** 入り江のカーブ **
#1.
やがて紗を払い、島は抜ける青空にその輪郭を刻む。
東西僅か7km足らずの島影は、海原に眠る黒い猫に似ていた。 船は焼け付く照り返しを受け、蕩けた金属のような沖合を緩く東へと迂回する。 岩場の多い西岸からなだらかに白浜の続く北岸、そして東の入り江のカーブは深く半円に島を抉り、散らしたお弾きのような民家は主に蹲る猫の腹に集まっていた。
―― 猫がさ、宝物を隠してるんだよ。
丸めた背に近い山間を見遣れば、緑の木立に紛れる朱赤の小さな点が一つ。 切り崩した山道の中程、入り江を見下ろし佇むのは竜神を祭る古びた祠だった。
竜神は二年に一度、新月の晩に島の娘を花嫁に迎える。 花嫁になる娘は守家(もりや)と呼ばれる一団に守られ、御付き人(おんつきびと)と呼ばれる世話人らと生家から祠までをそぞろ歩き、やがて訪れる竜神と祠に篭もり一夜をあかす。 やがて夜明けが訪れれば竜神は娘を連れ去り、祠に残されるのは財宝の山。 そうして島はまた暫しの平穏と安寧を約束され、竜神に嫁を出した一族はひと財産を築くと、そう、古くから島の言い伝えにはあった。 こうした今や形ばかりになった祭事を取り仕切るのは、二年毎に選ばれる御付き人と守家、二つの家の一族。 花嫁には見目の良い嫁入り前の娘が選ばれて、そして今年の御付き人にはオキの家、守家にはシノダの家が選ばれていた。
滅多掛けては来ない電話口、ほろ酔いの父親は 「祭りの要人に選ばれるのは名誉なのだ」と言った。 二年に一度きりなのだから、まして家は選ばれたのだから、お前も島の人間としてそこに参加するようにと最後は珍しい命令口調で、父はオキに夏の帰省を促した。 けれどだから帰って来いと言われても、オキにはそれほど自分が役に立つようには思えなかった。 戻った所でどうせこれといった役割もない。 せいぜい本家の老人達や兄らの、使いッ走りをするだけなのだろうと思う。 そもそもオキ自身、祭りそのものにそれほどの執着はない。
詰まる所、伝説の始まりなんて態の良い人身御供なのだろうとシノダは言い捨てる。
だがオキにはそれが、一つのからくりのように思えた。
狭い島の中、余所者と添い遂げる事を良しとしない連中を欺き、娘とその家族は外部の金持ちに娘を嫁がせようとする。 だから敢えて婚礼は真夜中に行われ、陽光に晒される事を好まず二人は姿を消すのだ。 けれど竜神に娘を嫁がせた家は財宝を手にし、島での裕福な暮らしを約束された。 娘と引き換えに財を得たそれを、シノダの言う人身御供というなら、あながち間違いではない。 けれど果たして娘は犠牲者だったのかと言うと、そうとも言い切れないようにオキは思う。 つまりそれは、一族の安泰を賭けた大掛かりなからくりではないか?
事実、島の資産家であるオキの家もまた、代々何人かの娘を本土の名家に嫁がせ、その度に私財を増やし、島での地位を揺ぎ無い物とした。 家は島の外に所有する不動産収入で成り立っている。 けれど家は島を出ようとはしない。 そして本土に散らばる親族らが島に戻る事は、冠婚葬祭時ですら殆んど無かった。 島に残る本家とて、そこから相当額の融資を受けているにも拘わらず、それらの名を口に出す事は無い。 微妙な距離を図り、互いに無かった事として地中深くで根を広げる生き方。
―― そういうのって幸せか?
わからない。
けれど、だからこそ、こんな何も無い島で皆、細々と生きて行けたのだと思う。 富を外に求めねば皆、この小さな猫の腹に抱えられ静かに滅んで行った事だろう。 現にオキ自身、こうして島の外に生活基盤を移し『戻る』立場になってしまった。 何か無ければもう戻らないかも知れない、自分が置き去りにした島、置き去りにした何か。 その島に迎えられるのは、揺れる大地に立つような曖昧な不安感を伴い、いっそ無様に倒れてしまえという自棄を誘う。 けれどそんなオキの迷いに構わず、船は炭酸水の泡を掻き立て入り江の桟橋へと近付く。
潮に洗われた丸木、寄り添うように並ぶ小さな数隻の漁船。 不似合いな彩色の待合所に人の気配は無く、信号の無い通り沿い民家のくすんだ瓦屋根が欠けた櫛の様に並ぶのが、何も無いよりもずっと侘しく思えた。 カランと爪先で転がる空き缶。 突如逆流する、過ぎ去った日々の時間。 あの日見た景色、あの日ここで刻んだ最期の記憶。 島はあれから何一つ変わる事無く自分を迎え、そして自分は島に何かを確かに期待している。
俯く襟足にジリリと、容赦無い真上からの陽射しを感じた。 乾いたアスファルトを濡らす影法師に急かされ、オキはのろのろと帰るべき場所へと向かう。 眠る猫の腹を東に、東に。
**
松林の角を曲ると、歪な細い石段が緩々山の中腹まで続く。 オキは青臭い夏草を踏みしめ、細い山道を100メートルばかり登った。 すると突然視界は開け、行く手を阻むように本家の生垣が姿を現す。 山の中にわざわざ造り込まれた自然を配置する、その唐突さを不自然だと思う己の相変わらずに、オキは額の汗を拭い薄く笑った。
島民の殆んどはいわゆる第一次産業を生業とし、自然の恩恵を受け、日々必要なだけを得て暮らしている。 それは島で生き、島で果てる人の在り方として至極正しい形に思えた。 けれどオキの本家はそのサイクルから大きく外れる。 外れたからこそ必要以上の財を得て、ちっぽけな島の頂点に胡座を掻く。 これでもかと財力を誇示する本家の在り方は、やはりこの島に不似合いな存在だと思えた。 そしてオキ自身、所詮は島の異物である事をもどかしく感じた。
「はァーてさ、ケンショウさん? 今日、戻られたかねェ?」
見上げればサノジが楡の巨木に跨り、張り出しすぎた枝を刈り込んでいた。 くりくりと渋の様に焼けた顔を皺くちゃにして、当に六十半ばを越える庭師はさも嬉しそうにオキに小さく会釈をする。
「もう、アッチは始まってますか?」
「ヤー、四五ンち前までの長雨でお客の布団がカビ臭いからァ言われて、ソレ、庭一面筵をひらげて虫干ししとる最中ですよ。 そんならソコに枝払う訳にいかんのですから、コッチを先に遣らして貰ッとります。 ケンショウさん、足の踏み場もナイですから、池の向こッ方グルリ廻られた方が面倒無いですよォ、」
オキはサノジに軽く頭を下げ、庭に続く玉砂利を踏んだ。
果たして庭一面に広げられた二十組近くはあろう布団、布団、布団。 それらを踏まずに横切るにはサノジの言う通り、池の端を向うに迂回する他無いように思えた。 オキは両手で荷物を前に抱え、南天の植え込みをそろりそろり擦り抜ける。 廻り込んだ池の向う側、辿り着いたのは綺麗に拭き清められ黒光りする縁側。 一先ず荷物を置いた瞬間ガラリ障子が開き、バケツをぶら下げた母がオヤという顔で見下ろした。
「あらやだ、夕方の船じゃなかったの?」
「ごめん、時間が半端だったから朝の便で来た。」
