** 入り江のカーブ **
#4.
ようやく未練がましい西日が母屋の裏側に隠れ、しっとり肌を冷やす海風が木立を掠めて島をさわさわと巡る。
闇は密やかな祭事の始まりであった。
門柱脇に焚かれたかがり火の揺らめきこそ、鳴り物一つない祭りの夜の証であった。
「ソラさ、コレ貼ッちょれ、」
長兄が、小さなシートをオキと次兄に手渡す。 カットバンのようなそれは、靴擦れ予防の保護シートだった。 背を丸め、長兄は裸足の親指と人差し指の間にそれを挟み込むように貼り付ける。 そしてもう一つを剥し、甲の部分、親指の腱の上に貼った。
「おまえらワカランだろう? デコボコ道を馴れない草履で歩くと、ココンらが擦り切れて途中ベソ掻きたくなるぞ。 一昨年、ツカモトんとこのシンジが地獄を見たユッとった。 特にケンショウ、おまえは二枚ばかし貼ッとけ。」
そう言って二ィッと笑う兄は、ますます死んだ祖父に似て来ている。 十五も離れている長兄は、兄というより父親に近い感覚があった。 そもそもすぐ上の兄ですら四つも離れているのだから、二十歳を過ぎたオキが未だみそっかすの末っ子である事は、今もそう変わらない。 そんな過保護に守られている自分を歯痒く思う事も有ったが、だからこそ、これからはその立場をふるに利用して行こうとオキは心の中で思う。
一族の中、さしてしがらみも責任も無い自分だからこそ、これからシノダとの関係を維持して行くにあたり好都合は有るだろう。 玄関先に座り込み、足を投げ出し、オキは長兄に習い丁寧にシートを貼った。 一度草履に足を入れ、当たる部分を確かめてから甲の部分にもう一枚も貼る。 キュッと足袋を履けば、気持ちまで引き締まる気がした。
そうこうする間にも本家の庭先には、ぞろぞろ男衆が集まる。 かがり火から火種を移し、蛍灯篭にボォッと灯りが点される。 鴉羽織の一団は次第に濃くなる闇夜に溶け、手にした灯篭の灯りだけがぼんやり人影を浮き上がらせていた。 そして長老の大叔父を先頭に、二列で行列が始まる。 行列は山道を下り、海沿いの通りを静々と進む。 通り沿いの路肩に佇む島民らはそれぞれ灯篭を持ち、静かに声も無く進む行列をやはり沈黙で見守った。
船着場の防波堤を内側に折れた裏道で、オキらの一団は守家の十数人と合流する。 鴉羽織りと蛍灯篭、それに加え先端を尖らせた長い槍のような白木の木刀を持ち、守家の男達は花嫁行列を護衛するのだった。 ほの暗い灯篭に照らされた一団の中、オキはシノダの姿を認める。
固く結ばれた口元、浅黒い精悍な顔立ち、がっしり上背のある立ち姿はまさに若武者のようだと改めて思う。 と、不意にシノダがこちらを見た。 真っ直ぐな目。 咄嗟に視線を反らそうとしたオキだが、堪え、それを受け止める。 もう逃げまいと思った。 逃げない自分をシノダに知らせたかった。 やがてシノダの長老が、そいサ、と掛け声を掛け、列の前後を守家が守り、一連隊は花嫁の待つ西へと向かって猫の腹を斜めに縦断する。
黒猫の腹に守られた、きらきらした蛍灯篭の宝石たち。 今日の有り様を闇の海原から見遣れば、さぞや美しい長めだろうとオキは思う。 あぁつまりそれは夜の海を渡り花嫁を迎えに来る花婿への、密やかな持て成しなのでは無いかとそんな事を思ったりもした。 前方、ちらりちらり先頭付近を行くシノダが、頭一つ分飛び出て見える。 シノダの後ろ姿を眺め、オキは灯篭を掲げる次兄の後に続いた。
そうして西の突堤で一行は花嫁を迎えた。 行列はこじんまりした嫁入り籠を中央に、今来た道を引き返して山の中腹にある祠へと向かう。 籠は花嫁の家の男衆と守家、御付き人の家から力のある者が加わり、道中順繰りに担がれていった。 自他共に認める非力なオキはその中に入らなかったが、シノダは祠に続く細い山道の、一番きつい行程で担ぎ手に回った。 オキはその斜め後ろで灯篭を下げ、汗ばむ首筋と厳しい横顔を見つめる。 それは、誰にも渡したくないシノダだった。
