** 毛玉夏工場  **

      
      


     #1.


          であう 出遭う 出会う      


          僕らが出逢ったのはきっと、必然だったから、


                                 * *



 「この度は大変申し訳ありませんでした」


そう言ってから思わず漏れそうになる溜息を堪え、ゆっくり二秒を数えた。 そうして相手が電話を切ったのを確認してからボタンを押す。 全部、研修で教わった通りだった。  途端に溢れ出るのは溜息ばかりでなく、身体の内側にドロドロと堆積した遣り切れない苛立ち、急に重力を増したように思える鉛のような疲労。 

時刻は六時を回わったが、半透明の仕切りの中ではまだ、何人かの同期組が背中を丸め何事かを謝罪中だった。 定時の9時5時でなんか、上がれた試しがない。 けれど半端な時間延長は、ここでは任意の無償のサービス残業らしい。 朝八時半に引継ぎをして、後は延々と知らない誰かの話を聞く。 聞く内容は99%クレームだった。 

写真と違う、効果がない、すぐ壊れた、使い方が分からない、傷や汚れがついている・・・中にはあからさまに何らかの謝礼を要求する内容もあったが、基本はまず謝る事。 謝ってお客を立てて、その上で出来る説明を行い、出来ない事はその旨を高圧的にならないように、あくまで低姿勢で伝える。 まぁ、客商売なんてのはそうだろうなと思う。 が、ソレを実践するのは並大抵じゃない。 
 
春に入社したのは、日用雑貨及び健康器具を扱う中堅どころの通販会社だった。 正直そこそこ名の知れた企業に入り込めて、この就職難にラッキーだと思った。 面接時には希望部署を問われ、名ばかりの経済学部卒と言われないようにマーケティングか営業企画と答えたのだが、入社後四ヶ月は研修も兼ね、商品受注部、もしくはここテレホンアンサー ―― 所謂クレーム処理班へ、新人は否応なしに送り込まれるらしい。 先輩経由の噂では後者が圧倒的に堪えるとの事だったが、確立は二分の一。 そして俺はまんまとその二分の一に当たり、今日も朝から晩まで 申し訳ありません をオウムみたいに繰り返し、厭な汗を手のひらにじっとりと掻く。 
 

ふと手を伸ばしたマグカップの中身は当に干上がり、惨めなコーヒーの輪がこびりついている。 口の中がカラカラだった。 空っぽのカップを持ち、隣のブースに軽く頭を下げ部屋を出る。 立ち上がりと歩き始めに、膝の関節が軋んだ悲鳴を上げた。 座りっぱなしという理由だけでなく、多分、知らぬ内、全身に要らない力を入れているんだろう。 その証拠に、この仕事を始めてから肩凝りと筋肉痛が生半可でなく酷い。 風呂上りの日課といえば、背中と肩にシップを二枚ずつ貼る事。 毎日の事だから数日置きに通う薬屋ではもはや常連で、人の良さそうな初老の店主は顔を見ると微笑み、ショーケース向こうの棚から 「臭わない」 が売りのソレを二箱すっと差し出してくれる。 有難いが、そういう常連は嬉しくない。 

給湯室でカップを洗い、隅のサイドボードに突っ込んで伏せた。 そこでまたヘナヘナと力が抜け、膝に手を当てたままハァーッと目を閉じる。 疲れた。 どうしようもなく疲れた。 就職してからたかが二ヶ月、半月の研修を抜かせば一ヵ月半そこそこなのに何だろう、この疲労は。 これがずっと続くのだろうか。 これが、社会人としての自分の仕事なんだろうか? 

