sacrifice
《七日目》
・・・・・・つまり、そう言う事だ。
足元に散らばる彼らの痕跡を見よ、累々と堆積する彼らの生の残骸を見よ。
絞り粕になり踏みしだかれても尚、彼らは生者に向かって叫ぶのだった。
生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きろ! 生きろ!
我々に選択権は無い。
その不在が示す事実とは、彼らを踏み台に今を生きるという後ろめたい現実であった。
**
「…… なら、どういう事なんだ?」
日の出直後の寒々とした甲板、薄っすら霜の降りたそこで詰問するのは船長、鉛の海を背に詰問されたのは船医。 船医は文字通り逆毛を立て、皮膚を貫きかねない剣呑な視線に晒されては消えてしまいたいと願うが叶わず、無意識の後退りはよろけたコンパスのようによろよろとバランスを欠く。 乾いた音を立てる弱々しい数歩。
「チョッパー!」
けれども船医は答えない。 答えられない。 鉛色の低い空、向き合うもすれ違い膠着する二人の姿を、白茶けた朝日が低く斜めから舐めるように照らした。 乏しい光を浴び、棒きれのように伸びる少年の淡い影。 その頭上に、在るべきツバ広の麦藁は無い。 船長から麦藁が消えたのはきっかり六日前。 陽気な狙撃主の無残で呆気ない死に立会い、その日より麦藁は食堂の一脚に、主を失った一脚に乗せられそれきり持ち主の頭上を飾る事は無かった。
麦藁を脱いだ彼は、もはや憤り地団駄を踏む独りの少年に過ぎない。 怒る少年は答えの貰えぬ疑問に苛立ち、噴出する暴力的な絶望を持て余して目の前の小さな仲間へとぶつけた。 糾弾される船医は大きく目を見開き、怯え、うろたえ、それでも逃げ出さずそこに立ち尽くしたが、一文字に閉じられた唇は開かず、決して少年に真実を洩らす事はなかった。 小さく握った拳に隠し持つ、明かす事の出来ぬ秘密。
「・・・・・・何が、 何がどうなッてんだよ?」
何故? どうして?
少年とて別段詮索したいと思っている訳じゃあない、誰にでも秘密はある。 在って然るべきなのだ。 心の奥深くに押しやり、遮り、共に滅び墓場まで持って行く秘密―― そんな秘密なら誰しも一つ二つは抱えていて当然なのだと、それくらいは少年にもわかっていた。 だから、この小さな船医が何かを抱え、それを墓場まで持ち運ぶ算段だと言うならば、それを暴く権利なんて自分には無い。 暴いてはいけないのだ、それが仲間への作法なのだから。 けれども少年は、目の前の沈黙を許す事が出来なかった。
秘密? だから何の秘密?
何より許し難いのは、そこに自分が関与していたという確信。 戸板を繋ぐ蝶番のように、図らずも自分が彼らの運命を繋ぎ止めそして動かしたのだとしたら、ならばそう、自分はそれを知る権利があるのではないか? いや、知らねばならないだろう。 そこで何が起きたのか、そこで消え、そこで引き戻された命について、パタンバタンと繋ぎ止めていたそれらの何が外れ繋がりそして今尚、自分は一体何を繋ぎ止め、動かしているのだろうか?
