sacrifice
   
        


          《四日目》


生きる為なら、何だってしたわ。 でも、
もうすぐ死ぬってわかってるのに、一体何をしたらいいの?



小さな揺れが手元に微妙な影を作り、頭重を伴う目の奥の痛みは、眉間を圧迫しても治まらなかった。 首・肩・背中は板を差し込まれたように強張り、凝りからの吐き気に航海士はきつく目を閉じる。 握り締めたペン先が震え、ポタンと落ちる歪な雫が、在りもしない島を白紙の海域に示した。

―― しっかりなさいよ、だらしない。 ――

何故かこのところ、強く優しかったあの人のことを思い出す。 姉と二人、走り回り転げ回り笑い合った、あの頃のことを思い出す。 

―― 贅沢なんて、したことなかったわ。 だけど、キッチンのテーブルの下、こっそりつまみ食いするパンケーキの美味しさったら!! ――

濃緑の葉陰、お日様色に実る果実は甘く潔い香り。 叱られて泣いたのも、悪戯を考えたのも、夢みたいな未来について日が暮れるまで語り合ったのも、みんな、あの、蜜柑の木の下で、あの人がご飯だよと笑って手を振るまで、ずっと、いつも、ずっと、 

―― だって当たり前よ。 夜になってベッドに入ったら、必ず、次目覚めるのは明日なんですもの、明日が来ないかも知れないなんて、そんなこと、そんな馬鹿なこと、想像したことすらなかったわ。 ――

書いては消し、書き損じては丸めた悪足掻きの痕跡。 今も死病は、ココにソコに大気に漂い続け、ここが何処かもわからないままに、ただ留まる事を強いられる。 そして、船は動かない。 一向に出ない答えに焦れ、八方塞の現実に航海士はゾッとした。 出口は、無い? 冗談じゃない。

―― 冗談じゃない、今までだって辛い事は山ほどあったじゃないの? えぇ、そうよ、辛くて苦しくて、もう死んじゃいたいって思ったことなんか、幾度も幾度も、数え切れないくらいあったわよ。 でも、それは、自分で選ぶ死でしょ? あたしが決める死なのでしょう? あぁ、じゃあ、そんなの怖くも何とも無いわ。 もしものお楽しみの、楽になる為の死なんてそんなもの、逃げ道の無いソレに比べたら、ご褒美みたいなもんじゃあない?! ―― 

気を抜いた途端、視界がぼんやりと霞み、慌てて数回頭を振る。 首筋がジリジリした。 のぼせに似た火照りが、生え際に薄っすら汗を滲ませ、散漫な思考を更に掻き混ぜる。 斜め横に並んだ机には、小山のような書籍の束。 丹念に的確にそして機械的にそれらを処理するのは、崩れの無い静穏な美貌の学者。 強い人だなと、航海士は思う。 支えも見返りも求めず目的だけを追う生き方は、理想ではあるけれど、自分には耐えられそうに無い。 

―― そうね、あたしには無理。 あたしはあそこまで強くなれないし、えぇ、あの頃、みんなのために戦って来た時なら別だけど、でも今、自分の目的の為にそこまでは、だって、あたしの目的ってそんな…… あたし、何の為に生きてるのかしらね?…… ――

      イミノナイジンセイ。 

そう口の中で呟けば、あまりの残酷な響きに涙が出そうになる。 あの頃、敵を討とうと必死だった。 みんなを守ろうと必死だった。 だけども、それも達成され、ようやく今、自分のため、自分自身の夢へと進んでいるというのに、心の何処かにある喪失感は拭えずに居る。 自分は必要とされていないのではと、時折足元が崩れるような感覚に襲われる。 

      イミノナイジンセイ 

―― 違うわ! あたしは航海士として、少なくともこの船にに必要な人間だとは思っている、あたしは役に立っている、あたしはこの船の役に立っている、だから、無駄じゃない、意味はある、あたしの存在は無意味なんかじゃない、そんな訳ない、でも、だけど、だからお願い、助けて、ねぇどうして風が吹かないの? ねぇどうして? お願い、ココから助けて、ココから船を動かして! 誰も死なせたくないの、夢はまだ続いているの、ねぇ、お願い、ココはどこ? ココから先はあるの? ねぇ、助けて、あたしたちを助けて、あたしたちをココから助けて、あたしたちを無駄に終わらせないで、あたしたちのこれからは無駄なんかじゃないって、


『……?!』

崩れるように、航海士の身体が床に沈んで行く。 オレンジの髪が、落下の残像を残す。 抱き起こそうと背部に手を差し入れた学者は、その尋常でない熱感に息を呑む。 捲り上げた服の下、白く滑らかな肌を覆う禍々しい深紅の痣。 

