** 毛玉夏工場 **
#4.
八月に入ってすぐの土曜日、母と姉が鍋をしようと盛り上がり、俺はクリハラを迎えに歩き慣れた道程を薬屋へと向かった。 その日、夕方までクリハラの伯母は出掛けていて、たまたま駅前に用事のあった俺は もうじき出れる とメールを寄越したクリハラと、一緒に家まで戻るつもりだった。 朝から泣き出しそうな空はどうにか日中持ったものの、数分前からポタポタ、風に流されて来たような雨粒が顔を叩く。 ふわふわした雨粒は傘をさしても変わらず、微妙な感じに頭や顔を濡らした。
「いっそ差さないで行く?」
空を仰ぐクリハラが水色の傘を畳む。
「だな・・・風邪引く季節でもねぇし、」
習って、俺も傘を畳んだ。
けれど、暢気にぶらぶら歩く天気でもなく、ふと思いつき俺はクリハラの腕を引き、コッチコッチと横道を反れた。
「な、何? 寄り道?」
おそらく初めての行路にクリハラが辺りを見回す。
「いや、近道なんだよ。 ココ突っ切るといつもより2〜3分早い。」
直に懐かしい光景が広がった。
が、鮮やかだった遊具は色褪せ、ブランコの鎖は錆が浮き、椅子は端っこがケバケバ古びていた。 そして何よりも、あの、カバの遊具は姿を消している。
「随分変わったなぁ、」
思わずそう漏らし横を見ると、クリハラは数歩後ろで足を止め、じっと公園を見詰めていた。
落ちかける夕日の朱が雨雲で赤黒く濁り、華奢な横顔に貼りつくレンズが、どことなく不穏な色調を弾いて表情を隠す。 何とは言えないけれど、どことなく声を掛け辛いような雰囲気がした。 その微妙な緊張に戸惑いながら、俺は何とはなしにあの 「ハルナ」 の話をクリハラに語る。
あの雨の日の事。
ここで、カバの遊具の中でお姫様に出会った事。 真面目に自分ちの子にするつもりでいた事。 だけど戻った公園に姿は無く、ミゾレの中走り回り熱を出し、それ以上に二度と会えない事が辛く、今でも会いたいと想い出す事。 そしてその想い出のウサギを見つけ、思わず買ってしまったのが 「ハル」。
「おっかしいんだけど、俺、あれから好きになる奴みんな、そのハルナに似てるんだよな・・・恐るべし初恋。」
「初恋?」
ずっと黙ってたクリハラが小さく聞き返した。
「あぁ、うん、初恋。 もし俺に文才があったら、これで凄い感動作書けるなぁって思うよ。 もう、滅茶苦茶強烈に初恋だし。」
ホントに初恋ってのは、強烈だとしみじみ俺は思う。
こうして男のクリハラにマジ惚れするくらいにあの初恋は強烈だったのだと、あぁ言えるものなら告ってしまいたいと、久々に落着き無くく俺は隣のリハラを意識していた。
そのクリハラはといえば何故か無口で、黙って横に並んで歩いている。 沈黙は緊張を煽り、緊張とは即ち 俺は、俺は、俺は と主張する、でしゃばりな自意識の増長に他ならない。
だからこそ、何か話そう、何か言わねばと俺は小さなパニックに陥る。
蝉の声がジリジリと、動けない俺を馬鹿じゃねぇの? と急かした。
「店、今日忙しかったか?」
もしかしてどっか具合悪いとか、調子悪いとか、
「ううん・・・・日曜はそうでもない・・・」
いつも通りの穏やかな口調。 どこか悪そうな苦しさも無く、何かに腹を立てている感じでも無かった。
けれどそれきり、また、奇妙な沈黙に俺たちは突入する。 なんだ? なんだ? なんなんだ? そう意識すればするほど、俺は自意識のガムテープにグルグル巻きにされて行く息苦しさを感じた。 そしてそれは、俺の家に着いても続いた。
「ねぇねぇ、クリハラ君、なんか元気ないよ〜?」
