** 毛玉夏工場  **

      
      


     #2.


不思議なもので満ち足りた時間があると、クレーム処理への対応も柔らかくなるらしい。

隣のブースの先輩に、最近調子いいじゃないと褒められた。 褒められれば満更でもなく、じゃぁもっと頑張ろうという気持ちが生まれる。 そう思い始めると、今まで厭だ厭だで対応していたけれど、暇を見て電話対応についてのマニュアル本を眺めたり、適格な説明が出来るように取扱商品について調べるようにしたりと、この仕事を前向きに取り組もうという意欲もじわじわと出て来た。 余計な焦燥がない分、相手の話をキチンと聞く事が出来るようになった。 すると相手も落ち着くのか、しつこいクレームに当たらない様になった。 そんな風に上手く行っていた。 


店員が言ったとおりハルは手が掛からず、ただただ愛らしい可愛いペットだった。 
だが研修も後二ヶ月を切った七月初め、ハルナとの生活が約一ヶ月を過ぎた頃、激しいくしゃみが俺を襲う。


 「うわ、なに?!」

仕事から戻ったら、部屋が凄い事になっていた。 


モワモワと宙を舞う毛だの、毛だの毛だの毛だの、綿毛みたいな毛玉がフローリングの上を無数に滑り、それが連発するくしゃみに舞い立ち、壮絶かつファンタジック。

 「ハル? オマエどうしたよ?」

ハルは俺の顔を見て、出してくれ出してくれとゲージの柵越しにじたばたする。 

と、その動きにまた新たにモワモワと浮き上がる細かい柔らかな大量の毛。 つまり、生え変わりだった。 毛足が長めのタイプだから生え変わりの時はちょっと凄いかも〜 と聞いてはいたが、まさかこれほどだとは思わなかった。 いや、思い返せばここ数日、豚毛のブラシを滑らすと今までになく結構な量の毛が抜けてはいたのだ。 そうだ、生え変わりにはゴムの専用ブラシを使えと言われてたっけ? 

取りあえず窓を開け、換気をして、ハルをそっと抱き上げると家の外に出る。 玄関先、豚毛のブラシでいつもより念入りに浮き上がる毛を梳いた。 が、それがキリなく抜ける。 しかも猛烈なクシャミがとまらない。 

その晩、夏で良かったと窓を全開で過ごす。 うとうとする暗闇、足元の壁際からは時折、カカカと掻き毟ってるらしいハルの物音。 大分毛を梳いたつもりだが、それでも断続的なクシャミで眠った気はしなかった。 クシャミしながら寝返りを打つと、身体のあちこちがギシギシと痛む。 あぁ、シップ貼り忘れたと気付いたが、そもそも今日の分のシップが切れている事に気付き、明日買わなきゃなと思った。 そしてゴムのブラシとやらも明日、必ず買わねばと思った。



                                  **


 「蜜柑ちゃん元気ですか?」

ペットショップの店員は、勝手に名前をつけてハルの事を尋ねる。 毛玉だらけの事を伝えれば

 「わぁ〜いよいよ抜け始めましたねぇ」

そう言って、いつもの餌だの脱臭シートだのに加えて平たい健康サンダルみたいなゴムブラシを手に取り、毛質を良くしてくれますから と、値の張る餌のサンプルをごっそり手提げに滑り込ませた。

 「正直ほっとしてるんです。 あの子、もし売れ残ったら業者に引き取って貰う予定だったんです。 小さくて可愛いのが売りでしょう? 大人になりきったらもう、あんまり商品にならないんですよ。 でも、それはなんだか、えぇ、仕事なんですけど私、とても嫌で・・・・」

可愛がってくれて有り難う・・・・・ そう改まって頭を下げられ、思わず連れられて俺も頭を下げた。 

なんだか、良い気分だった。 自分でも何かを助ける事が出来た事が嬉しかった。 そうして鮨詰め電車に揺られて20分、駅前商店街を抜けた住宅地の始まり、つまり商店街の最後尾にある小さな薬局のドアの前、ポンとボタンを押して自動ドアを開けた。 が、 「はーい」 と答えたのはいつもの老店主ではない。 もっと若い声。 でも姿が見えない。 誰? バイト? こんなこじんまりした店で?


 「すいませ〜ん」

声を掛ければショウケースの向こうでガサガサと音がして、ちょっとお待ちください と立ち上がり、腰を伸ばす若い男。 

 「あ、いらっしゃいませ、申し訳ありません、この下に五千円札が入っちゃって、」

 「五千円?」

真っ黒な髪に真っ白な顔。 まるでモノクロ写真のようなコントラストに見惚れていた一瞬。 細いフレームのメガネが華奢な骨格に蔦のように貼り付き、レンズが蛍光灯の光を疎ましそうに白く撥ねる。 

