sacrifice
   
        



          《五日目》


セッカチ野郎、戻って来いよ、戻れねぇのか? あぁ、そらそうだな、テメェはめくらの伝書鳩だ。 行っちまった先、ソコがドコかコッチがドッチかもわからねぇで、暢気に寝腐ってるんだろうよ、めでてぇな、クソめでてぇセッカチ野郎だよ。 ならばしょうがない。 

ならばしょうがない、オレが、ソッチに行ってやる。



ぴしゃり、ぽしゃり、船の外壁を打つ長閑にも思える波音が、これほどに忌々しく聞こえるとは。 緩く小さく上下するばかりの船は、見えない錨に曳かれるが如く、この場所に、この海原の中心に縫い止められていた。 風は、吹かない。 鉛色の海、灰鼠の空の下、羊の船首を持つ小さな船は、置き去りにされたようにそこに留まっている。 置き去りにされた船の中、やはり、何かに置き去りにされた数人の思惑もそこに縫い付けられ留まっている。 漂い、何処かに向かう事も無く、ただ、その場で足踏みをする行き場の無い思惑が、ひっそりとそこに留まっていた。

そこは、
充分に暖かかったのだが、世界は冷たい掌で撫で摩るように、三人の体温を奪った。
そこは、
充分に明るかったが、晧々とした照明の下、影はより深く底の無い闇を創った。

かつてそこは団欒の場所であったのだが。


『だって、見たろ? だって、サンジ、笑ったんだよ?』

テーブルの上、無粋な音を立てたカップが船医の悲痛を代弁する。 ソーサーの無いお茶など、この船では久しく出された事は無かった。 ぞんざいに入れたお茶の味気無さも、久しく忘れていたものであった。 ぞんざいな振りをして優雅に給仕するこの場所の主は、壁の向こう、ホンの少しの彼岸に何もかもを連れて引き篭もる。 失ってなど居ない、全てココにあるのだと、あの時、その男は笑った。


今朝方、まだ日の昇らぬ未明の空の下、過日の輝く朝日と同じ髪の航海士は、学者が照らすランプの光を道標に、小さな布の塊となって鉛の波間に沈む。 慌しい葬列に、料理人の姿は無い。 航海士は海に抱かれ彼岸へと旅立ったが、男は、一人を追いかけ彼岸へ向かおうとしていた。 異端の聖地は船尾近くの小屋。 訪れた一同は、開かれたドアから流れ出す冷気に一瞬、身を竦ませる。 

何故? 何故こんなに寒い? 小窓の窓枠は外されて、湿り気のある海の冷気が薄っすら白く床全体を霜で覆う。 隙間風を凌ぐ目張りなど、とうに綺麗に剥されて、無論、火の気は無い。 暖める気など一つも無い、寧ろ冷やす為のここは、何故?
 
小屋の奥、暗がりに向けられる船長の平坦な声。

『サンジ、ナミが死んだ。 ココを出る。 今、すぐだ。』

光の無い暗がり、二つの塊が壁際に張り付く。 忘れ去られたガラクタ包みのように、そこでひっそり佇む塊の一つが、ヒビ割れた言葉を発す。

『……そりゃァ、チョット、無理だな……』

振り向かない塊は、ぺたりと座り込んだまま、壁際のソレに向き合い微動だにせず。 僅かに前傾した姿は、懇願し嘆願する哀れな殉教者の如く、そして嘆願され懇願されるソレはだらり腕を落とし足を投げ出し、叱られた子供に似た、

『サンジ、目を覚ませ。 そいつを見ろ、そいつに触れてみろ、サンジ、そいつは、』

『ゾロだろ? ……寝汚ねぇヤツよ、メシも喰わねぇでナニが気にイラネェんだか、なぁ、ゾ〜ロ、ゾロ、いい加減テメェも観念してなんかオレに言ってみろよ クソコック、メシ! とかよ 腹減った とかよ、はは、捻くれてやがるんか? イッチョ前に、マリモの癖に、』

『サンジ、』

『うるせぇッ!!』


振り返る目は、憤りと心許無さと、そして狂気。 対峙する船長の指先が拳を作りかけ、握りかかった指は躊躇いつつ解け、染みのような暗がりに向かって差し出された。 

『来い、サンジ。 オマエはコッチに来い!』

名を呼ばれ、捻った身体をそのままに、見上げるその先には差し出された船長の両手がある。 コックの逡巡が瞳に、被りを振る金糸は白い靄のような残像を暗がりに残す。 声は畳み掛ける。

