036   きょうだい   10.


     目に見えなくたってわかる事がある。


学校帰り、二件隣の角を曲がると肉じゃがの匂いがした。 台所のテーブルにはN市の御土産が置かれていた。 教室でちょっと席を外したら、カバンにセロテープで隠しキャラの出し方が貼り付けてあった。 職員室に行くと担任の机の灰皿に、煙草が紫煙をあげていた。 

ならばこうに決まってる。 二件隣は今夜肉じゃがを喰うだろうし、N市の土産があるなら叔父が日中来たのだ。 今ごろ俺以外にドラクエに嵌っててあんな角張った文字はどう見たってやっぱナガサワなんだろうし、担任はといえば少し前まで多分、職員室に居たのだ。

それは間違いない事。 それらは確かな証拠。 
例えば俺の日常がそんなミナトの痕跡に満ちているのと同じように。

俺は、至る所に散らばるミナトの欠片を踏み、裸足の皮膚がそれに傷つけられるのを感じていた。 痛みは、夏の野原で棘のある草に剥き出しの肌を擦られたくらいの、あっと思うと忘れるささやかな苦痛ではであったけれど、確実に増える小さな傷は、思わぬ何かを俺の中に取り込んでいた。 もしかしたら毒かも知れない何かを。


あの面接の晩から、俺とミナトの間に何か特別な事が起こったとか、大きなトラブルが生じたとか、そういうドラマティックな出来事は無かった。 表面だけ見れば、上手く行っていたとも言える。 けれどあれ以来、俺はミナトという存在に取り囲まれている気がしてならなかった。 ミナトに見張られている気がした。 あらゆる場所に、ミナトの気配を感じたのだ。 

例えば部屋の中、机の上、箪笥の中、洋服や雑貨、引出しの中、カバンの中身、いつもと同じ筈なのに、何かが少しずつ違う微妙な不自然さを俺は感じる。 いっそ物が無くなったとか位置が違っているとか、明らかな違いが見つかったならまだスッキリするだろう。 そんならミナトに言えば良い、なんかいじった? と。 でもそういう類じゃあない。 そういうんじゃないけれど、どういうのかもわからない意図の見えない不穏。 匂いの様に気配の様に、小さな証拠を残してミナトは俺を追尾する。 

例えばその日、朝から俺はバタバタと、探し物であちこちを掻き回している。 
するとそれを見ていたミナトが言うのだ。 

「体育館履きだったら、ロッカーに置きっ放しじゃなかったっけ?」
「え?」
「五時間目、体育なんでしょ? でも、今日はグラウンドで合同トレーニングじゃない?」

その通りだった。 ミナトの言う通りなのだった。 そしてこんな事も言う。

「あぁ、そういえば昨日、バス通りでサカマキ君に会ったよ。」
「さかまき?」
「うん、一年の時校外授業で一緒にロクロ回してた、」
「あぁ・・・え、でもミナト、なんで?」
「写真あったじゃない? 前に見せて貰ってたからすぐ分かった。」

確かに写真を見せた事があった、俺自身その時の話をした事があった、だからミナトがそれらを知っていたとしても不思議はないのだった。 だけど、人はそんなふうに何でも細かく覚えているものなんだろうか? 友達は誰か、担任は誰か、時間割はどうなっているか、そこで何が行われているか、それらの情報をミナトは洩らさず記憶して、或る意味管理していたように感じる。 ミナトは何でも知っていた。 ミナトは俺の事を熟知しているように思えた。 

「ミナトはなんでも知ってるんだな、」
「なんでもって、だって兄弟だろ?」

きょうだい?

兄弟だってそんな事はお互いに知らない、そもそも俺たちは本当の兄弟では無い、そこでそう返答出来ない俺は卑怯なのだろうか?