 「綺麗に入り込んじゃって・・・小銭なら諦めもつくんですけど、」

よほど四苦八苦したのだろう。 そう指し示す男の右手には肘から指先まで、煤を擦ったような汚れがこびり付いていた。 ガラスのショーケースの下には一センチほどの薄い隙間が開いている。 俯くと、光るレンズが男の表情を隠す。 眼鏡といえばノビタだろうくらいに、どちらかと言えばダサいイメージしかなかったが、細い鼻梁に行儀良く乗った眼鏡は、なんだか洒落た感じだった。 男が小さな溜息を漏らす。 そこで提案したのは、さして考えもなしにだった。


 「じゃ、俺こっちから持ち上げるから、手ぇ突っ込んで取ればいいんじゃないの?」

角度が変わり、クリアなレンズ越しの瞳が俺を見つめた。 パッチリ見開かれた目。 髪と同じくらい黒い、深い、飴玉みたいな瞳は・・・・・・何故だか、泣くんじゃないかと思った。

 「コレ、重いですよ?」

 「まぁ、何とかなんじゃないの?」

けれど、当たり前だが男は泣かない。 泣かないで薄く笑った。 口角が品良くキュッと上がる。 大笑いじゃないけれど、瞳はとても嬉しいと雄弁に語った。 そして目を逸らせないでいる俺。 印象的な目だった。 眼鏡の度が強いからとか、いやそうじゃない、黒目が深く、潤んだように光る、儚い感じのする、零れ落ちそうな、

 「じゃ、お願いしてもいいですか?」

 「あ・・あぁ、」


もごもご返した返事は言葉にならない。 

見る見る頭に血が集まる。 瞬きする睫はビッシリじゃないけど繊細で長い。 何? 何だ? 何なんだ? 理解不能、解析不能、どぎまぎ漸く視線を外し、みっともない顔を見られないようにこれ幸いと中腰になり、片側の縁に指を掛けるとせぇので腰に力を入れた。 


 「お、重てぇ・・・・・」

 「でしょう? あの、もういいですよ、」

 「・・・もう少し」

 「俺こっちから持ちましょうか?」

 「いや、・・・危ないから持たないどいて、」

危ないから。 指でも挟んだら大変じゃないか? あんな、細くてポキンといきそうな危なっかしい指が、そんなのがこの下敷きになったらと思うとゾゾゾッとする。 だからしっかり俺が持ち上げなきゃと、もう一度腰を落とし力を入れた。 ギギギと微かにショーケースが動く。 俺は物凄く真剣だ。 こんなに真剣。 

     なんで? 

危ないだのポキンだの男相手に、そうだよ野郎だろ? 病人でも小さい子でもなく、俺よか少し下くらいのいい年した男相手に俺、何シャカリキになって、客なのに、俺は

 「と、取れたッ!」

 「・・・・」

紙幣をひらひらさせる指先、見上げるこじんまりした白い顔の、フレーム越し、上目遣いに男がにっこり笑う・・・・

     俺は何をやってるんだろう?


 「ほんとに・・・有り難うございました・・・お客さまなのに力仕事させちゃって、」

 「あ、あぁ別に、俺は・・」
 
物言う瞳から目を逸らせば、薄い唇が思わせぶりに動いた。 

いや、動くように見えた。 

すべてが誘惑的で、目の前の男の何もかもが、暴力的な勢いで俺をゆさゆさと揺さぶる。 そしてその揺さぶりが堪らなく満ち足りているのを俺は怖いと思う。 怖いよ。 ていうかヤバイ。 どぎまぎするこの気持ちを世間で何て言うか知ってるけど、認めるにはまだ吹ッきりがつかなかった。 そんな奇天烈な事、そんな非常識な事実、あぁ事実だからこそ認めたくない。


 「え・・・と、あの、いらっしゃいませですよね・・・・」

今更ですけど と、男は俺の言葉を待つ。 
そこで本来の目的に気付き、男の後ろの棚、上の方にある湿布を商品名で伝えた。 

そうだよ、俺は本来の目的を果たしてこの店を出る。 さっさと出るのだ。 俺はココに何をしに来た? 俺は湿布を買いに来ただけの、通りすがりの、ただのどってことない客で、だから、

見ないようにしてるのに、なのに俺はその男の一挙手一投足を追った。 

スイと伸ばされた腕、灰緑のTシャツの裾が捲くれ一瞬残像を残す白く薄べったい脇腹、 無駄のない背中のラインが撓り、上向く細い顎の陰影、少し捩った首筋が小作りな頭蓋骨を支える危ういカーブの妙、


 「一つでいいですか?」

 「や、二箱・・・」

 「じゃ、こちら、」

差し出された箱を慌てて掴もうとして、レジを打とうとした手に指先が触れた。


 「え・・と、このまま? 袋、詰めちゃって良いですよね?」

 「あ、ああ、はい、あ、そうしてください、」

     馬鹿じゃねぇの? 俺馬鹿じゃねぇの?! 

