sacrifice
   
        



     《 A certain day or today.   ある日、もしくは今日 》




     昼過ぎの気温はぐんぐんと頂点を目指し、シャツの内側にまた、汗の玉が流れた。 
     輝く海は瑠璃色の鱗の様に見えた。 空は海よりも深く、青黒いほどの快晴。 


あれからどの位経ったのだろうか? 三日目、急に太陽が輝き始め、白夜が数日間続いた。 磁力の関係だろうか時計も磁石も出鱈目に狂い、その数日で船上には時間の概念が無くなってしまった。 だから本当は十日かも知れないし、もしかしたら五日程度だったかも知れないが、ある時、気候は唐突にまた変わった。

極寒からの一転、みるみる上昇する気温と湿度を含んだ空気、日に数回のスコールと、蒸し風呂のような暑気。 まさに、ここは亜熱帯と変じた。 そんな気候の変化が海流をも変えたのか、魚は釣り糸をたらす傍から間髪をおかず掛かり、当面の食事には困る事はなくなっていた。 だから飢える事はない。 しかし何処にも行く事は出来ない。 風は、吹いてはくれなかった。 海中の流れはまるで水面には反映されず、船は相変わらずの行きつ戻りつ、未だ何処ともわからぬこの凪の海域に留まる。

ただ待つだけの日々。 日がな少年は釣り糸をたれ、男はそれら不思議な魚介を選別し、それぞれ適した方法で一部保存に回して残りを食卓に並べる。 時に男はそれらの作業を少年にも手伝わせ、きっちり並んだ食料庫に満足げな笑みを浮かべた。 在り来たりの会話と在り来たりの団欒。 ただし、二人きり。

男は言葉こそ粗野ではあったのだが、ふとした時に見せたあの剣呑さが消え、穏やかというよりはどことなく物憂げに見えた。 一方、少年は、相変わらずの毎日を過ごしたが、日が暮れ、夕食も終わり、とうに自分の場所へと戻る時間になっても後片付けをする男の近くに佇み、時に手伝いを申し出て断られ、それでも何だかんだと理由をつけ、中々そこから離れようとはしなかった。 けれどそれは男も同じだった。 夜から朝に掛けて、死がこちらに誘いを掛ける時間に一人で居るのが怖かった。 目が覚めて自分一人になる事を恐れていた。 

だから二人はずっと一緒に居た。 並んだハンモックに揺られ、先に眠るのを恐れるように次から次へと益体もない話でクスクスと笑い、そして耳をそばだて互いの寝息を聞き逃すまいとし、けれどいつしか眠りに引き込まれてビクリと相手を覗き込む朝を迎えた。 そしてまた同じような一日。


少年は釣り糸を垂れ、男は舳先で一服を愉しむ。 残りわずかな貴重な一服。 けれど紫煙をこうして燻らせると何もかもまた元に戻るような、実は皆夢だったというような、そんな都合の良い夢に男はしばしば溺れそうになった。 ―― 夢ならば、そう、―― 仰向き紫煙を吐き出す料理人は、そう独り言のように溢し、小さな舌打ちをする。  と、視線を向こうに遣った。

 「よォ」

 「おぉ、」

釣りに飽きた少年が、ぺたぺたサンダルを鳴らしこちらに向かってくるのが見える。 多分、なにやら上機嫌でニマニマ笑っているのだろう。 けれどその表情は影になり見えない。 少年の頭には、麦藁が戻っていた。

 「ハァー、たまンねぇなこの暑さにゃもう、」

 「で、釣れたのかよ?」

 「ひゃは! スッゴイぞォ!」

そいつは頼もしい と、男は青空を見上げる。 つられて空を見上げた少年の、横顔を見つめる男は猫のように目を細め、そしてこう問い掛けた。

 「つまり腹減ったんだろ?」

 「ナンデわかる?」

 「食堂、行って見たか?」

 「いンや」

 「だろうな・・・・・・なら覗いてこいよ、腰抜かすぞ? オレの事、サンジ様様ッて言いたくなるぜ? 」

 「なんだ〜ソリャ?」

答えつつもすでに、少年は秘密のご馳走に気もそぞろであった。 わたわた踊るような裸足の指先が、少年の高揚を忠実に伝える。 そんな様を満足げに眺め、男は斜めに煙を吐き出した後、こう続けた。