自分の周辺を、徐々にミナトが包囲して行く気がした。 やがて俺はポツンと白い点の上に片足で立ち、巨大なミナトに飲み込まれるのだろう―― そして何も無くなる。 俺は、存在しなくなってしまう。 そんな馬鹿馬鹿しい想像をやけにリアルに感じ、その度に繰り返すのは「自分の未来」「自分の希望」「自分の明日」「自分の将来」・・・トネガワと模索する俺自身の生き方について。

あの日、感情を映さなかった硝子玉みたいな目が気のせいなのかなと思うほどに、ミナトは相変わらずのハイテンションで日常をこなし、良く笑い喋り、その合間には俺の名前を呼んだ。 

ハヤタ―――そう呼ぶミナトは真っ直ぐに俺を見つめ、呼ばれて視線を合わせればさも嬉しそうに、ホッとしたようにニッコリするのだった。 そんなのを見ると、ほんとにどうしようもない気持ちになる。 自分の中に燻るミナトへの疑念とか不信とか、そんなものさっさと捨ててしまえと腹立たしく、しかし捨てきれぬ現状を歯痒く思うのだ。 

そんなふうに背中がジリジリ焦げるような落ち着かない気持ちを持て余し、それでも、俺はミナトと毎日を過ごす。 そして朝、異常に早起きをする。 

変な話だが、無防備に寝てる顔をミナトに見られたくなかった。 眠りに就き次に目を開けた瞬間、あの硝子玉の目があったらと考えると腹の底がひんやりとした。 見えてない部分のミナトを、想像するのが怖かったのだ。 それだからまだ日が昇りきる前の薄暗がりで、俺は目を覚まし、逆にミナトの寝顔を眺める。 寂しい子供の顔をしたミナトを眺めながら、なんで? なんで俺たちは? と、今を恨むのだ。 そしてミナトに問う

―― オマエって、なに?―― 

勿論答えなんか出ない。 だけども俺たちは、ただ、互いをこっそり垣間見る。 尤も俺に見えてる事なんてこの程度だ、しかしミナトはもっと見えてたのだと思う。 だからこそ、確実に、意図した目的の為に進む。



それはいつも通りの塾帰り。 小腹のすいた俺たちは、駅構内にあるファーストフードへと向かう。 皆学校はバラバラだったけれど、どういう訳か俺たちは馬が合った。 週に三回しか会わないのに、俺にとっては何でも分かり合えるような仲間だった。 そんな仲間達と格安のバリューでせいぜい三十分の息抜きをして、学校の事や家の事、まだまだカッコ悪い恋愛の事、そんな他愛もない話に盛り上がり、電車・バス組が慌てて時間を気にして走り、その後を自転車組がのろのろと帰路に着く。 いつもそんなだった。 特別な事じゃない。 あえて家族にも言わない秘密の楽しみだった。 

しかし、その日は違った。

「ハヤタ、」

駅構内の雑踏から浮き上がるように、片手を上げるミナトが笑う。

「誰?」
「あ、兄貴、」
「嘘ォッ! 似てねぇ〜〜ッ!!」

こんな大勢の場所で見るミナトは初めてだった。 ゆっくり近付いてくるミナトは、ありきたりな格好に非日常をまとい、雑踏の中にあっても異質で酷く人目を引いた。 コバルトブルーのマフラー、フードのついたチャ−コールグレーのダウンジャケット。 

「おまえ、兄貴とオソロ?」

冗談じゃない。 先日、買物から戻った母親はミナトとデパートに行ったのだと言い、俺に冬物を何着か寄越した。 ミナトがその時何を買ったのか知らないが、ミナトの着ているそれは、今俺が着ている物の色違い、俺のは黒だが遠目に見れば全くのお揃いである。 何でそんなもの買った? 母親か? ガキじゃあるまいし兄弟お揃いも無いだろう? 母親に対する怒りはそのまま、目の前のミナトへ向かう。

「なァ、なんでソレお揃いな訳? お袋が買う時、ミナトなんか言わなかったのかよ、」

開口一番の詰問。 けれどミナトはさも驚いたというふうに眼を見開き、叱られたような顔をする。 

「厭だった?」
「ふ、普通しねぇだろ? お袋にヤダって言えよ、ガキじゃあるまいし、」
「・・・・・・ごめん。 僕が言ったんだ。 お母さんがハヤタのを選んでる時、自分のもコレにして欲しいって」
「え?」

