** 入り江のカーブ **
#3.
石灯籠の脇をすり抜け、オキは軒からヨシズの下がった座敷奥へと声を掛ける。
お入りという声にヨシズの隙間から滑り込めば、猫足の座卓で書をしたためる祖母と、こちら背を向ける人影にオキは盆を手にしたまま言葉を飲み込む。
「なァんだい? ケンショウ、ぽかァんとして。 ソレ、綺麗なお客さんに見蕩れてるンじゃないよォ。」
カツゼツの良い祖母の言葉に戸惑い、オキは咄嗟に繋げる言葉を捜した。 が、オキの本音を語ったのはまさにその当事者だった。
「あたしが居たから、何事かと思ったんでしょう?」
「や、そうじゃ」
「ふふふ、良いのよ、御久し振り。」
目を細めたヨシノが、くすりと笑う。 白い肌も色素の薄い髪も、ひんやりした美貌も相変わらずだった。 けれど襟足ぎりぎりで揃えた髪型のせいか、ストンとしたワンピースを着たヨシノに挑発的な以前の剣呑さは無く、むしろ幼く優しくなったように思えた。
「ヨシノちゃんは、そら、これを持って来てくれたンだよ。」
そう祖母が示す座卓の上、帯留めが二種、黒いビロードの上に置かれている。
「巧いもんだろォ? アッチじゃこういうのを習ったンだって。」
瓢箪を抱える兎。 絡まり合う朝顔。 どことなくレトロな七宝焼きのモチーフには中国的な色合わせの組紐があしらわれ、派手ではないがハッと目を惹く作品だった。
「こういうデザイン工房で働いてたの。 子供が生まれるまでだけどね。 いずれ、ちゃんと商売にしたいけど、ここで遣るならネット販売かしら・・・・」
そう言って俯く襟足の白が眩しい。 働くとか将来とか、そうした言葉をヨシノから聞くのは何か不思議な感じがした。 しかし賛同も意見も出来ないオキに、ヨシノは苦笑交じりに洩らす。
「オキ君、あたしの事まだ怒ってるんでしょう?」
なんだい喧嘩かい? と、面白がる祖母にヨシノは
「サキさんあたしね、オキ君を誘惑して失敗したんです。」
「お〜や! こんなボンヤリをあんたが?」
「え、あぁ、」
「そい、照れるか? ケンショウ? おぉ、コレ、アヤコさんが味見をッて言ってたねぇ、」
ついと手を伸ばした祖母に、オキは小鉢の盆を渡す。 盆につられて上がり込み、膝を着いたのはヨシノと祖母の斜だった。 うろたえるオキに構わずヨシノは、愉しい昔話のようにそれを語る。
「そうですね、ボンヤリだから良かったのかな、あたし、ここじゃ散々だったから。 でもオキ君ならあたしの事、あぁもこうも言わないで連れてってくれるかなって思った。 誰も知らない所で、自分の遣りたい事をして行ける気がして・・・それに、なんか悔しくって。」
「ハァ、悔しいかァ?」
「えぇ。 オキの家は羨ましいです。 外の良いとこばっかり貰って来て、それで島で安住してられるのが羨ましかったし、悔しかったし・・・。 だってあたしなんかもう・・・でなきゃ、もう、苦しくって、」
逃げてくれと言ったヨシノ、ここから逃がしてくれる誰かを捜してたヨシノ。 あの時、利用されているとわかってても曖昧に、強く突っ撥ねられなかったのはそうだ、この切迫感だった。 そしてオキにはその苦しさがわかる。 当時を想い出すように、ヨシノは掌で胸を擦った。 そんなヨシノを覗き込むように、祖母は静かに問う。
「・・・で、あンたァ、島の外は苦しくなかったのかい?」
「ふふ・・・おんなじ・・・。 苦しくて苦しくて・・・おかしいわよね、あんなにいきり立って出て行ったのに、引っ張ってくれそうな男はあたしにぶら下がろうとするし、デザイン工房の仕事も順調だったんだけど、でも、気付けばあたし、島の事ばかり考えてた。 良い事も、悪い事も、気付けば全部島に繋がってた。」
「そりゃァ、あんたが島と切れてなかったからサァ。 ほうらァ! いい色だねぇ、」
祖母が皿に盛った小茄子を摘む。 小鉢の一つには、淡く炊き上げた椎茸、牛蒡、人参、くわい。 もう一つにはきつく酢で〆た押し寿司が二かん。
「あたしも一度は島を出たけども、食事を作りゃァ島の味がして、通り雨が来りゃァ波音かと見回してェ、アハハ、忘られッこないさ。 忘られッこない。 何しろ好いた男も残して来たし、あたしときたら戻る気満々だったンだからねェ。」
「す、好いたッて、誰なんです?」
突然の告白に身を乗り出すオキだったが、祖母の答えは拍子抜けするものだった。
「誰ッて、あんたの爺さんじゃないか。」
「で、でも、だって、」
「ハハ、まァしょうがないだろう? あたしは外のボンボンとこに嫁に遣られるし、あの人は親の決めた縁談に厭だ言える筈がない。 でも、あたしはそんなンでも諦めちゃいなかった。 あたしは執念深いからねぇ。 とりあえずこの家はお金が好きだから、嫌ッてほど持ち帰ってやろう、そしてあたしがここを仕切れば後はどうにでもなるッてね、その為なら何でもするって思ったし、実際何でもしたけど苦じゃァ無かったさ。 別に、だからッてあの人と一緒になるつもりじゃァなかったんだよ、そりゃ無理だと思ったサ。 無理だろうけど、でも島に戻ってあの人の傍に居たいッて、それだけがあたしの願いだった。 だからあの人がヤモメになったって聞いた時はスワッて思ったねェ。 とんだ罰当たりだけど、いよいよあたしに追い風が吹いたと思ったねェ。」
シャクリ、祖母がくわいを噛み締める。
「あぁ、良い味だ・・・アヤさんも腕を上げたねぇ!」
祖母はオキの母親を誉めた。 そしてもう一口を食んだ。 そんな祖母にオキは言葉も無い。 見ればヨシノが唇を震わせている。 揃えた膝の上、硬く握った拳も小さく震えていた。
「・・・あたしは、あたしはでも、そんなふうに強くはないんです。 サキさんみたいな商才もないし、後ろ盾もないし。 だけど・・・だけど・・・・」
「だけどもあンたァ、戻って来たんだろう? ソレこんな立派な腕を身に付けて、飯の種を引っ提げて、可愛い一人息子までこさえてあンたァ、ちゃんと戻って来たじゃないか? つまり、あんたは、この島が嫌いじゃないんだよ、ホントはここに居たかったのさァ。 けど、居たいッてのと、居なきゃなんないッてのは違うからねェ、だろォ?」
そう、違う。 それは全く違う。 その違いは天と地ほどに掛け離れ、事実そのジレンマから未だオキは抜け出せないでいる。 そしてそれは、ヨシノとて同じだった。
「・・・・・・あたしが馬鹿みたいに男の人をとっかえ引っ返しても、うちの親はそれを黙認していた。 どうせ、いずれ誰かの嫁に納まるんだろうって、どこかに貰われればそれで丸く治まるだろうって。 確かに、島の女の子はそうして誰かの嫁になるのが殆んどでしょ? 中には外に出る子も居るけど、でも、何となく子供の頃から知ってる誰かと恋をしてそのままその男の子供を生む。 それが悪い訳じゃないけど、あたしは厭だった。 決め付けられるのも、箱の中で番にさせられるのも厭だった。 だから、オキ君が羨ましかった。」
「俺が?」
顔を上げたヨシノが、オキを睨む。 目尻を赤くしたその様に、一瞬、あの夏の白い炎のようなヨシノが甦る。
「居なきゃいけない側じゃァないでしょ? オキ君は外へも行ける、ここへも戻れる、ズルイと思ったわ。 ズルイ。 そんなオキ君とずっと一緒にいるシノダ君もズルイ。 島でちゃんと生活してて、そこに基板があって、大事な友達はずっと必ず戻って来てくれて。 不安は無いの? 涼しい顔してて、ずっと仲良しですなんて、そういうのって男だからかしら? 男の友情ッて、女よりの固いんじゃないかしら?」
「いや、そんなんじゃないと思う。」
「え?」
思わず口を挟み、オキはヨシノを見つめた。 子
供のような目をして悔しがり苛立つヨシノに、オキは初めて向き合っていた。
そしてその様を、サキは面白そうに静観する。
「一緒に居たいと思うなら、両方で思うなら、ずっとそれは壊れずに続くと思う。 別に男とか女とか関係なくて、例えば遠くに離れても、暫く距離が出来たとしても、会いたいとか傍に居たいとかそう願うンならばずっと傍に居れると思うし、それに、島の中であっても本当に好きな人が出来たなら、その恋愛が良い悪いなんて躊躇はしないと思う。 好きだって言うのはどうしたって、本当だから。」
あの時、オキもシノダと離れるつもりなんか無かった。
ずっとシノダと居られると思った。
例えば島の外で職を見つけ、そこで基盤を作ったとしても、でも自分は島に戻りシノダはそれを迎えてくれるのだと思った。 物理的な距離はあっても、シノダもそうして自分と歩いてくれると思った。 だって愛していたから。 シノダを愛していたから。 そしてシノダに愛されていると思っていたから微温湯の安寧に浸かり、それが壊れる事など考えても居なかった。 でも、そこに揺さ振りをかけたのはヨシノだった。 愛がわからないヨシノは、無意識にせよオキとシノダをターゲットに選び最も脆い部分に揺さぶりをかける。
もしも、シノダが誰かを好きになったらどうしたら良いのだろう?
可能性はゼロではない。 かつてシノダにもオキにも、軽い付き合いをする彼女が居たのだ。 実直ですっきりした容姿のシノダは、学生時代も密かにモテる存在だった。 本人にその気が無くても、言い寄られて回りも盛り上げてとなったら、シノダはそれを断り切れるだろうか? ましてやオキは年に数回しか帰省しない。 その間、シノダが誰かと恋愛したとしても別に不思議は無いのだ。 狭い島の中、早く所帯を持てと親が勧める縁談だって有るかも知れない。 果たしでその時、自分はシノダを引き止める事が出来るだろうか? 一生独身で居ろと、自分だけを見ろと、シノダの人生を引き摺る権利があるのだろうか?
結果、揺らいでしまった自分を持て余し、オキは一方的にシノダの腕を振り払いコソコソと島から逃げた。 二年前の夏、祭りの前日、祠のすぐ下の山道での噛み付くような焦燥を孕んだくちづけ。 その真意がわからなかった訳じゃない。 信じられないのか? と、シノダは言った。 けれど信じられないのは自分だった。 不信なのは思う以上に揺らぎ、人目ばかりを気にするオキ自身の在り様だった。 けれどオキは、今度こそここでけじめをつけねばならない。 歪んでしまったシノダとの関係に、自分なりの結論を出さねばならない。
こうして自分が覚悟を決めるに、ヨシノの毒は必要悪であったとすら思える。 ヨシノの吐いた毒は、オキ自身の内側に澱む毒であったのだから。 だから、ヨシノにも気付いて欲しい。
「・・・ヨシノは、本当に誰かを好きだった? 好きになった事があった?」
「好きな・・・ひと?」
多分、ヨシノは恋なんかしていない。 相手をどうとも思っていないから、簡単に人の気持ちを試そうとする。 そして揺らぐ相手の戸惑いを笑おうとする。 だけど、それが虚しいのをヨシノは知っている。 虚しく、何よりそんな自分が一番寂しいのをわかってる筈だ。
「正直言って、あの時は恨んだよ。 腹も立てた。 でも、お前ギリギリだったから、なんか切迫してたから。 ・・・ヨシノ、好きな人居る? 俺の事だって、別に好きじゃなかったんだろ? 一緒に島を出た奴の事、ホントに好きだった? そいつの為に、自分が何かして遣りたいって思った事あった?」
「あたしは・・・・」
