sacrifice
   
        


          《三日目》


それは、躊躇うように緩く旋回し、
そして、あっけないほどの速度で、波間に沈んだ。

過程を見ない死は現実感すら伴わず、一同呆然と、ただ海原を、沈むその辺りを凝視する。 
上質な絹のリネンに包まれて、狙撃手はあっけない生涯を閉じた。 
残された者は、まだ続く、不安な生を持て余す。



『……つまり、隔離ってわけか?……』

滲むのは自嘲と憎悪。 
発せられた苦しい言葉は、真っ直ぐ、コックへと向かう。 鈍く光る海、風はまだ吹かず。 身を切る寒さは『失うこと』を執拗に示し、生者はそこに立ち尽くす。 たった今、狙撃手のささやかな水葬を終えたばかりなのだ。 たった今、まだ呆然と日常は遠かったのだ。 その沈黙を破り、コックは剣士に武器倉庫での生活を命じる。 


『つまりもクソもねぇだろ? 長ッパナがこんなんなって、悠長なこたァ言ってらんねぇんだよ。 その痣、見ろよ。 得体の知れねぇ病気を、テメェなんざに振りまかれたら、ミンナ大迷惑なんだよ、わかんねぇかな、剣豪さんよォ、』

『ちょ、ちょっと待って、そんな言いかたって、』

『あぁ、イインですよナミさん、筋肉馬鹿には物事ハッキリ言っとかなきゃナンねぇし。 なぁ、マリモ、てめぇにクソ狭めぇ船ン中ウロチョロされて、みんなで御病気、トモダオレルわきゃイカねぇんだよ。 なァに、武器庫は静かでイイぜ? 具合のイイ病室に改造してやるから、てめぇは安心して篭ってりゃイイ。』


コックは歪んだ笑みを浮かべ、ゆっくり煙草に火を灯す。 
剣士の咽喉奥、言葉にならぬ唸りが、低く掠れて漏れた。

挑むような視線が二つ、身喰いするように絡み合う。 それは、二人の日常では別段目新しい光景ではない。 しかし今、間髪置かず振り下ろされるべき剣士の剣は鞘に収まったまま、柄を握る指はだらりと下がる腕の先。 そして、蹴り上げるべくコックの足は地に張り付き動かず、張り詰めた空気だけが日常ならず剣呑さを孕む。 

先に目を反らしたのは剣士だった。 くるりと背を向け、向かう先は客室ではない。


『おいおい、今から武器庫か? 気のはえぇマリモだな! 待てよコラ、なら今、片すから、短気起こすんじゃねぇよ、』

人を喰った言葉とは裏腹、追いかけるコックの指は白く強張るほど握られ、また、伸ばされた。 踏み出す一歩が微かに震え、フィルターをはむ唇に血の気は無い。 小さな船医は、後味の悪いやりとりに怯え、舌が縺れ、言葉すら出なかった。 生き残る側はシビアね、と、学者は呟く。 黙する船長に矛先を向けたのは、憤る航海士だった。


『どおいう事よッ?! あれじゃ、あれじゃゾロがあんまりじゃない? サンジ君の言ってる事は正論かも知れないけど、あたしたち仲間でしょ? それを何?! 隔離だなんて、よりによって、あんな外れの武器庫だなんて!! あんたはあれに賛成なの!?』

『ゾロは、武器庫に行くンが良いと思う。 サンジは間違っちゃいねぇよ……隔離すんのは、ゾロが仲間だから、だろ?』

『?!』

『ゾロは隔離される。 俺たちもゾロから隔離される。 だから、この先俺らの誰かが発病しても、死んでも、それはゾロのせいじゃない。 ナミ、ゾロはウソップの最期を見ちゃいねぇだろ? 先に逝った奴がああなるのを、ゾロはまだ知らねぇ。 武器庫に居る限り、ゾロが次の発病者を見る事は無い。 だから、サンジは間違っちゃいねぇ。』