 「ハッハァ〜、見てみろよ、そりゃァ行ってのお楽しみさ、」

 「ほぉ〜〜、じゃ、チョロッと行ってくる。」

 「おぉ、行け行け! 慌てねぇでココロして行って来いッ!」

 「おう!」

勢い良く走り出した少年。 踊り出すような後姿を男はじっと見つめる。

 「・・・・・・そんで、忘れねェでクレよ、    な、」

瞬間、振り向いた興味津々の目に男は小さな動揺を抑えた。

 「アァ? なんか言ったかァ〜?」

ヒョイと片手をあげる男は、ニヤリと口元で笑う。

 「何でもねぇよ、トットと行けよ、首伸ばすんじゃねぇゴムッ!」

馴染みの表情に相好を崩し、少年が再び走り出す。 
見送る後姿が建物の裏に回り、バタンと開けられたドアの音、そして聞えるのは無邪気な歓声。

 「・・・ま、驚くだろうな・・・・・・」


少年が見たのは、豪勢な料理の数々であった。 無論、元はたいした材料ではない。 ここらで獲れた海産物と残り物、今や入手不可能となった保存ギリギリの山の幸シロップ漬けの果実、以前なら破棄していたかも知れぬそんな有り合せの食材で、料理人は一世一代の腕を振るった。 少年が眠りに落ちた後、密かに徹夜で厨房に篭り、やたら下処理が面倒なアイディア勝負のメニュ−をほぼ二日掛りでかれこれ十ばかり作った。 そして真夜中の厨房に立ち、様々を思い出し、男はその状況に思いがけず幸福を見出してもいた。 まざまざと蘇る懐かしい記憶。 

どやされ小突かれながらも、戦場のような厨房で、団体客のフルコースを皆で仕上げた懐かしい養父の居る記憶。 そこに、ついに帰る事は出来なかったのだが、でも、養父はきっと許してくれるだろう。 こんな生き方しか出来なかったが、いや違う、愛する事、信ずる事、思いやる事、労わる事、葛藤しつつも必死に生きた自分を男は幸福だと思った。 だから、こんな風に生きる事が出来たのだから、だから養父は言ってくれるだろうか? 良くやったと、良くやった我が息子 と、生涯一度の誉め言葉を自分にくれるだろうか? かつてその命を削ってくれた感謝と礼を、自分は漸く返す事が出来たのだろうか?


身を屈め、そっと捲り上げた脛、日に当たらぬそこをを埋め尽くすのは深紅の花のような痣。

 「・・・・・は・・・・・・結局、あの馬鹿、一人で往生も出来ねぇッてか?・・・」

指先でなぞり、と或る面影を想い、男は遣る瀬無く目を伏せる。 

気付いたのは四日前、脛の内側に忌まわしい花が三つ、並んで咲いた。 動転しなかった訳ではない。 悔しさも恐怖も悲しみも、それらの感情は容赦なく男を襲ったが、それらを上回るのは静かな諦観だった。 

主の居ない医務室には、ゴチャゴチャした薬剤があの日そのままに残る。 密かに訪れたそこで、男は見覚えのある液体を見つけた。 それは意識が戻りかけた夢うつつの頃、小さな船医が光に翳した、レモン色をした小さな硝子瓶のアンプル。 男はそれを患部近くの静脈に半量ほど注入した。 それがどうなのかもわからない。 やり方も効果も全くの手探りであった。 しかし、投薬から数時間、花は跡形もなく消えた。 呆気ないほどの効果に、男は拍子抜けした気持ちになる。 けれどそんな楽観は長く続かず、その数時間後には新たな花が今度は無数に、脛の内側を覆った。 すかさず残りの薬液を投与したが、消失した花は半分にも満たなかった。 

ならば、観念するほかはない。 
やはり捕まったか・・・ と、男は終わりに向かう。 


料理人は咥えた煙草をもう一度深く吸い込み、目を閉じ、ゆっくり天に向かって吐き出した。 風の無い空を高く高く、紫煙は細く長く曇天の空に紛れ、チカチカし始めた目玉、方向感覚を失いクラクラする頭蓋、燃えるように熱い下肢と、凍りつく上半身の小刻みな震え、それら全てが自分の運命を表し、そしてそれらはリアルな生を意識させ、何故か今は心地良くも感じた。

やがて、チビけたフィルターギリギリで料理人は煙草を舳先に押し付ける。
グッと伸び上がり、見上げたそれは紺碧の空。
空の向う、海の向う、そのまた向うにあの海は続いていたのだろうか?

しかし、それももう、今となっては。

見開いた目に映る空と海と忘れる筈の無い面影に、あぁと呟いた唇は笑みに、そして、細いシルエットがゆっくり後方に倒れ、料理人の網膜はとんぼ返りの風景を映す。 泡立つ碧羅の海、ストンと飲みこまれた一つの存在。 ささやかに船の腹を打つ水飛沫。 コトゴト不満気に囁く海原の凪。 ぐるりを囲む遥かな水平線。 交わる事の無い二つの蒼は、隔離された異界の檻の如くに。

確かに居た、今しがたまで確かにあの男はそこに居たのだ。 

舳先で胸を反らす羊、そこに凭れるように足をぶらつかせていた黒い細い姿、ペンキの剥げた舳先、くの字に曲げられ焦げ付いた、男の、痕跡。


そして少年は独り、夢の波間に漂う。

些か早い晩餐、直に現れるだろう仲間を待ち切れず、溢れんばかりの御馳走をたらふく貪り、今やくちくなった腹を抱え、少年は幸せな転寝にまどろむ。 

耳元で足音、囁き声とさざめく笑い。 ―― 見よ! 俺サマの秘密兵器を!―― パンと弾けたのは狙撃主の新しい発見。 ―― チッ、こっち向けやがんなバカヤロウ!―― 咄嗟に飛び上がる剣士に腹を抱え、――焦げたか? クソマリモッ!―― 嬉しそうに料理人が笑う。 途端に丁丁発止の格闘が始まれば、麦藁の少年も声をあげて叫ぶだろう――うわぁお! 俺も仲間に入れろッ!―― やれやれと肩を落とす航海士。 美貌の学者は淡々と、―― ここ、着火速度に問題があるようね ―― 失敗に終わったそれを、狙撃主と共にしげしげ検分をする。 

いつも通りの一日。 特別ではない一日。

―― ねェねェ、抗生剤がそろそろ切れそうなんだけども ―― チョコチョコと足元で見上げる船医に屈み込み、航海士は思案顔で伝える ―― そうね、半日ばかりで島に着くけれど医薬品ならその次の島の方が良いかも知れないわよ――。 そこは豊かな島であり、人々は暢気なバカンスを楽しむと言う。 ――確かそこ、金細工が有名よね――と学者が漏らせば−−ソコ! ちょっと長めに滞在しましょう!―― 途端に目を輝かす航海士。 皆はたちまちバカンスに思いを馳せる。 異国の町をぶらぶらと歩こう。 不思議な食べ物を屋台から摘もう。 サンダルを履いて、派手なシャツを着て、バカンスはもうすぐ。 長い航海のささやかな息抜き。 

どこかでオレンジの香りがした。 

――ささ、マドモアゼル! オレンジのシフォンケーキ、ティーソース添えで御座います。 ―― 芝居がかった仕草で恭しく給仕する料理人。 パラソルの下、トランプの手を休めるのは航海士と学者。 途端に贔屓だ! 贔屓だ! と騒ぐ面々に、料理人は 騒ぐな と向うを指し示す。 用意された簡易テーブルの上、ピラミッド型にこんもり盛られた巨大なケーキと冷たい紅茶。 雄叫びをあげる狙撃主、走り出す船医、ググッと腕を伸ばしズルイ!と非難されるのは既に頬張り始めた麦藁の少年。 

そして料理人は別皿に一山を盛り、喧騒を離れ船尾へと向かう。 物置小屋の日陰、昼寝する剣士。 おもむろ蹴り上げた料理人と蹴り飛ばされゴロゴロ転がる剣士。 けれど皆は知っている。 それが彼らの流儀なのだと、それが彼らの愉しみなのだと知っている。

想い出に満たされ、現実は曖昧に輪郭を無くす。

だからそれは夢なのかも知れない。 溢れんばかりの御馳走を、少年は独りカツカツと頬張り咀嚼し、舌鼓を打つ。

うめぇな! スッゲェうめぇ! ななんだコリャ? わかんねぇけどうめぇよ! うめぇッ! あ〜、一人で喰っちゃってまたサンジ怒るンかな? けどまコンだけあるし、なァ、うん、どうせまたサンジは別にナンカ用意してるとかッて、ウンウン、そうに違いねぇし! うんめぇ! ひゃァ〜コッチもうめぇ! なぁんでみんな飯にコネェかな、おぉ〜い早くこねぇと皆喰っちまうぞぉ〜ぃ! んんん・・・ゾロの奴またどっかで寝てるんじゃねぇのか? あぁ〜サンジ怒るぞ、また揉めるぞ? で、ロビンは見張りか? 小難しい本でも読んでるんかな? おぉ〜い! 飯冷めるぞぉ!! ぉ、ウソップの奴にそうだ、こないだ開けちまった船の穴、ナミに内緒で直して貰わなきゃナンねぇ。 で、ナミはどうしたろ? そうだ、ミカンの収穫を半分するとか言ってたし、じゃ、アレだチョッパーはその手伝いに行ってるんかな? チッ あ〜やべぇ、さっき蜜柑喰ったのナミにばれたかなぁ・・ ナミ、怒るかなァ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



     満ち足りた少年の午後、美しい夕焼けと風の無い静かな海。



散らばるパン屑と瑠璃色の硝子瓶、流木に似た何かの骨、チャイナボーンにこびり付く ―― かつて良い匂いがした ―― 飴色の染み。 燃え立つ橙色の世界に、船は藍色に、目印の如くゆらゆらと浮き沈みを繰り返す、どこにも行かず、決して沈まず、ゆらゆらとゆらゆらと。

橙色に染まる船室。 シェルターのような小部屋の隅。 今はもう、独りきり。
チョコレート色の床板。 パーティの後の静寂。 胎児のように眠る少年の夢



     ―――― 俺は、海賊王になる ――――




     この生は、搾取と犠牲により成り立つ。

     sacrifice










     おわり