・・・ まじ、ありえねぇよ・・・・



 キュッと前髪を引かれ、ぽかんと男の顔を見上げた。 
 口の中には先バシリの苦味。 
 半ば引きずり出された怒張は、お疲れ気味の舌の上で破裂寸前に脈打つ。 



 「しゃぶりながら笑うな。 微妙に凹む。」


 男が苦虫を潰したような顔で言う。 無意識に笑っていたらしい。 そりゃ失礼したが、俺に言わせれば長引くフェラは暇と持久力のコラボだ。 イカすという行為に達成感はあるものの、機械的な反復運動についついインナートリップしてしまうのも実はいつもの事。 悪いね・・・と謝罪の気持で先端を舐める。 目を細める男の顔を見ながら再びゆっくり奥まで頬張る。 

 最初はえずいたものだが、今じゃどうだ、少々乱暴な抜き差しにも対応可能な匠の技。 そこらの俄かAV娘よりかずっと、俺のテクの方が凄いぜ? と、誰にも言った事がない俺の特技。 ていうか誰に言うよ? 

 根元からシャフトを舌全体で擦るように抜く。 男の掌は俺の後ろ頭を包み、時折毛先に指を絡めて撫でる。 頭皮に心地良い刺激。 小さな子を誉めるような愛撫。 けれど俺を見つめる目は欲情に濡れる。 発情した肉食獣の目。 直に圧し掛かり、貪り食われるだろう予感が身震いする確信に変わるような視線。 狩られるという感覚が結構クル俺は、不本意ながらM寄りなのかも知れない。 因みに男は明らかなSだ。 SとMなら良いコンビ。 

  いや、実に巧いこといってる。 


 緩やかな抜き差しから徐々に緩急をつけ頬の内側を締める。 唾液が溢れるのも厭わず舌より熱いペニスを抜く。 セックスよりもなによりも、愛人なんだなぁと思うのはフェラしている時だ。 御奉仕・・・そんな言葉がピッタリの行為。 だけど、厭だと思った事はない。 上目で伺う男の、吐息を堪える唇。 大きく激しく振りたてる頭は、この辺で少しクラクラするが後一息だ。 ジュルジュルはしたない音を立てて俺は男のペニスをしゃぶる。 男の掌がベタベタの頬を撫でる。 俺は頬張ったまま目だけを上げる。 多分、そういう俺を見るのが男は好きだ。

 やがて男の指先が遊びを忘れ、僅かに寄せられた眉間の皺。 息を詰める男の、微かな緊張。 あぁ・・・と。 そのタイミングで吸い上げカリを甘噛みする。 間髪入れずに咽喉奥にぶちまけられた飛沫。 ドロリと熱いそれを飲み込まないように柔らかく全体を含み、先端を唇で軽く吸う。 

 イッた瞬間の男の顔が好きだ。 滴るような男の色気。 
 細めた目は俺だけを見つめ、堪えきれず洩らした男の溜息に、心底満たされているという安堵と喜びが広がる。 


   てか、それ、ありえねぇよ、俺・・・・・・。


 さすがに飲めない精液を、ティッシュにそっと出した。 両脇から差し込まれた腕は力強く俺を引張り上げ、噛み付くようなキス。 舌と舌を擦り合わせ、自分の味のする俺の口の中を男は丹念に執拗に探った。 そうして俺は、暇無しの快楽に自ら沈んだ。

 あの頃の俺なら想像もしなかった、ありえない快楽に黒谷と沈んだ。




          ***



 降って沸いたような愛人生活。 
 だが、俺が名実ともに愛人になったのは、男、黒谷と暮らして一年目の秋だった。


 「キリキリ気張って精進しろよ、愛人!」


 黒谷は見た目通りに、俺様で乱暴で勝手な男だった。 だが、人としての俺を捻じ曲げるような無理強いは、一度だってなかった。 唯一の例外はあの、全ての始まりの遣り取りだけだろう。 

 あのあと、トーストと目玉焼きを頬張る俺を満足げに眺めつつ、たんとお食べと黒谷は微笑んだ。 が、俺が三枚目のパンにローストトマトを乗せて齧り付くのを眺め、ひとこと。


 「お前、今の御時世、いい若いもんが栄養失調ギリギリってどうなんだ?」

 「・・・・だってお金無かったから」


ミルクをたっぷり入れたコーヒーでモサつくパンを飲み込みつつ、情けない正論を吐く俺。 けれど黒谷は俄かに湿った空気をフンと鼻で笑い、ずいと伸ばした親指で俺の口元のパン屑を掃うと、


