** 入り江のカーブ **
#2.
玄関を出れば、まだまだ照りつける陽射しは高く暑い。
いつの間に賑やかだった布団の海は運び去られ、涼しげな玉砂利が白く光を弾いた。 ゆらゆらする夏の空気を吸い込み、オキは少し前を歩く背中に続く。 門柱脇の楡は老庭師の手腕により、綺麗に刈り込まれていた。 一歩山道に入ればスッと空気が冷える。 こうして夏の日の午後、シノダに続きオキは海沿いへと向かう。 それはあの頃と同じ、同じように一日が始まるような気がした。 けれど無言で居る事の息苦さは、あの頃と致命的に違った。 だからたった一言に逡巡する。
「・・・・・シノダ、」
「なに?」
そして、真っ直ぐ向けられた視線にたじろぎ、おたおたと次の言葉を捜すのだ。
「いや・・・あ、ハナさん達は相変わらずかな?」
ノマ屋を切り盛りしている老夫婦は、島一番の情報通で島一番の聴き手だった。 糸の様に細い目を皺に埋め、にこにこと頷くあの老女に、オキもシノダも行けば何とは無しに日常を語っていたような気がする。 そして煮詰まった客には、一人将棋を指すロク爺が 「甘いモンが足りんのじゃのォ?」 特製の汁粉を振舞ってくれた。 オキは島を離れてからも、あの舌にザラリとする素朴な甘味を何かの拍子に思い出す事があったが。
「去年の秋、ロク爺は死んだよ。」
「・・え?・・」
時は感傷につきあってはくれない。
「夏からの風邪をこじらせたとかで。 ・・・・あっという間の肺炎だったらしい。 でも店は二ヶ月くらい閉めてただけで、ハナさん一人で頑張ってる。 汁粉は無いけど・・・あとは、変わらない。」
「・・・そう・・か、」
「ムラセの兄貴、親父の後継いだのも知らないだろ?」
オキは、トウモロコシのような頭を逆立て、海入道のような父親に海岸沿いを追い掛けられていた少年を思い出す。
「奈良だかの神社にぶち込まれたッて、ムラセが言ってたけど、」
「二度ばかり脱走したらしいけどな。 でも今年からはシキビ持って、親父に付いて回ってる。」
「・・・・想像出来ない・・・」
「まァな、神妙な顔してるけど有り難味はねぇな・・・」
「だよね、」
白い裃を着た黄色い頭を思い浮かべ、オキはくすくすと笑った。 笑っちゃ悪いだろ? と窘めるシノダも語尾に笑いが混じる。 カサリと足元で蝉の抜け殻が潰れた。 蒸し暑さと同じ、弛緩するような時間。 緩む空気はオキに、無意識の期待を抱かせる。 けれどもそんな独り善がりの目論見を散すのは、やはりシノダの一言だった。
「先月・・・ヨシノも戻って来た。」
「・・・・だ、だって、」
丁度この場所、ここでオキを待ち伏せしたヨシノ。 色素の薄い肌、色を抜いた髪は細く、夏の太陽に蕩ける蜜の色。 日の下に在っても冷やりとした美貌のヨシノは、島の若い男の気をそぞろにさせ、その癖慰めようなない手酷い失恋をさせた。 本来竜神祭の花嫁に選ばれるに十分な容姿を持っていたのに、一度も候補に名が挙がらなかったのはやはり、その素行の悪さだったのだろう。 そのヨシノがあの二年前の夏、帰省したオキに接近した。 けれどもそれは、端から恋愛などではなかったと思う。
不意に現れた夕暮れの山道、ヨシノは木苺みたいな唇をオキに押し付け 「連れてってよ」 と言った。
―― ここから出たいの、ねぇ、ここは息苦しいの、
張り付くように密着した身体は、吃驚するほど熱い。 ひやりとしたヨシノの、思い掛けぬ体温にオキは戸惑う。 やがて、もっと熱い吐息がオキの名前を囁いた。 けれどもオキは、その身体を抱き返せない。 柔らかい唇の感触を、ただ木偶のように受け止め、地鳴りみたいな蝉の声を聴いた。
そして突き飛ばされるような解放。
ヨシノは冷たい炎のような目でオキを睨み、言った。
―― あんたにはわからないわよ。
出して貰えるあんたには、ココで縛られるあたしなんかの気持ちはわかんないのよッ!