『 ナミ? ナミッ!?』

呼びかける声にも、カクンと首を落とし、航海士の瞼は閉じたまま。 と、微かな唇の動きに気付く学者は、小さな頭蓋を抱え聴き取らんと耳を近づける。 それは、懇願するような、所在無い子供のような囁き。


―― ベルメールさん……

強く優しいその人を呼ぶ、幼子の囁き。 

学者は、支える指先に力をこめた。 母を求め泣き寝入る幼い子供は、抱きしめてやらねばならない。 涙が止まるまで、眠りに就くまで、淡く優しい夢に包まれるまで。 


死は、三人目を捕獲した。



『で、あと二日なんだな、そいつが無効になんのは。』

スープ皿をパンで拭い、船長が斜向かいの船医に問う。 船医の皿は、一向に減らない。 今しがたまで、船医は航海士の診察に当たっていた。 痣は瞬く間に航海士の体幹四肢を埋め尽くし、熱気に荒い息を吐く唇は、何故か小さなうわごとを紡ぐ。 ここで出来る事など、高々知れていた。 船医は己の無力に、容赦無い死の勢いに、激しい焦燥と罪悪感を抱く。 


『後、二日だと思うんだ、でも確かじゃない、仮説を元にした単なる予測に過ぎないのだけど。 花粉の効力は十日で、嵐に出遭ってから今日で八日だから、だから後二日、長くてもそのくらいで花粉は不活化するんじゃないかと思う。 そしたら残りの数日線虫が残っていても人体には進入出来ない。 つまり、死に至ることは無い。 ただ、でも、防ぎようが無いんだ。 この船の中完全な隔離なんて出来ないし、罹ってしまったものを治療する事も出来ない。』

『ナミは、相当やばいのか?』

『わからない、全身に熱を持っていて、心肺が弱って来ている。だけど、普通なら対症的に何とか出来るレベルなんだ。 でも、今回みたいのはオレ、わからない。 痣がどこまで広がるのか、内側での損傷がどの程度進むのか、今すぐに危ないのか或いはゾロみたいに持ち堪えるものなのか……』


その、名称に、厨房に立つ背がビクリと引き攣る。 なべの中、粥状の煮込みがぐつぐつと小さな泡を立てていた。 優しい味付けのそれを、人肌に冷まし、コックはもうすぐあの男の待つ武器庫へと向かう。 男の世話は、全てコックが引き受けていた。 男の様子は変わらずと言うが、コックの憔悴は目に見えて、猫背気味の背に浮き出る肩甲骨は痛々しく羽根のように突き出る。 


『サンジ、ゾロは大丈夫なのか? まだ怒ってるか? サンジにみんな任せきりで、オレ……』

『……奴のこたァ気にすんな、チョッパー。 アレはそう簡単にゃクタバラねぇよ。 だから、ナミさんを頼む。 ナミさんはウソップのアレを見ているぶん、不安でつれぇに違いねぇから、な。』


ゴメン、ゴメン、と、船医は何度も小さく頭を下げた。 コックの壮絶なまでの疲弊が、気にならない訳では無いが、船医自身に余裕はなかった。 テーブルに空席は四脚。 内一つ、かつて陽気な狙撃手が荒唐無稽な法螺話に場を湧かしたそこに、無造作に置かれた麦藁帽子。 船長との対ではなく、単品で見るそれは、何故か、酷くみすぼらしく思えた。 その主は椅子に胡座を掻き、鍋の中身をしゃくる骨ばったコックの後姿を凝視する。 コックは、一度も船長と目を合わせない。 

湿った沈黙の向こう、背後から乾いた足音が急いた速度で近付き、軋むドアが冷気と共に開かれた。 心持ちやつれた学者が滑り込み、すとんと席につく。


『着替えは終わったわ。 うわ言は続いていて、こちらの問いかけには反応しない。 身体は火みたいよ、滝のような汗を掻いている。 でも、末梢は氷みたいに冷たい。 また暫くしたら、下着だけでも着替えさせないといけないわ。 痣は、あれ以上広がってはいなかった。』

深く息を吐く学者の前、湯気の立つ煮込みの皿がコツンと置かれた。 伸ばされた腕、袖捲くりの腕は静脈の蒼が絡みつき、驚くほど細い。 すいと離れようとする背に向かい、船長の問いは投げられる。


『ゾロも、そんな具合なのか?』


振り返らない、コックが答える。

『あ、あぁ、そうだな、奴も汗ばっか掻いてるな、あぁ、』

『で、まだ怒ってんだろ? なら、怒る気力はあるって事か? あと、メシ喰う体力はまだ有るって事か? なぁ、』

『あ……まぁ、多少はアレだが、元が筋肉馬鹿だから無駄に体力はあるんだろ? なに、馬鹿の扱いにゃ馴れっこだ、な、任せとけよ、な?』

言葉を濁し、踵を返す所作はぎこちなく。 瞳に浮かぶ微妙な色を、船長は見逃さない。


『サンジ!』

『……?』

『俺ら、仲間だよな?』

問い掛けるのは、深く、真っ直ぐな目。 見透かすような、曇りのない眼。


『……ッたりめぇじゃねぇか ……じゃ、オレ、これ運んでくるわ、わりぃけどロビンちゃん、喰ったらそのまんま置いといてくれよ、後でまとめて片すから、じゃ、』

こじんまりとしたランチボックスを手に、コックが足早に食堂を後にする。 あの男が待つ武器庫へと、やつれたコックが慌しく、浮かされた目で部屋を出る。 じゃ、オレもちょっと と、船医は航海士の元へと席を立つ。 残された二人。 言葉は交わさず。 

船長は、二人の出て行ったドアをじっと見つめたままだった。 
そして、それらを見つめる学者は、胸の内で呟く。

 ―― なんて厄介な独占欲! ――

けれどそれも、生きていればこそ。
生への執着あればこその、ささやかで厄介な欲望。
あなたにそれは、多分、わからないんでしょうね。

麦藁を脱いだ男は、相変わらずの読めぬ表情で目を伏せた。 
二人の間を満たすのは、虚しいだけの単調な波音。



風の無い海、灰色の海。


冷えた空気が刃のように、薄いコックの肌を刺す。 瞬く間に体温は奪われて、指先は青黒く、痺れのように感覚を麻痺させた。

―― あんだよ、それで勝ったつもりかよ、そうは行くか、てめぇらの思うようには行かせねぇよ、鼻の野郎はてめぇら笑わす為に生きてきたんじゃねぇんだよ、まだまだやつぁ故郷に残したカワイコちゃんだの、素敵な明日だのがドカッとあった筈なんだよ、

ギシギシとミゾレ状に半分凍った甲板が、急ぎ足の靴底を捕らえる。 抱え込んだランチボックスの中、カチャカチャ触れ合う食器が鈍い曇天に不似合いな音を立てた。 客室の屋根の上、黒い茂みはあの、航海士の蜜柑園。 

あれは、いつだったろう。 

うららかで穏やかな航海の一場面。 お茶の時間を知らせる為、コックはその小さなオアシスを訪ねる。 娘はその頃、手負いの獣のようにピリピリしていた。 聡明で傷つきやすい、瞳に寂しさを宿す娘。 しかしそれを悟られまいと、気丈に振舞う娘は、そこで眠っていた。 

濃緑の葉陰、白い花の下、額に薄っすらと汗を掻き、無防備な笑みを浮かべ娘は眠っていたのだ。 娘の傍らには麦藁の男。 読めない表情で飄々と、娘の傍ら幹に凭れ長座する男は、眠る娘にちょうど良い日陰を作る。 蜜柑の花は仄かに香り、海は蒼く、そらは青く、緑陰に染まる二人は清冽で美しく、

―― 俺ァ、胸ん中ギュッとしたよ、おい、わかんねぇだろう? てめぇらなんかに、わかんねぇだろう? ああやって、あんなふうに、眠れるようになるってのがナミさんにとってどんな事か、そんでもってそう言うのを、あのルフィーが叶えてやったッてのが、ドンだけスゲェ事なんか、なぁ、奪うばっかのてめぇらには一つもソリャ、わかんねぇんだよ、

向かう先、ほつれたままのマスト、修繕が追いつかない雑多としたガラクタが積み上げられた船尾。 小さな扉の前に放置された、持ち主を失った緑の工具箱。 その小さな扉の向こう、男はコックを待っている。 息詰まる執着をお互いに絡め、憎悪と葛藤とそれ以上の何かを持て余し、立ち尽くす皮肉な結末がこの有様では。 

―― そうはイカねぇんだよ、

ゴン、とコックの足が錆びたドアを蹴り、開かれたドアの奥。 寝台の上に仰臥するヒトガタが一つ。 鈍い陽光を受け、塑像のような陰影を横顔に刻み、ソレはソコで待っていた。

『メシだよ…… 』

冷えた空気に掠れた声は吸い込まれ、力無い笑みはコックの口元に。

『 メシだよ、ゾロ、   起きろ、ゾロ、 』

―― コイツはな、てめぇらには渡さねぇ……



寝顔は嘘を吐けない。

いつだったか聞いた事があるのは、あの兄が言ってた事なのか、いやあの男はそんなロマンティックな事言わないだろう、でも、確かに聞いたのだ、しかし、誰がそれを言ったのか。 


『ナミ、』

眠る顔は正直だ、寝顔だけは嘘を吐けないホントの顔なのだと、誰かが確かに言った。 ならば、なんて心細い顔だろう、なんて人寂しい顔なんだろうと、あの時思ったのだ。 だから、一層惹かれたのだ、そしてずっと傍に居なければと思ったのだ、それは今も変わらない、寧ろ日を追う毎に強くなる。 弱みを見せないきつい言葉は、脆い本当を隠す為に。


『ナミ、』

―― あら、知った風な事言わないでよ! ―― だな、俺、おまえの事まだあんま知らねぇし、  ―― 知らなくってイイでしょ? 別にあたしの事なんか ―― ナンデ? 俺知りてぇよ、ナミの事  ―― ふうん、で、知ってどうすんのよ、ねぇ、 ―― ンン〜〜〜、わかんねぇ、でもさ、俺ら、仲間じゃん、仲間が辛そうなのヤじゃん、  ―― 仲間? ――   

 そう言って、泣きそうな顔をした。


『ナミ!』

―― 馬鹿みたい、アンタおめでたいわねぇ! ―― あはは、それはナミが賢過ぎるんだよ、うん、でも、ナミ、おまえなんか辛そうだぞ?  ―― 辛くなんてないわよ…… ―― そうか?  ―― 余計な事言わないでよ、あたしは辛くなんてないわ! ―― お、おう、だったらイイじゃん、だな、そんならイインだ、イインだけど、ナミ、なんで、おまえ泣きそうなんだ?


『ナミ!』

―― あんたにはわかんないわよ、あんたみたいに躊躇なく夢に向かえる馬鹿、そうは居ないもの ―― うん、わかんねぇ、わかんねぇけど、  ―― でしょ? ルフィ―、あんたは誰かの為に夢を諦めるなんて事、考えられないでしょ? ―― ……てかよ、ナンデそいつと一緒に夢叶えらんねぇの? なんで諦めねぇとナンねぇの? 俺らみたく、一緒に叶えりゃいいのになぁ…… 


『ナミ、起きろ、目ぇ開けろナミ、ナミ、おまえは俺と夢叶えるって言ったじゃんか、おまえチカラ貸してやるって言ったじゃんか、ナミ、起きろ! もう諦めるこたぁ一つもねぇんだろ? ナミ! ナミ?』

枕元に二つ割りの蜜柑。 半ば凍ったソレを、うなされる枕元に、お守りのようにさっき、置いた。 航海士が夢に見る、懐かしい想い出の欠片を集め、せめて少し楽になるようにと、さっき、そこに置いた。 

瞼が、ぴくりと震える。 

薄く開く目が、覗き込む船長を捕らえる。 唇が微かに動き、何かを伝えようと瞳が訴える。


『なんだ? ナミ、 ナミ?』

『……意味、あるよね、 』

『ン?……』

『……あたし、ここに居る意味、あるよね?……』

『き、決まってんだろ? おまえ、航海士だろ? 仲間だろ? ナミだろ? 意味あるじゃねぇか、意味ばっかじゃねぇか!』

『……』

綻ぶように笑ったのは、安堵だったのだろうか。 

一度、二度、目を閉じた航海士の胸が、大きく呼気を吐き出した。
 そして、吐き切る深い溜息と共に、何かも、その身体より離れる。



『チョッパー!! ロビン!!』


船長が隣室に叫ぶ。 どうした? と、顔を出した船医は、船長の腕の中だらりと四肢を投げ出す航海士に、表情を強張らせる。 

『チョッパー、今、ナミが死んだ。 だから、もう、今しかない。 この船を出る。 どこまで行けるかわからないが、とにかくここを離れるんだ。 だから、サンジを呼んで来てくれ。』

『で、でも、ルフィ−』

『急げ、チョッパー! サンジは武器庫に居る。』

『だって、ゾロが、まだゾロが、』

『聞け、チョッパー。 ……ゾロは、もう居ない。』

息を呑む船医に、船長は言葉を投げる。


『ゾロは、もう居ない。 サンジのランチボックスの中は昨日の晩から空っぽだ。 だから今、出発するしかない。 次の病人が出る前に、俺らはココを離れる。 こっから離れて、サンジの奴をこっちに戻さねぇとなんねぇ。 チョッパー、ゾロは、とっくにもう、死んでいる。 』



ゾロは、とっくにもう、死んでいる。






     つづく