オキは唐突に、自分は心底シノダが好きなのだと確信する。 あれは、誰にも渡さない―― 祖父を思いつづけた祖母の強さが、自分の内にも確かに存在する。 確信するオキは酷く高揚する自分にうろたえ、わざと足元に視線を外した。
直に、祠が見える。
祠前に到着した花嫁は、両親、御付き人に付き添われ、長い祝詞のあと祠に篭もって夜明けまでを過ごす。 一同頭を垂れる中、神妙な顔で祝詞を読むムラセ親子をオキは興味半分で盗み見た。 すっかり神主の顔になった件の兄は、父親の横で玉串を掲げる。 オキはその様を、冷かし半分で見ようとした自分に恥じた。 ちゃんとここで生きようとする者を、笑う事など出来ない。 いずれ父親に代わり兄は弟を引き連れ、ムラセの家はこの祠を守るのだろう。 そうして、祭りは続く。
やがて花嫁が祠に消え、すぐ下の空き地では祝い舞いが始まり、炊き出しの良い匂いがふわり山道に漂った。 任務を終えた男らが、解禁とばかりに樽酒に群がるのが蟻の様で可笑しい。 飲み食いもせず、眺めているオキに仮設テントの中から次兄が手を振った。 兄はさかさかと大股で近付き、 「ボサッと喰いッぱぐれとるぞ?」 と、オキに天麩羅の盛られた紙皿と、紙コップを押し付けた。 さして腹は減ってなかったが、オキはレンコンを齧る。 衣は夜風に当たられ、幾分しっとりしていた。 美味いとも不味いとも思わないのは、緊張しているからだろうか。
機械的に咀嚼し、向うで様子を見ている兄らに手を上げた。 子供じゃないのだからと声を荒げたとしても、向うにして見れば十年経ってもその先も、自分は 「小さい弟」 なのだろう。 過剰に構われるのも仕方ないと諦め、オキは空になった皿をヒラヒラと振る。 そうしながら、脂っぽくなった咽喉を潤そうと、紙コップの中身をグッと煽った。 途端に小さく咽る。 氷が浮かんでいたからスポーツドリンクか何かだと思っていたが、それは島の地酒だった。 微かに白濁したそれは、冷やせば咽喉越し良くサラリとした甘味もあるが、しかしアルコールの度数は日本酒よりも高い。 見れば咽るオキを、兄らが興味津々に眺めている。 わざともう一度煽り兄らに笑って見せるとオキは、ほの暗い灯りに浮かぶ人影の中、求めるたった一人を捜した。
咽喉がヒリヒリするのは地酒のせいだけじゃない。 身体の芯から高揚するのも、酔いのせいばかりではない。 女子供、半袖半ズボンの男らに混じり、点々と散らばる影のような羽織姿をオキは目で選り分ける。 しかし、求める姿は無かった。 テントのむしろで歓声が上がる。 シノダの長兄が立ち上がり、大柄杓で酒を煽っている。 その周りを車座になった男らが胡座を掻き、羽織の裾をからげ、囲み、やんやと囃したて仲間の豪快な飲みッぷりを誉めそやす。
ふと笑みが零れたオキの腕を、力強い指先が掴んだ。
「抜けるぞ」
シノダは火のように囁き、オキの返事も待たずに掴んだ腕を引く。
「何処へ?」
「男坂」
大股で歩くシノダは一度祠のすぐ下の石段に上がり、脇の藪の中へと続く獣道へと踏み込む。 夏草を掃いながら数メートルも歩けば、ポッカリ裂け目のような山道が顔を出した。 藪一つ隔てただけで、祭りの気配はここには無い。 祠へと続く山道は、先の石段とここの二通りがあったが、しかしこちらは舗装も碌にされず、ただただ山を崩し、ぞんざいに板と石を組み込んだだけの急な造りの不便さから、足腰の弱い女子供には不向きと島では男坂と呼ばれていた。 しかし、ここから見る夜の入り江が正面の山道よりもずっと美しい事を、オキもシノダも知っている。
例えばこんなふうに、月の無い夜であっても。
「・・・・・綺麗だな、」
オキは、思わずそう呟く。 シノダもオキの視線を辿る。 暗闇の中、瞬く宝石を集めた東の入り江。 カーブは闇に紛れ、海は夜に埋もれ、まだ寝静まらない民家の灯りが島と海との境目をチカチカと知らせた。 オキは先刻、海岸沿いで思った事を口にする。
「黒猫の宝物・・・・」
「え?」
「さっき行列しててさ、今日の黒猫は宝の山なんだろうなって。 一度、祭りの夜、海からコッチを眺めてみたいって思った。 綺麗だろうな、」