食べ頃の鶏団子だの白菜だの蟹足だのをテキパキ菜箸で取り分けていた姉が、 「ハイ」 とクリハラに小皿を差し出して言う。
「エー? そんな事無いですよー ・・・・お腹空き過ぎたのかな?」
答えるクリハラは、曇るから眼鏡を掛けていない。
初めて見る眼鏡無しのクリハラは、母親や姉がカワイイだのイケてるだの大はしゃぎして弄り回していたが、確かにこう、ますます意識し捲くる感じに美人度が上がっていた。 どことなくトヨンとした視線は、良く見えてないせいだとわかっていても、ドキッとするほど色っぽい。 加えてあんまり喋らないから、黙っていると 「薄倖、かつ儚い」 という初期イメージが、再び俺の脳内ビジョンにムクムクと広がった。
鍋はクリハラが来るというので、蟹足が盛大に放り込まれた豪華寄せ鍋だった。
だのに俺は、何だか食べた気がしなかった。 気もそぞろで、味わう余裕なんか無かった。
そんな風に食べた気もしないまま、雑炊を啜り、ご馳走様と皆で箸を置く。 食後のお茶を運んできた母が、クリハラに泊まって来なさいよと言った。
「明日はお店に出なくても良いんでしょ? だったらこのままお風呂入って、ノンビリお泊りしちゃいなさいよ」
グッジョブ、お袋!
そうだよ、お泊りだよ、大接近の第一歩だよと大興奮の俺は、心の尻尾を頭の悪い犬のようにバタバタと振る。 けれど肝心のクリハラはといえば、今日、なんだかおかしいのだ。 なんだか違うクリハラは、にこにこ提案する母親に覗き込まれ、条件反射のような曖昧な笑みを浮かべる。
「でも・・・俺着替えとか、手ぶらで来ちゃったし・・・」
「やぁだ、そんなのシンに借りれば良いじゃないねぇ? 大きい分には問題無いし、ね? シンッ、綺麗なの貸してやんなさいよッ!?」
そんな噛み切れないクリハラを、姉が勢いでぐいぐいと押した。
姉の勢いに押され、クリハラは ハァ と頷き、俺をちらりと見た。 無意識なんだろうけれど、何かを促すような、何かを確かめるような。 だけどすぐにそれは微かな困惑に変わり、俺は泊まれとクリハラに言いたかったが、なまじ下心があるので素直にそれを言い出せないでいた。 逡巡する俺は、茶を飲む振りをして逆にクリハラの出方を伺う。
沈黙は、ほんの数秒の間だった。
「それじゃ、お言葉に甘えます。 ・・・なんか居候みたいでスミマセン・・・」
期待満々の女二人に微笑んで、クリハラは何度か短い礼を言った。
そうして眼鏡を取り出して、スッと掛ける。 それを切っ掛けに俺は席を立ち、「部屋行ってようぜ」 とクリハラを促す。 「そうだね」 とクリハラは茶碗を重ねた。 「そのままで良いわよ」と盆を持った姉が言い、「ご馳走様」と俺らは茶の間を後にした。 「お風呂沸いたら呼ぶわね〜」 と、後ろから母親が声を掛ける。 変じゃない。 何も変じゃないし不自然でもない。
後ろのクリハラに 「沸いたら先入れよ」 と振り向かないで言った。
「うん、」
どんな顔してそう言ってるのか、何だか見れなかった。
よくわからない緊張は部屋で二人きりになると更にそのぎこちなさを増し、間を持たせようと入れっぱなしのCDを流しても、ハルを部屋の中放しても、とりとめも無くどうでもいい事を話し捲くっても、途切れる沈黙に厭な汗を掻き、得体の知れない焦燥はジリジリと俺の後ろ頭を焦がす。 楽しいんだか楽しくないんだか。
クリハラが泊まる事を、確かに俺は喜んでいた。 願ってもないラッキーな筈だった。 だのに今はその事実が黒雲のように立ち込めて、見えない向こうにジタバタうろたえている俺。
どうしちゃったんだよ? 何だよコレって、何だ? 何?