「な、何もしてないよ。」
「・・・いい加減にしろよ、」
「ホントだよ、何も知らない。 昨日だって、ずっと夜中もずっとサンジのところに居たし、だって、」
「けどロビンは消えた。」
「そ、それはでも、」
「でも偵察か? 今更逃亡か? 見ろよッ、なら何で避難ボートはそこにある? 俺ら能力者が海を泳いで渡るなんて事、チョッパー、お前本気で言ってんじゃねぇよな?」
「・・・・・・」
能力者が海原で消えたなら、その結末とは死の他にない。 それがどういう死を迎えたかは推測に過ぎないが、消える場所などこの海原しかあるまい。 ましてやそれは仲間だった。 それ故、船長の苛立ちも歯痒い焦燥も、それらすべてが自分に向けられる当然をも船医は十分に自覚していた。 けれども語る訳には行かない。 つまりそれこそ船医が墓場まで持ち去る嘘であり、秘密でもあった。 しかしその決意を砕くのは、目の前の真っ直ぐな目。 揺らぎを振り払うように、船医はギュッと奥歯を噛み締める。
「・・・・・・おまえらが何かをやろうとしてたのは知っている。 それがサンジの、いや、俺らが生き残る為のなんかだってのも、俺だって薄々は知ってる。 難しいこたわかんねぇが、それにゃ血が必要だったンだ。 だろ? たかが検査に、あんなにドカドカ血が要るなんてな変だと思ったサ、けどそうする他なかったんだろ? じゃ、それに習うンがイイに決まってる。 おまえ、いつだって俺らの頼りになる船医だったしよ、だから今回もナンも口出すコタねぇと思った。 事実サンジは持ち直してるしな・・・・・・ なのになんで仲間が消える? 答えろチョッパー、それとコレたァ繋がンのかよ? 何で俺らは生きててロビンが消えるンだよッ?!」
船医は小さく息を呑む。
けれど少年はその痛々しい様に、憐れさよりも頑なな卑怯を感じた。 身の程知らずの大きな嘘を吐き、これ見よがしに後ろ手に隠す、その癖それを見るなだとか問うなだとか頑固な横っ面を殴り飛ばしたい衝動を堪え、腹立たしさに内臓はクツクツと煮えた。 そして何より許し難いのは、蚊帳の外に出された自分。 仲間だ信頼だと静観していたつもりが、すっかり安全地帯に独り放置されてた自分の、手も足も出ず守る事すら出来なかった不甲斐ない焦燥。 そんな遣り切れなさに、ダンと少年が足を踏み鳴らす。
「・・・ッ!」
ビクリと飛び上がる後退りがツルリと甲板を滑り、バランスを崩す船医は仰向けに万歳で転げ、その小さな胴中を伸ばした船長の腕が転倒寸前でグルリと支えた。
「・・?!・・」
骨?
「おい・・・・・・」
俄かに理解し難いその感触とは、
「チョッパー、おまえ、」
「あ、ぁぁアリガトウ、ああのオレ、あはは、ドジだよな、」
「・・・・・・」
動きを止めた腕の中、船医は身を捩りスッと微妙な距離を取る。 しかし少年は己の掌を眺め、今しがた触れた感触を反芻するのだった。 骨と皮。 まるで柔らか味のない、実体の無いようなチッポケな身体。 違う、そうじゃない、柔毛に包まれた身体は丸く、ずっしり、ふっくらしたものだった筈だ、あぁだから投げ飛ばされコロコロ転がっても、放り出されてしたたかぶつけたその時ですら、適度な皮下脂肪と締まった筋肉層が丁度クッションの役割をしていた筈なのだ、そう、ギュッとすれば女子供が縫い包みのようだと喜ぶ、そんな愛らしい小さな、しかし、
「ごめん、けど信じて欲しい、オレの事、オレ、上手く言えないけど、でも信じて欲しい ・・・・・・オレ達きっと明日に進めるから、きっと大丈夫だから、だからルフィーは海賊王になれるから、だから、今は信じてくれよッ! なッ?」
船医は腕を擦り抜ける。
欲しい答えは出さず踵を返す後姿を、少年は追わずに黙って見つめた。 問い詰めよう気勢など当に削がれていた。 船尾へ消えるヨロヨロぎこちない小走り。 生半可の衰弱ではない、ギリギリの小さな身体。 そして、こうしてまた取り残された、何一つ気付かず知らされなかった自分。
「・・・・・・明日ッて、なんだよ・・・・・・・」
低い呟きが湿った空気に沈んだ。
ツイと持ち上げた腕、指先は宙を滑り触れるべき麦藁がそこに無い事に気付く。
―― 俺は海賊になる! ――
あの日あの男が頭に乗せてくれた麦藁は、いつだって無敵の象徴で在った筈なのだが、
「・・・・・・だから・・・・ナンダってンだ?・・・・・・」
なにも、どうする事も出来ない無力。
失われたワンピース、幻の海、この世の全てを握り、数多の海賊らの頂点に立つ海賊王たる自分とは、果たしてこの延長に存在し得るのだろうか? 確かにかつては居た、そんな自分があの時は居た、確かに居た。 しかし切迫した現実の今、夢は夢であり、懸け離れすぎたそれは余りに空虚で滑稽ですらあった。
憧れが、急速に色褪せるのを少年は感じた。
自分が何をしたいかまるで思いつかなくなった。
冷えた身体の震えがとまらなかった。
* *
けれど、男はこちらに繋がっていた。
およそ色味の無い唇、リネンの白を弾く頬、浅く不規則な呼吸に胸郭を上下させ、時折薄っすら目を開き瞬きでその意思を伝える事も出来た。 元々痩せた男だったが、今や掛け物の上から辛うじて輪郭がわかるほどの有様で、せめてもう少し濃度の高い輸液を行えればと船医は願うが、何せこの船上では、申し訳程度のそれですら在庫は残り数本を数える。
「あと一息だから、」
その言葉は独白に近い。 あと一息、もうあと少しで今よりずっと良くなるに違いない。 先刻着替えをさせた身体から、八割以上の痣が消失しているのを船医は確認していた。 薄い身体を覆っていた忌まわしい花は、今や手足の内側に数個づつ点在する程度となっている。 この改善の理由に心当たりはあった。 ワクチンが効いているのだ。 美貌の学者が残した、貴重な生の痕跡。
今朝方学者が居ないと船長は騒いだが、船医はそれより前からその失踪を知っていた。 知っては居たが、捜さなかった。 そして日の出直後の早朝、漸く気付いた船長の怒りと不審と詰問を、あたかも今気付いたような顔をして船医は黙ってその身に受けた。 その件について答えるつもりは今もない。 答えたところで彼は納得しないだろう。
最初に気付いたのは深夜。 最後のアンプルを切り、男の傍から戻った午前0時を少し回った頃。 砂袋のように重い身体を引き摺り、ほうと溜め息を吐いた医務室の、処置台の上に置かれた半透明のパックが二つ。 ぴっちり血液を詰めたそれが誰の仕業なのか、そんなのは火を見るより明らかだった。 ――ロビン?―― 憔悴して尚毅然としていたその姿を思い、そっと触れたパックはまだ暖かな体温を残す。 船医は咄嗟に甲板に走り出たが、とある確信に息を詰め、静かに踵を返し再び医務室へ戻った。 パックの後ろ、傾いた陰になるそこには、書き残されたメッセージが一つ。
―― 先に進むこと ――
「無理だよ・・・オレ、オレだけじゃ無理だよ・・・・」
短い文字を反芻すれば、涙がホタホタと零れた。 先になんて行けない、これ以上進むことなんて出来ない。 確かに医者には命を助ける使命と義務がある、船医自身それを心掛け、今まで精進して来たつもりだった。 当然、至らず苦い経験もして来た。 だけどコレは違う、こんなのあんまりじゃないか? 誰かの命を奪ってまで誰かを助ける必然が、船医には理解出来なかった。 そうして生き延びた命とは、果たして胸を張り明日に進めるのだろうか?
けれど、葛藤しつつも船医は作業を進める。 急がねばならない、最後のアンプルを切ってしまったならば、次の投与までに新たなワクチンを生成せねばならない。 何故なら救えるかも知れないから。 もはや治療もこれまでと諦めてはいたが、しかし今ここにその材料がある。 そして学者はもう生きてはいまい。 学者は未来を譲ったのだ。 ならばその生を引継ぎ、死を無駄にしないのが己の役目ではないか? その一方で、命に優先順位をつける自分とは、多分、医者として、いや人として何か壊れてしまったのだろうと船医は自らの矛盾に結論をつけた。 しかし矛盾は矛盾として、葛藤は濁った汚水のように船医自身の内側に溜まり、やがてどす黒く全てを染めて行くような気がして、そんな予期不安にカタカタと指先が震えた。
もっとも、震えるのは不安のせいばかりではない。 積み重なった疲れが澱のように身体を覆っていた。 吐き気を伴う眩暈と頭蓋が割れるばかりの頭痛。 日に何度も脂汗を掻き、しゃがみ込み、奥歯を噛み締めほんの数十秒の苦痛を何とか遣り過ごし、今も船医はもっと死に掛けの誰かの介護に明け暮れている。 柔毛で誤魔化してはいるが、ここ数日の体重減少は加速をつけ、小さな身体のささやかな体温を容赦なく奪う。 かじかむ指先は白衣のポケットの中、きつく握られて、不用意な震えに皆が気付かぬように隠されていた。
つまり、限界だった。 そして不思議な事に、それを心待ちにする自分が居ることにも船医は気付いていた。 もう、終わりにしたい。 ここから逃れたい。 もう、酷く疲れてしまったから。
だからこれは治療なんてものじゃない。
このまま誰一人助けることが出来ず、むざむざ死に行く自分を許す事なんて出来ないから、そんなのあんまりだと思うから、だから、せめて一人でも救ってやりたいと願う。 自分の死は決して無駄ではないと、あれは本当に役に立つ仲間であったと語られる為、その保障欲しさに彼を助けようと思うのだ。 そしてそう願ったのは、恐らく学者も同じ。 だから船医は彼女を探さなかった。 死んだ者の痕跡捜しより、目の前の救済を選んだのだ。 ―― だってしょうがないじゃないか? ―― 例え全てが自己満足であったにせよ、この極限にあってはなんびともそれを咎める事など出来まい。
画して藍色の空が白む前、船医は新たな一本のアンプルを眠る男に投与する事が出来た。 船医は残り一本と半量を保冷庫に納め、漸く長い夜にほっと一息を吐く。 船長騒いだのはこの直後である。 そして例の詰問へと続く。
「どうしてって・・・ね・・・オレにだってわかんねぇし・・・・・・」
脱がした着替えを丸め、男を起こさぬようにリネンの端をベッドに挟んだ。 時刻はもうすぐ10時を回る。 もう? 慌てて保冷庫のアンプルを取り出し、投与の準備を始めた。 あっという間じゃないか? 学者の残したそれは、もう予備の半量を残すばかりとなった。 つまり後は無いという事。 船医は後手後手に回る病とのイタチごっこに、遣り切れない虚しさを感じた。 しかもこの切り札は、果たして切り札足り得るのだろうか? だけど駄目でしたと言うにはもう、あまりに犠牲を払い過ぎていた。 そんな曖昧な可能性と引き換えに自らの生を手放すというのは、愚かしく、全くどうかしていると思った。 本当にどうかしているのだ、学者も、自分も、そして先に逝った彼らも本当にどうかしている。
「……だけど、勝たなきゃならないだろ?」
今さら引き返す事など出来ない。 引き返す当てすらない。 それでなくとも、時間の回りがやけに速い。 次から次へと山積みされた課題に追われ、時間は無情にもそれらの解決を待たずに進む。 たかだが数日なのに、どれだけ失えば良いのか、いつまでこれが続くのか、先の見えない何て途方もなく長い時間。 ―― 一人も助けられずに皆死ぬ ―― 不吉な想像に背筋がゾッと冷えた。 意識すれば余計に寒さに耐えられなくなり、何か温かい物でも調達せねばと船医は作業の手を早めた。
今なら食堂に船長も居るだろう。 まだ自分に腹を立てているかも知れないが、何か釣り上げた物でもオーブンに放り込んでくれているかも知れないし、口を利いては貰えないかも知れないが、最悪でもお茶で暖を取ることは出来る。
いずれにせよ、ギクシャクした関係はそう簡単に修復する事は出来ないだろう。 激昂する船長の気持ちも、船医は尤もだとは思う。 彼は今回、徹底して蚊帳の外であったのだから。 けれど大局的な見地からすれば、それは仕方が無い事だと思う。 誰かが生き、誰かが死ぬ、それが理ならば選り目的を持った者こそが生き残る側に回るべきなのだ。 死は生きる者全てに平等に訪れるが、生は選ばれた者のみが授かる不平等の幸運である。 だから、彼は選ばれ、彼らは選ばれなかった。 そして多分、船医自身も選ばれては居ないだろう。
けれどそれを今、説こうとは思わない。 そんな事は無駄だ。 今は無駄、けれどいずれは彼も、この数日間に凝縮された自分達の選択を、きっとわかってくれるだろうと船医は信じていた。 幸い、生き残りはもう一人増える。 戦力になり小器用なその男が残るなら、きっとこの先大抵は二人で乗り切れるだろう。 だから、これで良い。 だから、自分達は間違っていないのだと船医は大声で叫びたかった。 大声で叫び、誰でも良いからその通りだと言って欲しかった。
けれど、それが叶わぬ事も知っている。
瞼がピクピクと攣れた。 温かい物を飲み、少し仮眠を取ろうと船医は決める。 翳した秒針がぼやけ、二重写しに忙しく時を刻んだ。 心許無い手首の、意外にしっかりした脈圧。 男はうとうと眠り、時折ガタガタとおこりのように震えるが、かといってそれにより状態が急変する事は無かった。 忌まわしい痣も、今日中に全て消えるかも知れない。 大丈夫、これならばきっと、このままならきっと、
「・・・・・・また、すぐ来るから、」
眠る男に声を掛け、船医は立ち上がろうと中腰の背を伸ばした。 ベッドの端に手を付き、起ち上がろうとしたその時、激しい眩暈に襲われ船医はストンと膝を着く。 背筋に、掌に、こめかみに、冷たい汗がじくじく噴出すのを感じた。
「・・ぁ・・・ぁぁ・・」
縮こまる舌は言葉を発する事が出来ない。 しかし何しろ瀕死の男と二人きり、誰が自分を助けるのかと妙に冷静に思い、船医は項垂れベッドに身体を預けた。 ―― 大丈夫、たかが数十秒だろ? ―― けれど堪える時間と言うのは得てして長く、まして痛みを伴うなら尚更の事。 痛みが船医を支配する。 ―― あぁ多分そんなくらいで治まるから、ちょっとこうして遣り過ごせばきっと、そうだよこんなのいつもと同じに ―― 頭蓋が内側で破裂せんと、膨張し続けているような痛み。 溺れるような息苦しさに、心臓は出鱈目な拍動を刻んだ。 お構い無しのギャロップに悲鳴をあげる心臓を、船医は目を閉じ歯を食い縛り耐える。
「…ッ・・・・・くぅ・・・・・」
咽喉元を掻き毟るが、開いた口からは一つの空気も肺には送れなかった
―― イヤだ、イヤだイヤだイヤだたすけて、だってオレ、オレはまだ ――
みるみる彩度を落とす世界。 蹲る船医の、引き攣るように上下する肩。 ヒュイッと笛の音に似た吸気を数回不規則に繰り返し、にも拘らず取り込めぬ酸素に不安と恐慌はピークに達する。
―― たすけてッ ――
そして墜落のスピードで、唐突に訪れた解放。 闇の中、解ける緊張は清々しい恍惚に似て、緩々流れて行く弛緩に船医は無意識の微笑を浮かべた。 ピチャポチャと懐かしい水音。 暖かな羊水の感触。 薄れる意識の片隅で、やっと終わったなと思った。
それは、幸せな死であった。 幸福な終わりであった。
**
やがて、沈黙と焦燥に耐え兼ねた少年は眠らぬ船医の元へ、眠る男の元へと鉛の空の下、凍りつく甲板を横切る。 オーブンの中、先刻放り込んだ得体の知れない魚はパチパチ焦げ目を付け、今まさに食べ頃である。 油が弾け香ばしいそれを、少年はまず船医に食べさせたいと思った。 自分自身、常に空腹であり深刻な状態であったが、食べ頃のそれを一番に船医に食べさせてやりたかった。ちゃんと食わせてやらねば、ちゃんと眠らせてやらねば。 とにかく船医の負担を、少しでも減らしてやらなければならない。
思えば少年にはそんな風に、戦い以外の手段で誰かを助けようとした事が無かった。 仲間の為、自分の為、または名も知らぬ弱い誰かの為に数多の敵を倒し、血を流し、文字通りの死闘を繰り広げてきた筈だったが、生きる上での日常的な労い、手助けなどは一度だってした事がなかった。 その事実に少年は愕然とする。 同時に、そんな自分が何一つ困らなかった理由 ―― つまり誰かしらが常に、自分の為に毎日を支えていたのだという事実に少年は打ちのめされる。
仲間が居たから、だから戦うことが出来た。 例え戦う自分が傷ついても、暴走しても、回り道をしてもそれを正し、見守り、時に容認してくれる誰かが常にそこに居てくれたのだ。 しかしそれは当たり前過ぎて、あまりに自然に与えられ感謝をする事すらなかった。 与えられるままに、口を開けて恩恵を受けるだけ
―― 昔からじゃないか?
