**  a bat in pieces **


                       #3. 掃き溜めオルフェウス



     ガサゴソと漁れば、尻のポケットから縁の千切れた紙幣が二枚。 

まぁ、千切れてようと皺だらけだろうと、おまえの汚れた指に鷲掴まれてはたいした問題でもない。 噛み切ったぎざぎざの爪に、機械油の黒が入り込む。 意外なほど繊細な指。 碌な事に使わない美しい手だが、目下のソレは厭になるほど惨めに汚れ、まどろこしく、不手際な作法で俺のファスナーを外し、未だ寝起きのソレに動けと命じる。 右頬骨の上、掠める擦過傷と果実の腐敗を思わせる痣。


『二台目のホンダで、正義の味方がさ・・・』

盗人を咎める通りすがりのヒーローは、振り上げたブリーフケースを歩道にぶちまけ、欠けた眼鏡を捜し、這いずり、理不尽な現実に泣くらしい。 盗人は9月、天使を攫い、養う為の犯罪と、辱める試みと、合間を縫う俺との情交に余念が無い有り様だ。 湿った熱に雄は鎌首をもたげ、おまえは皮膚みたいに張り付く服を、器用に片手で脱ぎ捨てる。 くぐもる湿った吐息が、生々しい息継ぎで俺達の間を行き来した。

骨の上、艶の無い薄べったい紙みたいな皮膚一枚。 
噛み千切ってやるのは、どんなもんだろうな?


『くだらねぇよ、糞ッ』

悔しそうな振りでいて、存分に快楽を貪るおまえは、さぞや、男らしく天使を躾る事だろう。 だけども、俺は知っている。 おまえは天使を恐れてる。 恐いんだろ? 無作為な信頼と底無しの無垢は、俺ら薄汚いのが常の碌で無しにしちゃ、恐怖意外の何でもない。 馬鹿なおまえはそんなモンに憧れて、腰が引けて、焦れた挙句ソイツを失墜させてホッとしようと躍起になる。 綺麗な蝶々はまだ、おまえの手の平の檻の中に居る。 けども、直におまえはソレを、握り込みたくなるに決まってる。 

決ってるじゃねぇか? 物知らずなガキは、愛を持て余し破壊で応えようとする。
大事に出来ねぇてめぇに焦れて、失う不安を俺に背負い込ませるんだろ?


『勝手言うな、黙れ・・・アレはもう、俺無しじゃ居られねぇから・・・』

日にあたらない不健康な白に、俺だかおまえだかの体液が光る。 
天使を縛り付けるのはセックスと暴力と薬。 

アラブ人に売りつけた盗品はおまえの血肉を育み、質の悪いオマケ付きときている。 そしておまえは何からも逃げられず、失う事も出来ず、僅か紙幣二枚で俺に身体を与える。 いや、別に金は要らないんだが、おまえがそうしたいんだろう? 取引なんだと思いたいんだろう?

吐き出す言葉の切れ端が、糞だの畜生だのの悪態から哀願に代わり、ついには感覚の揺れだけを音に乗せて発するイカレた咽頭の粘膜は、やけに赤い。 なぁ、揺すられて余裕を無くし、薄く開いた唇から無意味な音を垂れ流すお前は、全く、てんで、可愛らしいお子様なんだが。 

子供でキチガイだなんて最悪だな、付き合えねぇよ。 

ガクガク震えるおまえは愚かな絞り粕を吐き出し、俺の腹は生暖かく濡れた。 フラットのひび割れた窓、向いの壁の煤けた黒褐色に、キチガイを犯すキチガイの剥き出しの尻が曖昧な輪郭で浮かぶ。 ココは、ひでぇ場所だ。



二年前、ゾロ目の11月、下院議員の甥を半殺しにしたおまえは母親に刺され、じめじめしたコインランドリィのコンクリートに赤黒い染みを広げる。 踏みつけられた芥子の花。 出所祝いに、つんぼの伯母から貰った俺の一張羅は台無しだ。 失敬な馬鹿の面を見てやろうと爪先で転がした頭蓋は意外に重く、血の気の無い顔にかかる闇みたいな髪のその隙間、かくんと首を反らす死に損ないの伏せた瞼。 こびり付いた土塊に筋を付けて、殉教者のように泣くそれは、見蕩れるには充分で。


