036   きょうだい   11.


     春休みは短く、長い夏休みはその分厄介な宿題が多い。 

そこで冬、秋を通り越し久しく無かった長めの休み。 そこそこに長く、たいした仮題も出ず、クリスマス・晦日・正月と子供には魅力的な行事も盛り沢山。 加えて休み中、新しい年を迎えるワクワクを味わえるのも、何とも言えない高揚感があった。 だから俺は一年の内、この半端な休みが一番好きだった。 

けれど今年は、息苦しく不穏な冬がやって来た。

「遅かったね、」

塾から戻ればミナトが玄関先で迎える。

「駅、寄って来たんでしょ?」
「・・・・・・これ、スズキから、」
「あぁ、これ? ハヤタこの本読んだ事ある? スズキ君は一押しだってしきりに勧めてくれるんだけどSFっていうのかな、僕、こう云う在り得ない話し苦手なんだよね。 もしハヤタが読んでたら、ちょっと掻い摘んで粗筋教えてくれるかな、」
「読んだ事ねぇよ。 読みたくねぇなら苦手だって言やぁイイだろ?」
「それじゃぁ、スズキ君と話し合わなくなるじゃない?」
「嘘吐いて話し合わせたって仕方ねぇんだよッ!」

怒鳴ってから、しまったと思う。 後悔じゃない。 シラッとしてるミナトの顔を見て、自分一人がまた踊らされた事に腹が立つのだ。 いつも俺ばかりじゃないか。 俺ばかり憤り俺ばかり歯軋りして悔しがる。 
皆は何を見てるのだろう? 皆は何故気付かないのだろう?


ミナトによる俺への内的な付き纏いは、益々あからさまで執拗になっていた。 そもそも罪悪感なんて無いのだ。 ミナトにとって兄弟とは個として存在し得ないもの、肉体こそ違えども持ち得る全てを共有する共同体のようなものであった。 だから、俺の物はミナトの物でありミナトの物は俺の物でもある。 けれど厄介な事に、より多く持っているらしい俺は、もっぱらそれを分け与えるばかりの役所であった。 だから当然と言う顔で、ミナトはそのように搾取を行う。 そして大事なデータベースである俺を、完全な管理下に置こうと網を張るのだった。

誰が? 何を? いつ? どこで? なぜ? どうやって? 

5W1Hの鉄則そのままに、ミナトは俺の日常をファイリングする。 勿論それに一々答えちゃいないし、協力する気すらない。 しかし、ミナトは正確にそれらの解答欄を埋めた。 親、近所、友達、塾講師、あらゆるところにミナトの情報網は張られ、それらが俺を包囲する。 

皆、悪気なんて無い。 優しい兄であり、秀才であり、病弱で儚げなミナトだからつい手を貸したくなるのだろうし、返される綺麗な微笑みに悪い気もせず、単に見た目通りの対応をしたまでなのだ。 何よりも対外的なミナトは、魅力的な人物だった。 俺以外にとって、ミナトは非の打ち所の無い人間だったから、ミナトに冷たくする俺は、しばしば周りの叱責を受ける。

「たまにはミナトさんもココに呼べよ、」

塾帰りの愉しみ、ファーストフードのひとときを、俺は最近楽しめない。

「何でいちいち兄貴を呼ぶんだよ」
「えーたまに会いたいかなぁって、」
「だよなァ〜、たまにはオフでミナトさんと話したいよなぁ」

綺麗で気取らなくて優しくて頭が良くて・・・・いい加減うんざりな誉め言葉に俺がムッツリすれば、すかさず矛先はこう向く。

「ハヤタ、おまえさ、ココくんなとかなんか釘刺してんじゃねぇの?」
「大人げねぇぞ、そう云うの、」

大人げなくたって構やしない。 俺はここにミナトを呼ぶもんかと思う。 どうせここでの話もツーカーなんだろうが、俺は断じてミナトの介入を許さない。 許せばそれは「譲渡」になってしまう、俺は俺自身を譲る気は一つも無い。 だからミナトが勝手に企み行うならば、それは「搾取」なのだ。 搾取するミナトを俺は責める事が出来る。 卑怯者の嘘吐きと、正面から責める事が出来るのだ。 例え誰も味方が居なくても。

そうして俺を脅かすのはなにも、対人関係での搾取ばかりではなかった。 もっと物理的な手段でも、俺の存在はミナトに侵略されている。 

ミナトのクロ−ゼットの中身が、この冬、目に見えて変わった。


「あなたたち、仲良いのか悪いのか最近わからないわねぇ」

母親はそんなふうに言う。

「ていうかそうねぇ、ミナトはよっぽどあなたに憧れてるみたいね、二言目には《ハヤタみたいに》ですもの。 似る訳だわ。」

ミナトと似ている・・・・・ここ最近、俺は周りからそう評される事が多い。

「似てるか?」
「似てるわよ。 最近特に、ミナトはあなたと喋り方まで似てる、服もね・・ハヤタみたいのが良いってわざわざ同じようなの選んで・・・・私としてはミナトはカチッとしたのが似合うと思うんだけど、」
「じゃ、買うなよ。」
「だあって、本人が欲しいって言うんだもの、」

こうしてカタチからも取り込みは始まり、ミナトはどんどん俺に似て行く。 間違ってはいけない。 ミナトが、俺に似せようとしているのだ。 ミナトは俺になろうとしているのだ。 その事で俺がどんなに脅かされ、どんなに嫌がっているのか誰一人わかってくれないのが何よりも辛い。