『……来い、サンジ。 おまえの場所は、コッチだ。』

薄っぺらな肩がビクリと動き、船長を捕らえた瞳はそのままに、強張った四肢が生者の世界へ向かおうとぎこちない伸展をした。 しかし、よろけつ踏み出し、差し出される腕に近付く一歩は、あまりにまどろこしく。

『サンジ?』

『お、おかしいと思わねぇ? なぁ、コイツぁイキがって腹、テメェでかッさばいても、マァだしぶとくメシ喰って、無駄に筋肉つけて寝腐ってたクソマリモよ、若いミソラで奇天烈なセンスでジジムサイ腹巻ナシじゃ生きてけねぇとか、呑んだクレで、単細胞で、チョロッと外出りゃ二秒で迷子になりやがるガキの使いにもにもなんねぇ、そういうどうにもなっちゃいねぇただのオヤジ、ただのゾロじゃねぇか、なぁ? そうだろ? そうだよ、ハハ、じゃ、おかしいじゃねぇか。 そんなしぶとい死に損ないがゴミみてぇな虫に喰われたとか、痒いだのダリィだのソンナンで死ぬか? 普通、死ぬか? なぁ普通? なぁ? どうよ? ふ、』

『サンジッ!!』

『ソンナンじゃねぇだろうッ?!』


足元、転がるランチボックスが騒々しい反響音を残し、踵を返す細い身体を船長の腕が引き戻し、揉み合い、肉を打つ鈍い音と乾いた靴音と。 縺れる二人と立ち尽くす二人を顕わにするのは、開け放ったドアより差し込む白濁した曇天の朝日、矢のように。

『閉めろォッ!!』

もんどりうつコックは覆い被さる船長を払い除けもせず、冴えない陽光に向かい絶叫する。

『閉めろッ! ドアを閉めてくれッ! 日に当てないでくれ、ヤメテくれッ、日に当てたりしたら、ソンナンしたら、ヤツは、ゾロは、』

『サンジッ!』

締め付ける船長の腕の隙間、コックの頬に触れたのは、船医の小さな手。

『……ゾロを、送ってやろう、サンジ、』

奈落のような目から止め処なく流れる涙を、小さく器用な手が、そっと拭う。 

『ゾロがゾロであるうちに、溶けない内に、サンジ、ゾロを明るいところに送ってあげよう、こんな寒いトコじゃ可哀想だろ? サンジ、オレたち、仲間だろ?』

自覚する事すらない涙は、頬を伝い頤を濡らし、船医の指先を静かに濡らす。 そして、皮肉な陽光が曝したのは、一人の完全な死ばかりでなく可能性としての死の兆候。 嗚咽する細く白い首筋に浮き上がる、赤い小さな痣が一つ。 息を呑み、船医が肌蹴たシャツの中、ソレは薄い体躯を密かに鮮やかに彩っていた。 

『……オレァ、ナンも無くしちゃいねぇんだな、』

そして、コックは笑ったのだ。

『……なんだ、はは、全部ココあンじゃんか、ココに……だろ?……』



意識を飛ばし、夢見る男は、多分、誰よりも幸せ?



主の居ない厨房は、こざっぱり、殺伐と。 几帳面に日割りで区分された食材は、驚くほど乏しく、今更ながらそのやりくりの才に感心しても今はもう遅い。 貯蔵庫の奥、丁寧に下処理されたまだ日の浅い塩漬け、冷凍のすり身、ボイルした魚介の諸々。 見つけた三人は、コックの憔悴の大きな一因を知る。 甘受するばかりでは、人は生きて行けない。 その当たり前が、残酷な現実だった。

飲みさしの冷えた琥珀は舌に苦く、渇きなど一つも癒してはくれない。 象牙色の縁を指先ですいと押しのけた学者は、今更かも知れない提案する。

『助かる見込みが無いなら、あなた方はここを出発した方がいいわ。』

『ロ、ロビン?』

言葉を詰まらす船医に構わず、読めない表情の抑制された声が続く。

『治療法はゼロ、出来る事は見守る事くらい。 見守るだけなら医者じゃなくとも出来るでしょ。 ならばね、皆で死ぬことは無いわ。 ましてや一番の目的を抱えた人間が、ここで命を無駄にする事は無いのよ。 だからそうなさい、あなた方二人、ここを暫く離れるのがいいわ。 サンジさんのことは、私が看るから。』

『そ、それじゃだって、』

『えぇ、勿論私も死ぬつもりなんてない。 だけど、後一日の感染リスクを皆で被る意味なんてある? 手漕ぎのあの非難ボートでどこまで行けるかはわからないけれど、あなた方二人、今すぐここを出発なさい。 生きるチャンスは無駄にするものじゃないわ。 今ここで躊躇ったとしても、夢が叶えばそれも賢明な選択よ。 』

言い切り席を立つ学者の動きを止めたのは、黙していた船長だった。

『俺の夢は、ソンナふうに叶えるもんじゃない。』

『感傷? 仲間を置いて行く罪悪感? 時間は無いのよ、死は秒読みで私達に近付いている、でも、まだ私達は捕まってはいない、ならばそれはチャンスなのよ。』

『そんなチャンスは違う。』

『どうして? 今、生きてるって立派なチャンスだわ。 不運な仲間の分まで、あなたは自分のチャンスを生かすべきよ。 そこに罪悪感はいらない。』

『わかんねぇな、難しいこたわかんねぇけど、俺の夢は、ソンナンしてホントには、したかねぇ。 戦いの途中で死ぬのは、仕方ないと思う。 でも、こんなの戦いでもナンでもない。 こんなン不公平な罠みたいだ。 そういう罠にかかった仲間を置いて、オレは先には進めねぇ。』

『お、オレも船医として、仲間を放ってココを離れたりしないぞッ!!』

『・・・・・・ってワケでさ、な、つまり俺ら三人運がイインだろ? なら大丈夫、俺らきっと死なねぇよ、だから、なっ! 今から交代で、俺とロビンで看護婦さん決定!! 一番 俺、次 ロビン、順番にやろうぜ、で、チョッパーお前、少し寝ろ。 なんかチビッこくなってきたぞ?!』


ニカリと笑いを残し、船長は医務室に向かう。 

その笑顔に過去、幾度も救われた筈なのに、残り香のように漂う遣り切れなさがもどかしかった。 あの頃とは違う。 壁際に寄せられた空椅子の一つに、麦藁は無造作に置かれている。 多くを託し希望を寄せたその麦藁ですら、今は侘しい部屋の片隅ひっそりと放置されている。 あの頃とは、もう、違う。 向かう場所を失った学者は、溜息と共に腰をおろした。 

愚かだ、と、思った。 
先行き不明なここに留まる、この執着。 学者には己の有り様が、最も不可解であった。 


苦笑する横顔に、船医が躊躇いつ声をかける。

『生き残る三人は運が良い……ね、ロビン、さっきルフィーはそう言ったよね、ソレさ、もしかして本当は理由があるんじゃないかな?』

『理由?』

『そう、オレたち三人が無事でイル理由、オレたちとミンナの違うところ、オレたちの共通点、つまり、』

『能力者? 能力者である私達は、もしかして潜在的に抗体を持っているとか?』

『仮説だけど、でも、確かめる価値はあると思う。 この船の中じゃ、たいしたコトは出来ないかも知れないけど、でも、もし血清のようなモノがつくれればサンジは死なないですむだろ? だから、ロビン、血を少しくれないかな。 オレのと、ルフィーのと、サンジのソレをまず、調べてみようと思う。 オレら、生き残ってココに居ても、無駄じゃないよね?』

無駄じゃない? どうかしら? 

そう言葉を続けなかったのは、覗き込む瞳が余りに悲痛であったから。 
そして、学者自身、祈るように願ったから。 

私達は無駄じゃない。

『……血ね、御安い御用よ。 だけどもこの、血清を作る話、ルフィーには内緒にしてくれないかしら?』

『ど、どうして?』

『彼は、生きなきゃならないからよ。 彼は仲間の為なら無造作に命を投げ出すでしょう? サンジさんの為に自分を投げ出すのも、きっと容易い事だわ。 でもそれじゃ彼の夢はどうなるの?』

『ソレは、でも、それならロビンだって同じじゃぁ、』

『同じじゃないわ。 意地とか執念とか、そういう夢の先に在る物と彼のそれは全く違う。 私ね、そういうのを信じたいと思うのよ、可笑しいわね、今になって、でも、今だから、彼のその先を見たいのよ。 だから、ルフィーの旅をここで終わらせる訳には行かないの。 彼に余計な無茶をさせたくないの。』

『……オレも、オレもルフィーに出逢えて夢とか希望とか、頑張れば手に入るような気がした。 オレにも仲間の為に出来る事があるんだって、今のオレ、以前のオレよりずっと好きだ。 だから、ルフィーには海賊王になって欲しい。 うん、ただの検査だってルフィーには言っておく。 そうする。 オレ、頑張って調べてみるよ。』

『有り難う、私も出来る限り協力はするわ。』

大きな眼に決意を秘めて、一文字の口元が痛々しい船医の手の平に、学者は自分のそれを重ねた。 同士として? いえ、共犯者として。 もう、後戻りなんて出来ないのだから。


そうよ、無駄なんかではない。 
愚かではあるけれど、決して、無駄になんて、させない。





     つづく