駄目だ。 これを考えると先に進めなくなる。 考え始める頭を無理矢理遮断して、今日も一日が終わったことを純粋に喜ぼうと思った。今日一日、明日がどうとかその先を考えず、ただ一日を終わらせる為だけに、俺は毎日ここで謝り続ける。 そして一刻も早く家に帰り、風呂に入って眠る事を想像する。


もう一杯一杯だった。 世界は色のない薄っぺらな絵みたいに思えた。 
なのに何故だろう、俺はその時、真っ直ぐにソレを見つけた。 


切っ掛け? それは多分、必然。



     【 ホーランド・ロップ 可愛い男の子です!!  特価!! 】


そもそも、そこにペットショップがある事なんてまるで気付かなかった。 

大通りの角をほんのちょっと曲がった商店街の端っこ、派手で丸っこい字のポップが街灯の光を浴びてココだよと視界に飛び込む。 そしてその貼り紙の下、もそもそ動くちっちゃなポツンに吸い寄せられ、俺はふらふらと横道に反れた。 ウサギ? 足を止め、ウィンドウ越しに見るホコホコとした塊。  あんまり長くない耳、興味津津の飴玉みたいな眼。 茶色というか茶が入った蜜柑色というか、トトトトと動いたふわっふわの塊は、覗き込む俺に近づくと小さな鼻をヒクヒクさせ、ヘノッと垂らしていた片耳をひゅいと上げた。


――― おまえ、家どこ?  ――― ない・・・・帰るとこない・・・・


ホーランド・・・、ホーランド・ロップ、ホーランド・ロップ

、くすんだ蜜柑色したヘチャ耳のウサギ、そのウサギを抱えて蹲っていたあの時の、あの時見た、あの時俺が追いかけた、あの、赤い毛糸の帽子、ざくざくしたカナリアイエローのタートル、俄かに沸きあがり爪先から頭の天辺へと抜ける遠い昔の鮮烈な記憶。


 「可愛いでしょう? ね、触ってみませんか? ね?」

いつの間にか出て来た店員が、さぁ、と店内へと誘った。 

曖昧に返事する俺は、まだウサギから目が離せないでいる。 頭の隅っこで 行くな と声がした。 行ったら引返せないぞ! と。 だけど俺は、ずんぐりした背中に続く。 そして 触るな の声も無視して、赤いエプロンをした丸い店員の差し出すホコホコを両手で受け取っていた。 

手のひらにじんわり柔らかな熱。 もぞもぞとお尻を落ち着けて、ヒクヒク匂いを嗅ぐソレの小さな身体の忙しない鼓動。 瞬時に溢れるのは手放し難い愛しさ。 暴力的な庇護欲。 手のひらの小さな生き物から流れ込む、忘れ去られていた10歳の記憶に引き摺られ、今、俺を動けなくしているのは歯痒い焦燥に似た感情。


この感情を、知っている。


 「生まれてちょうど一ヶ月なんですよ。 今が一番可愛いとき。 なのに大幅値下げで御買い得なんですよ〜。 」

ゲージに貼られた値札は、4万6千円に赤い線が引かれて3万円ジャスト。 大幅値下げでも、ウサギがこんなに高いとは思わなかった。 なのに俺は夏服を見に行こうと思っていた金が財布に入っている事を思い出し、 けど、別に関係ないだろう? と計算し始めてる自分を慌てて打ち消す。 お金が絡んだ一瞬、今ならウサギをゲージに戻せる隙が生まれた。 けれどそんな躊躇を見て取ったか、ポワポワの背中をちょんちょんと突付き、店員は続ける。


 「ホント、今がチャンスなんですよ〜、可愛いんだけどねぇ、時期的に暑くなるとこういうのはチョッと売れなくなるんです。 モコモコが可愛いんだけどねぇ・・・デモね? ね? サービスしちゃいますから、ね? もー癒されちゃいますでしょ〜?」

 「や、俺はあの、」

 「冬寒いの苦手だけど後は割にこれ、買うのは難しくないの。 お留守番も静かにしてるし、そんなにいたずらしないからアパートでも平気。 穏やかで優しい子ですよ〜。」

 「はぁ、いや・・・でも、」


     断れ、断れよ、ウサギなんか飼う余裕ないだろ? 
     第一、コレ連れて帰って親になんて説明すりゃいい?

だけど、

 「この種類はね、アメリカなんかじゃペットセラピーに使ったりするらしいんですって、だから疲れて家帰ってただいまぁ〜ふかふか〜なんてもう、ねぇ? イイでしょ〜? ホッとしちゃいますよねぇ〜? 守ってやりたくなるでしょう?」

守る?