幼い自分に微笑みかけ、目が合えば声を掛けてくれたあの懐かしい故郷の人々。 顔の傷をつくった時、泣きながら医者を呼びに行った母。 能力者になってからは度々行きずりの戦いを挑み、家を空ける事だって頻繁にあった。 しかし、戻れば上手い飯があり、ベッドはお日様を浴びふんわり暖かに膨らんでいる。 そんなのが偶然なんかである筈が無い。 毎日毎日、母親は居ない息子の世話を続けたのだ。 いつ戻っても居心地良く出来るように、そうして居ない息子の帰りを待ったのだ。 しかし、特別有り難いと思った事は無かった。 それを日常と思い込んでいた。 だから躊躇無く、母に別れを告げた。
ならば、あの兄はどうだろう? いつでも少し前を歩いていた兄。 自分同様、兄も能力者となり、家を出て海賊になった。 けれど兄が能力者に成ったのは、兄自身の為ばかりじゃないようにも思える。 兄は冒険の為にそうなったのではない、多分、いずれ老いた母を支える為、何かしらの財と地位を築く為、その手段としてあの実を食べたのではないか? それだから自分は好き勝手が出来る。 思うままに故郷を捨て、「死を厭わぬ」などと勝手な独り言を言える。 他人の支えに一つもなっては居ないから、自分だけの死など軽くて当たり前なのだ。 言い換えれば命すら軽い自分だから、誰も支えとして自分に縋ろうとは思わなかったのだ。
だから、今だって自分は蚊帳の外じゃないか? その、大きな何かを遂行するメンバーとして自分は外されているじゃないか? 要するに、冒険でも戦いでもない「日常」に、自分は役立たずなのだとそう云う事ではないか?
麦藁を脱いだのも、そんな象徴に縋る幼さを自分でも無意識に排除したくなったからかも知れない。 だったら、いい加減認めねばならない。 自分はまるで子供なのだと。 駄々をこね、アレしたいコレしたいと我を通そうとする我侭な子供。 そんな風に与えられるばかりでは駄目だ。 船医がギリギリであるならば、負担を減らす為に何をすれば良いか、船医の代わりに何が出来るのか、それを聞いておかねばならない。 出来ない事ならば習わねばならない、それが、今ここで自分に出来る唯一の事なのではないか?
決意と意気込みを抱え、少年は船尾近くのドアを開けた。
「チョッパー!」
短い廊下の先、二つ目の扉、
「メシにしようぜ! チョッパー!」
無人の医務室を通り過ぎ、その奥に続くドアをそっと押し開き、そして少年は息を呑み発するべき言葉を失う。
丸窓から差し込む薄曇の陽光を横顔に浴び、ぺったり床に座っている男。
「サ・・ンジ・・・?・・・・」
「…・・・・・クソどうしようもねぇよな……」
男の膝の上、穏やかな表情で事切れる小さな亡骸は、自ら助けた腕に身体を預け抱き締められて眠る。 ちょこんと座り込むように、うたた寝するように傾ぎ、男はその頬にそっと自分の頬を寄せた。 そうしてポンポンと数回軽く背を叩く仕草は、子を亡くした母親のそれ。 呆然と立ち尽くす少年の膝が、カタカタと震える。
「ぅ・・・・ぅぁあわああああぁああああ……」
崩れ落ちるのは身体ばかりではない。 長く深い亀裂が少年の内外を襲った。
なぜ? どうして?
崩れ落ち、床を打つ拳が生暖かい雫にひたひたと濡れた。 瞬きを忘れ滲む瞳が、二重写しの景色をここではないどこかのように映す。 今や荒涼とした瓦礫の世界に佇み、少年は自分を見失っていた。
この先なにをするのか何をしたいのか、そもそも自分は何をしているのか、何の為にココに居るのか?
―― 仲間を殺してテメェは海賊王か? ――
ち・・・違うッ、そうじゃねぇッ、俺は、・・・・・・
―― 何もなかった顔をしてまた冒険とやらにワクワクするか? ――
・・・・お、お俺は・・・・
「海賊王になるんだろ?」
「違うッ!」
這い蹲る少年を、男が静かに見つめる。
「違かねェよ、お前は、海賊王になる ・・・・・・ソコんとこは何も変わっちゃいねぇし、変わっちゃイケねぇんだ。 わかるか? みんなテメェの夢に乗ったんだぜ? そいつはスゲェッて、その先を見届けたくってココまで来たんだぜ? だから、」
亡骸を抱く男は、少年に告げた。
「・・・だから、責任とりやがれゴム。 そんで海賊王になって見せろ・・」
緩い光を浴び、男は古びた絵のように見えた。
懐かしく、優しい、一枚の絵のように見えた。
「生き残り同士仲良くやろうぜ」
船は海原を漂う。
つづく
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