036   きょうだい   9.

     起きろ 起きろ と声がした。

     間に合わないぞ と、声がした。

                      だれの?


「おはよう、ハヤタ」
「・・・・・・」

一日の始まり、目玉が最初に映す景色。 見下ろし覗き込む姿は視界の殆んどを占め、間近で見る笑顔は綺麗だけど透き通った曇の無さが少し、怖い。 いつから見てた? 

「俺、寝起き悪いか?」
「ううん、呼ぶとすぐ起きるよ」
「そか、」

そう、それならばと何故かほっとする。 あんな風にじっと見られているのは怖い。 眠っている自分をミナトがどんな顔で見ているのか、考えるとなんだか怖かった。 そんな俺に構わず、ミナトはテキパキと身支度を整えている。 濃紺のブレザー、ダークグレイのスラックス、新たに誂えたそれは痩せ過ぎた身体を都合良く隠し、手っ取り早く美貌の優等生を作った。 

「なにボオッとしてるの?」
「いや、うん」

ミナトは壁鏡に向かい、器用な手つきでネクタイを結ぶ。 当たり前の朝。 あれほど望んだ当たり前の日常だというのに、寝床を抜け出し、もたもた着替えをする俺は、こんな当たり前の朝に何とも言えない違和感を感じている。 だって、呆気ないじゃないか? 呆気ない。 あれほど俺たちを追い詰め、揺さ振り、日常からポンと弾き飛ばした一連の出来事は、果たしてこうも呆気なく終結して良いのだろうか? 


学園からの連絡を受けて、ミナトは明らかに安堵したが、肝心な事を何も語りはしなかった。 父は事件の決着について「どうしたいか?」とミナトに尋ねる。 学園側もその解答を待ったが、ミナトはそれらを「あれは何もなかったんですよ」の一言であっさり片付けてしまった。 

しかし、事実、学生の死によって、事件はパタパタと解決に向かった。 S学園の院生だった男は、確かに春先の教育実習でミナトのクラスを受け持っていたらしい。 声の小さな、陰気な男だったと言う。 実習中、特に男がミナトに執着する様子はなかったというが、その胸の内には黒い欲望を飼っていたのだろう。 だから男は、あんな事をした。 した筈だ。 


「息子が何かしたのですか?」 と、その母は我が家を訪れて泣き、憔悴しきった顔の父親は、 「何でも仰ってください」 と頭を下げ懇願した。 が、ミナトの表情は曇りも歪みもしない。 

縋るような親二人にミナトは言うのだ。 

「モリサキさんの事は存じておりますが、教育実習でお世話になったきりです。 なんで今頃、僕の名前なんか出てきたんでしょうね。」 

曇りの無い表情でそう言って、悔やみの言葉さえ付け足したミナト。 

何も無い筈がないだろ? 誰もがそう確信していたが、それはミナト自信によって封じられる。 本人が、そう云うのだから、第三者がこれ以上口を出す筋合いではない。 だから今となってはわからない。 何も残らなかったのだ。 人も、証拠も、痛みさえも。 

つまりあの地獄のような日々、事件からあの電話まで続いた家族の葛藤は、こうして何もなかった事になった。 それは、千切れた紙テープを張り合わせるような再生だと思う。 破れ汚れた数センチが実は破棄されていたとしても、破棄したミナト以外に、その事実はわからないのだ。 かといって、そんな風にして綺麗に繋がったテープを、また切る馬鹿はいまい。 


張り合わせの手始めとして、ミナトは学校へ行くと言い出した。 学生の死から一週間もたたぬ11月、さすがに時期早々だと、父は冬休み明け三学期からの復学を勧めたが「一日でも休みは少ない方が良いでしょう?」 と、ミナトは軽い調子で答えた。 そうして呆気ないほど簡単に、ミナトは復学を果たす。 

当然、学年は一学年下になった。 けれど、それはミナトにとって大した問題でも無い。 そもそも他人に興味なぞはらっては居なかったのだから、受け損ねた授業を受けるのに、場所が変わろうと人が変わろうとミナトにとってはどうでも良い事だった。 単に、千切れたテープを漸く繋ぎ合わせただけの事。 

そうしてすっきり晴れやかに、学内に復帰したミナトについて、余計な詮索が殆んど無かったと言うのは、多分余りに曇りが無いせいだと俺は思う。 人は正面から見つめられると、後ろ暗い言葉を吐けなくなってしまう。 おどおどしたヤツに難癖をつけるのはたやすいが、晴れやかな奴にそれをするのは難しい。 何故なら、火の無いところに自分が火を点ける事になるからだ。 そこまでして、悪人になりたい奴なんて居ない。 

なにしろ相手はあのミナトなのだ。

「ちょっと良くない時期だったんだ、だからあんな大袈裟な事になっちゃって・・・・でも、もう大丈夫。 こうして戻って来れて嬉しい。」

そんな風にミナトは言ったのだろうか? 

軽く心臓のあたりを掌で抑え、あくまで病気の発作だったのだと、例の魔法みたいな笑顔で言ったのだろうか? だから皆、飲み込まれた。 それはかつて皆が、ミナトの特殊に飲み込まれたのと大差ないのかも知れない。 なんだかミナトにはそう云うところがある。 ましてや、今のミナトには特殊さが無いのだ。 

ミナトから、一切の強迫症状が消えた。 いつからかと問われれば、学生が死んでからとしか言いようがない唐突さでミナトは正常に戻る。 戻る? ちょっと違うかも知れない。 ミナトは手袋無しに、送迎無しに、7時18分の私鉄に乗り込み学園に通う。 そしてクラスの皆と授業を受け弁当を食べ、16時8分の下りに乗り帰宅する。 帰宅部の俺はそれより帰りが早く、玄関先でコバルトブルーのマフラーを解き、冷えてきただの良い匂いがするだの言うミナトを、茶の間のソファーから 「お帰り」 と迎えるのだった。 


そして賑やかに夕食が始まる。 ミナトは話し上手だった。 さらりとした日常を、少し外した視線で語るのが吃驚するほど巧かった。 だから俺たちはそれに引き込まれ、ミナトの新しい日常が実に巧く行っている事を知る。 あぁ、全く問題無しじゃないか? 問題無し。 すっかりミナトはまともだ。



「ほら、ハヤタ遅れるよ、パン焼けたって、」
「お、おう」

すっきりした項に白い襟が映える。 そんな後姿に続き、今日も当たり前の朝を迎えた俺なのに、なのに何故、こんなに落ち着かないんだろう。 胡散臭かった。 呆気なく手に入れた今が、どうにも胡散臭かった。 そして正常過ぎるミナトも、胡散臭かった。 何かが、違う。 何か、これは違うと言う気がしてならない。 そしてふと浮かぶのは、あの時、学生の死を耳にして花の様に笑ったミナトの表情。 

あの時、ミナトは何か別物に変わった気がする。 二人で過ごした八月、日々一生懸命前に進もうとしていた、不完全だけど偽りの無いあのミナトではなく、 「正しいミナト」 とでも名付けられた精巧なレプリカになってしまったような、そんな、しっくりしない違和感が、どうにも自分の中から離れないのだった。 だからほんのすこしづつ、俺はミナトと距離を取り始める。 新しいミナトに、サッサと取り込まれようとする自分を、どうにか喰い止めようと必死で足掻いていたのだった。

とはいえ、表立って俺が何かした訳じゃあない。 

俺は毎日学校へ行き、週三回を塾で二時間過ごす。 早めに夕食を済ませ、家を出て自転車に跨れば、なんだかとても解放された気持ちがした。 自分の未来がぐっと広がって行く、何でも叶うような気持ちになった。 住宅街を抜け、バス通りを走り、せせこましいビル裏に自転車を停め、チェーンをガードレールに巻きつけていると誰かが俺を呼ぶ。

「ヤタッ!」
「よぉ。」
「聞いたかよ、ムロチ一昨日デートだって!」
「マジ?」
「マジマジ、ナカヤが見たって、シネビルの指輪ンとこに居たって、」
「思い切りデートじゃん、」
「だからデートなんだって、しかも結構可愛いらしい、」
「ありえねー」


笑い合い、また何人かと合流して、団子状に教室に入る。 やがて授業が始まっても、お腹の中がホカホカする軽い興奮を俺はまだ感じている。 友達が居るって嬉しい。 一生懸命勉強をするのは愉しい。 当たり前と言うのはこう云う事なんだと改めて思う。

学校はまだまだ居心地が良いとは言えなかったが、塾は俺に居場所と仲間を作ってくれた。 そこにはチリチリした焦燥もないし、誰かの顔色を読み続ける緊張感も要らない。 俺が以前グレてた事は、いつの間にか皆が知っていたが、でもここでの俺がもう、そうじゃない事も皆はわかってくれていた。 

こんな幸せってあるだろうか? 

それだからこそ、ほんの少し後ろめたい気持ちになった。 ミナトとの生活に、こうした充実感を味わえない自分を、俺は後ろめたく申し訳なく思った。 そしてミナトは今、本当に幸せなのだろうかと、思った。 

ミナトの中で、本当の決着はついたのだろうか?



「そりゃ、どうだろうねぇ、」

午後最後の診察室は、いつもよりずっと静かだった。 耳鳴りみたいに聞こえるラップトップのファンの音が、静かで眠たい空気を、小さな箱部屋の中に作っていた。 俺は堪りに溜まった言葉をトネガワに吐き、それをトネガワは、さも興味深げに小さく頷きつつ、静かに耳を傾けた。 そうして、ミナトはあれで良いのかと問うと、困り笑いのような顔でそう言うのだった。

「親父もお袋も大喜びしてるけど、でも、ホントのところどんなかはわかんねぇ。 あれ以来、あんま話さないから。 話すのはミナトだよ。 オンステージ。」
「ミナト君も交えて、話せば良いじゃない? 家族会議、」
「う〜〜ん・・・・・・」

それは難しい。 スッキリしなくッたって、今、何も困ってないのだから、寝た子を起す事を皆したくない。 釈然とはしてないけど、でも、だりたい気持ちは誰も、一つも無いのだから。

「センセ、俺さ、薄情なのかな・・・・・ミナトがパニクッてて、わけわかんねぇ時とかさ、俺、正直言ってもうヤダとか思った。 こんな兄弟要らねぇって思った。 なんての? ミナトなんかが来て、俺の人生滅茶苦茶じゃんって思ったんだ。 その癖、皆で協力しようとか盛り上がっちゃってオマエ何言ってんのって・・・。 あぁ、ここで話し合いしたじゃん? あん時もなんか、こう、馬鹿じゃねぇのってちょっと思った。 親父もお袋もドラマみたいな台詞シャーシャーと言ってて、何やってんの? って、なんかひいた。 でもセンセ、俺、別にミナトが嫌いとかそう云うんじゃ無いと思う、嫌いか好きかで言うと好きなのは絶対だと思う。 でも、でもさ、それとこれとは別物みたいな感じでなんか、なんかそこまで熱くなれないって言うか、」
「・・・・・・つまり君はさ、少し離れたとこに居たのかも知れないね。」
「え?」

離れた という言葉に、ミナトから離れようとする自分をトネガワは責めているのだと思い込む。
そして余程、情けない顔をしていたのだろう。 トネガワはすぐにフォローを入れた。

「いや、そんなビクッとした顔しないでよ、そうじゃない。 君は皆が冷静で居られない時、つまりミナト君という大きな流れに巻き込まれて自分が見えなくなり掛けている時、少し流れの緩い端のほうを流れていたのかも知れないよ。 だから、皆よりほんの少し岸辺の様子が見える。」
「じゃ、やっぱ薄情なんじゃないの?」
「薄情ってよりは冷静だったんだろうね。 君はある意味、ミナト君の存在のネガティブな部分に、免疫があったろ? 最初にネガティブな部分を厭と言うほど体験して、後にポジティブな部分とも触れ合う事ができた。 だから、いきなりネガティブな波に攫われた御両親よりも、少し自分をガードする方法に長けてたのだとも言えるよ。」
「でも、」
「ハヤタ君、今は君の時間だ。 ミナト君の事でなく、君自身の事に焦点を絞ろう。」
「俺の、」

あぁ、まただ、いつもそうなのだ、自分の話をしていても、次第にミナトの話に替わる。 
自分の悩みの筈なのに、いつかミナトのそれに替わる。 
そしていつもトネガワに指摘され、脱線に気づき、ようやっとミナトというマーキング無しに、自分の未来を大切に思う事が出来るのだ。 価値ある生き方を、改めて考える事が出来るから。 
だからトネガワなのだ、トネガワでなきゃ駄目なんだ。 

トネガワにより俺の道筋は長く先へと伸びる。 
その伸びた先がいかにピカピカしているか、想像するだけで俺はもっと頑張れる気がする。 
欲しい言葉をくれるから、


「君のこれからがどんな可能性に満ちているか、それを見つけて行かないとね。」

だから、欲しい未来を言える。


「俺、今、家より学校より塾が楽しい。 や、別に勉強だけの事じゃないんだけど、塾の友達とか先生とか、なんか、これホントの学校だったら良いなとか思って・・・・・・考えたらそう云う当たり前の学校生活って俺、ずっとやってねぇし。 今の学校って、やっぱ、俺、良い噂無いんだよね。 三分の二が同じ小学校の持ち上がりだしさ、自業自得なんだけど、でも、出来るなら新しい所で遣り直して、今度こそちゃんとしたいって思う。 友達も、勉強も、部活ももう一遍陸上やって自分試ししたいんだ。 だから高校行くのって、そのチャンスかなって。 だから・・・・・・はっきり言ってミナトとの事よりも、俺、ソッチの未来の方を優先したい。」

そう、俺は自分の事を一番に考えたかったのだ。 

俺がミナトを遠避けたい一番の理由とはつまり、最優先すべきにミナトがいつも居たからなのだ。 しかも、ミナトには優先すべき理由もある。 それを押し退けて自分を満たし、自分を優先するならば、きっと後ろめたさと罪悪感で、例え自分が間違って無くてもそうした事を後悔するだろうと思うのだ。 

でも、トネガワはこう言った。

「君の未来なんだから、いつだって、最優先すべきは君で良いんだよ。」

聞いただろ? 
だから、俺はまた、先に進む事が出来た。 


未来、希望、自分の未来、自分の希望――― くり返せば何だか、勇気の出る言葉。 明るい未来、欲しい未来、叶えたい未来の叶えたい希望――― 頭の中繰り返し繰り返し、ワクワクする明日が続くようでそれをトネガワに保障して貰ったようで、きっと俺は余程、にやけて居たんだと思う。 

ただいま、と家に入ると、そこにミナトが居た。

「あ、ただいま」
「・・・・・・おかえり・・・」

硝子みたいな目が真っ直ぐに見てる。 
何か、厭な感触がした。

「なに?」
「ううん・・・・・・カウンセリングってそんなに楽しいのかなって思って、」
「・・・」
「もうすぐごはんだよ」

そう言うと、ミナトは踵を返し、俺を待たずさっさとリビングへと向かった。 特に口調が荒いとか、怒った顔をしてるとかでは無い、いつも通りのサラサラしたミナトであった。 でも、何か違った。 奥底のほうでひんやり硬い物を隠してるような、そう 「選民」 と自ら言い放って居た頃の、あの目に良く似ていた気がした。 

似てたと思った瞬間、身体がズンと冷える。 突っ立つ俺にさっきまでのワクワクなど、一つも残っちゃ居なかった。 良くわからないけれど、自分はスウィッチを押してしまったのだと思った。 良くわからないけど、自分はヘマをしたのだ。

見ると、ミナトが立っていたすぐ横、花台に黄色が溢れている。 丸い水盆に、小菊の黄色がみっしりと浮かぶ。 一昨日母が活けたそれは、全て毟られていた。 慌てて花器ごと抱え、見つからぬように中身を裏庭のポリバケツの中に捨てた。 母親には知られてはいけないのだと、何故か強く思った。 そして、ミナトはいつからあそこに立っていたのだろうと思った。 

なんだよ、何が始まったんだよ、今度は何仕出かすつもりだよ? 
押されたスウィッチ、始動する何か。

小菊の黄色を、バケツの底に隠す。 
慌てて閉めた蓋が、ボンとやけに響いてゾッとした。 
コソコソしてる自分はこんなにも滑稽なのに、全然笑えやしない。

蓋を閉めた時、もう出て来るなと念じた。 
もう、こっから出て来るなと念じた。


起きろ 起きろ 起きろ   もう 間に合わない。
間に合わない。   


それより先に、起きなければならない。  

誰かがそう言うから。




                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい