**  a bat in pieces **



                    #4. スープ皿の聖なる血



                     鉛の空は、私に似ている。
                    歪な雲の切れ間に見るのは、たぶん、煌く、身分違いの僥倖。



定刻を二時間は遅れた列車の発着音が、湿度の高い空気に混じり、耳障りで懐かしい余韻を残す。 広場のブロンズ像の足元、顰め顔の英雄を風除けにうずくまり、凍る石段を侘しい体温で温めていたそれは、俄かに濃くなった人の気配を感じとる。 三度目の警笛音にビクリと背を引き攣らせ、身を起し、もがくように溺れるように、鼠色の塊はぎこちない逃走を形作った。 

別に逃げる必要など、何も無い。 けれど、石畳を蹴る無数の足音は純粋な悪意に満ちて、弓を引け、打ち落とせと踵を鳴らす。 奴らは大きな黒い翼を持ち、きっと自分を喰らうだろう。 ならばここから離れねば、だがしかし、なんて役立たずなこの身体! 染み浮き干乾びた手背がぎこちなく、まるで足枷だと、引き摺る左足を擦る。 薄汚れたフランネルの長ズボンの下、とうに張りを失った脹脛が、支える体躯の貧相な重みにすら音を上げる。 染みだらけの指先は、かつて触れていたそれを、もはや辿る事すら叶わない。 

 
愛していたよ! あぁ、確かにそれは愛だった!

しかしこの様だ、鼠みたいに逃げ回る先に、安寧なんて在る筈が無い。 逃げ回る? 何故逃げ回る? 罪悪感と恐怖はあるのに、逃げる理由はわからなかった。


暫しの逃走にも関節は悲鳴をあげ、ぜんまいの切れた歩調は停止へと向かう。 身を投げ出し凭れたのは、塗装が禿げ、錆浮く古ぼけたシャッター。 赤のペンキが斜めに走り、殴り書きが力尽きた男を歓迎する。 人でなし!しゃぶってみろよ! カツンと額を打ち付け、反らせば痺れのように、軋みが男の頭蓋に響いた。 そこらは、すっかり落ちぶれたアーケードのなれの果て。 欠けた櫛のように、潰れた店並が続くその通りは、如何にも男には似合いと思える。 

ここも、私も、形が在り中身が無い。 望み過ぎたから、失うのだろうか?
取り戻す事も今や叶わずに、見捨てられた残骸として、ただ存在し、醜悪を極める。

・・・・・・ 愛していたよ、


蒼白い肌、白金の髪を想い、息を吐き、身震いした男の鼓膜に、掠れた女の声が張り付いて離れない。

―― どうして? ねぇ、どうしてあたしが罰を受けるの?!

両手で耳を覆い小さな悲鳴を上げたが、女の問い掛けは木霊のように、頭蓋を満たして男を責めた。


―― どうして? ねぇ、酷いじゃないの?!

違う、そうじゃない、それは罰なんかじゃない。
あぁ、それは罰などではなく祝福じゃぁないか!?


忘却を覆し、不意にあの声が、あの瞳が、執拗に苛み責め、断罪する。 開いた瞳孔は飴色の光を鈍く映し、呪詛を呟く唇は、とうに水気を失ったオールドローズの褪せた色。 憐れな女が小刻みに揺れて、裁きの柄杓を憎悪で満たす。 

おぞましいわ、なんて、おぞましい!
これを吐き出したあたしには、何が残ったって言うの?


暴れる女に打ち据えられ、男は木偶のように転がる。 肌蹴た夜着は引き千切れ、裂け目に覗く肌は水底の蒼白。 肋骨の浮く削げた体躯に、不釣合いな乳房。 張り付く静脈を纏い、哀れなほどたわわだが、溢れる乳を含ませるべき愛らしい者を、女は何より憎悪する。 ぽたぽた滴る乳の雫を頬に受け、床に転がる男は、見下ろす瞳の狂気に竦む。

仕様が無いじゃないか、それは、仕方の無い事じゃないか。

―― あら、あなたに何が、わかるの?

わからなかった。 確かに、女にとってのあの8ヶ月は絶えがたい苦痛だったかも知れない。しかし、あれは必然であったし、その苦痛の代償として、充分過ぎる至福を得た。 暖かな部屋、愛らしく美しい生き物が絹の肌着ですやすやと眠る。 こんな幸福はないと、男は幸せだったのだ。 だから、わからない。 何故女は糾弾する? わからないのが男の罪なのだろうか。 

耳元、焦れた女がどんと足を踏み鳴らす。 胡桃のような踝が男の腹で上下する。 嘔気にえずき、男は湿った咳を繰り返す。 女は下履きを着けていない。 下腹の翳りに赤黒く引き攣る切創は、女の内が愛らしいものを育んだ尊い証。 しかし、女にとっては忌々しいものに貪られた、呪わしい痕跡。 指がそこをゆっくりと辿る。 爪を立て、引き攣れの薄皮一枚こそげるように。 じんわり滲む赤に、指先がまだらに染まる。 


―― あなたに何が、わかるの?

わからないよ。 でも、きっと、なにかが いけなかったんだろう?

散らばる真珠に、緋色の炎。 
女の声が、鼓膜の向うで今尚、男の臓腑に煮え湯を注いだ。 



                    ***



双方、互いが必要ではあった。 


その頃、女とその一族は、先祖譲りの贅沢を続ける為、労働無しに得る富みを必要としていた。 そして男は、一代で築いた富みを残すべく、子孫を産む女と、金で手に入らぬ最後としての家柄を必要としていた。 ならば、取引は成立する。 しかし、女は条件を飲みこそすれ、条件以外の一切を拒否し、条件を遂行するべく何もかもを嫌悪した。 男は、それでも女が条件を飲む事で自分を慰め、女の父親に鉄工所を一つ譲った。 そして男は、歴史を金で買う。 

二人の婚姻は、そもそも、欺瞞と憎悪に満ちていた。


欺瞞を欺瞞で薄める愚考の一つ、女の為に男は退屈する間も無いほどの贅沢をさせた。 憎悪を抱く女の日常は、仕立て屋の仮縫いと、サロンでのお喋りと、夜毎の観劇、パーティー、そこでの衣装自慢に費やされ、男はその大忙しの残像を、擦れ違いざまに垣間見る。 会話なんて無い、交されるのは、物欲しげで卑屈な男の視線と、これ見よがしな嘲る女の軽蔑の視線。 女は盗み見る男を嫌悪したが、男はそれが例え冷ややかな侮蔑でも、見つめられる事を欲した。 一瞬の視線を買うために、男は無益な散財をする。 それでも、二つは交差こそすれ、重なり合うことは決してなかった。 

しかし、心は重ならなくとも、身体を重ねることは出来た。 二人には守られるべき条件があったから、週に一度、木曜の日付が変わるその辺り、厳格な規則のように男は女と寝室を共にする。 規則のようなそれは、寒々しい交流であり、女はきつく眉根を寄せ、声一つあげず。 さながら苦行に耐えるが如くの女の様であったが、男がそれを咎める事は無い。 

それも、仕方がない。 そもそも、そんな事、承知だったじゃないか。 

虚しさは、言葉と共に飲み込まれ、うつ伏せた背にもう一度触れる誘惑を振り切り、男は汗ばむ身体にローブを羽織る。 事後、そっと抜け出す寝室からは見計ったように、女の号泣と恨み言が低く流れたが、それすら男にとっては、じきに馴染みの日常。 女との生活に於ける、極当たり前な日常。


殺伐とした交接の翌日、男は寝室に向かう女中に、宝石の小箱を托す。 

他に、何が出来よう? あれが喜ぶ事なんて、あれが尤も憎む私に、一体何が出来よう?



―― おぞましいペテン師の猿!

女は男をそう、罵倒する。 

なるほど、全くその通りではある。 男はそれを否定しない。 学歴の無い成り上りの小男、それが自分である事を男は良く知っている。けれども、あの、高慢で美しい女がその下賎な自分の妻として子を生むのだという事実があれば、罵倒され、蔑まれる事なぞ何でもない事のように思えた。 大望を果す為には、多少の屈辱には目をつぶらねばなるまい。

女は時おり、男の知らない言葉で何事かを呟く。 そして、男がその呟きに反応すればこう言うのだ。

―― あら、いいのよ! 猿にはわからない言葉でしょうから、知る必要は無いの!

歌うように囁くように、異国の言葉を操る女はコケティッシュな笑みすら浮かべ、男の傍らをすり抜ける。 すり抜けた指先に、ミルク色の肌に、触れる事が出来るやも知れぬ期待を幽かに、男は必死にそれらを学ぶ。 が、寧ろ、知らない方がずっとましではなかったか? それは、女が、より深く自分を憎んでいる事を、事実として再認しただけの確認行為であった。 だから、男は何もかもを理解出来る事を隠し、女の悪態を甘受する。 それまで同様、見下す視線に卑屈な薄ら笑いを浮かべ、用途のわからぬ小切手を女の為に切るのだった。

かまやしない、どうあれ、この女の夫は私であり、いずれ私は父となる。


斯くも女は、高慢で美しかった。 優雅に撓る肢体も、見事な白金の髪も、物憂い横顔も、若葉みたいな瞳の緑も、蔑む視線も、軽蔑を吐き出す唇も、女は男がかつて見た何よりも美しかったから、男はより矮小な自分を恥じて女に隷属した。 付け焼刃でない高慢に、男は家柄という魔法を感じた。 そして、やがて女の腹が膨れ、薔薇色の頬をした愛しい者が誕生する事を、男は心待ちに夢に見る。 それを思い切り甘やかす自分を想像し、皮膚を裂く現実に、うっとりと目を瞑る。

誰しもそれを願うだろう? それは、決して間違いじゃない、

男は疑いもしなかった。 愛しい者が女と自分の間を、あまやかに満たしてくれる事を、それですべてうまく行くことを、男は微塵も疑わなかった。



2月、ドレスの採寸途中。 女は、たった1インチの誤差を正直に申告したブルネットのお針子を、開きめくら! と殴打する。 たった1インチの為、女はひまし油を半壜飲み干し、丸太のようになったと泣き喚き、氷室のようなバスルームに篭城する。 喚き声が途絶え、脂汗を掻き昏倒する女がそこから担ぎ出されたのは、有に5時間後。 駆けつけ、手早く対処した遣り手の医師により告知されたのは、女にとって奈落、男にとって至福。 

『御懐妊ですよ、奥様、無茶しちゃいけません。』

歓喜する男の傍ら、床上の女は獣のように叫ぶ。 

―― 猿の子を産むの?! ねぇ?! 嫌よ! ここに居るのね? 掻き出してちょうだい、気味悪い! 空っぽにしてちょうだい!


暴れる女は、柔らかな紐で、括られた。 そしてそのまま、二人の医師、二人の看護婦、三人の女中に見張られて、女は8ヶ月を寝室で過す。 豪奢なリネンと花に囲まれ、みるみる女の腹は膨れた。 男は、それを喜んだが、女は、着々と育つ身の内のそれに恐怖し、臓腑を喰われる妄想に悲鳴をあげる。 緩めた練り絹の紐を引き千切らんと、暴れる女は喉を嗄らし、即座に四肢をきつく括りなおす三人の女中は、額に汗し髪を乱す。 取り乱す女に、柔和な老医師はこう諭すのだ。

『あぁ、奥様落ち着いて、あなたの美しさや賢さを分けてあげているのですよ、えぇ、それはもう、美しく聡い赤ちゃんが生まれますよ。』

長く尾を引く女の嗚咽。 絶望と屈辱の嗚咽。


そうして8ヶ月目の深夜、それは、母なる女の腹を裂き、弱々しい嘆きと共に、月の輝かぬこの世に生まれいずる。


―― あたしの何を奪ったの? これは?!

生を受け、初めてこの世でそれが耳にしたのは、母なる女の非難の言葉。 鎮静剤の混沌に霞む緑の眼を憎悪に光らせて、ただの一度もその乳を含ませる事無く、錯乱する女は無機質な部屋に隔離される。 へこんだ腹を喜び、しかし、そこに走る一文字の縫合に激怒し、女は病室の白い壁に呪詛を吐く。 女は、一部の使用人以外と会おうとはしなかった。 産み落としたそれの話題すら拒み、豪奢な差し入れを持参する男には「人でなし」と言付けるメモだけが渡される。 母になった女は、いっそう激しく男を拒絶した。

しかし、いまや男には迎えてくれる愛らしい存在がある。 その小さく愛らしい無垢を思えば、女の罵倒は直ちに消え去り、男の口元に小さな笑みが浮かんだ。

確かに、その時、男の世界はそれを中心に回っていた。 男の寝室には愛らしい小さな寝台が運び込まれ、ちんまりとそれはそこで眠った。 不在の母親の代わりは、二人の女中と看護婦が勤め、寡黙な二人の女は昼夜二時間とおかず、脆弱なそれの世話を焼く。 残された男は残された愛しいそれを、片時も離さず慈しむ。 女と同じ翠の眼、淡雪の肌、何より男を狂喜させたのは、そこに自分の黒髪が加わる妙であった。 まるで、女と自分の間がぴったりと重なったかのような錯覚を、男はその無垢なる姿に感じていた。


その女が、今日、この家に戻ったのだ。 不吉な予兆は空気をも震わす。

三ヶ月振りにみる女は山猫の杖を手に、以前と異なる三人の女中に付き添われ、毛皮を敷き詰めた後部座席から、幽鬼のように笑みを浮かべ降り立った。 薄ら笑う女は、産み落としたそれに会おうともせず、奥まった寝室へ付き添いと共に篭る。 薄ら笑いは、怒りによる引き攣れであったのだが、男は泡立つ不安に胸を抑え、ブランケットを巻き付けた細い背中を見送った。 ・・・・・・ 無関心ならいずれ関心も出るだろう。いずれこの幸福を噛み締める時が来るに違いない ・・・・・・ 男は、己の浅はかな楽観を、夜半過ぎの飾りランプの下、嫌と云うほど思い知る。


―― あれは、翠の眼をしているんですってねぇ?

二時の世話に訪れた看護婦と入れ替わり、女は禍々しい影のように滑り込む。 色を失った唇がひび割れ、薄っすら血を滲ませていた。 絨毯を引っ掻く、山猫の杖。 優雅なナイトドレスはキリキリと引き裂かれ、見え隠れする肌をも、尖った爪は抉らんとする。 所在無く胸元を彷徨う骨のような指、もがくような仕草で引き千切る豪奢な三連。 連なりを解かれ、床に散らばる無数の真珠。 かつてハンガリー皇女の胸元を飾ったそれは、緋色の炎をぼんやり映し、暖炉の熱が一瞬冷えた。

―― 翠の眼に黒い髪!! 黒はあんたの色じゃない?! あんたの髪にあたしの眼? 化け物よ、それは化け物よ!


飾りランプの緋色に照らされ、尚も蒼白い女が叫ぶ。

―― ねぇ教えてよ、これは何の罰? あたし、一体何の罰を受けたの?!


さからわなかったのは、無意識の誠意。 それが罪かはわからないが、女はそれ故、常軌を逸す。 手に入れた代償は己で支払うより他がない。 それで気が済むなら、それで許してくれるなら。 唸りに似た声をあげ、女は容赦無く杖を振り下ろす。 焼け付く痛みは熱を伴い、転げた身体、芋虫のように身を捩る男の身体を支配する。 眼球に染みる赤は、苦痛の色か? 点滅する視界、色味の無い憐れな姿がゆらりゆらり、床上生活に萎えた身体を、華奢な杖に凭れて棒立つ。 コツンと癇性な音を立てるそれは、歯を剥く狡猾な山猫の柄。

ふいに女は、歩を進める。 豪奢な寝台脇、樫の木に彩色を施した小さな愛らしい寝床の傍、すとんと腰を下ろした女は無造作にそれを吊り下げた。


―― 返してよ、そら、あたしから盗ったもの返しなさいよ・・・・

止せ、 

女の腕が、それを揺らす。 奇妙な何かを品定めする、そんな冷ややかなぞんざいさに、男の背骨に戦慄が走る。 


―― この眼! おお嫌だ! あたしの目とおんなじね?! あたしのを盗ったのね?!

止すんだ、

女の腕が、それを揺らす。 小さな四肢が縮こまる。 愛らしい無垢は仔猫に似た声をあげ、男はその無垢の名を叫ぶ。 そこに向かわんと身を起すが、しかし、突き抜ける激痛はバランスを奪い、男は無様にもんどりうつ。 床に張り付く、役立たずな己の脛。 男の左脛は、今や腿ほどに膨れ上がりズボンの内で脈打ち疼く。 

手を伸ばし掴んだのは一瞬。 
どうして? 
まるで解せないと云う表情をした女の困惑も、一瞬。 
山猫の杖が女の踝を打ち据える。 

短い悲鳴をあげる女の手から、非力な愛がポトンと墜落する。 
積み重なったリネンの上、半ば埋もれ、小さな靴下の足がひくひくと動く。 
じんわり鈍い感触は、骨の砕けた事実を、男の手の平に正しく伝えた。 
男の脛を砕き女の踝を砕き、調子付く山猫に縋り、男はまどろこしい一歩を重ねる。
辿り付き抱き上げたそれは、ふんわり暖かく、乳臭い口元から火のような号泣。

あぁ泣かないで、大丈夫、大丈夫だから、何処も何ともなっちゃいないから。 


涙でベタベタの頬に唇を寄せ、咄嗟に掴んだリネンを手繰り寄せ、男は、反り返り訴えるそれを抱きしめる。 その温かさ、脆弱さ、ちっぽけさ故に、足元で身を捩り、意味不明な咆哮を上げる女は、男にとって今や、悪夢であり恐怖となった。 美しいものが斯くも醜く、高貴なものが斯くも浅ましく、残酷な変貌に飲み込まれるのは恐ろしかった。 だから、男は逃げ出した。 

繭玉のようなそれを抱き締め、萎えた左足をナメクジみたいに引き摺って。 重厚な扉を肩で押し開ければ、驚く程の静寂が、闇が、ひんやり男を取り巻いた。 音を漏らさぬドアは室内の地獄を内包し、眠る使用人に決して漏らさず。 それを僥倖と、歪なギャロップを山猫の歯牙に歌わせ、男の最初の逃走は始まった。 


―― 返してよ! あたしから盗ったんでしょう? だったら返しなさいよ!

無駄に広い屋敷がこれほど忌わしいとは。 果てが無い薄明かりの廊下、あまりに鈍重な逃走は、男の焦燥と妄想を掻き立てた。 聞こえる筈の無い女の声が、掠れてがさつく叫び声が、闇の向こう、深海を這う触手のように男を追いかける。 振り向かない背後、男の脳裏に映し出されるおぞましい情景。 美しかった女の腹は、再び見る見る途方もなく小山ほどに膨れ、醜悪な膨張の下、隈浮く蒼白の顔がひび割れた唇で『差し出せ! 代償を血肉をもって支払え!』と男を糾弾する。 


―― ここから出てきたんでしょ!? 見てごらん!それはこうやって出てきたのよ!

金切り声と、けたたましい哄笑。 途端に女の腹が裂ける。 あの聖なる切創を再び引裂き、ぞろぞろと無数に這い出す、黒い羽の奇怪な生き物。 壁を床を黒く埋め尽くし、一目散に男へと向かうそれは、甲高い女の声で、差し出せ! 償え!と男を糾弾する。 今にも背後から、脛を這い上がらんとする夥しい気配に、男の項は逆毛を立てた。 


―― それが可愛いならこれも可愛いでしょう? ほら、ねぇ、同じものじゃない?

同じわけないだろう?

咄嗟に力が篭る腕の中、胸に押し付けたそれが、小さく声をあげた。 非力な抗議にはっと息を呑み、男は腕を緩める。 同じわけが無い、この愛らしい無垢なものと、同じである筈がない。 吸い込む乳臭さは、恐怖に強張る関節を、緩々解きほぐしてくれた。 しかし、男は、己の妄想を全て否定仕切れずに居る。 額に汗の雫を滴らせ、なめし皮のシートに身を投げて、久し振りの運転に無駄なクラッチを踏むその時も、後部席、毛皮の端布に包めた愛らしい筈のそれを、男は振り返る事が出来なかったのだ。


闇色の森、闇色の車、決して振り返らない逃走は、一向に温まらぬ冷気を纏い、未明の靄の中ただただ先へ、道なりに進む。 逃げろ、逃げろ、そら逃げろ! 低く唸るエンジン音を唯一の友として、怯える男はアクセルを踏む。 小さなそれは眠りに就いたか、声一つあげず。 その沈黙は、男の妄想をいっそう掻き立て、在りもしない黒い翼の羽ばたきに男の瞼は痙攣する。 そら、すぐそこだ! 女の細い指が、耳の裏に触れた気がした。 そら!捕まるな! 腫れ上がり疼く脛の内、みっしり張り付いた黒い生き物が、砕けた骨、その欠片をこりこりと齧る、そんな気がした。 


だからといって、赦される筈が無い。
だからといって、自分ひとり逃げて、赦される筈が無い。


                    ***



白む空を待つ街外れ、見捨てられた荒地の端、逃げ惑う車は、唐突に逃走を終わらせた。 下男の怠慢は早すぎる燃料切れを招き、カスン、タスンと二度の断末の声をあげ、それは、ただの箱になる。 俄かに気温を失う車内、そっと振り返るそれは毛皮の隙間に薔薇色の頬を覗かせ、愛らしい姿で未だ夢を見る。 

これは、普遍なんだろうか?

ほう、と、疑問に答えるように、唾液に塗れた唇が、眠りの欠片を吐き出した。 万歳する短い腕は、蕾のような拳を握り、天界より授かる幸福の種を、まだ、手放してはいない。 密かな寝息は、慎ましやかな、小さきものの祈りの如く。

まだ、ここは清らかなまま、まだ、ここは汚されてはいない、
丸い腹部の微かな上下。 そっと押し当てた耳に、早足の鼓動が静かに響く。 規則正しく、せっかちな拍子を打ち、時は確実に流れるという事を男に知らせる。 やがて薄墨から灰白へ。 荒野に差す日の出は、等しく平等に、穢れも清らも光で包む。 カチカチと歯を鳴らす男は、部屋着に羽織ったガウンを、眠る非力な無垢に譲った。 ゆっくり、慎重にそれを起こさぬよう胸に抱え、身震いする車外へと男は杖を向ける。 荒地の途切れる向こう、まだ暗い空に十時の先を溶かし、教会の尖塔が鈍い光を反射した。

どうぞ、神様、

鐘の音が、空気を震わせた。


神様、


あの場所で、男は女と夫婦になり、始まりとなる最初の罪を、あの日、神の前で二人は犯す。 まだ二年も経ってはいないのだ。 なのに、女は奇怪な変貌を遂げ、男はその罪に怯え、明け方の荒れ野を逃げ惑う。 

幾度も、幾度も、膝をつき倒れこみそうになる己を叱咤し、男は掌を滑る山猫の頭を、幾度も、幾度も掴み直す。 行かなければ。 始まりとなった場所へ、なんとしても行かなければ。 男は、非業の聖女の亡骸が眠る、あの教会へと、すでに感覚の無い左足を引き摺った。 昇り切った乳白の朝日は古びた街を照らし、這うように石畳を進む男の影を、インク染みのように隈なく曝した。


神様、これは取引です。
あなたに祝福され、あなたの言葉を信じ、私はあまりに多くを失いました。
勿論、あまりに多くの罪をも犯しました。
けれど、私は愛したかっただけなのです。
それは、罪などではない筈です、
神様、愛する罪を、欲する業を、私がすべて背負います。
ですからどうぞ、この小さな無垢の無意識の罪を、お願いです、裁かないであげてください。 



そして男は礼拝堂の祭壇の上、冤罪に死すイエスの足元に、愛しい塊を、そっと静かに置いた。 荒い息が白く、熱を持ち始めた体躯は燃えるように熱い。 しかし、繭玉のそれは、安らかな吐息。 男は薬指にはめた指輪を外し、小さな手のひらの中央、そっと握らせ、また、繭の中に納めた。 柔らかな黒髪は丸い額を縁取り、ステンドグラスの楽園が、ミルク色の肌に不思議な斑紋を落とす。 


あぁ、本当だとも、おまえは本当に、祝福された存在なのだ。
次に目を開ければ、きっと、そこは美しい、

どうぞ、その瞳は美しい世界を映しますように、
そして、それは終わりの無い普遍でありますように、

安心おし、みんな、みんな、持って行ってやるよ、
穢れも罪も、みんな残らず父さんが持って行ってやる。
だから ・・・・・・


最後に吸い込んだ、甘い、生暖かい吐息を、男は生涯忘れないだろう。 ラシアンセーブルの愛しい繭玉。 ふわりと覆ったガウンには、まだ暖かな、男の体温が残る。 祭壇の上、静かに光を浴びるそれは、引き摺る歪なギャロップが、ゆっくりゆっくり遠ざかるのを夢の中に聴く。 

やがて繭の中、目覚めた手足がもぞもぞ伸び縮み、歯の無い小さな口元が仔猫に似た呼びかけを発する。 と、その時、木戸が大きく開かれて、陽光と共に滑り込む細い影。 軽い靴音と鼻歌。 近付く人影は僅かに逡巡し、一呼吸置いて伸ばされた細く白い腕が、そっとそれを抱き上げる。 覗き込むスミレ色は、鉢合う翠の瞳に、瞬きを忘れた。 

『なぁんてこった! 神様、あんた、これを俺にくれるってのかい?!』

司祭より早く、敬虔な花屋の女房より早く訪れたのは、良い金蔓を掴み上機嫌の若い男娼だった。 小さなもたもたした手のひらが、男娼の巻き毛に伸ばされる。 

『おいおい、マリア様だって、こうは行かないだろう?』

小さな手に引き寄せられ、摺り寄せた頬の柔らかさに、男娼は笑みを浮かべる。 すいと手繰り寄せた、絹の抱布は象牙色。 ぐるりを囲む蔓薔薇の刺繍、その一箇所、濃紺の飾り文字で記された Tristan の一綴り。

『トリスタン! おまえはトリスタン? あはは、そりゃ御大層な訳アリだ!! ならば、こうだろう。 俺の名はイゾルデ、俺は今日からおまえの母となり、極たまには父ともなろう。 そうさ、坊や、あたしがアンタの母さんだ、あたしの名はイゾルデ、イゾルデだよ!』


トリスタンは、イゾルデと巡り会う。 イゾルデは、トリスタンの母となる。 
ステンドグラスの燭天使は、この不思議な親子の誕生を、確かに、間違いなく祝福した。 


                    ***


番いの烏は甲高く鳴き、鼠の屍骸をぶら下げ、廃墟を低く飛行する。 鉛の雲の連なりが、侘しい営みを隠さんとし、傾く陽光の名残は、光る鱗に欠片を留める。 割れるような頭痛に耐え兼ね、身を縮め蹲るシャッターの下、男の爪はコンクリを掻き毟った。  掻き毟り、爪が割れたところで、土塊さえ、掌には残らない。 無様に生き長らえた己の、無為な歴史はこの身の内に、一握の砂、一滴の水さえ留める事無く空っぽだ。

なんにもないな、

あぁ、なんにも、ないのだな、


突然、笑いの発作が男を襲う。 

空っぽの癖に、空っぽの癖に、空っぽの癖に。 例えそれが自分を追い詰めたとして、一体何の不利益がある? 失う物など、この身一つ。 あぁ、今更、一つも惜しい筈が無い。 この役立たずの身体を見ろ! この煙みたいな魂ときたら、今にも大気に紛れようとする。 持ち物などたったそれだけ。 それだけの癖に、何を勿体つける? くれてやれば良いじゃないか? 奴らがそれを欲しがるなら、それで償えと言うならば、そんな物とっとと、くれてやれば良いだろう?!

がさがさした笑いは、気管支をひゅうひゅう鳴らし、やがて激しい咳漱を伴った。 男は胸を抑え、泡交じりの血痰を吐き、尚も一向に収まらぬ笑いに身を任せ、肉の削げた頬を高潮させる。 久しぶりの笑いだった。 逃げ出してから初めて、24年ぶりの笑い。 

もう、そんなになるんだね。 
薔薇色の頬、翠の目、黒い髪、あの、繭玉のようだった我が息子トリスタン!

父さんは、ずっとずっと先までこれを連れて、出来る限りおまえから離れよう。 そうして、奴らを少しでも遠くに連れて行くから、トリスタン、おまえが気に病む事など一つも無い。 おまえの罪は、父さんが墓場まで持って行く。 この身体が地に伏すまで、あの忌まわしい奴らが、父さんを追い越すまで。 あぁ、まだ大丈夫、多少は私にも時間が有る。 だから息子よ、恐れるな。 そこで、逃げずに、生きてくれ。


苦しい笑いを口元に浮かべ、のろのろと、また、男は歩き始める。 山猫の杖を片手に、一歩、一歩。 災いを率い、業を背負い、男は再び歩き始めた。 


逃げないよ、もう私はこそこそ逃げ回ったりはしない。 
しかし、すぐに捕まるつもりもない。

ひたひたとした妄執の気配が、虫になり、鼠になり、やがて黒い羽を持つ怯えた美しい女の姿になり、跛行する男の耳元、寂しいと囁いた。

ならば、おいで、一緒におまえも捕まれば良いじゃないか?
それが、償い方なのだろう? 私の準備は出来ている。




魂の向かう先必ずや待ち受ける黒い大きな翼持つその影法師に、私は銀の皿を差し出そう。 汚泥の中、しゃくり上げた一匙の困惑と辛辣な無垢を。 滅多味わう事の出来ぬ、命の終焉と云う芳香を添え、恭しく、しかし洗練された給仕人の如く、翼持つその裁く者への畏怖と敬意を示すべく、私はそれを差し出すのだ。 


感謝します、感謝します、これが、我が証、我生きた証し。

浅ましき心根を纏いつつも、

尚、

穢れ無き、温かな、我が血肉なり。





暮れ行く街角、薄汚れた男が一人、女物の杖をつき、日没の暗がりへと紛れていった。








      **  A bat in pieces  こなごなコウモリ  
 **  完結

     February 23, 2003