だけど、それは下心ある俺のせいばかりでもない。
やっぱりクリハラは変だ。今日のクリハラは何か変だ。返事をしない訳じゃない。 怒っているという訳でもない。 いつもの穏やかな、品よくおっとりしたクリハラなのだが、でも、緊張が走る。 ピリピリした緊張がクリハラを見えないベールで包んでいた。 それは近付こうとする俺をピリリとさせる。 クリハラ自身も、ピリリと構える。
「なぁ、なんかさ・・・・」
思わず漏らした言葉に、何でもない言葉に、クリハラが動揺したのがハッキリとわかった。
「やっぱ、なんかおまえ変じゃない?」
「え? ・・・そう? 別に変わんないよ・・・普通・・・」
クリハラはほんの少しこちらを見たきりで、膝の上のハルをやわやわと撫でる。
その一瞬の眼差しが、酷く心許なかったのは俺のせいなのだろうか?
「なら良いんだけど。 なんか、うん、さっき公園とこで詰まんない語り入れちゃったりして、マァ、そういうのとか、何か、俺不味い事しちゃったかなって・・・・」
「・・・ごめん、でも・・・違うから、全然そんな事ないか あ、」
「うわッ?!」
突然ピョンと、ハルがクリハラの膝から飛び降りた。
ハルは一目散にゲージに向かい、走り際スタンドライトのコードを後ろ足に引っ掛けて引く。
人工衛星みたいな形をした長い四本足のスタンドは、先週うっかり蹴り倒し、折れた四本目をぞんざいにテープで補強して使っている不安定な代物だった。
飛び込むように、倒れたスタンドに両手を伸ばす俺。
咄嗟にハルに身を被せるクリハラ。
俺の右手は傾く丸いテカテカを支え、バランスを欠いて床に付いた左手、それは図らずも床に張り付くようなクリハラを上から抱き竦めるような体勢で、
細い背中が一瞬で強張るのを、自分の身体で感じた。
俯く白い項がみるみる紅潮して行くのを、息が掛かりそうな至近距離で見る。
「セーフ・・・・」
そう言って、俺は何でもないようにスタンドを元に戻す。
そして俺の下に居たクリハラが、ビックリしたね・・・・ とハルをゲージに戻す。
けれど俺らはもう、会話どころではなかった。
もうそれどころじゃぁなかった。
せめてもの救いは互いに向き合っては居なかったという事。
その時の顔を見ては居なかったという事。
部屋はより深刻に、本格的な沈黙に沈む。
耐え切れず、何か言わねばと口を開き、また閉じ、無意味に膝を摩ったり部屋を気にしたり、俺らは逃げ場のない居た堪れなさの中に居た。
そのギリギリから先に抜けたのはクリハラだった。
「あ、あのやっぱ、」
「え? あ、うん、なに?」
「う、うん、あの、折角そう言って貰ったんだけど、あの、やっぱり俺、今日はこのまま家に戻ろうと思って、」
殆ど視線を合わせないクリハラの指は、落ち着きなくTシャツの裾を捻る。
「そ、そう? ま、あぁ・・・急だしな、そっちの都合もお構いなしってのもな・・・・」
「いや、俺はあのうん・・・別にないんだけど・・・伯父さんの様子とか聞いときたいから・・・うん・・・だから・・」
勘だけど、それは言い訳だと思った。 嘘だなと思ったけど、俺もその嘘に乗る。
「だよな、うん・・・ また今度、今度はちゃんと前もって決めなきゃな?・・・・・」
母親と姉に謝っておいてくれと念を押し、ハッキリしなくてゴメンと謝りながら、俯くクリハラは足早に玄関へと向かう。 敢えて誰にも声を掛けず、俺はクリハラと門柱の前まで出た。
「じゃ、またな、」
手を振り笑顔を作る俺は、どうか不自然じゃないようにと内心冷や冷やしている。
「じゃ、また」
ご馳走様と頭を下げ、クリハラは背中を向けた。
そして振り返らない背中は直に、夏の蒸し暑い夜に紛れる。
そして俺は溜めていた息を、長く深く吐いた。
俺は、ホッとしていた。 クリハラが帰ってくれた事をホッとしていた。 何故? 何故っていうか、わかってるけど、正直、まさかそこまでマジになってる自分に驚く。 沈黙と緊張の中、俺はその事実に気付いた。 それ故、あの緊張には耐え切れなかった。 あの場に居続ける事がどうにも出来なかった。
が、それは俺ばかりではない。
そもそも俺はクリハラをどうにかしたいと思っていた。 ごく普通の恋人同士のように、それまで付き合った女の子とかと同じように、触れたり抱き締めたり、出来ればそれ以上の事をクリハラと試みたいと俺は思っていた。 いや、思っている。 けれど、それをギリギリで止めてたのは俺だけの一人相撲だったからで、押され引かれる力が無ければ俺は多分そのままジリジリ突っ立つだけの時間をまだまだ過ごせたんじゃないかと思う。 けれど、力が加わってしまった。 いきなり押し出し、引き寄せたのは他でもないクリハラ自身だった。
スタンドが倒れたとき、母親に泊まりを促されたとき、いやそれよりもっと前だ、もっと前、俺んちまで向かう辺り。 公園での何か? いやわからない。 何が切っ掛けか、何がクリハラに起こったのかはわからないけれど、あの辺りからのピリピリした緊張感は、俺自身経験があるし知っている。 それはつまり、意識のし過ぎ。
例えばそう、好きでしょうがない誰かと二回目とか三回目のデートで会話が途切れた時、ふいに二人きりになった時。 そんなちょっとした瞬間に、チリチリ後ろ頭のところが焦げるような、相手に何か期待をしている時のあのチリチリ感。
さっき俺たちの間にあったのは、正しくそれだと俺は確信する。
無口になったクリハラ。 ぎこちない沈黙。 上の空のようで、なのにピリピリこちらを意識している余裕の無さ、触れ合うアクシデントに見る見る赤くなった項と、その後いきなり帰ると言い出したその、らしくない動揺。 そら、全部に説明が付く。 クリハラは俺を意識しているのだ。 クリハラは俺を意識している。 尤も、それが俺がクリハラを想う感情と同じ種類なのかどうかはわからないが、クリハラは俺を意識しててただの友達以上の何かを感じている。 でなきゃ、さっきのあのぎこちなさって何なんだろう?
じゃぁもしかして、俺にも可能性はあるんじゃないか?
クリハラと、俺と、この先平行線が続くのではなくもっと、いやホンの少しでもそれは微妙に角度を変え、やがて、うんと先にでも、もしや俺らはどうにかなるような、まさかの万が一でも、ちゃんとお付き合いくらいには進めるんじゃないかとか。 そんな俺の荒唐無稽な望みは今や、全くの可能性ゼロでは無くなっていた。 けれど落ち着け落ち着けと、俺は勇み足する自分にブレーキを掛ける。 焦っちゃいけない。 クリハラの 「意識」 が好意のみだとは限らないのだから。 単に俺の感情に気付き、性的な接触を警戒してるだけかも知れないのだから。
だから、逃げるのか留まるの跳ね除けられるのか触れ合えるのか、俺は慎重に見定めなくては。
逃げ足の速い臆病なウサギを捕まえるように、より慎重に振舞わなければ。 さりげなくさりげなく普通。 普通を装う。 装いながらも意識する。 意識するけど、飛び出ちゃいけない。 何しろ先は長い。 そしてもしもこれでヘマをして逃げられたなら、逃したらもう、確実にその先はないだろう。
ピョンとダッシュで逃げるクリハラはきっと、物凄く素早いに違いない。 だから、
だから慎重に。
ウサギを怖がらせてはいけない。
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