 「サッサと太れよ。 骨っぽいのは萎える。」


 早速、御主人命令が下った。 絶対太るもんかと思った。 
 幼きヘンゼルとグレーテルの危機感を、世界一理解出来るのは俺に違いないと思った。


 そして黒谷の車で通学路線の私鉄駅まで行き、大学では気もそぞろに授業を受けた。 

 なんだかなんだかなァと、事態は余りに非現実的だが紛れもない事実なのは、無くしたら〆ると言われて渡されたポケットの中のカードキー。 なんだかなァ・・・・・・。 流されているんだよ、俺。 それがすこぶる非常識な方向へのアドベンチャークルーズだという事も、理屈では理解しているのだ。 

 だけど、不安はなかった。 

 何故だか不思議なくらい不安や恐怖、不幸な未来への予感は俺の中に存在しなかった。 さてどうする? という気持ちは黒谷という男との生活に対する己の具体的行動の迷いだけであり、実際は何とかなるだろうという根拠の無い安心感が一体、どこから沸いたのか植え付けられたのか。 


 有限実行の黒谷は三日で俺の引越しを終え、教習所に俺を放り込み、パジャマを乾燥機でサイズダウンさせた俺に舌打ちし、焦げない目玉焼きの作り方を青筋立てながら指導し、人殺しの目をして極甘の桃とバナナとパイナップル入りフルーツカレーを完食したあと 「二度とこれは作るな」 と言った。 


 正直、箱入り歴の長い俺は家事全般に無能だ。 太く短いワンルーム暮らしだったが、床に目立つゴミは落ちてないレベルで掃除をしてはいたものの、タオルと下着以外の洗濯はクリーニング屋にお任せ。 食事は母が送ってくれる 「身体に良い」 高級レトルトや、最寄りのデパ地下・コンビニ三昧。 台所に立つのは好きなコーヒーを入れる時オンリィ。 あのまま生活していたら世話好きの彼女でも捕まえない限り、立派なゴミ部屋になるのは時間の問題だったと思う。 

 片や黒谷は、ああ見えて几帳面な男だった。 部屋の掃除には業者が入ると言ってはいたが、これで金出すのは勿体無いと思うほどに、部屋は常々綺麗に整頓されていて。 触ったら殺すとまで言われた仕事部屋兼書斎に関しても、物の数こそ多いが充分整理が行き届いて、俺なんざ下手にコリャ触れないやと思う域。 そして料理。 何は無くとも料理。 たまに作る黒谷の方が百倍は美味い、早い、綺麗。 それに引き換えこの俺。 ネットでレシピを検索し、どうにか一つ二つ仕上げるものの、出来上がりは見た目も中身も謎料理。 作った本人が躊躇するそれを、黒谷は

 「この流動体はなんだ?」  「シチュー」  「このサラダん中の黒い捩れたのなんだ?」 
 「ワカメ・・・・かな?」   「作った奴が かな 言うなッ!」 

 物凄く厭そうに全部食べた。 


 いっそもう 「飯は俺が作る」 言ってくれないかと暫く期待はしてみたが、そのひとことを黒谷が言う事はなく、いつしか俺も微妙にまともな料理が作れるようになり、同居も一年を迎えていた。 いやはや継続は力なり。 朝起きてパパンと洗濯出来るのも、合間に朝飯を作れるのも、冷蔵庫の余りものを上手に夕食に活用して、煙草買って来いと黒谷のベンツでコンビニまでパシるのも、みんな俺の努力と黒谷の忍耐の賜物だった。 

 と、ここまでだとまるで家政婦な俺。
 スパルタ式花婿修行、汗と涙、一年のヒストリィ。 


 けれど俺の肩書きは愛人だった。 何故なら俺と黒谷はチュウをする関係だから。 
 厳密に言うとそれは、ご主人様に手を出され掛かっている家政婦な俺状態だった。
 ガッツリ手を出されているとも言い切れない、その辺りが微妙といえば微妙。

 けれど、チュウ。 さりとてチュウ。 


 朝起きてチュウ、行ってらっしゃいでチュウ、お帰りなさいで、おやすみで、その他抜き打ちで隙あらば 俺ら新婚さんかよ? な感じでチュウ。 黒谷はキスが好きと見た。 触れるだけのから、ねっとり絡みつく大人仕様の本気チュウまで、頼んでないけど惜しみなくテクニックを披露してくれる黒谷。 そしてその度にグルグル、発情の渦に巻き込まれ翻弄される俺。 


 自慢では無いが、高一でカテキョの女子大生に童貞切られて以来、事故で親が死ぬまで彼女の切れた事のない俺だった。 地味でブスばかりだと思ったT大ですら、入学早々サークル勧誘をしていた滝川クリステル似のハーフらしき三年生に 「暇な日教えて」 と携番貰ってしまった俺だから、人生初の彼女ナイ歴半年はイコール彼氏アリ歴半年。 不本意だが黒谷一色。 そこもってきて習わせ好きの黒谷による、やれ教習所、死ぬ気で取れ英検一級、あとは気合だのドイツ語、簿記、秘書検定そして


 「ユーロ/円 前日比」

 「プラス1.17」

 「三島製紙」

 「プラス27.17」


 毎日三種類届けられる経済新聞を、黒谷は毎日読めと俺に命じた。
 そしてちゃんと読んで覚えたかどうかを、こうして抜き打ちで確認する。 

 当然、質問を出す黒谷は全てを熟知している。 宅配の三種のほかに、オフィスに届けられる新聞雑誌は5〜6種類あるという。 かの如く、自ら実践の黒谷だから間違ったりしたら大事だ。 突発、怒涛の経済講座を講師黒谷で朝まで受ける羽目になり、あれはキツイ。 キツかった。 同居したての頃に、二度ばかり受けてもう勘弁とホトホトに懲りたので、今は舐めるように新聞を読む。 慣れれば連続ドラマのようで楽しくないとも言えない。

 つまり朝から晩まで遣る事だらけだった。 暢気に合コンにすら行けない多忙振り。 せっかく入ったサークルもゴースト部員化して久しい。 けれど不満に思った事は無い。 俺は筋金入りの勉強好きなのだ。 あまつさえ挑発的な黒谷の学習指令に、見てろよコノヤロとばかりに嬉々として乗っているマゾっ気ありの努力家なのだ。 

 それに、どうなんだろう? 俺自身、黒谷に養われている身だ。 それに関しては正直、さほど負い目も感じていないのだが、だけども黒谷の金でデートしたりホテルに行ったりするのは、人としてどうかなと思った。 特別、享楽に耽るとかでもないけれど、何かそういうのは厭だなと思う。

 結果、女ッ気ナシ、男ッ気ばかりの一年。 そこ持って来てチュウ攻撃。 

 グルグル翻弄され、昂ぶるままに放り出される身は辛い。 

 いや、だからと云って積極的にナニが何だという、未知の性に対する意欲的なフロンティア精神はない。 多分ない。 けれど男に勃たされて、こっそり抜くのは結構しょっぱい。 ましてや抜ける瞬間のオカズが、チュウしてる黒谷だったときなんかもう。 全力で駅前に走り、電話ボックスのピンクチラシを我武者羅に千切って、 ブスでもババァでもいいから今すぐショートで!! 怪しげなデリヘルに電話を掛けたい衝動に駆られた。

 不安だったから。 

 俺は不安だったのだ。 異性への興味がとことん激減しているこの俺が、果たして今更、ちゃんと女で勃つのかという事が。


 駄目だ。 このままじゃ俺は駄目だ。
 何より、そんな黒谷とのアレコレが全く嫌じゃぁない、寧ろ好ましくも・・・・・・ というのが尤も駄目な証だ。 



 そんな風に、己のセクシャリティについて思い悩む秋だった。
 俺の秋は、生臭い悩みで一杯だった。

 だけど、ウジウジグルグルする俺にお構いなし、黒谷は無差別チュウ攻撃を仕掛ける。 頬に、唇に、首筋に触れ、生え際から逆撫でして滑る優しい長い指。 角度を変え、深く浅く、何度も重ね合い味わう黒谷の舌と唇の味も、とっくに俺は覚えてしまっていた。 

 少々潔癖の気がある俺は、性的に淡白だと思っている。 互いの唾液を交換し合うような淫らなキスなんて、付き合っていた彼女とだってした事が無かった。 糸を引くようなキスですら 「寒い・・・・」 と心で思った俺だ。 

 自分のキスが下手だと思った事は無いが、黒谷のそれと比べたら実に、少女漫画な可愛いキスだったのだと思う。 これまで経験の無い、奪われる立場で施される荒々しいキス。 獣が本脳で求めるような貪り尽くすキス。 その癖、快楽を引き出すのは繊細で柔らかな舌で、身体の奥に隠れてた官能を易々と誘うから、なんてずるい大人なんだろうと思う。 大人の男のキス。 この先に続くであろう、濃厚なセックスの匂いをさせるキス。 



 そして今日も、こうして黒谷と舌を絡める。 

 毎日何度も数え切れないほど交わしているにも拘わらず、黒谷のキスは気が抜けない。 歯列も、その裏も、唇も。 頬に、額に、瞼に、首筋に――― そこから下は未知領域だが、触れられた瞬間の緊張、安堵、ざわめく快楽への震え。 目玉を舐められた時と耳の中に舌を入れられた時は、軽くカルチャーショックを受けた。 それを快感として感じている自分が怖かった。 

 けれどまた、キスをする。 

 大きな身体を折り曲げて、ベッドに片膝を乗せ、半ば圧し掛かるようにキスをする黒谷。 上向きに引寄せられた俺は、ほぼ真上からのキスに息を上げ、項を支える掌の熱を感じ、暴れまわる濡れた熱い舌に翻弄されてぎゅっと目を閉じる。 頬を擽る、湯上りらしい黒谷の少し湿った毛先。 クチュッと名残を残して鎖骨に、跡を残した黒谷の濡れた唇がゆっくり離れるのを眺める。 胸が詰まりそうなのは、乱れる息を無理に整えようとしているから。


 「・・・・・・ おやすみ。 先に寝てろよ?」


 もう一度こめかみに唇を押し付け、黒谷が寝室を出て行く。
 欲情した身体を持て余し、でかいベッドに取残される俺。

 やがてパタンと仕事部屋のドアの閉まる音が聞こえる。

 あぁ・・・・・・。

 空気の抜けた頭で、遣り切れない身体に触れる。
 いつも、こうして一人で抜く俺。

 なんだかなぁ。

 俺ばっかり。

 なんだかなぁ。 


 黒谷は平気なんだろうか?
 俺とあんなキスしといて、平気なんだろうか? 



 尤も黒谷は俺みたいに右手専門じゃない。

 たまに・・・・・・ 一ヶ月に一度か二度、黒谷は余所の匂いをつけて帰ってくる。 あからさまな香水とかではない、薄っすらとした甘い香り。 密着するからこそ移る残り香のような、或いは家のとは違うボディソープやシャンプーのそれだったりとか。

 普通にしてたら気付かない、ささやかな黒谷の異変。 
 だけど、俺はちゃんと気付く。

 そりゃ気付くだろう、こうして俺自身ピッタリへばり付いて、皮膚を粘膜を摺り寄せて感じているんだから。 だから、気付いてしまうんだ。 あぁ、女抱いたんだ。 余所でヤッたんだ。 仕事以外は俺と過ごしている黒谷のこと、彼女というほど構っている様子も無いが、言うなればセフレ? 黒谷には女が居る。 ヤルだけにせよ、そうした相手が居るんだな、と。 

 ま、だからナンダという話だ。 居るだろう、女くらい。 


 アレであんなだが、世間一般の基準から行って黒谷は特上の部類だ。 寿司屋でいうところの時価、値段の無い大トロ級の男だ。 こうして一緒に暮らしていると、余計に黒沢の凄さはわかる。 闇雲に習わせているのではない数々の資格、技術。 短期間で確実に持ち札を増やした俺の未来は、一年前に比べてりゃ断然に明るい。 生きて行くのに役立つ切り札を、ここで俺は増やす事が出来た。 それは感謝する。 照れ臭くて顔見ると言えないけど、この一年、黒谷には感謝しきれないと思う。 

 だけど、それはそれ。 全部俺のメリットであって、黒谷はどうなのか?

 俺の価値が住み込みの運転手兼家政婦だとしても、辛うじて並みの下の家事能力、未だに縦列駐車でガリガリの恐怖と戦う運転技術。 とてもじゃないが有能な仕事ぶりだとは思えない。 最初はT大だ法学部だと多少の矜持が俺自身にもあったけれど、知ればなんて事は無い。 京大出身の黒谷は、そこからスタンフォード大学に召喚され、そこでIT関連の学位を獲り、在籍中には幾つかの特許を申請したという。 十分敵わない。 そんな敵いっこない出来る男にとっての俺、何の得がある? 


 だから、キスは嫌じゃない。 求められている気がして、必要とされてる実感があって、快楽だけではない俺の深い部分を強引に揺らす。 これまで生きて来た、感じて来た、信じて来た常識や価値観、全てを引っくり返す勢いで、黒谷のキスが熱が俺を揺さ振り、振り落とそうとする。

 だけど、平然と対岸に戻る黒谷はずるい。 俺ばかりを残し、サッサと高みの見物するのが腹立たしい。 何で、女のとこに行くんだ? 何で俺じゃないのか? ていうか、男ってのもアリか?

 あぁ厭だ。

 男を抱きに行く黒谷なんて嫌だ。 
 最低だよ、最低。
 だって俺、いるじゃん。
 男抱くなら俺、ココに居るのに!!

 ッて、なんでってソコなのか?  俺の葛藤は、信じ難いがそこなのか?



 肌触りの良い綿毛布に蓑虫の様に包まった。 ふっくらモカブラウンのそれは、薄っすら黒谷の匂いがする。 森を通り抜ける風の匂い。 深く吸い込んでから溜息を吐き、改めて、己の痛痒い行為にありえないよと思った。 ありえない。 だけど、このありえなさが今在る俺の全てであって。

 金持ちボンボンだった俺が、全てを無くして一年。 けれど無くした以上に、得難い色々を手に入れて一年。 満ち足りた一年だったと思う。 あの時、一年前の春の夜、ずっと傍に居てと黒谷に言ったらしい俺。 

 そんなもの寝惚けた挙句の戯言、それを言霊に取るなんて卑怯だ無効だと散々楯突いた俺だけれど、でも、多分あれは俺の本音だ。 寂しくて不安で、ギリギリだった俺の、誰にも言えなかった本音をあの時の黒谷は汲んだのだ。 家政婦だの愛人だのと挑発しまくっていた癖に、たいした無理強いもしない、在る意味至れり尽せりな黒谷との生活。 ともすれば卑屈になりがちな養われている生活も、俺様で勝手で小憎らしい黒谷だからこそ、俺は対等に振舞う事が出来た。 なにくそと頑張る事が出来た。 

 だからとっくに解かっているのだ。 このモヤモヤの正体なんて、ありえない俺の事実なんて、俺はとっくに理解しているのだ。 




 カチャリとノブの回る音を、寝た振りをする毛布の中で聴いた。 

 ここより冷たい空気を纏い、仕事を終えた黒谷がそっと隣りに滑り込む。 高級なベッドは、隣に人が入ってもボヨンボヨンしないのだという事を、俺はこの家で知った。 毛布の中の空気がほんの少し冷える。 下がった体感温度にもの寂しさを感じる間も無く、懐に納めるように背中から抱き寄せられた。 寝た振りをする旋毛に黒谷の吐息。 肩と胴中に回された腕は、まるで壊れものを扱うように繊細に触れる。 布越しじわりと広がる熱に弛緩する身体、心臓だけが走り出しそうに忙しく大きなカウントを刻む。 

 こんなふうに黒谷は俺に触れる。

 普段の俺様振りとは一転した甘やかさで、眠っている俺に黒谷はこうして触れる。 気付いたのは随分前だ。 キスは同居の始まりから半ば強引に交わされていたが、逆を言えばキスしかしていなかった。 時折女を抱いているらしい黒谷だから、多分口だけで、本当は男は駄目なんだろうと思っていた。 だから今回は、たまたま変わった生き物を飼うような、いわば金持ちの道楽。 つまり、ホモセクハラを装った、黒谷流の悪ふざけなんだろうと思っていた。 

 けれど、黒谷は俺に触れた。 眠っている俺に、反応も無い俺に、密やかに甘く触れる黒谷を知った狸寝入りの夜。 もしかしたら俺は思う以上に大事にされているのかも知れない、悪ふざけでなく愛されているのかも知れない ―― こうして手に入れた希望の種を、俺はそっと胸の中に隠した。 花も実りも期待せず、あえて育てようともせず、ただここに有るのだと確認しては安堵して、希望を繋ぐだけの種は俺の中にあった。 大事に大事に隠した。 いつしか隠したままの種がゆっくり発芽したにも気付かずに。


 厚みのある手の平が腰骨の輪郭を辿る。 ざらりと頬摺りの感触。 僅かに伸びかかった髭は痛いギリギリのくすぐったさで、無意識に傾けた顎の下、触れるだけのキス。 頬骨にキス。 瞼にキス。 そしてこめかみに唇を落とし、名残惜しそうに掌が頬を撫でた。 そして緩やかにほどける心地良い拘束。 腕をほどいた黒谷は、ゴロリと寝返りを打ち、俺に背中を向けて眠る。 そうして密やかな、真夜中の愛撫が終る。 

 いつもはそうだった。 
 そして何事もなく、俺達は明日を迎える。 
 黒谷は俺様で横柄で、俺は小型犬のようにキャンキャン吠え立てて。
 賑やかで暢気な喧騒の日常へと戻る。 

 だが日常なんてクソ喰らえ。 今日は、違う。 そうはいかせない。


 離れて行く黒谷の腕を引き戻したのは俺だ。 ビクリと黒谷の身体が強張る。 何か言いかける唇にキス。 押し付けるだけの幼稚なキスなのに、見事にフリーズした黒谷の大きく見開いた目。 初めて見た黒谷の間抜け顔、笑える。 


 「・・・・・・ 寝て、なかったのか?」


 その質問にはキスで応えた。 
 だって、誘い方なんか知らない。

 女の子はいつも積極的だから、名前教えて? 携番教えて? メールして? 暇な日教えて? 今度二人で会いたい・・・・・・ 。 あの手この手のオネダリと要求。 そうして絶妙なタイミングでギュッと身体を押し付けて、じっと見つめて、自慢の睫毛を見せびらかして、そっと目を閉じキスを待つ。 凄くナチュラル。 凄く誘い上手。 だけど俺にはそんな芸当は出来ない。

 だから自分からキスをする。 顔を斜交いに傾けて、触れ合うだけのキス。 角度を変えてキス。 もう一度角度を変えて薄目を開けたら、男の顔をした黒谷が居た。 欲情に濡れて光る目。 噛み付く直前の、獣みたいな顔をした黒谷。 囚われそうなその目を見つめたまま顎を突き出し、少し薄情そうに見える薄い唇の端をゆっくりと舐めた。 途端に獣が飛び掛る。 

 押さえつけ、奪い尽くす、狩られて捕食されるようなキス。 がむしゃらな舌が戸惑う唇を抉じ開け、広くもない口の中を余す所なく貪る。 主導権は完全に黒谷に移った。 擦りつけて、絡めて、痛いほど吸われる舌は、逃げた上顎で再び音を立てて絡む。 どちらのものかもわからない唾液が、互いの顎を伝って首筋まで濡らした。 

 未熟な俺だから、息なんかすぐに上がる。 一瞬、唇が離れたその隙に、空気に溺れるような荒い溜息を吐いた。 ハァと吐き出し、仰け反った無防備な喉を黒谷の唇が滑る。 軽く歯を立てられ、生理的な恐怖にヒャッと声を上げるが、逃げは打てなかった。 両腕は、ベッドに縫い止められて動かない。 首から鎖骨に掛けて、舌と唇は執拗に愛撫する。 鎖骨のくぼみをキツク吸われ、ありえないほど甘ったれた声が洩れた。 密着する下半身は、どちらも余裕が無くなっている。 太腿に触れる黒谷の怒張する熱が、俺のなけなしの箍を外す。 


 「先に行きたいか?」


 低く掠れた声で、黒谷が囁く。 

 圧し掛かられ見下ろされるのは、かなりクルなと思いつつ、  連れてってよ  と言った。

 言ってから、これじゃ俺がセックスを強請ったみたいじゃないかと、この遣り取りが後々まで俺を不利な立場にするんだなどと思いつつ、大人で狡賢い黒谷の指と舌と熱に溺れていった。



 そして約束通り、とんでもないところまで、黒谷は連れて行ってくれた。





  「・・・・・ こんななら、銀座の紳士についてっても結果同じだと思う」

  「馬鹿野郎、寝室の業師と言われたこの俺が、愛と技巧の限りを尽くしてやったそれを、勃たねぇ親父のSM玩具祭りと同じだ言うかね? 罰当たりめ!」




  少し、早まったかなと思った。













                                              :: つづく ::



    百のお題  052 真昼の月 3