** 毛玉夏工場 **
#5.
ギクシャクした土曜から一週間が経った。
翌日の日曜 今日は行けないから というメールが来て、早速お別れかよと落ち込んだが、仕事帰りに寄った月曜、湿布を差し出したクリハラは全くいつもどおりのクリハラで、一先ずの第一関門突破に俺は胸を撫で下ろす。 そうして交わされるのは、今日の出来事、世間話、ウサギの事、いつもと変わらぬ雑談。 いつも通りの簡単なメールも途切れる事無く、木曜日に発泡酒持参で訪れれば、冷えた缶を傾け美味そうに喉を鳴らして飲み、はぁと人心地付いたクリハラは 「ハルに会いたいな」 と溜息混じりに笑った。
別段、奇妙な沈黙やギクシャクした変な間もなかった。 だから、それまで通りに俺たちは過ごした。 けれど、注意深く流れを追えば時折、チリチリ焦げ付くような瞬間はあった。 確かにあるのだ。
並んで座った肘が互いを掠める瞬間、不意に目と目が真正面でぶつかった瞬間、次の会話に移る僅かの沈黙を最初にどちらかが破る瞬間、俺たちは早口になり、セッカチになり、落ち着きなくなり、そしてすばやく平静に戻る。 平静に戻るべきと思っていたから。 俺たちは互いを意識してたけど、それを隠そうとする術を覚え始めていた。 互いに自分を勘付かれまいとして、意識してるのを勘付かれまいと四苦八苦して、だけどもそんな水面下でのモヤモヤはそのままに、結果、一見フラットな関係が何事もなかったかのように俺たちの間では続いていたのだった。 たいした連係プレイだと思う。
だけど、チョッと俺のほうが積極的だ。
今よりほんの少しの切っ掛けを掴む為、とっておきの小道具を俺は入手した。 入手先は姉。 ケチな姉が珍しく俺にくれたそれは、レストランの食事券だった。 随分前に会社で貰ったらしいが、来週末までの期日、どうにも予定が付かないのだという。 店は最近雑誌にも紹介された食べ放題が売りの、カジュアルなイタリアンらしい。
「一人一枚で半額、それほど高い店じゃないし社会人なんだからケイちゃんの分は奢ってやんなさいよ。 死ぬほど食べても食べ放題かつ半額ならあんたも安心でしょう?」
「お、おう、サンキュ」
「いい? くれぐれもあたしからのプレゼントだって、ケイちゃんに言っといてよ。 感謝されんのはあんたじゃないんだからね!」
「な、馴れ馴れしくケイちゃん呼ぶなッ!」
恩着せがましく念を押されるのには閉口したが、安月給の一年目、50%オフは正直有り難い。
早速、いそいそクリハラにメールを打つと 「平日、水曜の夕方では駄目ですか?」 と返信が来た。 平日だろうがなんだろうが俺は全く問題ない。 意外とすんなり誘い出せた事に、大満足だった。
そうして水曜の夕方、会社帰りの俺はJRの改札でクリハラを待つ。
待ち合わせは七時。
退社間際の切れない電話対応に梃子摺り、駅に着いたのは約束を五分ほど過ぎた時間だった。 けれど、そこにクリハラの姿はない。 まだか? わらわら行き来する雑踏の中、やせてて、黒髪で、白い小さな顔に細いフレームの眼鏡を掛けて・・・クリハラのディテールを探して、目を凝らす俺。 やがてホームにまた電車が着いたのか、どっと押し寄せる帰宅ラッシュの波。 その勢いに心許なげに流されてくる不安げなクリハラを、見つけた。
「おい!」
伸び上がり手を振れば、途端に緩む表情。
「あぁ良かった、こっちの電車はわからなくて、人も凄くて、このまま辿り着けないかと思ったから・・・・・・」
「あ、しまった! クリハラ、こっち知らないんだったか、」
