺っています。」
そこで、何人かが含み笑いをした。 ろくな噂じゃないらしい。 あえて内容を聞きたいとも思わず、かと云って初対面の男と交わす話題の持ち合わせなど無い。 閉じた薄い唇が、少し荒れていた。 会話が途切れた一呼吸分の沈黙。 男は長めの前髪を軽く後ろにかきあげ、小さく会釈した。
「安藤です。 安藤コウイチです。 よろしくお願いします。」
言葉が放たれた瞬間、繊細で張り詰めた表情が無邪気な子供のように崩れた。
きつい目元が柔らかく解ける。 右の頬に浮かぶ片笑窪。
鮮やかな変化だった。 そんな鮮やかな笑みを、瞬きもせず見つめた。
もう一度見たいと思った。
** 冷たい舌 2. ** 3. へ続く