なんで? 気勢を削がれて口篭もると、

「だからお母さんのせいじゃない。 お母さんは、さすがに同じはアレだろうからって色を変えてくれたんだ、僕はハヤタが嫌がるのをわからなくって、」

そう言われて、それ以上嫌だと言える筈が無い。

「いや、ていうか、」
「外に向かってるハヤタが、いつも羨ましかったから、なんだかね。 演技担ぎじゃないけど同じの着たらそうなれる気がしたんだよ。 ・・・・でも、ハヤタが嫌なら脱ぐけど、」
「・・・い、いや、いいよ、あんま大きくなってからのお揃いってしないからちょっと、」
「そういうものなの?」

少し安心したらしいミナトは、興味深々で俺たちの遣り取りを見物する連中に、世間知らずで可笑しいでしょう? と笑い、

「はじめまして、ハヤタの兄なんです。」

そう、例の曇りの無い笑顔で会釈した。 そしてこう続ける。

「何しろ、ずっと病気ばかりしていたから、元気なハヤタが僕の憧れだったんです。 離れて生活する事も多かったし、兄らしいこともしてないし、むしろ励まされてばかりだし。 でも最近、漸く普通に暮らせるようになって、兄弟っぽい事出来るのが嬉しくって・・・・・でも、ハヤタには世間知らず過ぎる、恥ずかしい事するなってって叱られちゃうんですよ。」
「ハ〜ヤタッ! おまえ、心せま〜い!」

途端に、非難の目でハヤシが俺を突付く。 
そりゃそうだろう、いかにも病み上がりの儚げなミナトが切々と「兄弟」を語るのだから、それを撥ね付ける俺は、全くの人でなしだ。

「イイじゃんかァ、兄弟仲良しで。 全然わるかねぇよ、オソロくらいしてやれよ、」
「や、俺は別に、」
「大丈夫ですよ、こいつ照れ屋なんですよ。」

ほら、もう皆を味方につけた。 もう誰もミナトと俺のお揃いをとやかく言いはしないし、いい歳した兄弟の待ち合わせを冷かしたりもしないだろう。 ミナトはいつだって効果的に病気を使う。 それは本人ならではの技だ。 俺は今までミナトの病気の部分を、人に話した事はなかった。 嘘にしろ、真正直のホントにしろ、それを俺が口にしてはいけない気がしたのだった。 つまり禁じ手のようなものだから。

黙り込む俺に、ミナトは駅近くにあるレンタルビデオ屋の袋をちらりと見せる。

「ちょうど出ついでだったから、会えるかなぁと思って、」
「え〜、何借りたんですか?」
「うん、CUBE2 ハヤタとこのあいだ1.を観たんでね、次のも観るかなぁって、」
「やさしー! 俺もこう云う兄貴が欲しいー、うちのと週一で良いからトレードしよう、ハヤタ、」
「エーじゃ、俺も姉ちゃんと月一でトレード」

皆、ミナトの周りで浮かれる。 皆、ミナトの非日常のオーラみたいのに飲まれて、すっかり舞い上がっている。 ビデオなんていつも、週末に借りて週末に返すじゃないかと思った。 わざわざバスにのって、なんで今日それを? つまりそれは、ここで俺を待っていたのではないか? いや、ならば自転車で通う俺がここ、駅構内に居ることを何でミナトは知ってる? その答えは簡潔だった。

「先生が教えてくれたんだよ。 えぇとキジマ先生? うん、確か英語の先生だろ? ハヤタたちはいつもココで息抜きして帰るって。 今さっき一連隊で出掛けたから、中央口からココに直行すればきっと合流できるって教えてくれたんだよ。」

あの、いかつい顔をしたキジマが御親切に、最短ルートまでレクチャーしたらしい。 キジマがそれなら、居合わせただろう他の面子は尚更だ。 つまりミナトは既に、塾講師らまで味方につけた事になる。 

そして数分後のファーストキッチンのテーブル席、ミナトは瞬く間に輪の中心に滑り込み、俺の友達との歓談に花を咲かせていた。 ミナトさんミナトさんと大した物だ、俺はミナトが初対面の人間を瞬く間に自分のテリトリィに引き入れる様を今、まざまざと見る。 皆、この綺麗で宇宙人みたいなミナトに夢中なのだ、そしてそこに俺の兄と言う肩書きはきっと無い、ミナトはミナトでしかないのだ。 だから俺はそれを傍観する。 傍観しつつ徐々に、底冷えする恐ろしさと怒りに拳を硬く握り締める。 

ミナト? おまえ、なんなんだ?