 「いやあの今日は、」

 「ほ〜ら、お兄さんちの子になりたい! ッてこの子言ってますよ〜。」

ビー玉みたいな目玉に、途方に暮れる俺が写る。 両手にすっぽりつつまる、小さなちっぽけな魂。


――― じゃ、俺んちの子になろう!

あの時、俺はそう言ったのだ。 

そしてその言葉に顔を上げ、縋るように真っ直ぐ向けられた目。 泣き腫らして蕩けそうになった目。 


―――  ハルナ?

大声で叫んでも、走り回っても、返事は聞こえない、あの瞳には出逢えない。 

赤い帽子、カナリアイエローのタートル、ネイビーのダッフルの合わせに蜜柑色のヘチャ耳ウサギを抱きしめ、声も上げずに静かに泣いていた、もうあれっきり会えなかった、真冬のお姫様みたいだった鮮やかな色彩のあの子を俺は覚えている。 そうだ。 俺はこんなにも覚えていた。 氷雨がみぞれに変わる冬の寂しい公園に、あの日、確かにあの子は居た。 口を開けたカバの遊具の中、傘も持たず、雨を凌ぐ白い小さな顔。 近づく俺を見上げたあの子が不安げに抱き締めてたのは、くすんだ蜜柑色の小さなモコモコのウサギ。


                    **


 「・・・・何やってんだか・・・・」

自分に呆れ、カサコソ餌を齧るモコモコに、そっと指を伸ばし触れた。 


「おまえ良かったねぇ!」 と相好を崩す店員は、餌だの水飲みだのブラシだのの付属品を大量にオマケして寄越してくれたのだが、それでもウサギとゲージと諸々を買ったら夏の背広代なんてスッカラに消える。 そしてガサゴソ動く小さな箱を手に夜の大通りに立てば、見る見るテンションが下がった。 買っちゃったじゃん・・・・。 買ったはいいが、この大荷物、両手にウサギ入りの箱を抱えているとあれば、鮨詰め通勤ラッシュに乗り込む事も出来ず。 止むを得ず車で来てくれと頼んだ姉は、受話器の向こうで数秒黙った後 「アンタ、いきなり就職ノイローゼとか言わないでよね」 と冷ややかな口調で言った。

そんな姉が多分、尾鰭背鰭をつけたのだろう。 家に戻れば晩酌中の親父は微妙に目を反らし 「ちゃんと見てやれよ」 と一言、お袋は 「まぁ可愛い!」 とウサギを抱き上げた後、何ともぎこちない笑顔で 「会社、大変なの?」 と問うた。 まぁ、それでもいい。 どっちにしろ、俺は会社帰りにウサギを買った。 そして今や俺の部屋の一角を、随分贅沢にこのチビ助が占領している。 


 「ハル、居心地良いか?」

返事なんかないが肯定と取り、ホワホワの背中を豚毛のブラシで力を入れずに滑らした。 ブラシは大盤振る舞いのオマケの中にあった。 「直に生え変わりが来るから、そのときはゴムのブラシが良いですよ」 と店員は言ったが、今のところこうして梳かす分に、そう抜け毛は多くない。 されるがまま、おとなしくちんまり膝の上に乗ったウサギを見ると、何やら腹の底からほかほかとした。 

 「ハル、」

偶然かも知れないが、名を呼んだ瞬間パッとこちらを見つめたウサギ。 

 「ん? わかるのかオマエ?!」

いや勿論わかっている筈はないのだが、ウサギとアイコンタクト出来て大喜びの俺は、実に幸せな気持ちに浸っていた。 幸せ。 なるほどコレは癒し系だと、妙にしみじみと実感する。 それにこれも縁じゃないだろうか? 俺は、これと同じウサギを見た事があった。 そしてそれは、忘れ難い記憶。


俺がコレと同じウサギを見たのは十歳のときだった。 

その日、空は午後から急に崩れ、傘を忘れた俺は近道をしに普段通らぬ公園を斜めに走って横切っていた。 と、その時飛び込んだ異質。 子供。 公園に子供が居るなんて別に珍しくもないが、底冷えするような氷雨降る中、口を開いたカバの遊具に潜り込み、膝を抱え、雨宿りする小さな姿は子供の目にも只事でない異質の風景だった。 近づけばくぐもる背景に鮮やかな色彩。 赤い毛糸の帽子、ザクザクしたカナリアイエローのタートル、深いネイビーのダッフル。 そして両手で手繰り寄せ、抱き締めたコートの胸元にはくすんだ蜜柑色のムクムクした生き物。  