「じゃ朝は食べた? 昼はまだでしょ? 本家さんとこに持ってくお握りなら台所にあるけど・・あぁ、味噌汁は朝のがまだ少しあったわね、」
バケツの中には絞った雑巾が詰め込まれ、矢継ぎ早に問い掛ける母は幾分日焼けをしていた。
「ごめん、忙しかった?」
「やだ、あなたが謝る事ないわよ。 でも忙しいわね。 本家のキヨミさんが先週市場で足を捻って、その分借り出されるのだけどアッチの勝手は色々違うから。 何しろ年寄りばかりでしょう? 働き手が一人でも減るとあそこは回らないのよ。」
ほうと溜め息を吐く母は、首に巻いたタオルで首筋を拭う。
「親父は?」
「会所で飲んでるの。 お父さんもお爺ちゃんも男は待ってましたとばかりにずっとドンチャンやっててもう、こんなのは本当、二年に一回で充分だわね。 あぁ、食べる前に一風呂浴びる?」
「いや、取り敢えず落ち着きたい。」
背中に張り付くシャツは不愉快だったが、何より靴を脱ぎ座り込みたかった。 歩いている時はまだしも、立ち止まると急に暑さと疲労を身体中に意識する。 さぁと促す母は、荷物の一つを障子の向うにやった。 と、母の視線が庭の奥に流れ、丸い紫陽花の葉陰、丸い身体のタケミ叔母が母に手を振っているのが見える。 オキに気付た叔母は、笑顔でもう一度片手を上げる。 笑みを返すオキは縁側から靴を脱ぎ、入れ違いに母はバケツを手に縁側を降りた。 屈み込むオキの背中に、母はついでのように言葉を落とす。
「あんたが戻ったんならタカちゃんも喜ぶわねぇ、」
ポトンと投げ込まれた小石の波紋。 心構え無しに聞くその名に、小さな動揺が広がる。
「・・・・・・別に喜ばないだろ? 子供じゃあるまいし、」
「なぁに大人ぶって、2年前までは仲良くはしゃいでた癖に。」
二年も経ったのだとオキは言い返すが、母はハイハイと受け流し、縁側を降りれば南天の枝を払い、池のグルリを迂回して本家へと向かった。 カラコロ鳴るサンダルと張り合うのは、割れ鐘ように喧しい蝉の声。 佐務衣の後姿を見て、オキはそれが一昨年亡くなった大叔母の着物だと知った。 藍色の海、夜の波間に数羽の千鳥が羽ばたく
―― 夜飛ぶ鳥なんて
そうして笑った瞳、日焼けした腕、障子越しの光、水滴の浮く麦茶、まくわ瓜を盆に載せた大叔母は目を細めて
あんたらはいいね、あんたらはそのまんまでいいねぇ、
そのままでなんか、居られる筈がない。
晴天の庭先から一歩和室に入れば暗さに目が慣れず、チカチカ光の粒が舞った。 オキは指先で目頭を抑え、膝を着き、息苦しさを暑さのせいにしようとしたが、頭蓋に流れ込む記憶の端々は到底振り払えるものではなかった。 馬鹿馬鹿しい。 そんな過去の断片に囚われている自分は滑稽で愚かだと思った。 馬鹿馬鹿しい。 けれどここに、そこかしこにそれらは溢れているのだ。 古びた梁のささくれにも、見上げる青空と楡の木立にも、至る所に溢れるシノダの気配にオキは、為す術も無くただ深く息を吐いた。
なのにのこのこ戻ってきた自分を、本当に馬鹿だと思った。
**
けれど逃げ回る子供ほど直ぐに捕まるように、遠避けたい何かとは大抵、向うからこちらへと出向き、身を潜めるつもりがいつしかその懐へと飛び込む事態に陥る。
ふいに騒々しい気配に引き戻され、薄目を開けた視界に飛び込む水色。 それが読み止しの文庫本だと気付き、ハッと眺めた壁時計はまだ二時を回ったばかり。依然精力的に鳴く蝉の声は壁向うから響き、障子の隙間から洩れるのは絹糸のような光。 そして漸く、ここがどこかと脳が悟る順不同の不思議。 額に張り付く髪をかきあげ何事かと騒がしい玄関へと向かうオキは、間も無く自らそこへ飛び込む。
「おォ、戻ったか! 祭りが終わるまでは居るのか?」
ぐらりゆらりヤジロベイのように揺れる父親はとうに腰が立たず、ひょろりとした長身を母親ともう一人が前後から支えた。 オキは非力な母親が四苦八苦しているのを助けようと、早足で廊下を進む。 赤ら顔の父親の腰に、背後から回された腕はしっかとその体重を支え、綺麗に筋肉の乗った上腕は外で働く者の色をしていた。
「こんなになってからもう・・・・まだ明日明後日とあるのに、」
「良いサァ、良いさ、」
溜め息交じりに呟く母親が、靴を脱がそうと父親の胴中を引く。 後ろに回ったもう一人もそれにつられ腰を屈めるが、俯く体勢では顔は見えない。 しかし、まだ若い男だと思った。 太い首筋に緩みは無く、襟足からの汗粒が浮き上がる筋に沿って流れた。 オキは母親と入れ替わり、座り込む父親を引き上げる。 そしてグンニャリする父親を挟み、男と真正面で向き合う。
「・・?!・・」
「・・・・・」
短く刈り込まれた髪、一文字に濃い眉、幾分シャープになった輪郭は幼さを払拭し、侍みたいだとあの日オキがからかった目は相変わらず鋭く、そして深い色をしていた。 だが、視線は直ぐに反れる。
「なんじゃァ、ケンショウ! シノダの息子は男になッたぞ、酒にも飲まれン海の男じゃ、」
馬鹿笑いして崩れる父親は、急に眠いと言い始めた。 オキはぐずる子供のような大人を宥め、一番近い六畳にシノダと無言で運んだ。 腕が、肩が、掠めるように触れ、そして離れた。 沈黙に息が詰まりそうだ。 やがて引き摺り入れた部屋の真ん中、大の字になった父親の頭の下、オキはそこらの座布団を挟む。 中庭からの風は心地良く アサコは何処だ? などと母の名を呟いていた父も、呆気ないほどの速さで軽い鼾を掻き始めた。 溜め息を吐いたのは、図らずも同時。
「・・・・・戻ったんだな、」
「あ、あぁ、」
問い掛けたシノダはTシャツの裾をはためかせ、もう一度深く息を吐いた。 そしてくるりと背を向けると、元来た廊下へと引き返す。 その後ろ姿を追い掛けようとして、オキははたと動きを止めた。 どうする? 追い掛けてどうする? けれど躊躇するオキを促したのはシノダだった。
「・・ラムネ、飲まねぇ?」
「え?」
戸惑うオキに、振り返るシノダは、もう一度言葉を投げる。
「ノマ屋のさ・・・、海岸まで歩くけど、」
ノマ屋は海岸沿い、老夫婦が営む喫茶店兼よろず屋だった。
「う、うん、歩くのは構わないけど、シノダは?」
「俺?」
「シノダんち守家なんだろ? 色々忙しいんじゃ」
「いや、あれは親父達が仕切ってて、俺とか兄貴とかは使いッパだからな。 それ言ったらお前ンちも御付き人だろ?」
「そうだけど、俺はもう、 ・・・・ごめん、親父癖悪いから絡んだんじゃない?」
「まぁ、普通。」
玄関先、靴を履くシノダの背中をオキはぼんやりと眺めた。 見慣れていた筈なのに、今はこんなにも余所余所しい背中。 その背が不意に振り向いたから、オキは盗み見を咎められたように、跳ね上がる心臓を押さえる。
「もしかしてなんか予定あったか?」
「や、ないよ。 俺なんてだって、頭数に入ってないから、」
「じゃ、」
帰ります と、シノダは奥へ声を張り上げた。
だからオキもそれに習い、出掛けて来るからと廊下の奥に叫んだ。
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