俺は包囲されている、取り囲まれている、乗っ取られようとしている、なのになんでコイツは綺麗に笑うんだろう?


はしゃいだ時間が終わり、俺とミナトはムロチとビル裏の駐輪場で別れた。 

「じゃミナトさん、マジメールしますから、オンラインカテキョお願いします!」

ひらひらと、ミナトはそれに手を振る。 ムロチだけじゃぁない。 皆は社交辞令的な交換で無しに、本気でミナトのメアドを欲しがって、それと引き換えに自分のメアドを渡した。 つまり、ネットの海に網は張られたのだ。 俺の秘密、俺の仲間、俺のプライベートなんてもう、どこに行けば手に入るんだろう? 

どっちにしろそんなもの、既に俺の手元を離れてしまってる。 さっき俺はそれを厭と言うほど思い知る。 色んな事をしょうがないと流してきた、そういうものだと思ってきた、はっきり言って我慢してきたがその遣り口だけは許せなかった。 

「アレ、どういう事?」
「え、なにが?」

小首を傾げる姿に一層、カッと血が上る。

「何がじゃねぇだろ、さっきだよ。 さっき皆と喋ってて、嘘ばっか言ってたじゃねぇか」
「あぁ、」
「あぁッてなんだよ、わかってんだろ? オカシイじゃないか。 何がプールの底だよ、それは俺の感想だろ? モレシャンの話も、ベッキーの話も、ありゃみんな俺の話じゃないか?!」

確かにミナトは話し上手で、その上聞き上手でもあった。 だから流れを自分に有利に変え、その上で全体を巧みに仕切っていた、誰にもそうと悟られぬ巧妙さで。 しかしその内容に、俺は黙っておれない。 

最初はスズキが、あるアーティストの話題をミナトに振った時だった。 ミナトはその最新アルバムの感想を《プールの底で見上げる空の感じ》と評したのだが、それはミナトの感想なんかじゃない。 俺が、ミナトにそう洩らした言葉だった。 ミナトはそのアルバムを聴いてはいないのだ。 そのアーティストの曲なんぞに、一つも興味を示さなかったのだから。 

そうしてミナトは次々に、俺の言葉を記憶を自分の物にして行った。 フランスかぶれで発音の悪い「英語教師モレシャン」の話も、柴の雑種が花火大会の夜に遁走した話も、大掃除の佳境で父親が母親に書いたラブレターを発見した話も、全て俺の記憶であり俺の大事な想い出なのだ。 几帳面にファイリングされてたろう俺の記録は、こうして次から次へと、ここぞというあの場で、実に有意義に利用された。 悪びれもせず、恐ろしいほどのナチュラルさで。 それを許せる筈なんてない。 ミナトにどんな理由があろうとも、人の思い出を勝手に流用したり搾取して良い筈が無いのだ。

「良い訳ないだろ? 全部嘘じゃん、一つもホントなんかねぇだろ? なぁ、どういうつもりなんだよ?」
「大丈夫だよ。」
「大丈夫?・・・って、」
「スズキ君はN小でムロチ君はS小、カワハラ君とミカワ君は同じK小の出身だけどカワハラ君は卒業間近の転校生だから小学校での接点はほとんどない。 ましてや今、中学はばらばらだし、ね? 僕が話した事がホントかどうかなんでバレる訳が無い。 だいたいあんな雑談、流れみたいなものなんだから後から追及しようなんて事、誰もしないよ。」

何を、言っているのだろう? そう云う問題じゃないと言う言葉は、咽喉の奥で固まった。 まるで噛み合わない、まるで宇宙人との会話。 そしてそんな俺の代わりにミナト自身が困ったなぁと言う顔で、駄々をこねる子に諭すように、微かな憐れみを目元に滲ませた表情で、俺の歯痒い怒りをつらつら何でもないように流すのだった。 