航海士の両手が、ビクリと己を抱きしめる。
自分があんなふうになるのは、恐ろしかった。
仲間があんなふうになるのを見るのは、もっと恐ろしい。


それは、不可思議な死体だった。


まるで念入りに刺青でも施されたような狙撃手の身体は、事切れても尚、ほかほかと暖かだった。 そして、航海士が差し出した上質のリネンにそっと包むその時、異変は起こる。 全身の痣がスウゥッと消え、と同時に暖かだった体温も急速に低下した。 亡骸は、支え、保持するコックと船長の手からクニャリと擦り抜け、まるで狙撃手の外観を持つ水袋のように、歪な水溜りのように寝台の上に広がった。 組織のゲル化? 船医が小さく叫ぶ。 

嵐が運んで来た諸々は皆、尋常ではない異変を伴っていた。 それらは一見、損傷の無い外観を持ちいわゆる凍死を疑わせたのだが、しかし、凍りついたそれらは室温で溶けてグンニャリ作業台の上、ゲル状に広がった。 狙撃手の有様は、まさにソレであった。 


『昨日、みんなを調べたけど、確かに、昨日の時点でウソップにその兆候はなかったんだ。 でも、一晩でウソップはあぁなってしまった。 進行速度には個体差が有るんだと思う、だから……だから、ゾロより先に誰かが死ぬ事は大いにある。 ごめん、オレ、オレ、何も出来なくって……』


船医の嗚咽が小さく低く、波音に重なった。 立ち去る事すら出来ぬ海原で、不確かな生を繋ぐ現実に、皆、まだ答えを出せずに居た。 答えの出ぬままに、しかし、生はまだ、続く。


一人が欠け、一人が姿を消した船内は、何事も無く、不自然なほどに日常。


船医は医務室に篭り、採取した組織、血液の分析に追われる。 学者と航海士は手分けをして文献を漁り、船長は狙撃手の仕事を引継ぎ、船体細部の修繕を急ぐ。 そして、コックは叫びたくなる焦燥の中、切っ先に立つが如くに、危うくかろうじて日常を保っていた。 

あれが、死ぬ、あれが、ああいう風に死ぬ、あれが、死ぬ、あれが、ああいう風に、死ぬ……何故? どうして? いや、何も別の誰かがとか言うんじゃない、そう言うんじゃないが何故ゾロなのだ? なぜ、ゾロでなくてはいけないんだ? あれが、あの男が、ああいう風にドロドロと、よりによっての醜悪な死を、何でゾロが引き受けねばならないんだろう?

もとよりたいした物も置いていない武器庫だった。 ただ眠るだけの病室なら、改装はそう難しい物ではない。 問題はこの寒さだが、床と壁には断熱材を貼り付けた。 更に床にはその上に、毛足の長い織物を敷き詰めた。 あれなら転がっても、例え手を着く事が出来なくとも、たいした怪我にはなるまい。 もっとも、転がれるほどに歩けるのはいつまでなのか。 もしや、今この瞬間にさえ、アレが、あんな、あんな風に、



『ハッ、最期はてめぇに飼われて死ぬか?!』

『厭か? たいした色男ぶりじゃねぇか、なぁ、ははッ! ヤンならいつでも相手すンぜ、手加減出来るか自信はねぇがな、 』


蹴り飛ばされた椅子を避け、後ろ手にドアを閉めた。 それしきによろける姿を見たくは無かった。 もしくは、バランスを崩す腕を引き寄せ、コロス、と動いたあの唇にいっそ、噛み付いてやれば良かった。 射るようなあの目に縋り、死なないでくれと泣けば良かったのだ。 訳のわからねぇナンカに蝕まれるあいつの身体を、俺が喰らってやればいっそ、どんなにか、どんなにか、どんなにか……。 


なぁ、オレはどうしたらいい?

薄く開いた狙撃手の口腔内が、熟れたイチゴのように爛れていたのを思い出す。 ならば、食事は刺激の少ないものが良い。 人肌に暖めた、消化に良いものを作ろう。 

食事? 船は、いつまでココに留まる?

