sacrifice
   
        


          《二日目》


風は、止まったままだった。

船の清掃は深夜までかかり、今朝は皆、眠たげな表情を隠せないでいた。 すべての漂着物を学者と航海士、そして船医が検分し、その後、残りのメンバーでそれらを海に落とす。 万が一を考えて、作業はマスクにゴム手袋の出で立ちで行われた。 下がり続ける気温は昼過ぎには氷点下を指し、皆の体温と体力を容赦なく奪う。 夕刻過ぎからは断続的に粉雪が舞い、難航する作業には流石の船長すら、言葉が少なくなった。 

水気を含んだ漂着物はたちまち凍り、甲板から引き剥がすのも容易ではない。 強張る指先は作業を停滞させ、つま先の感覚は皆とうに無くなっていた。 そうして、マストの補修に携わる狙撃手が二回目の小さな落下をしたその時、見兼ねた剣士が言う。

『おい、もう明日にしとこうぜ。 焦ったところで、船は全く動かねぇ。 このまま続けても余計な怪我の元だ。』

誰も、それに異論など無かった。 疲弊した仲間を気遣い、コックが在り物でリゾットを作る。 暖を取りつつ人心地ついたのは、深夜二時を回った頃。 船医と学者は採取した組織片を解析する為、再び作業場へと戻る。 他は、明日に続く作業を意識の向こうに押しやりつつ、泥のような眠りへと落ちていった。 落ち逝く先の朝はぽっかり空いた虚のようで、始まりというより、最果てに似ていた。 

風は、止まったままだった。



『ッ、・・・・・・』
『ナニやってんだよ、クソマリモッ! ピッとしろよ、寝惚けてんのかよ?』

薄気味悪い鳥のようなブヨブヨを、甲板から剥す途中であった。 剣士が愛刀で梃子のようにそれを剥し、コックが海へと蹴り飛ばす。 そんな流れで作業は着々進められていたのだが、剣士は度々、その手より剣を取り落とした。 それは、平常在り得ない事。 在り得ない剣士の有様に、罵声を飛ばすコックの目は微かな不安を滲ませる。


『・・・てめぇ、どっか悪いのか?』
『どって事ねぇよ。 チッ・・・・・・おら、とっとと蹴りやがれ!』


どうって事無い訳が無いだろうと、コックは思った。 
が剣士は背を向け、次の漂着物へと刀を振り上げる。 

―― 気の、せいだよな? ―― 

蹴り飛ばした先、海は鱗のように光り、ドボンと大きな水飛沫を一つあげ、そしてまた、静かな凪が何時までも何時までも。 剣士の肩越し、マストの修繕をする船長と狙撃手が見えた。 なにやら騒々しく、楽しげな作業。 平和じゃねぇか、いつもと変わんねぇ長閑な一日じゃねぇか? 

―― 気の、せいだよな? ―― 

二度目の問いは、コック自身の内で燻り、そのまま冷えて固まった。


風は、止まったままだった。 
そして、剣士の異変は気のせいでは無かった。



『?!、オ、オイッ!!?』

狙撃手が叫び、二倍近く伸ばした腕で船長が傾く大鍋を支える。 航海士が立ち上がり、学者と船医が剣士に駆け寄るのはほぼ同時。 厨房から、飛び出すコックは蒼褪める。


『ゾロッ、てめぇやっぱ、やっぱおかしいンじゃねぇかッ?!』

剣士は、端に回そうと掴んだ煮込みの大鍋を、取り落とした。 船長が片手で支えるソレを、あの剣士は取り落としたのだ。 幸い、鍋の中身の大半はテーブルと床にこぼれ、腹部に軽い火傷を負っただけだと、診察する船医は言った。


『うん、大丈夫だよ、ちょっと腕に跳ねただけで、他は被っていない。 いないけど、ね、ゾロ、ココ、痣があるけども、今ぶつけたのじゃないよね?』

捲り上げた剣士の腕、内側に猫の足跡に似た深紅の痣が一つ、二つ。 船医は奇妙な痣を注意深く観察する。 それは深紅の部分が良く見ると、透き通るような赤。 ちょうど薄皮一枚組織の上に膜を張ったような、そんな水気の多い不可思議な痣。


『……知らねぇよ。 今朝起きたら一つ出来てて、そんで昼前にもう一個出て来やがった。 ――の、せいかどうかわからねぇが、どうも腕に力が入らねぇ。』

『痛いとか痺れるとかアルか?』

『いや、そういうのはねぇし、熱っぽいッてか、アツイ? ・・・・・・いや、痣のせいかはわからねぇけど、んだよ、大袈裟にすんな。 昨日、無茶したんだろ? 単なる疲れだよ。 騒がして悪かったな……』


有耶無耶にその場を去ろうとする剣士に、コックは叫ぶ。


『・・・・・な訳ねぇだろッ?! 疲れ? 無茶? ハッハァ〜ッ! あれしきでテメェがバテる訳ねぇだろうよ、なぁ? チョッパー、そいつマジ、おかしいんだぜ、なぁ、よく見てやってくれよ、』

『うるせぇッッ!! テメェは黙ってろッ!』

『黙んねぇよ、生憎だなッ! アんだよ、ヤンのかよ? ケッ! じゃ、ちょうどイイ、その剣抜いて見ろよ剣豪さんよォ?! 出来んのか? やれよ? 出来んのかよッ? テメェさっきから一つもその手に力入ってねぇじゃねぇかよッッ!!』


と、コックは手にした水差しを剣士に投げつける。 決してぶつける投げ方ではなく、むしろ放り渡すようなそれは曲線を描き、そして、剣士の目前、受け手の無いまま落下した。 悲鳴のような破壊音は、不穏な静寂の始まり。 剣士の右手は、ぶらりと垂れ下がったまま、そう、下げていたのではなく、不本意にそうしていた戸惑いはその瞳に。 浮かぶ、らしからぬ困惑をコックの悲痛な視線が受け止め、波音だけの静寂に、一同は立ち尽くす。


その夜、剣士の両腕は完全にその機能を失った。 
小さな深紅の痣は両腕を埋め尽くし、徐々に、体躯へと広がりを見せる。 


風は、まだ、吹かない。
身動きしない船、固まったようなゼラチンの海。


しかし、運命だけは無情に動いて行く。


翌朝、狙撃手は朝食に現れなかった。
眠るように事切れていた狙撃手の身体は、深紅の痣に覆われていた。


風は、止まったままだった。





     つづく