** ヒストリィ **
<< 解体 死人 病棟 >>
不本意ながらの医者稼業が、これほど続くとは思ってもいませんでした。
研修時代は、怒鳴られ、絞られ、雑巾のような数年ではありましたが、そういう苦労は、さほど辛くはないのです。 働きに見合った報酬を得る、というのは、実に気分の良いことです。 妥当に評価を受ける事、自分の成果が目に見えるという事が、私には泣けるほど幸せでした。 働く、稼ぐ、実に単純だから、裏読みしすぎて自分を見失わないで済むのです。
上司にも、恵まれていました。
取引無しで、叱咤激励してくれる年長者とのかかわりは、大きなプラスであったと思います。 何より、精神科という領域は、肌に馴染んだのです。
患者を診るということは、それを通して己を見ることになります。
私は、自分の歪みや、病的な部分について、より正確な分析・考察をするチャンスに恵まれたといえます。 それは役に立ちました。
なんとなく、自分はおかしいのだろうかと不安に駆られ続けるよりも 『こうした過程でのそのような病であった』 と結論が出てしまった方が、ずっと気楽なのでした。
潔い、あきらめは、漠然とした不安よりも心地良いものです。
仕事がらみのメリットも、副産物としてありました。私自身の歪みが大きい分、患者の歪みに気づき、理解することが 健康な者よりも容易かったのかも知れません。 察しの良さを評価されてもいました。 病人が、病人を見るのか? と非難されるかも知れませんが、仕事振りが良いならば 働く病人でも良いじゃないかと、自信がついたのです。
とは云うものの、家の中は相変わらずの混乱振りで、それぞれが 水面下での蹴散らし合いに 余念がない状態です。 何故、皆こうなってしまうのだろう、という理屈付けは出来ても どうしたらこれを改善できるか、その具体的な解決には手がつかないままでした。
解決を難しくさせているのは、大きく二つあります。
一つは、 閉鎖的であるゆえ、客観視できる第三者が不在であるということ。
二つ目は、 解決しようという、問題意識を誰も持ってはいないこと。
つまり、お手上げでした。
だけど、私も諦めた訳ではないのです。
諦めてはいないから、時に覚悟を決め問題提起をし、即座に糾弾され、『何が不満か?』と頓珍漢な泣き落としにも遭うのです。 またある時は『きちがい』と罵られ、こちらもいきり立ち、仕舞には家族ぐるみの大喧嘩になるのです。 けれど、所詮は負け戦。 最後はまた、仕事にかまけて現実逃避するか、或いは旅行と称した家出を決行するか、情けのない有り様でした。
ままならない自分があり、家族があり、だからこそ、やれば結果の出る仕事ににのめり込んでゆきました。 所謂代償行為だったのではないかと思います。 月に10日は病院に泊り込み、薄暗い地下仮眠室ではすっかり常連でした。 朝から晩まで患者に始まり患者に終わっていましたが、充実していました。 体はきつかったけれど 精神的には安楽でした。 そうこうしてると評価も上がり、次々とより深刻な患者を受け持つようになり、また、いっそう仕事にのめり込みました。
正に仕事中毒。
では、仕事をしていない時の私はどうだったのかと言うと、立派な廃人でした。
興味が持てる物も、集中出来る事もなく、考えもまとまらず、話す事も億劫で、ウトウトしているかぼんやりしているかといった有り様でした。 そんな廃人振りが、我ながら恐ろしくなり、突如 『芝居』 『音楽』 『書籍』 に、のめり込む時期が定期的にあったものの、楽しんでいたとは云い難いです。
私生活での、駄目っぷりを悟られたくないが為、着道楽は脅迫の域になっていました。 時々人と出掛けても集中出来ず、対応は上滑り。 家に帰れば、何を話し何を聞いたかすら定かでありませんでした。 それでも、家と仕事を行ったり来たりの生活は危うくも均衡が取れてはいたのです。
ずっと続けば良かったのだけれども、終わりはやっぱりあるんですね。
病棟では、医局長・婦長を始め、上司が次々と定年を迎えたのでした。
上司、総変わり状態です。
私生活でも 解体は始まっていました。
長い付き合いの友人達と、じわじわ縁が切れ始めていました。
家ではどうかというと、父方の祖父を皮切りに、死人が続く数年の始まりでした。
変容・交代の時期が、やって来ていました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
思えば、まァそこそこの人生よね。 私って、幸せじゃないかなって思うの。
カオルは、幸せって知ってる?
アンタは、そう云うの察知するの巧いもんね。
そういう娘が居たわね。 その子、ポリアンナっていうのよ。
来月アタマから、佐倉で『コーネル展』やるでしょ? 行きましょう。
火・金 以外で都合をつけて。 三日前には電話ちょうだい。
当日10時に私の家集合。
ところで、まだ、あの古いスカイライン乗ってるの?
|