あぁ、貯蔵庫の生鮮物は殆ど底をついちまったよ、後は保存食や乾物の類ばかりじゃねぇか? 切り詰めに詰めて、10日、それ以上はもう、どうにもこうにもなんねぇよ。 飢えるのか? 俺達が、俺の仲間が飢えるのか? 冗談じゃねぇ、そんなんアッチャなんねぇだろ? なぁゾロ、ゾロ、俺ァ、どうしたらいい? なぁゾロ、てめぇ死ぬ気満々になってる場合じゃねぇよ、俺は、俺は、


コックが、密かに海に潜るようになったのはその日からだった。 

凍りつく水を掻き、素潜りでぎりぎりまで。 せいぜい50センチほどの角カジキを数匹仕留め、心臓がぎゅっとして気が遠くなるその時まで、コックは幾度も凍る海に潜った。 なに、そんな苦しさはたいした事ではない。 皆で飢える事を思えば。 武器庫の中、自分を恨み己を憎悪する荒む男の事を想えば。


なぁ、オレはどうしたらいい?




『……ね、コレとコレ、それぞれ関連は無いんだけど、似てると思わない?』

学者は、航海士が示す二つの文献に目を落とす。 一つは高山に生息する昆虫の図解、もう一つは熱帯植物の花粉熱についての古い資料。 


『コレ、針先線虫 … ほとんど目に見えないほどの線虫で、生後間もない山鼠の子供に寄生して産卵するんですって、〈寄生された仔鼠は組織を溶かされ餌となる〉 で、こっちね、焔杉花粉 … コレが皮膚に接触して被れると、ほら、この絵みたいに痣状のケロイドが出来てそれはリンパに沿って広がる。 名前の通り、火傷に似た症状らしいの。 ゾロの、ウソップのソレにそっくりでしょ?』

『でも本来、こっちは氷点下に住む昆虫で、焔杉は熱帯の植物。 線虫の産卵は皮膚が柔らかな仔鼠にしか寄生出来ない筈だし、でもそう、こんな氷点下、ケロイドを来した皮膚からなら容易に進入出来る、でも、二つが重なるなんて本来在り得ない。 あの、嵐?』

『わからない、わからないけど、でも多分、あの嵐は関与していると思う。』

『……線虫の産卵期間は約二週間、空気中の焔杉花粉が活性化し続けるのが約十日。 嵐が続いたのが四日半で今日で二日経ったわ。 ならば、花粉の効力が無くなる後四日、五日乗り切れば何とかなる筈よね? 或いは、その前に船がこの場を動いてくれれば、』


風一つ無い海の上、見えないソレに怯える自分達はなんてちっぽけなのだろう……航海士は唇を噛み締める。 俯く航海士のオレンジの髪が、ランプに照らされ、それは久しく見ない陽光を思わせた。 学者はふと、場違いな感傷に浸る。 

ねぇ、四日もあれば、十分逃げられるのよ。
たかが四日、ここから離れるだけで、死はあなたから遠ざかる。
でも、あなたは彼らを見捨てないのね。 
船を置き、彼らを置き、ここから離れようとは思わないのね。 
あなた達はここに留まるって言うのね?

そして私自身、現にココに留まっている。 


『……ロビン?』

怪訝な航海士の言葉に、学者は自分が笑って居た事に気付いた。 


『ううん、なんでもないの、なんでもないのよ。』

なんでもないわ、ただどうかしていると思っただけよ。 


係わらない人生で、こんな風に巻き込まれるなんて、自分は全くどうかしていると思った。 全くどうかしている。 手に入れたいものも解明せねばならない謎も、まだまだ残されているというのに、こんな馴れ合いに身をおいて。 けれども、自分は、当たり前のように留まることを選んだ。 

何故? 

知りたかったからだ。 

彼らのこの先を知りたかった。 愛だの信頼だのそんなモノがどれほど尊いモノなのか、彼らを通して知りたかった。 そして、知った自分がどうなるのかを、何よりも知りたかった。


『やるだけ、やってみましょう……ね?』


航海士の不安げな瞳に、学者は微笑みかける。
そうね、やるだけやってみると良いわね。 何しろ死は、まだ私とあなたに気付いては居ない


生は、まだ続いている。



そして、まだ続く生を当たり前に受け止めて来た船長は、今、初めてそれに疑念を抱く。

夢ってのは、なんだろうな……? 

麦藁帽子を差し出した、あの男に聞いてみたかった。

俺の夢ってのは、なんだろう……。


生は、まだ続いていた。


夜の海にぽつんと浮かぶ船は、実に、彼らそのものであった。
不安げに、戸惑い、どこにも行けず、存在を示す、小さな道標。






     つづく