「でも何とかなったから。 電車に乗る時 Y駅に行くか? って並んでた人に訊いちゃったし、降りてすぐもそこらの人に 西口どこ? ッて訊いて・・・・。 結構みんな親切。」
にこにこしていたクリハラは、早足で来たのか珍しく汗ばんでいた。 シャリ感のあるシャツとズボンはレトロな雰囲気の象牙色で、ともすれば野暮ったくなる夏の正統派だった。 けれど、クリハラが着るとやけに品良く垢抜けて見えた。
「なんか、大正時代の金持ち御子息みたいだな、」
思わず感想を述べると少し赤くなり、
「お、お洒落な所だって言ってたし、だったらジーンズじゃ入れないとこかもよッて伯母さんが言うから、そりゃヤベさんは会社帰りだからスーツだけど、俺、ちゃんとした服なんか持って来て無いし、だから、しょうがないから伯母さんがこう云うのは流行も無いだろうって伯父さんの若い頃のをだしてくれて、だから、もう・・・」
四十年近く前の服って既にアンティークだよねぇなどと、仕切りに言い訳するのがやっぱ可愛過ぎ・・・と、どうにも頬の緩む俺だった。
なんだか幸先良いような気がした。 なんだか俺ら、普通にデートっぽいよと思った。
何より力が良い感じに抜けてる。 俺もクリハラも、こんなに肩の力が抜けたのは数日振りだった。
あの鍋の日以来、俺らは目ない糸で括られたように常にピクリと緊張してたから、たまにこうしてウサギとか俺んちから離れるのも良いのかなぁと思った。 考えると一ヶ月以上つるんでた癖に、俺もクリハラも自宅周辺から外に出掛けた事がなかった。 いい歳した若い男二人、お家でご飯食べてウサギ可愛がるだけの夏というのもちょっとアレだったかも知れない。
店は大通り一つ反れた裏通りの、小洒落た店が並ぶ一角にあった。
レンガ風のタイルが埋め込まれたビルの三階、突き出した飾り窓に小さなイタリア国旗が揺れる。 一階はオープンカフェ、二階はショットバー、なるほどこれは雑誌に載りそうな店だと思ってた目の前、 「あーココじゃん!」 若い女の二人連れがカフェの横を回りビルのエントランスへと向かう。 カツコツ小気味良いユニゾンをする、仲良し双子みたいなミュールのヒール。 どうやら彼女らも、俺たちと同じ店に行くらしい。
「な、何か緊張してきた・・・・・・」
力なく眉尻の下がったクリハラが、助けを求める目をして呟く。
「別に緊張するほどでもないだろ?」
「するよ、向こうにはこんな店ないし・・・言わなかったっけ? 俺んちの回り住宅と果樹園しかないよ。」
「いいじゃん、今どき田舎は流行りだし」
「どこで流行ってるんだか・・・・」
笑顔が戻ったクリハラを促し歩き始めた数歩、と、早足の女の子が俺たちを追い抜くようにして振り返り叫ぶ。
「早く! 早く!」
呼び掛けられたのは両親らしい男女。
派手だなと思った。
普通の会社員じゃなさそうな、水っぽい匂いのする男女。
「走ってくほどの店じゃないでしょうよ、」
けだるそうに呟き、母親が女の子を追う。 プンとクシャミが出そうな香水の残り香。
父親が吸殻を落とし爪先で踏みにじる。
幾分こけた頬を撫でる、力仕事と無縁の指。 見た目ほど若くない、ともすれば五十近い端正な顔立ちに隠し果せぬ内面の崩れが滲む。
そしてビルのエントランスを見やる瞳が何気なく俺らを横切り、戻り、固まる。
「・・・・・ケイ・・イチ・・・か?」
見開いた目は瞬きもせず、俺を通過している。
男はクリハラを見てる。
まるで幽霊でも見るように男はクリハラを見つめ、そしてそのクリハラは紙みたいに白い頬をして自分を見つめる男を凝視していた。
誰?