「あれは、俺の想い出だ、」
「そうだよ、ハヤタのだよ。 ねぇ、今になってなんで怒るの? さっきはハヤタも黙って聞いてたじゃない、」
「い、言える訳ねぇだろッ!」

きょとんとするミナトはまるでわかっちゃいないだろう、あの場で怒鳴らなかったのはミナトへの思いやりなんかじゃない。 恥だったからだ。 卑怯で嘘吐きで、それを白々演じる気味の悪い身内が居る事への、恥を俺は感じたからだ。 

「……最低だ、」
「何が? だって彼らはハヤタの大事な友達なんだろ? その大事な友達と話を合わせようと思っても、僕には話せる想い出も記憶も無いじゃないか? だから少し借りたんだよ。 ちゃんと辻褄も合うように、当たり障り無いようなものをちょっとね。 それだけの事なのにハヤタは気に入らないの?」
「き、気に入るとか気にいらねぇとか、」
「互いを思い遣り分かちあう事・・・・・・ハヤタの大好きなトネガワの言葉だよ。 兄弟ってそうなんだろ?」
「そんなの、」
「分かちあうべきだよ。 だって沢山あるじゃないか。 ハヤタには想い出も記憶も、話の種に困らない色々が山ほどまだあるじゃないか?」

間近に覗き込みゆっくり瞬きをする、それは、奇麗で優しい「お兄さん」の顔。 
そして俺は聞き分けの無い駄目な弟としてこの路地裏に立つ。 

駅前のターミナルでファンと夜に溶けるようなクラクションが鳴った。 路地に差し込む光の矢。 やかましいマフラー音を立て、二台のバイクが表通りを徐行する。 交錯する複数のヘッドライトに、眉を顰めるミナトの横顔がぼうっと浮かび上がった。 マネキンみたいだ。 不快をあらわにしているが、柔らか味なんて一つも無い、傷つきもしない、ガラスの目玉を光らせた一体の綺麗なマネキン。 

「さ、帰ろう。」

マネキンの首がゆっくりこちらに捩れ、

「ハヤタ、」

何事も無い微笑がそう、俺を促す。

「ハヤタ、」

非の打ちどころのない、優しげな慈愛に満ちた笑顔。 
なのに、怖いと感じるのは何故だろう?

「に、二度とすんなよッ!!」

いかにも子供じみた捨て台詞に、ミナトの薄い唇の端が上がった。

「わかったよ。」

流すなよ、

「だから、帰ろうハヤタ、」

だから、だから何だと言うのだろうと、「我侭な弟」をミナトはやんわりと宥める。 

もはや絶望的な伝わらなさは、怒りより虚しさを残し、俺はガチャガチャと自転車のチェーンを外した。 そうして無言でサドルに跨ればギシリと後輪が沈み、背後に重さと気配を感じる。 掛ける言葉なんて無い。 だから、黙ってペダルを漕いだ。 黙って夜のバス通りをジャクジャクジャクジャク、悔しくて腹立たしくて歯痒くて、そしてなんて名付けて良いかわからぬ息苦しさに目玉が熱くなるのを感じて、ジャクジャクジャクと。 背中に忌まわしい気配を張り付かせて、俺は黙々とペダルを漕ぐのだった。 


その日を境に、俺はミナトと意識的に距離を取り始める。 今までのように、なんとなく警戒するだけではなく、明らかにミナトへのアピールも兼ねて、俺は自分のプライベートをミナトに洩らさぬように伝えぬように留意した。 結果、無口になった俺に親は「喧嘩でもしたのか?」と尋ねたが、こっちも全くの無視を決め込んでいる訳ではない。 必要最低限の日常的な遣り取りは今まで通りにしていた。 子供じゃあるまいし毎日話す事もないよと答えると、親も、もうそれ以上は言わなかった。 何より、ミナト自身が喧嘩を否定したのだから、追及しようがない。