シノダは何も言わなかった。 気付けばオキの腕は、シノダにきつく掴まれたままだった。 けれど、それを振り払う気持ちは毛頭ない。 オキはさっきまでそぞろに支配していた高揚が、静かに落ち着いて行くのを感じた。 少し走ったせいか、酔いはふんわりと全身を包む。 心地の良い沈黙。 夜の四十万が饒舌だといった文豪は、多分こんなふうに胸を熱くしていたのかも知れない。 溢れ出る願い、思い、こうしてただ寄り添う事を、願う自分をどうか、
「・・・・俺はいつでもこっから向うを見てる。」
「シノダ?」
「俺はこっから向うを見て、例えばお前が島の外に出ても、それをココでずっと待つから。 俺はそう決めたから、決めたのは俺の勝手だからお前が俺を気に病む事は無い。 ただ俺はお前を島で待っているだけだから、お前はお前で外で」
「戻るからッ、」
遮り、袂を引き、オキは夜を見つめたまま語るシノダを引き寄せる。 密着した胸。 駆け足するような鼓動は、震えは、どちらのものなのか。 シノダがオキを見下ろす。 眉尻が僅かに跳ね上がる。 シノダは何か言い掛けたが、見上げる視線に制され次の言葉を待った。 オキは握り締めた袖を離し、シノダの腕に触れる。 渇望した腕。 掌に感じる、生身のシノダの腕。
「・・・・必ず、戻るから・・・ここに、戻るから。」
「・・・・・出来ない事は言うな。」
「俺は、」
「出来ないだろ? お前が大学へ行くのも、その先外で仕事を持つのもそれは仕方が無い事だと俺は思っている。 今更、漁師にも百姓にもなれやしないお前が、島でどうやって暮らす?」
出来やしないとシノダは言った。 抑えた口調の中に、苦しい遣り切れなさが滲む。 確かに、オキが島に残るのは容易ではない。 このままでは不可能とすら思える。 けれど、可能性が少しでもあるならそれに賭けるべきではないか? それをシノダに伝えたい。 それが自分の結論なのだと、シノダに言ってやりたい。
「俺たち二人が一緒に居たいと思うなら、両方で思うなら、不可能な話じゃないだろ?」
それはオキ自身がヨシノに言った言葉だった。
「難しいのはわかってる。 だけど、戻れるように、ここで暮らせるように俺は出来る限りの持ち札を増やすから、必要なものはココに持ち帰るから、だから・・・だから待っていて欲しい・・・俺を、待っていて欲しい。 誰にも渡したくないから、ずっと俺だけを見て欲しいから、他に女が出来るとか結婚するとかそんなの俺には我慢できないから、だから、」
「俺はそんな事しない! オキ、前も言ったが俺は、」
「わかってる。 ヨシノの事はもう、あれが出任せだって俺だって知ってる。」
「だったら、何で逃げたッ?!」
何で? あの日、ヨシノの言葉を嘘だと否定したシノダは、信じろとオキを抱いた。 触れ合う肌も、温みも、どうしようもなくオキを翻弄し、オキはそれに溺れようとしたが、しかしそこからオキを引きずり出したのは心の底に眠る澱みだった。
「・・・・恐かったからだよ。」
トンと頭をぶつける肩、擦り付けるように押し付けた頬をシャリリとした麻の感触が心地良く冷やす。 シノダの掌が、ゆっくりオキの背中を滑る。
「シノダを誰かに取られるのが恐い。 シノダに終わりだと言われるのが怖い。 いつか島に戻った時、お前が誰かと寄り添うのを見てしまったら、そんな終わり方は想像するだけで恐くて震える。 誰にも渡したくない。 ずっと俺だけを見てて欲しい・・・・だけど、そう願う自分が一番恐かった。 そんな風にリスクの多い生き方を好きな奴に押し付けて、一生縛り付けておこうとする自分が、傲慢で、身勝手で恐い。」
「だから・・・・逃げたのか?」
「逃げたよ・・・逃げて戻って来た。 会いたくて、どうしようもなくて、やっぱり誰にもやりたくなくて、傲慢でも身勝手でももうどうでもかまやしない・・俺はお前みたいにただ待つ事なんか出来ないから、傍に居られないなら、抱き締めて貰えないなら、俺だけに縛り付けておけないなら俺はもう、死んだもおなじ・・・」