わからなくはない。
わからなくはないが言い返さなかった理由に、オキ自身の後ろめたさがあった。 何もかもを外に求め、その癖島という内に固執するオキの家の在り方―― それを羨むヨシノの気持ちに、オキはぶつけどころの無い遣り切れなさを感じた。 けれど、ヨシノにしてみればそんな憐憫がなんだというのだろう。
薄い唇の端が吊り上がり、剣呑な笑みを浮かべるヨシノにオキは打ちのめされる。
―― シノダ君はね、キスが巧いのよ
どうして?
―― どうせこの島で終わるンなら、シノダの嫁になるのも悪くないわよね、
どうして、ここでシノダを引き合いに出す?
踵を返すヨシノの蔑むような視線。 薄暗い山道に、花弁みたいなスカートが緑の残像になって漂う。 言葉の毒は鉛のようなつかえを残し、やがて漠然とした不安に支配されたオキはあの時シノダの言葉を聞かず、その手を振り払い、オキとシノダを振り回したヨシノは、夏の終わりを待たず本土から来た男と島を離れた。
なのに今頃どうして?
「赤ん坊連れててさ・・・・。 親父さん、相手の男を殺すッてカンカンだったけど、でも、女は強いな・・・すっかり母親してるし、」
前を歩くシノダの表情は見えない。 オキは見えない表情に焦燥を強める。
シノダはどうなんだろう? シノダはもう忘れたのだろうか?
―― あんたらはそのまんまでいいねぇ、
「・・・・・そんな簡単じゃぁない、」
「なに?」
「なんでもない・・・ちょっと、なんか色々吃驚しただけ、」
唐突に途切れる山道の終わり。 海は松林の向う、風は海から流れ山に当たり、白ッ茶けたコンクリに小さな渦を巻く。 二人はさして言葉もないままに、人影もまばらな海岸沿いを歩いた。 途中、干物の按配を確かめる女が、道路際水を撒く男が、それぞれオキに気付き軽く頭を下げた。 が、他は周りが目に入らぬかのように、静かに平坦な日常を黙々とこなす。 島は、変化を認めたがらなかった。 尤もそれこそが、島で暮らす秘訣なのだと思えた。 やがて今朝方降り立った防波堤を通り過ぎ、漁師食堂が二件ほど並ぶその先、錆びた立て看板に緑の文字でノマ屋。 余白に描かれた動物が猫なのかサルなのかは、父親の代からの謎だった。
「アー珍しいねェ、あんたァ! アー、オキんとこの兄さんも一緒かねェ、」
迎えてくれる老女は無条件に優しく、記憶のそれよりもずっと小さかった。 シノダは保冷庫から水色の壜を二本取り出し、蓋の上に硬貨を置くと 「ここで飲んで行くから」 と老女に告げた。 ガタガタする合板の机に、二本並んだラムネ。 シノダと差し向かいで飲むそれは、炭酸の清涼感よりも痛みを、甘さよりも苦味を感じた。
「ガブガブすると、ゲップが出るよォ!」
手拭で掌を擦り、老女が笑う。
―― 苦しいんです ――
オキはこの小さな聴き手に、何もかもをぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。 コンとシノダが壜を置いた。
「・・・遅ぇな、」
乾いた音を立て、弾みでビー球が跳ねる。
「・・・おまえ、やっぱラムネ飲むの遅い。」
まだ半分も進まないオキを顎でしゃくり、シノダは五分の一ほどになった壜を傾けた。
仰け反った首、嚥下に引き上げられた咽喉仏は生き物のように動き、丸みを帯びた壜の口を押し当てた唇は少し厚い。 指は壜の括れを軽く回り、把握の加減で手背に綺麗な腱の筋が浮いた。 オキは知らず知らず眺めていた自分にうろたえ、慌ててそれらから視線を外す。
あの唇の感触を知っている。 あの唇がどんなだか、オキは知っている。
ヨシノの残した地雷を踏んだオキは、未だそれがシノダの周囲に埋められているのではと疑わずには居られない。 あんな事さえ無ければ変わらないで居れた。 ヨシノがあんなスウィッチを押さなければ、二人はそのままで居れた。
二度目を踏むのは死ぬよりも恐い。
緩々とした扇風機の風が、小さな店の空気を混ぜる。 老女は店の隅、団扇を片手にぼんやり海を眺めている。 そして二人は何も喋らなかった。 空になり、二本並んだ水色の壜も乾く。 年代物のレジの脇、小さなラジオが雑音混じりのナツメロを流した。 時間が逆流するような錯覚。 けれど、サカモトキュウのスキヤキが流れたところでシノダはガタリと椅子を引いた。 つられて立ち上がるオキは小声で御馳走様と告げ、はっと顔を上げた老女に軽く会釈する。 そうして店を出ようとしたのだオキを、老女は呼び止めた。
「そらチョイトォ! アンタァーはね、いつでも戻って来るといい。 待ってるからねェー、呼ばれンまではまだチィーとあるから、頑張ッてココで待ってるから、」
ポンと背を押し、老女は小さな包みを握らせて言う。 頭を下げるオキは泣きそうになった。 わかるのだろうか? 自分が抱えてる何かが、この老女にはわかるのだろうか?
店から出て直ぐの防波堤に腰掛けて、シノダは身体を丸め煙草に火を点けている。 二年前と違うシノダは、別の誰かのように見えた。 紫煙を燻らすシノダが紙包みに気付き、オキは改めてそれを眺める。 それは駄菓子のおまけの様な竹とんぼ。 ピンクの羽と緑の軸の、プラスチック製の竹とんぼだった。
「俺らなんてさ、ハナさんにしてみたらまだ、鼻垂らしてたチビん頃と変わンねぇんだろうな、」
シノダはそう言って、フィルターを咥えた。 オキはそれを二度三度擦り上げたが、ピンクの羽根は海風に負け、民家の横壁にぶつかりポトンと植え込みに落ちる。 四度目にシノダが手を伸ばし、勢い良く両手を擦り合せて離した。 ふわっと真っ直ぐに上がるプラスティックの羽根、青空の異物。
やがて失速して落ちた空家跡の茂みを、二人は棒切れで夏草を払いつつ捜す。
「あった、」
屈みこむシノダの指に摘まれた、ピンクの羽根。 ホッとするオキは、腰丈ほどの草を踏みしめシノダに近付く。
「ありがとう、 ッ?!」
伸ばした手の平は宙を掠め、引き寄せられた手首に巻きつく節高の指、痛いほどの把握。 そうして睨むようにオキを見つめるシノダは、あの時と同じ顔。 祭りの夜、祠の石段でオキを見つめたあの時と、 逃げるのか? とオキに尋ねたあの時と、
「オキ、」
瞬間、身体を強張らせたオキにシノダは眉根を寄せる。 けれど掴んだ手首はそのままに、シノダは言葉を続けた。
「俺は変わっちゃいない。」
「な、」
「俺は変わっちゃいないから、お前のこれからを聞きたい。」
「お、俺は、」
言い淀むオキをシノダは待たず、
「明日、花嫁が祠に入った後は親父らの宴会だから、その時俺は抜ける。」
「シノダ?」
不意に緩められた指が、オキの手首から離れた。 ジンと痺れるそこを、オキは無意識に撫でる。 一瞬気が反れたその時、シノダはもう一度言葉を発した。
「今度は逃げるなよ、」
射るような、挑みかかるような目。
オキにはそれを見つめる事しか出来ない。 と言うより、目を離す事が出来ない。
―― あの時みたいに ――
けれど、シノダは空き地にオキを残し、ずんずん大股で歩いて行った。 取残されたオキは、自分がまだリスク云々を考えている卑怯に直面し、遠ざかる背中を追えなかった。 なのに、ほんの一瞬期待した自分に、くちづけを待っていたかも知れない自分に厭きれた。 厭きれて力無い笑いが零れ、オキは空き地に立ち尽くす。 べたつく潮風にぐずぐず崩れる自分を想像し、徐々に彩度を落とす海を見つめた。
* *
翌日、目が醒めたのは随分早い時間だった。
見れば枕元の障子が、開け放たれている。 暴力的な朝日の襲撃を受け、逃げ場の無い布団の上、オキはぎゅっと身体を縮めた。 昨夜は遅くまで明かりを消した部屋に寝転び、柚子の枝に月がぶら下がるのを眺めた。 斜め上方に見る窓の外、枝が歪な座標を作り、眠り損ねたオキはその升目に移動する星月を眺め時間を遣り過ごしていた。 銀の釣り針のような月はゆっくりまどろこしく座標を進み、一つ、二つ、三つ、不揃いな升目を移動する月。 緩慢なその航路を見つめ、それでも何一つ固まらない自分の曖昧さをオキは腹立たしく思った。
答えなんて、とうに出ているのに。 けれどそれを、自分の望みだとオキは言う事が出来ない。 それによりシノダを引き摺る事が、果たして自分に許されるのだろうか? それでもシノダは? けれど寝起きの宙ぶらりんに、そう何時までも呆けては居られない。 既に母屋は忙しい気配に満ち、今朝はもう、祭りの朝だった。 台所からは、ほんのり甘い香ばしい匂い。 蜜を煮詰めている匂い。
祭りの日、女たちはヨモギの粉を混ぜた涼しい緑の白玉団子を作り、大鉢に持ったそれに冷たい蜜をかける。 蒸し暑い時期の祭りだから、ひんやり口当たりの良い祝い菓子を出すのがこの島の習慣だった。 祭りの夜、祠のすぐ下の空き地にテントが張られ、ゆったりとした島独特の祝い唄に合わせ子供らが舞い、訪れる皆に持ち寄られた料理が振舞われる。 暖かい汁ときつく酢で〆た押し寿司、塩気の効いた天麩羅、つやつや色好く漬かった山盛りの小茄子、全ての料理の後に誰かの母親だか祖母だかが 「垂らさぬようにね」 と、よそってくれる小皿一盛りの餅菓子。 幼い自分と、シノダと、断片的に蘇る懐かしい誰かの記憶。
そうして祭りは否応無しに、皆を巻き込んで行く。
無論、オキも例外ではない。 奇妙な浮遊感をどこか楽しみつつ、オキはその渦中へと進んだ。
作業は草むしりに始まりテント張りまで、午前中一杯を力作業に借り出されオキは島の男連中に混じり、それらをこなして久方振りに身体を使って汗を流す。 今夜花嫁らが歩く路肩はこざっぱりと整備され、昼には張ったばかりのテントに握り飯だの汁だのの差し入れが届いた。 一仕事終えた男達は冷たいお茶で咽喉を潤し、腹がくちくなるまで平らげれば、詰め所のむしろに転がり満足気な息を吐く。 ジリジリと日は高い。 日陰に居ても汗は噴出すように流れ、半裸になった一人はずぶ濡れのシャツを絞り、堪らんなァと笑った。
そんな中に、漁師仲間と話すシノダの姿もあった。 けれどオキは声を掛ける事もせず、長兄らが他愛もない話で盛り上がるのに相槌を打った。 多分、シノダもオキに気付いている。 しかし、二人の間の緊張は微妙な距離を生み、ましてその一因が自分自身なのだと思うとオキはずしりと気が重くなるのを感じた。
祭りの一日は刻々と進む。 家に戻ると風呂の用意がされており、男らは順番に湯を浴びる。 湯上りの身体には真新しい楊柳の肌着を着け、そこに鴉羽織りと呼ばれる濃紺の単を纏った。 それが、行列に参列する者の衣装であった。 月の無い夜道、夜目に目立たぬ濃紺の着物を着て、渋を塗り最小限に光を抑えた蛍灯篭を手に、訳有りの花嫁はしめやかに嫁入りをする。 4〜5年前、とある旅行誌がコラムで【幻想的な秘祭】と取り上げ、島への問い合わせが相次いだ事があった。 が、島はそれら外部からの参列を宿泊施設がない事を理由にきっぱりと断り、祭りは閉じられた世界で今日まで続く。
パンと広げた濃紺に、オキはそっと袖を通した。 シャリリとした麻の肌触りは、見た目よりもさらりと涼しい。 オキ自身、これを着るのは今回が初めてであった。 子供の目にはそう見えたのだろうか、思い出の中でそれを着ていたのは自分よりずっと大人だった様な気がした。 派手な御囃子や出店が無い祭りは、子供心にもどこか禁忌の匂いがしたように思う。 それは大人の祭りだった。 秘密を抱えた大人の、密やかな祭事。 それを垣間見た自分がこちら側に回るとは、何やら不思議な気持ちがした。
湯を浴び鴉羽織を着た男達はそこから先、無事花嫁を祠に届けるまで一切の飲み食いを禁じられる。
「いい加減、昨日までのお酒抜かなきゃぁ行列どころじゃないでしょう?」
母親に窘められ、父親はぽりぽりと頭を掻いた。 とはいうもの昼にたらふく食べたので、腹など空かないだろう。 涼しい部屋の中に居ては、暑いと言う事もなかった。 そんな事よりもオキは只、落ち着かなかった。 後数時間で自分に決着をつけねばならない猶予が、どうしようもなく落ち着かなかった。
シノダも、そうだろうか?