「なんでもないですよ」と言うそのままに、ミナトは相変わらずの日常をこなす。 加えてその頃、家の中が忙しなくなっていた。 父方の祖父が倒れた。 ミナト絡みの心労もあるのだろうが、何しろ高齢なので母は日中時間を見て鎌倉の自宅と市内の病院へと足を運んでいた。 だから既に一山越えたミナトや俺なんかに、構っちゃおれない現実があった。 そんなふうに、俺たちは水面下での確執を深くして行く。 

なのに、フラット過ぎるミナトの在り様は防御の手段を選ぶ事も出来ぬ脅威であったが―――つまりそうした起伏の無い平静さこそ、ミナトの歪み所以だった。 そんな読めないミナトに対し、常に警戒し続ける俺の消耗は、実の所、相当あちこちに響いていたのだと思う。 気付けば身の回りの備品を、復唱確認する癖が出ていた。 意味もなくビクリと人の声に反応する事もあった。 親しかった友達、両親にさえ不信感は完全にはぬぐえず、何か裏が有るのではと深読みして余計に身動きの取れぬ結果を招いていた。 だから夜、ミナトが眠りに就いたのを確認して、漸く緊張を解けば、トスンと墜落するような深い眠りに身を任せる。 それこそが俺の、唯一の安全地帯。 そして、目覚めればまた始まる。

あれ以来、ミナトが塾帰りに現れる事はなかったが、しかし塾の仲間とミナトは、本当にメル友をやっているらしい。 時折モニター前に座り、なにやら熱心にメールの返事を打っているが、御苦労な事だ勝手にしろと思う。 勝手に何でも収集するが良い。 時折ミナトから**にと頼まれ、また友達からミナトさんにと頼まれ、俺は態の良いパシリを請負う。 ミナトにとってそれは格好の情報源であったし、連中にとっても「スッゴイ解かり易い」と評判だから、ミナトは、さぞ良い家庭教師振りを発揮しているのだろう。 いずれにせよ念は押した、俺がこうして警戒して怒っているのも承知の筈、さすがのミナトでも、もうあぁした嘘は吐かないだろうと俺は思っていた。 

しかし、俺の憤りなどまるで伝わってはいなかったらしい。



移動教室の帰り道、渡り廊下でナガサワに肘を掴まれた。 

「余計な事かも知れねぇけど、おまえ防御力ゼロ。」
「何が?」
「書ァ〜きィ〜込ォ〜みィ〜。 おまえ曝し過ぎ、駄々洩れじゃん」
「?」
「あぁもうイイよ、けど俺は見ちまったんだし言わせて貰うけど、歯医者の診察券持って模試受けに来た友達ってアズサの事だろ? あん時居たの俺とアズサとお前じゃん・・・ヤバイよ、バレル事書くの、しかもハンドル「ヤタ」だし、なぁちょっと捻れよ。」
「ど、どこの? どこの書き込み? いつ見た?」
「だァ〜、おまえもシラきんのに芸こまけぇ。 まぁイイや【ゾーン・ゼロ】検索かけろ、尤もお気に入りに入ってんだろうけど、なぁ俺はマジ心配して言ってんだぞ?」

去り際、パンと俺の背中を叩き、ナガサワは後ろ向きで手を振る。 背中の痺れと頭の痺れが温い麻痺になり、俺の動きを停めた。 ミナトだ。 間違いなくミナトは動いていたのだ。 

上の空で授業を受け、家に着いたのはいつもより大分早い時間だった。 台所にメモがあり、母親は祖父の見舞いに出ていると知る。 ミナトは今日、トネガワの所に直で寄る筈だから、家には俺一人。 子供部屋に戻ると鞄を机の上に放り、バクバク言う心臓を抑えデスクトップを起動させた。 サイトはすぐにわかった。 まだ学生らしい管理人が、ゲームのレビューと雑談を掲載する、さほど大規模ではない個人サイト。 お客も、大半は学生らしい。 ゲーム専用と雑談用と、二つある掲示板はどちらも和やかにそこそこ賑わっていた。 そして雑談用の幾つかに、ハンドル【ヤタ】は居た。

例のナガサワが指摘した書き込みの他、【ヤタ】は軽妙な文体で日常を綴り、管理人も他の客も【ヤタ】に好意的であった。 ざっと斜め読みするレスの付け方から言っても、常連【ヤタ】はその場に於いて、良い客である事が伺えた。 けれど、全部嘘。 みんな、俺の記憶であり俺のエピソードだった。 しかしどうだろう、当の本人である俺は、こうした出来事をこんなふうに魅力的に綴れるだろうか? 

