** 冷たい舌 **
* * 1 **
欲していたのだ。
それは羨望であり憧憬であり、沸き出す水に指を浸すような束の間の興味ではあったけれど、
ただ一度の邂逅でもろもろ崩れるほどに、欲していたのだ。
***
店はドーム状のガラスに囲まれ、二月という季節を感じさせぬ暖かさだった。
見上げる天窓の繰り抜いた青空。 吹き抜けを活かし、ぐるりと壁に張り付く中二階のテラス席。 テラスの外周から枝垂れ、或いは張り出す観葉植物の俄かオアシスを眺めて、葉子がオレンジ色の砂時計を逆さに返す。
「結構、いいじゃない」
待ちきれずに、ポットをゆらゆらと揺する手入れの良い指先は、淡い珊瑚色のネイルに彩られておおよそ家事とは縁遠い。 中指に重たげな光を放つ三連のリング。 小指にも、カラーストーンをあしらった繊細なリングが一つ。
都会のヒーリングオアシスを謳った巨大ショッピングモールは先月初め、それまで今一つパッとしなかったベイエリアの駅前にオープンし、ほぼ一月が経った未だに客足は衰えてはいなかった。 ガラス張りの森林を模した外観は、気鋭のアーティスト等数人によるプロデュースだと聞いている。
「まぁ、欲を言えばもうちょっとお子ちゃま連れがね。」
「そりゃしょうがないだろう、Pランドからの客が流れるんだから、」
モールの端は長いアーケードに繋がり、洒落たショップを冷かして歩けば、始まりのK電鉄と並行して走るJR駅に辿り着く。 さしたる見所もなく、地域住民以外には利用される事の少ないそこだったが、人気のテーマパークPランドからは一駅だった。 けれど、わざわざ途中下車をする駅でもなかった。 それまでは。 しかし、モールが出来た。 アーケードが延びた。 たった一駅の回り道ならば苦じゃないと思わせる充分な魅力が、そこに生まれた。 並行して走る二つの路線ならでは、停車駅は概ねかぶる。 首都圏までの移動時間はほぼ同じ。 どこから乗っても、客はさして困る事が無い。
こうしてモールは、Pランドへ行く客と帰りの客の両方を捕獲し、同時に、二つの赤字路線を潤す経済効果としても、おおいに期待されていた。
「それにしたって、連日の大盛況って感じかしら?」
華奢なカップを両手で包み込むようにして、葉子が視線を流す。
視線は紺のメイド服を着たウェイトレスの些か短いスカート丈を追い、誘導され、窓際の一席に腰を下ろす一組の家族連れに止まる。 まだ若い、子連れの夫婦。 スマートで洗練された都会の親子。 子供は4〜5歳だろうか? 黒のハイネックに深緑のミニスカート、黒いスパッツ。 頭の天辺でシニヨンを作った姿は、小さなバレーリーナーのように凛々しい。
子供はすぐ席に座ろうとせず、興奮した様子で天窓を指差し、先に席に着いた母親のほっそりしたパールグレイのニットの肩を揺さ振る。 父親は両手にぶら下げた紙袋を自分の隣りの席に置き、タートルネックの胸元に手をやってから一瞬動きを止め、畳んだコートの内ポケットからタバコを取り出し軽く揺する。 一回、二回、三回。
―― 癖なんですよ、
同じような癖を見た事があった。 もう何年も前。
軽く俯いた額に撫でつけた髪がぱらぱらと掛かり、無造作にかきあげる白くて長い指。
剥き出しになった額は、多分、滑らかで意外に広い。
見た訳ではない。 ここからは見えない。
だがそんな気がした。 いや、そうであればと期待した。
鉢植えの肉厚な緑が、男の顔を視界から隠す。 記憶の片隅で、何かが動いた気がする。
「知り合い?」
「いや、」
「いかにも、いまどきの親子って感じ。」
「おまえのところの良い客になりそうじゃないか。」
葉子は4年前、七年勤めた大手広告代理店の遣り手広報というキャリアをあっさり捨て、横浜元町にインテリア雑貨の店を開いた。 化粧雑貨から子供服まで、かつての人脈をフルに活用して吟味買い付けした商品は、決して安くない価格設定にも拘わらず好調な売れ行きを見せている。 そこには店長である葉子のカリスマ性もおおいに貢献し、二店舗目の代官山店は一昨年、某人気タレントのお気に入りとしてファッション誌に紹介され、常連客の分布は一気に全国レベルにまで広がった。
「ちょっとお洒落、ちょっと贅沢、ちょっといつもと違うライフスタイルをアナタに?」
「まんまだな、」
「まんまでしょ? 尤も、こんなところにはそんなのばっかりだわ。 人と違うことがしたいの、人に羨ましがられたいの、だけど突出するのは怖いの、だけどちょっとだけ目立ちたいの・・・・・・・ご希望が多くてご苦労なこと。」
歌うように言葉を並べる葉子は、何かに高揚しているように見える。 それは新しいおもちゃを貰った子供のような興奮。 もしくは今まさに、間抜けな鳩に飛び掛ろうとする猫のような残酷な歓喜。
恐らく悟ったのだ。 目の前の男が何に気を取られているのかを。
葉子は不穏な女だ。 静かに微笑んでいても穏やかさとは縁遠く、常に微妙な緊張感を纏い、だからこそ、否応無しに人を惹き付ける剣呑とした高揚感の似合う女だった。 もって生まれた華やかな容姿、玄人好みの隙の無い身なり。 とうてい只のOLには見えない。 かと云って、裕福な家庭に入っている女にも見えないのは、そこに生活というものが一切透けて見えないからだ。 日常から掛け離れた、非日常の綺麗な女。 異質であるが故の、抗い難い魅力。
「・・・・なら、俺は何に見えるだろう?」
無意識に洩らした言葉をすかさず葉子が拾う。
「退屈そうな色男に見えるわよ。 冷ややかでつまらなそうで何考えてるかわからないけど、ちょっと危なそうなところがセクシーで素敵! って。 夢見がちな女の子が通帳差し出しちゃうような、悪い男に充分見えるわよ。」
「散々な言われようだな。」
「馬鹿ね、誉めてるのよ、私とはお似合いだって。 」
話は終わりとばかりにタバコを揉み消し、葉子がポットを傾ける。
紅茶の香りに混ざり、果実やココナツの香りがふわりと鼻腔を掠めた。 深紅に近い色のお茶は甘い香りに反し、仄かに渋みが利いた味わいだった。 葉子はこうしたフレーバリーティを好む。 だがこうして付き合いで口にはするが、自分で選ぶならば余計な香りのないものの方が良い。 そこばかりは、どうにも合わないなと思う。 しかし、言い換えれば、そのくらいしか合わない部分がない。
出逢ってから今まで、自分と葉子の間には意見の食い違いというものがなかった。 食の嗜好のみならず、興味の方向や抱く感想は気味が悪いほど一致し、なるほどこれが相性というものなのかと思ったものだが、そればかりではなく、それは
「同じなのよ、私とあなたは、」
さらりと言われ一瞬動きが止まる。
「私とあなたはね、根っ子の深い部分が同じなのよ。 相性云々以前に、シンクロしているだけなのよ。」
頭の中を読まれたのかと思った。 そんな小さな動揺が顔に出たのだろう、
「なによ変な顔して。 今更でしょう? 」
「今更も何も、そこまで同類扱いするなら、さっきの散々な形容はそのままそっちにも当て嵌めて良いんだな?」
「だから誉め言葉だって言ったでしょう?」
「とんだベストカップルだ。」
形の良い唇が僅かに吊り上がり、退屈と自嘲の混ざった曖昧な笑みが浮かぶ。 見慣れた表情だ。 そして今、間違いなく自分自身もその表情を葉子に見せている。
「有沢がね、最初あなたのこと、私の兄弟だかなにかだと思ってたって。」
有沢は葉子がどこかの企業から引き抜いてきた、店のブレインの1人だ。 丸顔のやんわりした物腰を裏切り、利益追求の為には笑顔で非情な決断をするという。
「今からでも、実は兄だと言っておけよ。」
「兄弟と寝る趣味はないわ」
切れ者の有沢が、自分と葉子の関係に何を感じたのか知りたいと思ったが、それは、答えになるのだろうか。 過不足なく不自由のない葉子との関係が、時折ふと、緩慢に死に向かう病人のようだと感じるその理由の。 このまま永遠に続くだろう確信の一方で、今この瞬間途切れたとして、一つの未練も残さぬ互いを確信するその矛盾の。
「あらま、パパは荷物番なのね」
唐突な話題に、視線を窓際へ向ける。
食事は後回しにしたのか、コートを手にした母親は父親に何事かを言付ける。 急かされた娘は、まだ手着かずのケーキの三分の一ほどをフォークで切り取り、父親の前の皿に移す。
「パパ、どうぞ! って感じ?」
葉陰で父親の顔は見えないが、娘は満面の笑みを浮かべている。 普通に、微笑ましい光景だった。 わかりやすい幸せの光景だった。 彼等にとって 「今」 に矛盾はないのだろう。 慢性的な空虚の中、終わりを先送りする事でしか永遠を見つけられない、そうした自分と葉子にはありえない関係を、彼等は築いているのだろうから。
「厭ね、物欲しそうな顔して、」
また、読まれた。
「いや、べつに」
べつに羨ましくはない。 負け惜しみではなく、あれが幸せそうだとは思うが、それを自分に置き換えても他人事のようでピンとこない。 テレビドラマの出来事のようで、それは近いようで遠い、自分と無関係な出来事。
「多くは望まないのが良いのよ。 何にでも向き不向きがあるから。 まぁ、良いじゃないの、趣味も合う、話も合う、ベッドの相性も・・・私たち似合いのカップルでしょう?」
「それは、否定しない」
「そうよ、だからそれで良いの。 あなたは私と同じ。 同じだから、争わず迷わずただただ居心地良い関係でいられる。 同じ物を見て同じ言葉を発して、同じように感じて微温湯で安心する関係。 過不足なく煩わしくもなく、ね? 何も問題はないわ、ただ心地良いだけの、」
「そこまで惰性で付き合っているとは思ってないよ、」
「そうね、惰性というほど流されてもいないわ、私も、あなたも、これを自分で選んだのだから。 だけど、」
不意に途切れた言葉は、真正面からの視線に摩り替わり、互いの後ろ暗い何かを容赦なく暴く。
「あなたは心地良さ以上の何かを、わたしに求めようと思う?」
「だったら、」
「べつに不満はないでしょ? 私も不満はない。 満足している。 そうね、例えばそれが恋愛ではなかったとしても、」
言い切り、ひらりと片手を上げ葉子がウェイトレスを呼びつける。
ウェイトレスは手早く灰皿を交換し、葉子に続いてデザートを復唱する。 ウェイトレスが立ち去ると入れ替わり、葉子が化粧室に立つ。 緩くウェーブが掛かった髪も、膝を折らずにヒールで歩く後ろ姿も文句無く美しいと思った。 皮肉混じりの手厳しい言葉も、計算高さを隠さない潔さも、何より欲望に忠実な生き方はいっそ好ましく、不満など一つも無いのだと、それははっきりと誰の前であっても言える。
が、しかし、それは恋愛ではない。
それもまた真実なのだと、自分は知っていた。 知ってはいたが、多分そうだろうと密かに思っていた事を言葉にされ竦んだ。 葉子もまた、全く同じように思っていたのだと、改めて事実を突きつけられ言葉を失った。
ウィンドウ越しに、店の外から女と子供がにこにこと手を振る。 満ち足りた顔をした女。 光溢れるそこを約束されたような子供。 目を奪われた客の一人が、知らず微笑を浮かべる。 痛みを伴う恋をして、苦しみすら厭わない愛を育てて、他人同士が家族を作ると云うのはどんなものなのだろう?
男は軽く身を乗りだし、小さく手を振り返す。 そして遠ざかる二人を見送りつつ、長丁場を覚悟したのだろう、鞄の中から文庫本を取り出しブックエンドの紐を引く。 椅子に深く掛け直し、コートの内ポケットを探り、取り出した眼鏡をそっとこめかみに挟む。 深く腰掛けた分、葉陰から男の顔が外れた。 窓越しの陽射しを受け晒される、ほっそり無駄の無い輪郭、端正な横顔、メタルフレームのメガネ。
腹の底が重苦しく冷えた。
こうして息を詰め、見つめる視線になど気付かぬ男は、ページを捲ろうとした指を不意に持ち上げ、脇を通り過ぎるウェイトレスを呼び止める。 ケーキの乗った皿を指し示す指。
ウェイトレスが皿を運ぶ。
小さな娘のくれたケーキの半掛けは、ウェイトレスによって処分される。
男は何事も無く、読書をはじめる。
長く器用な指は何事もなく、優雅にページを捲る。
ページを捲った指はそのまま宙を彷徨い、銀のフレームをゆっくりと撫でる。
そら見ろ、自分は知っていた。
「もしや」 であり 「まさか」 であり、 「やはり」 であるかも知れないこれらを全力で否定する半分と、揺さ振りをかけるように求める半分と。
とうに自分は知っていた。
そんな風に他人の好意を踏み躙る男の酷薄を、フレームの縁を指で撫でる癖を、見えない右側の頬に子供のような片笑窪が浮かぶのを、自分は知っている。
いや、知っていた。
渇望していた。
咽喉が張り付くような渇きを感じ、ゆっくりグラスの水を飲み干した。
水には薄っすら、薄荷の味がした。
** 冷たい舌 1. ** 2. へ続く