三時過ぎ、本家の数人が呼びに来て父親と長兄は最後の打ち合わせへと出掛けた。 家に残るのはオキと、次兄と直ぐ上の兄。 手持ち無沙汰の三人はまだ日の高い外を眺め、何をする訳でもなく半端な時間を持て余して過ごす。 何しろ和服では、そうそう動き回る事も出来ず上の兄はゲームに飽きて寝てしまい、次兄はテレビ画面に見入っている。 オキは暇潰しに台所に向かい、てんやわんやの炊き出しを眺めた。 茹で上げられたトウモロコシ、根菜類を盛り合わせた素朴な炊き合わせ、ぷんと酢の匂いがして母と伯母らが押し寿司を作っている。
「ケンショウさん、お腹空いたのかい?」
タキコ伯母が我慢我慢と腹を擦ってみせた。
「暇なら、本家の御婆ちゃんにこれ届けて来て、」
菜箸で母親が示したのは、盆に載せられた漬物の小皿と蓋付きの鉢が二種。
「御婆ちゃん暑気あたりで調子悪いから、お台所手伝えないって気にしててね。 これ持ってって味見して下さいッてね、転ばないように行って来て。」
子供じゃあるまいしと、オキは盆を両手で掴んだ。 が、両手で支えた盆で足元が見えず、慣れぬ裾裁きに歩幅の見当もつかない。 そろりそろりと廊下を進み、一旦盆を置いて玄関先へと降りればそれだけでふうと溜め息が漏れた。 再びおぼつかぬ足取りで南天の植え込みを回り、オキは本家の中庭へと進む。 蒸し暑い空気にじっとりと汗が滲んだ。 こまめに手が入った庭。 張り出した庭木も配置された自然石も、踏み込めばしんと威圧する美しさがここには在る。 けれど、風情のある庭は歩き難い。 オキは汗で滑る持ち手を握りなおし、中庭の母屋寄りに位置する小さな離れを目指した。
祖母は四年前に祖父が亡くなったあと、先々代が茶室にしていた離れを改装し、悠悠自適に寝起きをしていた。 見た所質素な作りだが、その実、細部に渡り職人達が技を競ったであろう事をオキは知っている。 祖母は、そうした遊びの好きな人だった。 つまり本家らしくはなかった。
何しろ一度は島の外に嫁いだものの、祖母はたった四年で突然離縁して島へと戻る。 その時祖母の手には、地主の夫を巧みに御し、不動産の転売で築いた一財産があった。 資産の一部は嫁ぎ先へ残して来たものの、それでも祖母の手に残るのは莫大なものであった。 それが、今もオキの家の支柱となっている。 出戻った祖母は、まだ若い祖母はヤモメだった祖父を婿に取り、オキの家を実質動かす存在となる。 表向き子をなさぬという理由で離縁したらしいが、それが出任せだったのは今を見ればわかる。 祖母とは、島の語り草になる派手な出戻りだった。
そんな祖母の傍ら、おとなしい山羊のような祖父は生涯にこやかに微笑んでいたが、大叔母といい祖母といい、ここの革新派は長老ばかりじゃないかとオキは思う。 ちっぽけな島の中、お山の大将を気取る叔父らも、父も、兄も、留まる事を選び変わる事を嫌った。 この中で十分だと、無理に言い聞かせるような生き方だと思えた。 けれどオキに、彼らを責める権利はない。 逃げる事ばかり考えている自分にしても、どうしようもなさに変わりはないのだ。 煮え切らずしがみ付き、ここで途方に暮れているのだから、どうしようもない似た者一家なのだろう。
スッと一瞬日が翳り、ぐらりと視界が立ち眩みのように揺らいだ。 ギュッと目を閉じ踏み出した大地に、オキはしゃがみ込みそうになる。 不安なのはそれだけ期待するからなのだ。 過剰に期待する自分を嘲る事すら出来ないそれが、つまり、オキにとっての一番どうしようもない現実なのだった。 濃紺の袖から覗く、日に焼けない働かない役立たずの白い手首。 甘ったれたその腕を掴んだのは、荒ぶる自然に生きる強く逞しい褐色の腕。
「・・・・・・・・」
呟いた名前は言霊となり、瞬く間にオキを絡め捕り封じる。 けれどその息苦しさこそを、待ち望む自分が憐れだった。
憐れで愚かな頭上で、短い生を急ぐ蝉が、甲高く泣いた。
また、歩き出した。
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