書き込みから見る【ヤタ】は姿の見えない分、自分自身ともミナトとも結びつかない、謎めいた好人物に思える。 それは不可解な感覚だった。 自分と同じ記憶を持つ、全く知らない誰かの存在。 ミナトはそんな人物像を創り、どうしようと言うのだろう?

「ネット? 珍しいね、」

猫みたいに身を縮めた俺はさぞ、バツの悪い顔をしていたのだと思う。 
馬鹿じゃないか? 別に悪い事をしてたのは、俺じゃぁないのに。

「きょ、今日は外来じゃなかったのか?」
「もう止めたんだよ。 別にもうどこも僕は悪くないし、困る事も無いからね。」
「トネガワがそう言ったのか?」
「・・・・・・またトネガワ? ねぇハヤタ、自分の事は自分が一番わかる。 確かにトネガワには世話になったけれど、もうその範囲じゃぁ無い。 僕は僕で遣って行く手段を見つけたし、現にこうして上手く行っている。 それに・・・・ちょっと彼の方針が理解出来なくってね。」
「お、おまえの手段ってのはこうして嘘ばっか吐く事なのかよ?!」

モニター画面には例の書き込み群がスクロールされている。 
そら見ろよ! どうだよ! 
俺は、すっかりミナトが狼狽するものと思っていた。 
誰だって、自分の悪事がバレたら後ろめたい罪悪感に駆られるもんだと思っていた。

「なんだ、ハヤタもそこ知ってたんだ、」

だけど、ミナトに翳りなんて無い。

「それなら、大丈夫だろ? 例えば分かる人が見ても、ハヤタ自身が書き込んだと思うよ。 別に疚しい内容ではないし、読まれてハヤタが困る事も無いだろうし、」
「・・・・本気で言ってんのかよ、」
「あぁだって、ハヤタの方が話題もあるだろ? ハヤタは良いな」
「やめろッ!」
「やだな、なんで怒ってるの?」
「おまえ遣ってる事、変だとか思わねぇの? それ普通じゃねぇだろ? 普通じゃねえしそう云うのわかんねぇならやっぱ、それが病気なんじゃねぇの?」
「僕が変だと言うなら、それはトネガワのせいだと思うよ」
「せ、責任転嫁すんなよ、」
「本当の事だもの、僕はこれまでトネガワの言う通りに頑張って来た。 トネガワはわからないことがあるならまず、身近な誰かに当て嵌めて見ろと言った。 だからミナトに当て嵌めた。 良く分かった。 良くわかったし、見えてない部分が見える事にも気付いた 。兄弟助け合う事譲り合う事も大事だって良くわかったよ。 僕はその通りにして来たんだ。 なのに、急に僕らは別々なんだとか言われてもねぇ。」

ミナトはわかっていない。 かつて「選民」などと自分を位置付けて他人との間に強固な壁を造ったミナトだったが、その壁を一気に崩した結果、ミナトの中で、俺とミナトはイコールで結ばれている。 ミナトにとって兄弟とは、壁の無いイコールの存在になったのだ。 あぁならばわかる、俺に個としてのプライバシーが無いのも、ミナト自身が当たり前に俺のそれを搾取する理由も。

「俺たちは、別々の人間だってわかるか?」
「やだなぁ、兄弟なのに、」
「親でも兄弟でも、人はそれぞれ同じじゃないってわかるか?」
「同じじゃないから分かち合うんでしょ? 最近つくづく思うんだ、僕らが出逢ったのは必然なんだって。 僕に足りないものをハヤタが与えてくれるんだって。」

チャ−コールグレイのジャケットを脱ぎ、脱いだそれを抱き締めてミナトが歌うように言う。

「僕は、ハヤタになりたい。」

真っ直ぐに曇りなく見つめ、ミナトは言うのだった。

「僕は、ハヤタになりたいんだ」



そら、見えない何かに捕まる。




                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい