**  ヒストリィ  **


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     まず、クラキちゃんの話無しには進めません。

彼女は、私と、カオルの間で、数少ない共通の友人として、キーパーソンとして、もしくは狂言回しのように 遺憾なく存在を発揮していましたね。


クラキちゃんと言うのは、不思議な人でした。
不幸かといえば 『女の喉自慢』で高級旅館宿泊招待券を貰える程度には ミゼラブルな過去を持っているのだけれど、彼女の持つ下世話で脱力した諦観というのが、どうにもそれら綺羅星たる不幸や悲惨に苦笑を添えてしまっているような人でした。

私は、彼女に対して、いくらかの優越感と、苛立ちと、安らぎを感じていました。 
少々駄目な友人を、ほっては置けまいとばかりに彼女にかまけているのは 『自分以上の駄目に接する』 後ろめたくて誘惑的な、ちょっとしたイヴェントでもあったと思います。   

その実、私は、彼女に取り込まれていたのではないか?

一見すると、私は『駄目』な彼女を叱咤し、手を引き、世話をしていたように見えるけれど、そうではない。 私はそういう役割をすべく、彼女の思惑通りに動いていただけ。 真のマゾヒストは、主人を操り自分の快楽を得る真実の主であると思います。 今となると、そんな言葉がしっくりとくる。

アレはあれ、彼女が実生活で身に付けた処世術なのではなかったか。 当時はそれはそれ、まぁまぁ良いコンビだったと思います。 私達は、いろんな意味で、お互いを必要としていたのは確かです。
その、クラキちゃんが当時惚れてた男を芝居に誘い、しかし男は応じず、代理で現れたのがカオルでした。


私はその頃、『さわやか』に固執していて、『希望あふれる研修医』という役柄作りに心血を注いでいました。  あなたも、ずいぶん爽やかだったように記憶しております。

 ーーー 代わりに『カオル』って子が来るんだって。 

事前に、クラキちゃんに聞きました。  

『知ってるコ?』 『知らない。』

件の男のツテらしく、クラキちゃんも知らないと言うのですが、そんな知らない相手と 他人を介して待ち合わせを約束しちゃうあたりが、彼女らしいというか。 

ご存知かも知れませんが、クラキちゃんは、惚れっぽい女です。 
ですから、待ち合わせに現れた『カオルちゃん』が、アナタだとは誤算でした。 

本命はさておいたとしても、今日、代打で来たこの男に惚れるのも時間の問題でありましょう。 ならば、友達の次期恋人候補に対してなのだから、私は感じよく当り障りなく接してゆこう と乗り込んだスカイラインの後部席で心したものでした。 

私たちは、爽やかに車を走らせ、芝居に笑い声を上げ、食事と会話とお酒を少々で解散しましたね。

日を置かず、あなたが電話を寄越して来たときは、とても面倒なことになると思いました。 
間違いなく、とても、面倒なことには、なりました。  

要するに、私達は、地雷を踏みました。


当り障りなく、ぎこちなく、私はカオルとの時間を過ごすことになります。
多分、カオルは、シャイで、弱虫で、スタイリッシュで優しかったのでしょう。 
私も、だいぶ、世界観がゆがんでいたのでしょう。 

愛だの、恋だの、『好き』だの『やらせろ』だの『幾ら欲しい?』 だの言わない男性と過ごすのは久しかったから。 もっとも、要求の見えない相手と過ごすのは、いささか神経が疲れるのですけれど それでも 『会わない』 理由などなかったので、誘われれば応じるのが常でした。 

そうこうしてたら、クラキちゃんたら、本命でも好きでもない男と寝てしまったのね。

『どうしよう』 と言われても、どうしようもこうもなくて。 
『私、カオルの事もちょっと好きだった』 って言われても、本人に言うべきです、それは。
『リサちゃん、カオルと付き合ってるの?』 と聞かれれば、寝てませんとしか言いようがないのです。 
『私、どうしよう』 って、私に聞かないで。 そんなこと。 

だって、関係ないじゃない?


結局、クラキちゃんはその男と、得意の済し崩し的交際をしばし続けます。 
彼女にとっては、ここからが本領発揮ではありました。 
そして、ならば、もう構わないでしょ?と、私はカオルに気を使わなくなりました。
『友達の恋人候補』というお客様待遇は、もう仕舞です。
私が、カオルと向かい合った始まりは、ここからだと思います。

私個人の付き合いとなると、それは殺伐としたものになります。 


利にならないなら、口を動かすのも嫌だと言うのが、当時の私でしたから 一体、カオルは何故私と過ごしていたのか、今もって謎です。 おおよそ、居心地悪くて、不愉快ですらあったでしょうに、それでも私達は車を走らせ ほとんどを無言で過ごしていましたね。 繰り返されるカセットの音楽を聴きながら、眠ってしまうこともしばしばありました。 

眠ってしまって起きても、カオルは無言で車を走らせています。 相変わらず、カセットは同じように流れていて、時間が麻痺したような感覚でした。 そもそも、方向音痴の私には、どこをどう走ろうと分かりはしません。

思うに、これは、私なりの安心と信頼ではなかったのでしょうか?

とは言うものの、その頃の私にとって、『素』で過ごせる相手はカオルだけでしたが、その事に感謝したり そうしたひとときを大切に思う誠意も、カオルに対する心遣いも持ち合わせてはいませんでした。 かくも、傲慢でした。 

それと同じくらい、切迫し、疲れてもいました。

遡り、二十歳の頃、私は自殺に失敗しています。 
失敗から得た教訓も、少なくありません。


死ぬというのは、それはそれで、情けなく面倒なものだと実感しました。 

だけども、生きて行くというのも、
それはそれはで未練がましく面倒な物であるという事も痛感しました。 

生きるというのは、怠惰な先延ばしの連鎖であるというのが、当時の結論でした。


結論は出たもののそれら、生きるための雑事が、たまらなく億劫で、鬱陶しく、
私は疲弊しておりました。