知りたいけど言葉を挟む隙は無い。
固まる二人の間にはおいそれと、言葉を挟めぬ緊張があった。
「ねぇ、なにやってんのよう!」
エントランスのブロンズ像の影、焦れた女の子が父親を、男を呼ぶ。
「さ、先行っててくれ、ちょっと、あぁ、」
男は軽く手を振り、追い払うように家族を先に行かせる。
女の子はジロリと俺らを眺め、つまらなそうに奥へ引っ込む。 連れを先に行かせて男がクリハラに近付く。 アスファルトに貼り付いたように動かないクリハラ。 男もクリハラも、まるで俺なんか見えていない。
俺の知らない何かが、二人の間で静かに細い糸を手繰る。
「・・・・ひさし・・ぶりだな・・・・」
「・・・・・・」
「・・エミコとは、会ってるのか?」
「・・・・会ってません・・・・」
「そうか・・・まぁ・・・・・」
言葉が途切れ、先に目を逸らしたのはクリハラだった。
一瞬ほぐれた緊張に小さく息を吐く、男。
俯くクリハラの表情はここから見えない。
見えないが、血の気の無い顔色は尋常ではなく、だらりと下がった腕の先、軽く握られた拳が微かに震えている。そして男はガサゴソ懐を探り、素早く財布から数枚の紙幣を取り出し、俯くクリハラの手に捻じ込むように握らせる。 咄嗟に指を開こうとするクリハラの手の平を、そうはさせまいと男は固く両手で握り締め
「悪いがもう俺はいないと思ってくれ、お前もおとなだろ? わかるだろ? 忘れてくれないか? コッチの生活がもう軌道に乗ってるんだ、あの頃の俺はもう、なかったことにしたいんだ・・・」
男は笑おうとしていたが、引きつり歪むそれは卑屈で醜悪な痙攣。
余裕の無い早口で囁かれた懇願は、一切の拒否権を許さぬ自分勝手な脅迫だった。
トンと突き放すように男はクリハラを解放し、そそくさビルの中へと向かう。
残されたのは呆然としているクリハラ、そして、傍観するだけの俺。
紙みたいに真っ白な顔。
「・・・なかったこと?・・・・・・・」
重い空気と一緒に漏れる、消え入りそうな言葉、
「お、おいッ?!」
アスファルトに数枚の紙幣が散った。
踵を返す背中の鮮やかな残像。
突然走り出す背中をつんのめりそうに追いかける俺。 早い。 夜に浮き上がる白い背中を追いかけ、雑踏を掻き分け、うねうね走る、走る、走る、が微妙に追いつかない、クリハラは速い、やっぱり早い、まさに脱兎の如く、クリハラは走る。 走る、走る。 駅からまるで反対に、闇雲に路地を曲がり、どこだかもわからぬ住宅街を捕まったら死ぬとでも言うように後ろも振り向かず走り抜けるクリハラ。
ゴールなどない、ただ逃げる為だけの死に物狂いの迷走。
逃げる白ウサギは泣いているんだろうか?
けれどクリハラの遁走は電池が切れるように止まった。
一通の標識の下、身体を折り曲げ荒い息を吐くクリハラに近づくと、その数歩手前、路上に砕けたメガネの残骸があった。
「眼鏡・・・もう駄目そうだぞ?・・・」
拾い上げ、わざと何でもない風に声を掛ける。
「すっげぇ走ったな・・・ココどこ?」
俯く横顔を覗き込み微笑もうとしたが、こっちも息が整わず、あまり上手く行かなかった。
俺らはそのまま路上に立ち尽くしていた。 訊きたい事も知りたい事も言って遣りたい事も山ほどあったが、それは今するべき事ではない。 俺たちは一つの言葉もなく、荒い息を吐き、随分そこに突っ立っていた。
やがて、互いの呼吸が平静さを取り戻し、代わりに訪れるのは沈黙。
くの字に折り曲げてた身体を、クリハラがゆっくりと起こす。
路肩の街灯に照らされて、放心したような無表情が魂のない作り物みたいに浮かぶ。
「クリハラ?」
「・・・・・・やさしいんだね」
凝視するガラス玉の目。
「優しくしなきゃいいのに」
どこかで犬が鳴いた。
「今だけが愉しいだなんて、残酷過ぎるじゃない?」
感情の篭らない棒読みの言葉。
表情の無い白い顔は俺の知ってるクリハラとは別物のように思えた。
瞬間、ゾッとして触れようと伸ばした手が激しく払いのけられ、対峙する悲鳴を上げそうな瞳。
「クリハラ?」
クリハラはギリギリに居る。
「だったらしなきゃいいのに、」
「何が?」
「どうせ最後にいらないって言うなら、思い出せば苦しくなる気持ちなんか残してくれなくていいのに、」
夜のウサギは鳴かないけれど、
「忘れろなんて言うくらいなら、なら、最初から冷たくしてくれればいいのに、」
苦しい言葉を飲み込み震える。
「なら、忘れたくないし手放したくないんなら、優しくしてもいいのか?」
言葉は驚くほど簡単に流れた。
「俺は、忘れない。 忘れないし、おまえを・・・・クリハラを手放したくない、夏が終わってもさよならなんて言わない、ずっと言いたくない、」
言うもんか、期限付きなんかクソ喰らえだ、俺は先に進む、このままずっと先に進む。
堰き止められてた気持ちは溢れる水のように。
「俺は、おまえの事何一つわからないけど、だけど世の中そんなに酷い事はない。 少なくとも俺は、そうじゃないから、 」
「だ、だって、」
飴玉みたいな目が答えを捜し逡巡する。
自分で自分を抱き締めるように、ここに引き止めるように回された腕。
さぁ聴けよクリハラ、これが本音だ。 これが俺だ。
「だから手放したくないし、忘れる事なんか出来ない。 俺はクリハラに優しくしたい。 正直、優しくないような事もしたいと思っている。」
聴けよ、クリハラ、
見開く瞳を手放さないように、ゆっくり二秒を数えて言った。
「おまえが好きだ。」
おまえが好きだ。
言葉はクリハラに届いた。
届いた筈。
言葉を受け止めたクリハラの飴玉みたいな瞳が戸惑い、うろたえ、ついには斜め下に落とされた視線。
視線を落としたままのクリハラが、消え入るような声で囁く。
「・・・俺も・・・です・・・・・・。」
首筋に、頬に、瞼に、みるみる朱が刷かれて行くクリハラは見ものだった。
とりわけ真っ赤になった耳朶に思わず触れて、その意外な熱に驚き、愛しくて、華奢な後ろ頭をトンと引き寄せて抱く。 飛び込んで来た身体は、ウサギみたいに震えた。 臆病で、怖がりな、ウサギみたいなクリハラを抱き締める。 身長差の少ない抱擁は、体温が解け合うほどにぴったり俺たちを重ねる。
「・・・ケイ」
初めて呼んでみた名前。
反射で僅かに見上げた顔を両手で包み、そっと唇を落とす。
逃げるかなと思ったが、クリハラは逃げなかった。
触れ合うだけのお子様なキスを何度も、何度も。
おずおず回された腕が、俺の背中を滑る。 薄く開いた唇から、キスの合間に漏れる密やかな吐息。 どちらのものかわからない、気忙しい鼓動は頭を真っ白にする。
と、横道からの光にサッと俺たちは離れ、何事もない顔をして通り過ぎる自転車を待つ。
やはりああいうのも勢いだ。 水を差され、我に返るといきなりカァァッと頭に血が昇った。 夜道とはいえ、男同士で、道の真ん中で、いちゃついて、キスまでして・・・。
「・・・・腹、減ったな?」
どうでも良い事を言いながら、俺はクリハラと歩いた。
触れそうで触れない微妙な距離で並び、気恥ずかしい沈黙をまぁまぁ幸せだと思いつつ、俺は喋らないクリハラと並び、駅と思しき方向へと歩いた。 直に、見覚えのある裏通りに出る。 後一つ二つ曲がれば、多分、振り出しの裏通りだろう。
そんな時、クリハラが言った。
「喉、渇いた。」
そうして視線を遣った先、20メートルほど戻る路肩をぼんやり自販機の光が照らす。
「ちょっと待ってて、」
すぐさま逆送して自販機に向かう。
走りながらふと、らしくないと思った。 クリハラらしくない。
あぁ言う強請り方はクリハラの遣り方じゃない。 だけど、考えれば今まで付き合った女の子たちも、デートの時はああいう強請り方をしょっちゅうした。 それまでおとなしかった子もしたから、多分、それは恋人同士の気安さなんだろうと勝手に解釈して満更でもなく自販機の前で小銭をガサゴソと捜す。
捜しながら何を飲むか尋ねようと振り返り、
「ッ・・・・・クリハラッ!?」
振り返ったそこに、クリハラは居ない。
走り戻り探し回る路地裏、暗がり、大通りに出ても、そのママ駅前まで戻っても、クリハラは居ない。
どこにも居ない。
途中何度か掛けた携帯は繋がらず、メールの返事もない。
またかよ? また逃げられんのかよ? そんでもう会えないのかよ?