寒さに震える小さな白い顔は青白く縁取る黒い髪の毛は短めで濡れた頬にパラリと貼り付いている。 噛み締めた唇に血の気がない、けれど鼻の頭と耳たぶだけが薄赤く、いっそう痛々しかった。 
お姫様が泣いている・・・・・?

その子は泣いていた。 

整った顔立ちや当時にしては垢抜けた服装のせいか、何故か俺の中でその子はお姫様になった。 少なくとも俺の周りにいた乱暴で、マシンガンみたいに話す女どもとその子はまるで違っていた。 晴れた日の下シュッと溶けてしまうような冬の、氷の、お姫様。 

バクバク大騒ぎする心臓に戸惑いながら、俺は屈んで話しかける。

 「な、何やってんの?」

声が少し上ずる。 隣に潜り込めば触れる細い肩が、厚い布越しにキュッと緊張したのが伝わる。 だけど、その子は逃げなかった。 逃げないで俺を見上げた。

 「風邪引くぞ・・・・傘、ないのか?」

見つめる眼は真っ直ぐだけど答えはない。 警戒と安堵。 途方にくれた飴玉みたいな瞳。

 「家どこだ?」

 「・・・・・」

 「この辺か?」

 「・・・・・ない・・・」

 「え?」

発せられたのは心細い、不安定な声。

 「ないって?」

 「帰るところ・・・ない・・・・どこにも・・・ない・・・・」

 「お、お父さんお母さん、いないのか?」

慌てて尋ねる俺に、その子は小さく頷き、あっという間に両目は涙で溢れ、静かに声もあげずに泣いた。 


俺は子供がそんな風に泣くのを見た事がなかった。 

非難も弁明もせず、これ見よがしに哀れさも誘わず、ただただホタホタと涙する痛々しい悲しみ。 息苦しくなるような切なさと、何とかしてやりたいけどどうしたら良いかわからない歯痒さ、もどかしさ、何より腹立たしい無力な自分への苛立ち。 突然、この子の味方は世界中に自分一人なのだと俺は確信する。 そうあるべきなのだと思った。 俺が何とかしてやらなきゃならない。 その子を助ける自分はまさに物語のヒーローになったように思えた。 

だから俺は、氷みたいな指先を両手で握り締めこう言う。

 「だったらおれんちの子になればいい!!」 

自信満々伝えれば、大きく見開かれた蕩けそうな目。 縋り付く雄弁な目。

 「なぁ、名前、何て言うの?」

 「・・・・・ハルナ・・」

氷のように冷えた謎の冬のお姫様が、暖かな春を名乗るのはなんだか可笑しいと思った。  

ハルナ、ハルナ・・・と俺は口の中で呟く。 そしてひとまず傘を持って来るからと伝え、ふと、それはウサギか? と尋ねれば

 「ホーランド・ロップ・・・そういう種類だって。 まだ日本では珍しいウサギだってお父さんが・・・・・」

答える語尾は掠れ、再び押し殺した嗚咽に変わる。 きっと親が死んだんだと思った。 つまりこの子は「孤児」なんだと思った。 ちょっと前、そんな可哀想な子の番組を、家族と見たばかりだった。 じゃぁ、やっぱり俺が助けてやらなきゃならない。 俺んちに連れてかなきゃなんない。 それだから、とにかくじっと待ってろよ! と伝え、俺はダッシュで家へと走った。


 「家族が増えてもいいよな? すっごい可愛い子! 変なウサギも!」

家に着くなりまくし立てた俺にお袋は  何を言ってるのだ と眉を潜め、おやつを食べてた姉は 寝惚けてんじゃないの? と笑った。 だが俺はとにかく連れて来ると大慌てでタオルを丸め、おやつのエビせんを袋ごと掴み、いざという時の為に台所に置かれたコロッケの三角袋を持ち出して再びハルナの待つ公園へと向かう。 まだ温いコロッケが勇気をくれる気がした。 あの子を助けるんだという、ヒーロー気分にどっぷり浸っていた。 けれど、俺がその子に会う事はもう二度となかった。 