外された視線が数秒、宙に留まった。 オキはヨシノの言葉を待つ。 薄い唇が言葉を捜すように小さく何度か開いた。 沈黙を破ったのはコンと、湯飲みを置く音。 ほうと息を吐くサキは糸のような目をして、強張るヨシノの拳を優しく老いた両の掌で包む。
「あんたはね、これからきっと、恋をするよ。」
「こ・・い・・?」
ヨシノの瞳は見る見る潤み、真っ直ぐサキへと向けられる。
「そうさァ、あンたが恋しくて堪らん様に思う誰かがきっと出て来ンだろうよ。 そしたら、頭で考えンでも、そこにぜぇんぶ取られちまうからァ。 ふふ・・・そりゃァ辛いし、そりゃァ苦しいぞ。 けど、そん時になったらそん時だ。 あんた何より可愛い息子が居るじゃァないか、あン子のためなら何でも出来るだろ? チッとの事なんか苦じゃないだろ?」
「でもッ。 ・・・あたしなんか財産もないし、何にも出来ないし、島でだって皆ホントはあたしの事なんか良く思ってないし、」
「アーしたらァ、これから手に入れりゃァ良い。 生きてく金ナンざァ、調達する方法は幾らッでもあるさァ、人の噂もチィと待ちャあんた次第でコロコロ変わる。 何しろあンたァまだ若いし、飛びッ切りの器量良しじゃろ? ニコニコしてりゃァ半分は勝ったも同然さァ、アハハ・・・それにソレ、こんな器用な技も持っちょるし、コレも、子供も、あんたが島に持ち帰った大事な宝じゃろォ?」
そら、とサキがヨシノの目の前にヨシノの作った帯留めを掲げる。 そうして泣き崩れる身体を小さな祖母が抱え込む様に支えた。 小さな子供を宥める母親のように、祖母のカサカサした手が、ポンポンとヨシノ薄い背中を叩いた。 オキは、小さくしゃくりあげるヨシノに問い掛ける。
「・・・・ねぇヨシノ、子供の名前、教えてよ。」
ハッとこちらを見つめる潤んだ赤い瞳。 すんと啜り上げたヨシノは、それでも笑顔を作り言った。
「ナギよ。 ナギ。 ・・・・妊娠したってわかった時、母親になれる自身が無いって御医者様に言ったの。 御爺さん先生だったんだけどね、あんたがなりたいと思えばなれますよって、まずは一番良い名前をじっくり考えてあげましょうって・・・そう言われて真っ先に想い出したのは海だった。 いつも眺めてた島の海。 その時ね、はっきり帰りたいッて思った。 あんなに息苦しかった島へ、あたし、戻りたいッて思った。」
ヨシノは強いなと思った。 ヨシノも祖母も強い。
漠然とした答えが、オキの中でむくむくと輪郭を浮かび上がらせて行った。 島に、戻る。 島に戻り生きる。 自分はここから離れたかったのでは無い。 ここにしがみ付く生き方が厭だっただけ、狭い世界で喘ぐのが厭だっただけ。 だけど、ここで生きる事を厭だと思った事は無い。 島が、嫌いだった事など一度も無いのだ。
そして何よりも、ここにはシノダが居る。
―― チッとの事なんか苦じゃないだろ?
シノダの為にならきっと、自分は何でも出来るだろう。
一緒に居られるなら、あの腕に縋れるなら、何が苦労だというのだろう?
オキは、祖母のように強く生きる事を願う。 その一方で、自分は祖母よりももっと、執念深いのだとオキは思う。 例えばシノダが離れて行っても、自分はシノダを思う事を後悔しない。 しかし、後悔はしないが、祖母のようにただ傍に居るだけで良いなどとは思えなかった。 シノダを失う事は耐えられない。 シノダが自分以外を見つめるのも耐えられない。 自覚した途端に噴出すのは、どうしようもない独占欲だった。
けれど、それが何だと言うのだろう?
もう、自分を誤魔化す事なんか出来なかった。
そうして今度こそ、あの腕を離すまいと思った。
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