即座に想い出したのは、ハルナとの忘れ得ぬ別れ。 けれどあの時とは違う、俺は答えを貰った。ちゃんと栗原の答えを貰っているのだ。そして何より、クリハラならあの薬屋に居る。居場所はわかってるのだ、どこにいるやらわからないハルナのような幻ではないのだ。 けれど、もうこれきりだったらどうしたら良い?
半ば呆然としたまま、帰省本能で俺はいつもの帰り道を進む。
途中、薬屋の前で足を止めた。 店のシャッターは降り、家屋は静まり返っている。 呼び鈴を鳴らし訊ねようかと思ったが、時間も時間で躊躇ったあげく止めた。 代わりにもう一度携帯で呼び出し、メールを打ったが、どちらも無しのつぶてだった。 家に戻り、さっさと風呂を浴び、布団に潜り込んでからも考えた。
何が、いけなかったんだろう?
或いは、何がクリハラをああさせたんだろう?
あの男は誰だ?
俺の知らないクリハラを知っているあの男は誰だ?
そういえば、夕食を食べてない事に気付いた。
気付いたが、不思議と腹は空かなかった。
それより煮え切らないモヤモヤで腹も胸も一杯一杯だった。
そして寝付けないまま朝を迎える。
**
「楽しかったァ?」 と能天気に尋ねる姉を無視して、まだ開いてない薬屋の前で少し立ち止まり、またメールを打ち、重い気持ちで会社に向かう。
どんよりした通勤は、久しぶりだった。
会社に着き、引継ぎ用のノートを持ち部屋に入る。 入るなり、新人アドバイザーのムカイさんに呼び止められ 「今日明日と、一緒に訪問を体験してみないか?」 と言われた。
「訪問は、今回研修プログラムに入ってないんじゃ・・・」
訪問とは、電話で対応しきれないお客、多くは明らかにこちらに不手際が会ったお客の家を実際訪ねて謝罪する業務。 はっきり言って不人気ナンバーワン業務で、当然俺はそんなのしたくはなかった。 しかもそれはテレホンアンサーの仕事ではない。
けれど、ムカイさんはニコニコと言うのだ。
「そうなんだよね。 でも課長がヤベ君には経験させとけって、俺もそれが良いと思うんだよねー。 何かヤベ君って、ここでホープになれそうな予感。」
評価は嬉しいが、気乗りはしない。
けれど俺が返事をするのも待たず、ムカイさんはテキパキ持ち物を揃え、チャリンと車のキーを揺らした。
「じゃ行こう! 詳しい説明は車ン中でね。 そうそう、お昼は「上様」で食べれるよぉ〜!」
もう、付いて行くしかなかった。
そして噂に違わず訪問はきつかった。
謝罪は電話で慣れてると思ったら大間違い。 生で苦情を言われるのは、かなり精神的に抉る感じだった。 そして向き合う事で逃げが通用せず、より確かな情報と知識がなければと太刀打ちできない職人仕事だと思えた。 さしずめムカイさんはその道のプロで、ホワンとした外観に騙されてるとコリャ凄いぞと感心する。
そうして朝から回ったのが四件。 帰りはすっかり日が暮れていた。 会社に着いて、それから報告書を纏め、終わればとっくに8時過ぎで、入社以来初めての残業手当の申請を出した。
疲れた身体を引き摺り家に帰る道程、立ち寄る薬屋は、またしてもシャッターが下り既に閉店した後。 クリハラからの連絡はない。 メールの返信もない。
どうしちゃったんだよ?
考えれば不安でワーと叫びそうになる。 だけど、これだけメールや電話でコンタクトを図り、更にと進むのはまるでストーカーじゃないかと思えた。 待つしかないか・・・・ 遣り切れないけれどもうしばらく連絡を待つ事にした。
でも、その日ついにクリハラからの連絡はなかった。
そして次の日も訪問は朝からハードに展開され、俺は雑巾のようにくったりと疲れる。 もうこのまま寝たいと座り込むデスク、最後の一枚の報告書を書きムカイさんに 良し! と言われたのは昨日と同じ八時過ぎ。 そう言えば携帯を切ったままだったと取り出し、着けた途端に目に飛び込む受信記録。
メール・・・・クリハラからのメール。
件名は『ありがとう』
『この間は急に帰ってしまってすみませんでした。 短い間でしたが、楽しかったです。 忘れられないくらい楽しかったです。 色々、有り難う御座いました。 お元気で』
「お、お元気でって、何だよ?!」
道端での独り言に、近くのサラリーマンが怪訝な顔をして通る。
有り難う御座いましたってなんだ? お元気でってそれは、まるでサヨナラするみたいな、サヨナラの・・・。
居ても立っても居られない。 全力疾走で駅まで走り、一々律儀に停まるなと停車駅にまで苛つき、再びダッシュで向かう商店街の端、シャッターの閉まる薬屋の前。 今日こそはと裏に回り、玄関の呼び鈴を鳴らした。 静かな夜に陽気なチャイムの音が、やけに響いて聞こえる。 けれど、家は静まり返っていた。 いないのかなともう一度襲うとしたその時、バタバタ慌てる足音がして、ハイハイごめんなさいねぇと顔を出したのは店主の妻だった。
「えぇと、アラ? アナタあの、」
ヤベです、と名乗る。
途端に相好を崩す店主の妻は 「 あなた、ケイちゃんがホントに御世話になって・・・・」 そう言って有り難うねぇとふかぶか頭を下げた。
「や、あの俺は別に何もしてないです。 むしろ付き合って貰って俺の方こそ有り難いって言うか・・・。 で、クリハラ君は居ますか?」
とにかくクリハラに会おうと、小柄な肩越し廊下の向こうを覗く俺に、
「あらま、帰ったわよ、 I 県に、」
店主の妻は言った。
「うちのが一昨日退院してねぇ、まだ居りゃ良いのに出してくれって先生困らせたらしくって。 それでケイちゃん、じゃァ帰りますからって・・・・・。 まだゆっくりしてりゃァ良いのにねぇ、昨日、夕方の新幹線でバタバタ帰って行ったのよう、」
クリハラが帰ってしまった。
何で? 何故黙って帰る?
「なんでアナタに黙って行ったかしらねぇ?」
と、店主の妻も首を傾げた。
「あの子アナタと友達になれたのが嬉しかったらしくってね〜、こないだはご馳走様ねぇ、まぁ、朝から着る物がないだとか、電車は何乗るだとか大騒ぎして出掛けてェ、アッチに帰る前にご馳走食べてくんだぁって笑っててねー・・・・美味しかったのかいイタリアンてのは?」
曖昧に返事する俺は胸が詰まりそうになる。
あの日のクリハラを思い、そんなに愉しみにしてたのかと思い、なのにご馳走なんか食べれなかったのにクリハラは、多分、それを伯父夫婦には話していないのだ。 言えなかったのだ。 それはきっと、
「あの、エミコって人はご存知ですか?」
あの時男がクリハラに告げたエミコという名前。
クリハラが会っていないと言ったその名を、俺は店主の妻に問う。 すると、いぶかしむ顔で
「エミコ・・・・に、アナタ会ったの?」
逆に尋ねられ、俺は、あの日あった男とクリハラの遣り取りを不安げな老婦人に話した。
真っ青になったクリハラ。 そんなクリハラにお金を握らせて、忘れろと逃げていった男。
婦人はしばらく考え込み、ぽつぽつ話し始めた。
「エミコは義理の妹、亭主の末の妹なんだよ。 身内の恥だけども、親が年取って生まれた子だからって猫かわいがりして、いけないよねぇ・・・・」
そのエミコが駆け落ち同然で家を出て、クリハラを産む。
あの男は、クリハラに忘れろと金を握らせた男は、クリハラの実の父親だった。
「そうさね、八年近くは東京暮らしで、なんだろう、株? それで大儲けして、えらい羽振りが良いらしいってのは噂で聞いたけども・・・・デッカイ外国の車何台も乗り回してたとかねぇ。 なのに、ある日突然ダンナが子供連れてうちに押しかけて来てさ? 何だ何だって言ったら 『エミコが男と逃げた、子供引き取ってくれ』 って。 『どこの種かわかんないのを押し付けられちゃ迷惑だから、身内ならあんたら引き取れッ』 て凄い剣幕でさぁ・・・・。 子供の目の前でだよ・・・・かわいそうに、涙も流せないほど真青になってガタガタ震えて、まだ7歳になったばかりなのに。 堪らないねぇ。 うんと寒い日でね、沢山着てたけどケイちゃん、冷たいほっぺしててあたし、奥で暖かいモン飲むかいって訊いたんだ。 そしたらうんッて上がり込もうとした時コートがモソモソット動いて思わずあたしもキャァッて言って・・・・・・・ウサギだよ、変わったウサギでさ、ケイちゃんそれをコートの胸ンとこに抱いて隠してたのさ。」
「ウサギ?」
「そうそう、ウサギ。なんだか変わったオレンジみたいな茶色のウサギで、アハハ耳が長くないんだよ、へチャットしててさァ・・・父親が羽振り良かった頃買ったんだろ? ・・・・株なんか博打みたいなもんだから、大当たりの次は大ハズレ出すんだよ、そんなの素人だってわかる。」
ヘチャ耳のウサギ、オレンジのウサギ、そのウサギを抱いてた子供、7歳の小さなクリハラ、
「・・・・・ケイちゃんがウサギ隠してんの見つけて、父親はもう、そりゃカンカンで、捨てろ! その辺に捨てて来い! って、イイ加減におしよって問答してる間にサァーッとケイちゃんがウサギ抱いて雨の中出て行っちゃって。 大騒ぎして捜したら、この先の公園で震えてて・・・・。 さ、帰ろうッて手を引いたんだよ。 そしたら、迎えに来てくれるから、貰ってくれるとこ見つけたから行かないって言って、貰うってウサギの事かと思ったら自分が貰われるんだって言って・・・・。 あぁ、最後はシクシク泣くのを引っ張って戻ってね・・・・。 エミコもおかしい。 けどハルナさんもおかしいよ。我が子捨てる親がどこに居る?」
「は、ハルナさんッて、女の人じゃなくて?」
「いや、ハルナは苗字。 ケイちゃんの父親はハルナって言うんだよ。 そんで、その後クリハラ性に入って・・・。」
氷のように冷えた頬をして、雨の中蹲っていたハルナ。
経ちゃ耳のウサギを抱き締めて、赤い帽子、カナリアイエローのタートル、ネイビーのダッフル、帰る家がないと静かに泣いていた七歳の、あれはクリハラ・・・・
「後悔してるんだよ。 なんで嘘でも何でも、うちがこの子を育てる!うちが貰うッ!ッてあの時あの子の前で言い返して遣れなかったんだろうって。 うちも前居たところからコッチのバス通りに店を移して広げたばッかりで、二階に半分寝たきりの姑さん抱えてたからねぇ、可哀想だけど子供を育てる手もなかったんだよ。 どうにもならなかったんだよ。 だけどそしたらちょうど手伝いにきてた三男夫婦が引き取るって。 そこは子供に恵まれなくて、コレも神様の授かり者だって言ってくれてね・・・・。 そうでも言わなきゃ可哀想過ぎるだろ? あの年で親に捨てられるなんてもう・・・ そんで今頃お金で忘れろなんて言うのかね? 冗談じゃないよ、あの子、二度も親に捨てられるなんてもう・・・・・・」
店主の妻は涙ぐみ、寝巻きの袖で目頭を拭う。
飴玉みたいな目で訴えかけるクリハラ。 抱き締めたのはのはウサギみたいに震える身体。おずおず背中に回った腕、赤くなった耳朶の吃驚するほどの熱。
ちゃんと出逢えていたのだ。
俺はハルナに遭えた。 あの日見失ったハルナを再び見つけてこの手に抱いたのだ。
ちゃんと俺は出会い、それは新たに始まろうとしていた。
「帰る直前ね、ホームにあたしが見送りに行ったんだよ。 お菓子とお弁当とお茶と持たせてね、お小遣いもチョッとだけど渡したよ。 夏休みなのに済まなかったねぇって言ったんだよ、そしたらあの子良い顔で笑ってねぇ、 『すごく楽しかった。 こんなに楽しいのを、神様だって忘れろなんて言わないでしょう?』 って。 あぁ言わないだろう、そんなに楽しかったのかい? 辛くなかったのかいって・・・。 楽しいのは忘れないのが良いねぇッてあたしは言ったよ。そしたら、忘れないよッて笑って手ぇ振って行ったよ。」
思い出だけを連れてクリハラは帰る。
そりゃあんまりだろう? そこで終わらすなんてあんまりじゃないか? これからだろ?
これからなんだよクリハラ、すごく楽しかったって? あぁ俺も同じだよ、こんなに楽しくて切なくて満ち足りた時間、神様だろうが仏様だろうが頼まれたって俺は忘れてやらないよ。 やるものか、忘れるもんか、忘れられる筈がないだろ?
俺は初恋を今まで引き摺った男だ。 そして見事ココまで辿り着いた執念深いツイてる男なんだ。
そんな俺がおまえの事忘れられる筈がないだろ?
諦める筈ないだろ?
**
市街地からだいぶ奥に入り、景色がみるみると変わった。
地平線が見える風景。
くすむ色彩の民家はまばらに、放牧された牛がのんびりと草を食む。 それら合間にポツンポツンと黒い染みのように見える幾つかの小さな果樹園、一家が細々営むようなそれが草地の道標のように点在する国道をバスは静かに静かに走る。 やがてバスは小さな小学校前で停まる。 ひなびた数件の店が並んだ一応商店街らしき通り、それを道なりに歩き、公民館と書かれた小さな民家の路地を抜け、暫く歩くとこじんまりとした二階建ての瓦屋根が見えた。
表札には愛嬌のある手書きで 『クリハラ』
呼び鈴を鳴らそうとした瞬間引き戸が開き、ちんまり丸っこい女の人が アラ誰ですか? と見上げる。 向こうで仲良くなったのだと伝えると、その人はにっこり笑い、 ヤベシンイチ君ね? と俺の名前を当てた。
その人はクリハラの養母だった。
小さなクリハラを育ててくれた人。 家族に迎えてくれた人。
顔は似てないけれど、その品の良い笑い方はクリハラそっくりだった。
なぁ、クリハラ、おまえ愛されてるじゃないか?
酷い奴も居るけど、ちゃんと良い人もそこに居るじゃないか?
教えられたとおりに庭へ回る。 右半分にトマトやナスやキュウリがぶら下がる菜園。 左半分に何故か背丈の高いダリアが植えられた庭。 その庭先、縁側に転がっているクリハラを見つけた。
うたた寝しているクリハラ。
右手で身体を抱き、左手で膝に触れ、胎児のように丸くなった寝顔は寂しいから、だから俺はその頬に触れる位置、手にしたバスケットの中身をソッと置いた。
―― だから、寂しい事言うな、
ふくふくした毛玉がクリハラの頬を撫でる。
長閑で生温い夏の風が、ヘチャ耳ウサギとクリハラを慈しむように撫でる。
「・・・・クリハラ・・・」
もうじき目覚める君に、何を話そうか?
11/24/2004
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一目惚れなんかだとサイコー
と云うお題で書く。