名前を囁くより先に焦れた唇は重なり、掻き抱かれる腕と、匂いと、貪るようなくちづけに二人は抗う事も適わずに溺れる。
「・・・トシタカ・・・・・・・トシタカ・・・トシタカ・・」
呼べば、いっそう強くなった抱擁。 切ない吐息の狭間に、うわごとのように繰り返すたった一つの名前。 だけど幾度繰返そうとも、充分ではない。 言葉で欲しいと言えばもう後戻りは出来ず、戻る気もなく、蕩ける熱い舌は互いの全てを奪おうと獰猛に絡みつき、淫らで忙しい息遣いは夜気に攫われて湿った大気の中に消える。 キュッと首筋に押された刻印。 小さく声を上げたオキの耳元に注がれた、シノダの押し殺した声。
「・・・全部お前のだ・・・全部俺はお前のものだから、ケンショウ・・・・・」
―― 逃げるな ――
囁かれてオキは、ゾクリと粟肌が立つのを感じる。 怖い? そうではない。 そうでは無いが互いを縛り支配するという一種倒錯的な快感に、甘ったるく身体の芯は痺れた。 熱く熟れた唇が首筋を滑り、突き出した鎖骨にシノダはカリリと歯を立てる。
「ッ・・・・」
痛みよりずっと、
「・・ケンショウ・・・・」
呼ばれただけなのに、ゾクゾクと震えが走った。 堪らず、オキは愛しい男の頭蓋を抱き締めるように抱える。 崩れ落ちそうな腰を、背を、シノダの両腕が支える。 その指先の感触にすら熱を持ち歓ぶ身体、けれどオキは貪欲な自分を隠そうとは思わなかった。 シノダは誰にもやらない。 獲られるくらいなら殺してしまいたいとすら、いや、むしろシノダの手でに掛かって死にたい。 もしもシノダが自分を捨てるなら、いっそ殺して欲しい。 そう、怖かったのはこれだ、こうまで己を追い詰める独占欲。
その時、波のような歓声が木立の向うから流れた。 しめやかな祭りの中の、浮かされたような熱気。 変化を許さぬ島に在り、刹那の熱気に人々は箍を外す。 二人はそれら喧騒の外に居た。 祭りのうねりから外れ、新たなうねりに任せ、今は動きを止め、不粋な介入にひっそりと息を詰める。 そしてその一瞬にすら、もどかしい焦燥に駆られる。 腕に、首筋に、その全てに自分の存在を刻みつけてやりたい衝動に駆られ、オキはもう一度、男の名前を呼んだ。 言葉は吐息に紛れる。
裾を割り入れ挟み込まれた足は、互いの欲望の高まりをあからさまに知らせた。
誰もが浮かされていた。
* *
濡れた唇を拭いもせず、縺れるように、二人は山道を下る。
闇夜に紛れる鴉羽織。 祭りの最中とあれば道中人影も無く、誰にも会わずに滑り込むのはシノダの離れだった。 庭の隅に建てられたプレハブの六畳、兄らに母屋を占領され、シノダはそこを自室としていた。 こざっぱり整理が行き届いた、物の少ない部屋。 オキが初めてシノダと肌を合わせたは高二の冬、この離れでオキはシノダに抱かれた。
切っ掛けが何だったのか、肌を合わせた理由なんてわからない。 ただ、絡み合う視線が離れなくなり、吸い込まれるように交わしたくちづけの熱っぽさに溺れた。 だから、オキは圧し掛かるシノダに躊躇いもせず腕を回した。 そして慈しむように触れるシノダに、身体を開いた。 あの時ハッキリしていたのはシノダを嫌いじゃないという事とシノダに求められているという事。 それがやがて愛という名を持ち、幾度も飽く事無く互いを貪り、そして二年の空白を経て今に至る。
脱ぎ捨てた羽織が、ふぁさりと足元に広がった。 もどかしく広げる胸元に、シノダは掌を滑らす。 リアルな感触に一瞬、オキが身体を固くした。
「嫌か?」
「嫌じゃない・・・ちょっと緊張した、」
シノダは薄く笑い、日の当たらぬ肌に唇を落とす。
伸ばした腕を巻き付けるがっしりした首筋、背中、無駄の無い発達した筋肉。 確認するように触れる骨格は懐かしい曲線を指先に知らせ、オキは肌に馴染むという言葉をやけに生々しく実感する。 しっとりと、覆い被さる熱。 手探りで読み取るような掌に、オキはぐずぐずと蕩け、薄く開いた唇から余裕の無い呼気が忙しなく漏れる。
腰骨に踊る指先、脇腹を擦り上げ指は胸の淡い突起を摘み、刺激に硬く芯を持ったそこを柔らかく唇が噛んだ。 そうされるともう、吹き飛んでしまう。 二度、三度、やがて途切れなく甘ったれた声が鼻に抜けた。 けれど気恥ずかしさよりも、シノダに愛されているという歓びの方がずっと勝った。 心地良く官能的な重みは、性急な愛撫に跳ね上がろうとする身体を押し止める。
「・・・ケンショウ・・・・」
見下ろすシノダの瞳が、情欲に濡れていた。 そんな視線にすら、オキは煽られてしまう。 けれど不安はあった。 後ろを使う行為は決して快楽ばかりではなかったから、久し振りのそれがシノダを満足させられないのではと、それが不安でならなかった。 けれどまどろっこしい焦れるような愛撫に苦痛を散されて、オキはシノダを受け入れる。 はちきれそうなシノダの欲望を、より深い部分で陶然と感じた。
シノダがゆっくりと動く。 熱く擦れる粘膜の疼きに、甲高い声が上がった。 そして、それにシノダも煽られている。 何もかもが感じすぎて苦しいほどだった。 ごちゃ混ぜになる感情を持て余し、オキは自分がこんなにも飢えていたのだと悟る。
「な・・・なんか余裕無くて・・・・久し振りだからかな・・・」
「・・・彼女とか、居なかったのか?・・・」
いぶかしむ表情でシノダが目を細める。
「居ないよ・・・・・・俺はトシタカ以外知らない・・・・・・トシタカは?」
「・・・・・俺もだよ・・・・」
「・・・どうしようもないな・・・・・」
苦笑するシノダを引き寄せ、オキはくちづけを強請る。
シノダが欲しい、無性に欲しい、この男を手放そうとした二年が今は悔やまれてならない。 こんなにも求めていたのに、こんなにも求められていたのに。 二年ぶりに肌を合わせる緊張、息苦しさ、名を呼ばれる安堵。 忙しく湿った吐息が、空気を蜜の濃度に変える。 シノダに揺さぶられ、浅ましく下肢を絡める自分をオキは幸せなのだと感じた。 シノダに求められる自分を、誇らしく思った。
やがて断続的な嬌声が無音の悲鳴になり、世界は現実感を無くす。 嵐のような快楽はオキを無数の欠片に砕き、散らばる自分が飴玉のように蕩けるのを感じる。 どちらのものかもわからぬ体液に塗れ、意識を手放すのは幸福な墜落だった。 そして解放。
事後のまどろみは波の無い海に似ていた。
それは島の穏やかな海。 微かに上下する、気だるい呼吸のような凪の海。
**
翌日、朝一番の便で島を離れる。
斜めに滑走する海鳥が泡立つ波頭を掠め、癇の強い乳飲み子のような声で鳴いた。 朝はもう始まっていたが、人々はまだ昨夜の余韻から抜け出せずに白日夢を愉しむ。
昨夜シノダに起こされ朝が来たのかと慌てたが、薄緑に光るビデオデッキの点滅は、まだ日付けが変わった直後を知らせた。 満ち足りた至福のひとときはたった二時間弱。 「祭りが終わる」 と、シノダは言った。 そう言いながらも、近付いてきた唇をオキは顔を傾けて避ける。
「・・・・祭りは終わったんだろ?」
咎める表情のシノダにオキは言った。
「したら離れられなくなるから。」
気だるい身体に麻を羽織、二人は何食わぬ顔で祠を引き上げる一団へ紛れた。
着崩れた裾も、皺も、事後の余韻が残る憔悴も、ぽかんと抜け落ちたような祭りの後の虚脱が全部隠してくれたから、酔い潰れたふりのオキはシノダに寄り掛かり、シノダは先ほどまで組み敷いていた身体に腕を回した。 そうして無言の帰路に着く。
けれど、沈黙に焦燥は無い。
それは余韻を愉しむ幕間のようなもの。 祭りは終わったが、オキとシノダのこれからはまだ、終わってはいない。 次の物語に向け、二人は期待に胸を膨らまし、新たな始まりを見逃すまいと目を凝らしているのだ。
だから決して別れではない。 離れるのではない。
奥のベンチの男が広げた雑誌の影で、長く、大きな欠伸をした。
朝一便を待つフェリーの待合所は本来の賑わいを欠き、人影もまばらだった。 海を背にしたベンチ、部活なのだろうか、白いカッターシャツに制服の黒いズボンを穿いた少年が二人、ペットボトルのお茶を代わる代わるに回し飲んでいる。 ボトルの水滴が、乾いたコンクリートにポツンと黒い点を打った。 丸刈りの少年がボトルを傾けるもう一人の脇腹を突付き、軽く咽た少年は丸刈り少年の剥き出しの二の腕をパシンと叩く。 そして弾けるように笑い、二人はまたボトルを傾けた。
眩暈のようなフラッシュバック。 時間は数年を遡り、二人の少年はいつしか自分とシノダの姿に変わる。 あぁして本土の高校へと通った。 片道20分足らずの船上、二人は他愛もない事で笑い、議論し、時に諍いに口を閉ざし。 下校時の夕昏、居眠りするベンチ、甘い菓子パンを齧りあぁして一本のジュースを二人で回し飲みした薄ら寒い冬の船室。 そして湧き上がる衝動に身を任せ、何度か短いくちづけを交わした人気の無いデッキの影、シノダの肩越しに見た、きらきら宝石を抱える夜の入り江のカーブ。
そんな想い出が、ここには堆積しているのだ。
島には、今在る全ての始まりが堆積している。
「オキ!」
突堤を越えたシノダが通りを斜めに渡り、早足でこちらに近づくのが見えた。 オキは片手を上げ、目を細める。
「なに笑ってる?」
「ん? 色々・・・」
制服の彼らもまた、いずれこの島を出るかも知れない。 或いは片方が出て片方が残るかも知れない。 その時彼らは、別れと始まりを知るのだろうか? どう乗り越えるだろうか?
「・・・平気か?」
「なにが?」
「・・・色々、」
オキの口調を真似、笑うシノダが手にした茶色の紙袋を差し出す。
「餞別」
受取るそれは、見た目より重い。 すぐに開けようとしたオキを、シノダは船に乗ってからだと制す。 あとのお楽しみなのだと、袋を支えるオキの指先に触れた。 と、掠めるように触れた指先から流れ込む、昨夜の濃密な記憶。 オキの内側を揺さ振る情交の記憶。 残り火が僅かの風に揺らめくように、オキは自分がどうにかなりそうな焦燥を感じた。 そしてシノダも熱の篭る目で、オキを無言で見下ろす。 もっと触れて欲しい、今すぐ抱き締めて欲しい、けれどそうすれば全て済し崩しになる事もわかっていた。
断ち切ったのは、地鳴りのようなエンジン音。 オキの背後をシノダが凝視する。 振り向けば炭酸の水飛沫を上げ、白い小さな船体が近付いて来る。 例の学生がバタバタと荷物を鞄に突っ込む。 子連れの母親が、足をぶらつかせてた男の子に靴を履かせる。
「じゃぁ、」
先に別れを告げたのはオキだ。
「おう」
シノダが短く答える。
桟橋にドンと横付けされた船。 初老の男が桟橋のロープを外し、途端にぞろぞろ数人が乗り込む。 チャプチャプ船の腹を叩く波音。 甲板に立つオキは、シノダを見下ろす。 さっきと同じ場所で、瞬きもせず見上げるシノダ。
「・・・・・・・・・!!」
叫んだ名前は汽笛に掻き消され、オキはみるみる小さくなるシノダに手を振っていた。 シノダもまた、桟橋のその場所で、伸び上がるようにずっと手を振り続けていた。
そして点になり見えなくなる。
べたつく潮風は既に熱い。 今日も気温は30℃を越えるのだろう。
ふと気付き、オキは手にした紙袋の口を開いた。 三つ折りにした口を広げ、覗き込んだ中身はまだひんやりした水色の壜のラムネと、壜を囲むように詰められた麩菓子、ソース煎餅、アンコ玉・・・小銭で買える昔懐かしい駄菓子たち。 オキは添えられた凸型のプラスティックを押し当てて、ポンとラムネの栓を抜いた。 ぐっと傾ければ、炭酸が咽喉に心地良く流れた。 ほうと息を吐き、半分残った壜を光に翳す。
上昇する無数の気泡、空色の世界にある空色の海、空色より濃い真夏日の空。
―― 戻るから、ここに必ず戻るから、
やがて大きく島を抉る入り江のカーブ。
船は大きく舵を取り、猫は悠然と紺碧の海原に眠る。
その腹に愛しい存在と秘密を抱え、眠る。
August 18, 2004
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