『・・・ゆるして・・・』

何をだよ? 死に損ない。 

哀れな死に掛けに、親切な俺はキスをくれてやる。 


冗談じゃない、死ぬ前に謝られるのは俺だってゾッとしない。 染みだらけのカバーオールを広げ、もう直死体になるそいつの顔が、すっぽり隠れるように被せた。 見え無い顔が涙を流そうが何を呟こうが、一つも、俺の知ったこっちゃねぇ。 父と子と精霊の名は忘れたが、あっちじゃ裁かれても許しちゃ貰えるだろう? 台無しの一張羅を、死出の衣装にくれてやる。 バイバイ、とっとと行っちまえ。

オキザリにした死に損ないの、蒼白な瞼の、見蕩れるような涙の軌跡を幾度も反芻し、あの時、もっと鮮烈に赤いと思ったソレは意外なほど赤黒く、あの日、俺が射殺した屑野郎の内蔵こそ、芥子のような赤だったと想い出す。 

崩れたMの内側、最も無垢なその血はなぜ、澱んでいたのだろう?



年明け凍りつく2月、些か飲みすぎたピカデリィの路上、通り向こうの街燈の下に、薄ら笑う元死体を俺は発見してしまう。 


『御弔い有り難う!』

染みだらけのカバーオールは、紛れも無く死体にくれてやったものだが、感謝の言葉と裏腹、剣呑な死体は俺に煙草を強請った。 ギザギザの深爪、しかし優雅なほっそりした手。 薄い唇が名前を告げた、が、フィルターを挟むそこは曖昧な音を漏らし、もう一度問うのも面倒で、潰れたマッチの箱を放るついでに おまえ、生きてたの? と俺は問う。


『親切な人が居るもんでねぇ、』

おまえをあの世から引っ張り出したのは、おまえに殺されかけた馬鹿の身内だった。 幸い、馬鹿は殺されかけただけで死んではいない。 馬鹿の親族にとっては、この先生きる馬鹿の為、訳有りの死人を出すのは、良しとしなかったのだろう。 そして、半殺しに有った馬鹿はその事実を決して口には出来まい。 馬鹿は、馴染みの街娼の部屋で瀕死の傷を負った。 


『おふくろは、鞭で打たれていたさ、悪戯小僧の落書きみてぇに、胸糞悪いピンクの縞だらけで、』

ガサガサした笑い声。 二月の夜空、インク壷の夜に頼りない紫煙が漂い、霧散する。 災難だったと言っておこうか? 美しい売女は『このヒトデナシ!』と、正義感溢れる息子を罵り、刃を向けた。 ついてないおまえは助けた筈の母親に刺され、ランドリィで死に掛けて、今際の言葉で謝罪する。 そいつは、てめぇを刺した母親にか? オメデタイこった! 

Mのカタチの妹の脚。 
パン、と、散らばった屑野郎の内臓。
残されて、生きて、ホントにそれで、良かったのかよ? なぁ・・・・


―― つまりおまえ、何もかも無くしたって訳だな? 


いいじゃないか、何も無いか? 結構じゃないか? また始めるには寧ろ、そりゃ、スッキリすんだろう? 生き残ったおまえを待っていたのは、もぬけの空の寒々とした部屋。 けども、厄介事も無いすっきりした部屋。


『・・・オレは、何も無くしちゃいねぇよ。』

おまえは二本目の煙草を闇に飛ばし、オレンジの火の粉が力無い軌跡を描く。 俺の脳味噌は躍起となって、妹の情報を目玉の裏に再生し始める。 屑野郎の美しい赤。 なのに醜悪でどす黒い無垢なアレ。 もう安心だ と、ミイラみたいな潜りの医者は、ソレを妹から掻き出した。 屑野郎の半分で出来た、無垢の新しい生き物は惨めで醜悪な赤黒い肉塊。。

俺は、今更そんなのを喚起させた、この横を歩く男に激しい憎悪を抱く。 

ついてくんな、二度と現れるな、オレに纏わりつくな、消えちまえ。 

こいつは厄介事を俺に運ぶ、疫病神の死に損ないだ。 おまえの沈黙は足音だけを響かせ、僅かに左を引き摺る歪なカウントに、俺は厭な酔いのまわりを感じる。 何故ついて来る? 何故現れた? 何故想い出させる、もう、消えてくれ、どっか行けよ。

なのに、俺は、なけなしの期待をおまえにかけてしまったのだ。 半分地下に潜るフラットの階段で、俺は愚かにもおまえを振り返り、二度とこっちには戻れない。 オメデタイな、また繰り返す、オレはまたそれを引き寄せようとする。 当たり前のようについてきたおまえは、当たり前のようにカバーオールを脱ぎ、床に転がる残り酒を当たり前のように煽ると、至極当たり前にオレと寝た。 暗い穴に落ちて行くようなセックスは、強烈な快楽と失墜する恐怖。 


崩れたMの字に折れ曲がったおまえの脚。 


まるで妹とは似ていなかったが、煽られ、靄のかかった目を宙に向けるおまえは、厭になるほど妹を想い出させる。 屑野郎に圧し掛かられ、ガクガクと揺れていた知恵足らずで無垢な妹。 へこませた筈の腹をまた膨らませて、収容されたドミトリィの、並んだベッドの真中、出所した俺を、ぼんやり見つめた妹の、靄がかかった無為な目。 なぁ、おまえはソレで、幸せかい? 逃げ出した俺は、今、何に怯えるんだろう。 あの日、パンと馳せた屑野郎。

ならば屑野郎は俺なのか? 俺はこいつの中に何を仕込もうとしてる? 


おまえは、俺に二枚の紙幣を強請り、日が昇る前に部屋を出た。 それきりだと思ったら、二日経たぬ内にまた、おまえは現れ、勝手に酒を飲み、勝手に喰い散らかし、勝手に湿気た盗人の手伝いをさせ、勝手に服を脱ぎ、俺に抱かれ、紙幣を二枚強請り出て行った。

つまり今の、こんな関係が始まったのだ。

しようがない。 仕方が無いだろう。
俺も、おまえも、何処にも所在が無かったのだから。 


おまえは俺に何か繋げたいらしいが、生憎それは余りに粗悪で、繋がりゃしない。 空っぽになったおまえがどう躍起になっても、俺とおまえじゃ何も満たせない。 そもそも、俺はおまえに何も残せないし、残したくも無い。 全部失った俺は、失って尚纏わりつく諸々に支配されている。 なのにどうだろう、俺が苦心して汲み出したそれを、おまえは躍起になって壷に杓って戻す。 

どうしようもない。 これじゃ埒があかないだろう? 
まるで俺達、頭の悪い二人の農夫のようじゃないか?

だから、おまえは天使を攫い、そして、ここから出るべきだったよ。



イースターの午後、アラブ人に売りつけたホンダは良い金になり、おまえは天使にイカレた衣装を買ってやりたくなったらしい。 しかしながら、オレ達は、その店に場違いだったようだ。 あからさまな軽蔑と嘲りは、おまえの碌でも無さにとって、火に油。 気取ったなりの店員は、何か言ってやれと意気込み、盗人を見る目で俺達をマークする。 確かに俺達は盗人だが、ここでは生憎、払う気満々なんだが。 次々に引っ張り出され積み上げられる色彩の山。 店員の眼鏡の奥、侮蔑と嫌悪に目が吊り上がる。

そして、レジに皺だらけの札を一枚、また一枚と勿体つけ投げ出すおまえは、さぞや得意だったろう。 ようやく選んだ、バスローブは、天使の目玉と同じ蒼。 しかし、そんなおまえの上機嫌は、ものの一瞬、囁く一言で崩れるのだった。 札を忌まわしそうに集める店員は、潜めた声、しかしはっきり聞こえる声でこう言った。

―― コレを着て、おまえの母親は幾ら稼ぐ?


おまえの薄ら笑いは、一瞬で凍りつき、血の失せた蒼白い頬に怒りの鳥肌がゾワリと浮く。 そして、失言に気付く店員の顔、横一で赤が走り、覆う手の平から吹き零れる赤より先に、無防備な喉が泡の馳せる音とともにぱっくり口を開いた。 もう一度、振り上げ刃先を閃かせるおまえは返り血に染まり、表情の無い瞳は硝子玉のようで、そう創られた人殺しギニョルのようだ。 しかし、その手を掴み、走り出す俺は、自分も同じ有り様だとまるで気付いちゃいなかった。 だんだらに染まり、俺たちは手を繋ぎ、走る。

そら、走れ! それ、走れ! 無様なパレードが始まった!
遥か向こう、パレードの一団の喧騒が近付く。

汗ばむ指はぬるぬる滑り、尤も汗ばかりじゃなかったようだが、それでも俺達は絡めた指を一層絡ませ、暢気な通行人を弾き、転がし、走り続けた。 どうしてこんなにウジャウジャ居やがる? いや、暢気な市民ばかりじゃない。 パレードを妨害する不届きな輩をしょっ曳かんと、オマワリだってウジャウジャとたむろしている。 不届きな? そうだよ、正に俺達の事。 通行止めした車道を疾走する俺達に向けて、血の気の多いオマワリが、数回発砲したのを聞いた。

いい加減息は上がり、縺れる脚ももどかしく、咄嗟に曲がり込んだ路地裏を俺達は走る。 おまえの額が剥き出しになり、マダラの額から眼下へと、汗はピンクの粒になり、やがて冷たい11月の風に攫われた。 まだ走るか? もう少し先までか? この先二つも突っ切れば、まぁ、何とかなるんじゃないか? その格好じゃ、目立つだろうが、パレードの仮装とでも勘違いしてくれるのを祈るよ。 


だから、ここまでだ。

なぁ、悪いがここで俺はイチ抜ける。


絡ませた指、きつく絡ませ過ぎて、強張るそれを解き、俺は崩れかけた壁に凭れ、そのまま塵だらけのそこにしゃがみ込む。 ズボンがぐっしょりと重かった。 立ち止まったからこそ、それをやけに意識した。 怪訝なおまえの目が、緩々と不安を滲ませ、あぁ、駄目だ、それは子供の目じゃないか?

どうもな、さっき撃たれたのが、良くないらしい。

あぁ、わかってる、さっきまでは走れてた。 だから、今も何とかなるんじゃないかとお前は言いたいだろうけれど、もう駄目だ、それは確実だ。 俺はこうして立ち止まり、駄目だと悟ってしまった瞬間、俺の逃走はここで終わりだよ。 

勘違いすんな、刺したのはおまえで俺は見てただけ。 まぁ、前科が有るし只で済むとは思わないが、捕まった所でそう、たいしたもんでもない。 嘆く身内も、俺には居ない。 だが、おまえはそうじゃない。 おまえ無しで居られない、おまえを頼る者が向こうでおまえを待っている。


さぁ、行っちまえ。 

この暗がりを抜けて、掃き溜めの向こう、おまえの愛しい墜落天使は、今も震える指でタマゴに落書きをする。 なぁ、ほら急げや、もういいんだよ、オレはこっちでお前はあっちで、そらよ、お別れだ、

こっから先は、ついてくんな

見開いた瞳が近くなり、近くなり、触れ合い暗転する数秒。
おまえの手の平をたっぷり濡らす俺の赤は、皮肉なほど鮮やかで、
それは、まるで芥子の赤。 


遠ざかる足音は路地を抜け、天使に向かって走るだろう。 
走れ、走れ、おまえは空っぽなんかじゃない。

そして俺も、俺の中にたった一つ残る唯一を、確かにここに在るのだと確認する。

あぁ、行き場の無い、薄汚い、掃き溜めで交わす、ただ、狂おしい、
それだけのくちづけ。



だから、

砕け散る、破壊音のその先を、俺は知らない。 






      **  A bat in pieces  こなごなコウモリ  
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      January 26, 2003