すっかりミゾレに変わった濡れそぼる公園のどこにも、あの子はいなかった。 カバの遊具の中蹲るようにしてた小さな姿は、もうどこにも居なかった。 けれど、俺には名を叫ぶ事しか出来ない。 知っている事といえば「ハルナ」という名前、まるでお伽噺の呪文のようなウサギの名前それだけ。 誰も居ない公園を探し回り、ミゾレに打たれた俺は、その晩熱を出して丸々二日間寝込む。 ハルナがいない、いないとうなされていたらしいが、その後も、いくら捜してもその付近にハルナという子供は居なかった。 


一緒に過ごしたのは僅か、十数分だったかも知れない。 短すぎる出会い。 
だけどそれは鮮烈な記憶として俺を支配する。 

似た姿を見れば目は追う。 

ハルナに会いたい。 ハルナは幾つだったんだろう? 

近所のペット屋に行ってウサギの名前を聞いた。 ペット屋といっても扱うのはハムスターだの文鳥だので、店主は呪文のような名前に なんだいそりゃ? と首を傾げた。 ならばと、祖父母と出掛けたデパートのペット屋でも俺はウサギの事を訊いた。 バイトらしい若い店員は おや? という顔をして、「ソレはこの店では扱っていないよ」と言い、 「良く知ってるねぇ!」  と俺の頭をポンと叩いた。 ハルナの言うとおり、確かに珍しいウサギらしい。 

そんなウサギを飼っていたハルナ。 多分、俺よか二つ三つ年下だったんじゃないだろうか? あそこら辺の学区なら、ここの生徒の筈だからと図書室にあった学年別名簿も片端から調べた。 けれど、ハルナは見つからない。 見つからないまま俺は大人になり ―― あれは多分、親と喧嘩した近所の子だったんだろう、あんなウサギを飼うくらいにお嬢様だからきっと、学校もそういう私立にでも行ったんだろう ―― 俺は自分を納得させる為に、想い出に解釈を加える。 そうして次第にハルナは記憶の片隅に埋もれ掛けてはいった。 けれど、でも、その想い出は隙あらば俺をこうしてグルグル巻きに支配しようとしていた。 

今みたいに。 

思えばあれは、俺の初恋だったらしい。 赤い毛糸の帽子、カナリアイエローのざくざくタートル、深いネイビーのダッフル。 鮮やかな色彩と印象的な大きな眼、白い小さな顔、寒さで薄赤くなった頬にふんわり触れていた小さな蜜柑色のウサギ。 何もかもこうしてありありと思い出せるのは、俺がその想い出に執着していたに他ならない。 そんな風に考えれば、今まで付き合った女の子は皆、どことなくあのハルナに似ていた。

 「雀百までか?」

12年後に同じウサギを見つけて思わず飼うくらい、おまけに 「ハル」 などと名付けて可愛がるくらいに俺は初恋を忘れちゃいなかった。 そして再燃する初恋の甘ったるく切ない記憶は図らずも、仕事のもやもやも苛立ちも綺麗に吹き飛ばしてくれた。 

現実逃避かも知れないが甘い記憶に浸り、我ながらヤバイ方向で俺はストレス発散を図る事になる。 親父もお袋も何も言わなかったが、家に戻れば一目散でウサギにかまける俺を見て、何ともいえない気持ちになっていたんじゃないだろうか。 尤も、姉はあからさまにメールで心療内科のアドレスを送って来たが、ともあれ、その頃の俺はウサギに話しかけ、ハルナを思い、会いたいと願い、日々の生活を存分に満喫していた。 トイレの躾には少々梃子摺ったが、朝晩まめに手を入れれば気になる臭いもそれほどではない。 膝の上に乗せ、おやつを食べさせたりすると、比喩表現なく至福だと感じた。

 暖かな体温、不安定でたまらなく愛しい鼓動。


 あの子も、触れればこんなだったんだろうか?








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