帰りたかった。 自分で自分が見ちゃ居られない。 もう一刻も早くここから立ち去りたかった。 
ココに居ちゃ絶対駄目だと思った。 今ならただの不審な客だ。 今ならちょっと親切で、でも変な奴〜と後で言われるだけのただの客で済むんだ、だから、

釣銭を受け取りそそくさ帰ろうとするスーツの肩口、ヒョイと男は手を伸ばし、俺はビクンと固まる。

 「え? な、」

 「毛玉が、」

 「毛玉?」

男の指先が摘むのは、見慣れたくすんだ蜜柑色のホワホワした毛玉。

 「猫、飼ってるんですか?」

 「や、ウサギ、ウサギを。」

 「ウサギ?」

 「そう、や、最近なんとなく飼い始めて・・ここ最近抜け毛が物凄くてもうオマエは毛玉工場か? って感じで、」

 「毛玉工場!」

俺は今さっき買って来たウサギグッズの袋を、男の目の前で持ち上げて揺らす。 

お土産ですねぇと笑った顔は、まさに花が綻ぶようだと思った。 だけどどこかが寂しい。


 「オレンジか・・・・」

 「え?」

     何? 

男は摘んだままの毛玉を蛍光灯に翳し見つめている。 光に透けたそれは、より明るい蜜柑色に見えた。

 「生え変わりの時期は、大変だから・・・」

不安定な微笑のまま、男は 懐かしいな と言った。 

 「・・て、ウサギ、飼った事あるとか?」 

 「前に・・・・子供の頃ですけど」

 「じゃ、今は?」

なんだか共通の話題が生まれそうな気配に、すかさず俺は喰い付く。

 「うぅん、今は全然。 俺、前は東京に住んでたんです。 でもそこから急にI県に移ることになって・・・やっぱりあっちは寒いんですよ、物凄く。 それで・・・昼間、学校行ってる間も何かしとけば良かったんだろうけど・・・・」

 「ご、ゴメン」

死んだウサギがハルだったらと思うとやり切れず、咄嗟に謝ってしまっていた。

 「わ、あ、気にしないでくださいね?・・・・ただ、まぁ子供だったしショックでそれ以来ペットは飼ってないんです。 死んだ時のこと考えると怖くて。 でも、時々猛烈に飼いたい! 触りたい! ッて思う事はあるけど。 何だろう、話聞いてたら色々思い出せて懐かしかったです。」

 「あぁ、いや、」

 「いいなぁ、可愛いでしょう? 毛玉だらけでも顔見るとジタバタしたりしてつい親馬鹿になるでしょう?」

 「そ、そうそう! もー何だか、ちょっと自分が怖い感じ。」

 「あぁ、いいなぁ」

いいなぁと繰り返す顔があんまり幸せそうで、

 「なら、うちの触りに来る?」

 「え?」

問い返されてハッと血の気が引く。 
ダ、ダッせぇ! イキナリ誘ってるよ俺、何言ってんだよ俺?
 
ウサギ触りに来ませんか? なんて、ナンパにしたって思わず引くような台詞を初対面の男相手に吐いて、放った言葉をどう回収しようかパニクル俺に、男は意外にも

 「ホントに?! でも、だって、いいんですか?」

大乗り気だった。


 「や、あぁ、うん、こっちは全然構わない、俺んちこの近所だし、えと、この先の不動産屋わかる?」

 「いえ。 あの、俺ここら知らないんです。」

 「あ、そう?」

てっきり近所の奴がバイトしてるのだと思ったが、男はそうではないらしい。 

けれど、何やらトントン拍子にウサギを触る計画は進められ、今週の終わり、店主の妻が午後から店に出る土曜、1時に店の前に迎えに来ると俺は男と約束を交わしていた。 初対面なのに! 目的はウサギを触るだなんて! ショーケースを挟み、互いに携帯の番号とメアドを交換し、俺は男の名がクリハラだという事を知る。 じゃぁ、と店を出ようとする俺にクリハラは妙にかしこまって言った。

 「えっと、じゃ、よろしくお願いします」

 「あー何かあったら、かけて」

携帯を突っ込んだ胸ポケットをクイクイッと示すと神妙な顔が崩れ、あの、花の綻ぶ笑顔に変わったのを名残惜しく眺めた。 ずっと見ていたい・・・・・     え?!

     信じられねぇよ! 

店を出て歩き出すいつもの歩きなれた帰り道、ドコドコいう心臓に合わせドコドコ早足になり、ついには全力疾走した俺は立派に不審なリーマンだった。 なんだよ? なんだよオイ? あれって一目惚れか? 俺が? 俺っていきなりホモかよ? 

そうかも知れない、正しくそうなのかも知れないがそんなビックリ事実よりも、その一目惚れの相手に素早く急接近した己のラッキーに、俺はどうしようもなく有頂天になってどうしようもなく浮かれる。


     信じられねぇよ!


夢みたいだと思った。 ていうかなんか葛藤しなくて良いのかとか、そんな心の声はサッパリ届かぬまま、俺は浮かれて舞い上がり夜道を疾走する。 土曜日が待ち遠しかった。 たった三日がやけに遠く感じた。 そしてふと、クリハラが例の「ハルナ」にどことなく似ている事に気付き、あぁもうやっぱスズメ百まで・・・と素直に納得した。 なら、惚れて当然だろ? だからその時、一つも後悔はしなかった。



何しろ一目惚れまっしぐらだったのだから。








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