そんな鬱陶しい毎日がそのまま冬休みに続き、学校の無い24時間、俺はミナトの監視下で過ごす事になった。 緩和剤代わりの母親も、月初めに倒れた祖父の様態を気遣い、その付き添いの為家を空ける事が多くなっていた。 ならば学校という避難所のない毎日、差し向かいの俺たちに和やかさは望めない。 尤も、二人で何かしたり話したりする訳ではなく、それぞれがそれぞれの時間を過ごすだけの一日ではあった。 けれど俺は至る所にミナトの気配を感じ、気の抜けない一日はまるで拷問の様に長く感じられた。 こう云う時、身を寄せる友達が近くに居たら・・・とも思ったが、どっちにしろ時間の問題で、そこだってミナトのテリトリィになってしまうのだろう。 

ならば下手に離れた所で暗躍されるよりは、互いに見える方が良い。 塾に通う二時間ちょっとを楽しみに、俺はミナトを見張り、見張られ、息苦しい時間を遣り過ごす。 楽しみにしてたクリスマスさえ、ミナトと色違いの靴を貰い、一緒に見るようにとDVDを貰い、大満足の母親とミナトを見れば正直そこに嬉しさは無かった。 良いクリスマスだと上機嫌の父親がビデオを回していたが、きっと、ぎこちなく笑う俺と心底嬉しそうなミナトが写っている事だろう。 

そんな息苦しさの中、俺は已む無く一つの大きな嘘を吐く。 


「ナガサワ君?」

おそらくこの瞬間、ミナトの中ではあらゆるデータから「ナガサワ」が検索された筈だ。

「学校の友達。 時々ゲームの話とかするんだけど、裏技教えてくれるって言うから、」

怪訝な顔のミナトに心の中でザマヲミロと思う。 俺が学校で浮いた存在なのが、ちょうどミナトの死角になった。 俺自身ですら交流の薄い学校関係は、ミナトにとっても数少ない「見えない部分」なのだ。 だから、ミナトは今、未知の名前に戸惑う。 けれどどう頑張っても、せいぜい想い出せるのは全体写真で見た特徴の無い顔くらいだろう。 残念だがミナトの手の内に、ナガサワと繋がる面子は居ない。 

飄々としてつるまないナガサワは、周囲から排除された俺とは逆に、自ら外に出たハミダシ者だった。 ひょんな事でゲームの話とかをするようになったが、友達だと言えるかは微妙だ。 そのナガサワの家に行くと、俺はミナトに告げた。 

「夕食までには帰るから」

ミナトの視線を避け、するりと玄関の外へと脱出する。 見上げれば昼過ぎの太陽はまだまだ高く、陽だまりの心地良さに開放感は倍増した。 こんなにホッと出来るなら、あんな嘘は屁でもない。 こうして俺は夕方までの数時間、自由を手に入れる事が出来た。 勿論、出掛けるのはナガサワの家なんかじゃ無い、自転車で二十分ちょっと走る区の図書館だった。 


普通に「行く」と言えば、もれなくミナトが着いて来るだろう。 恐らくミナトは親の前でそれを言う。 「図書館だったら、僕も一緒に行って良いかな?」 そして親二人に促され、俺はミナトとそこに向かう? いや、それは勘弁して欲しい。 一人になりたかった。 冬休み開始からたかが5日だというのに、身動きが取れぬ閉塞感は気が狂うに充分だった。 それに、この嘘には大事な目的の伏線が張られていた。 俺がトネガワの外来へ行く為には、この嘘が必要だったのだ。

これまで俺とミナトはそれぞれ三週に一度、トネガワのカウンセリングを受けていた。 けれどつい先日、ミナト自身はそれを自己中断と言う形で打ち切り、かつ、その不自然な終わり方を咎められる事も無く 「すっかり普通」 の自分を周囲にアピールして今に至る。 当初まだ不安の残る母親は 「これで良いのでしょうか?」 と確認の連絡をしたが、それに対しトネガワは 「僕はいつでも再開する準備がありますよ」 と言った。 その上で、治療は強制出来る事柄ではない事、本人のどうにかしたい意思が無ければ治療関係を築く事は不可能だろうと電話口の母親に言った。

そうして、家族で囲む夕食の席、母親はそれをそのままミナトに伝え、あなたはどうしたい? と尋ねる。 その問い掛けに、ミナトはスッキリした表情でこう答えた。

「僕の中で、一つの段階は終わったと思います。 だからこれからは家族に支えて貰って、自分なりに遣れるだけ遣ってみようと思うんです。」

呆れた話だ。 

勝手にすっぽかして中断したくせに、それがすっかり家族の美談へと摩り替る。 めでたい事に親はミナトの言葉に盛り上がり、一層家族の結束を硬くした様子。 まぁそれならそれで良い。 皆で上手く行くならそう云う結論でも構わないのだろう。 だけど、何故その矛先が俺に向かうのか? 家族の結束と言う魅力的な言葉を翳し、ミナトは傍観する俺にこんな事を言うのだ。

「ハヤタは、僕らに相談する事は無いの? ハヤタがどんな悩みを抱えて治療を続けているかわからないけど、でも、それは僕らじゃ力になれない事なの?」

当然、俺に答えられる筈が無い。 俺自身の葛藤は、ミナトを中心とした家族の在り方そのものに起因する。 だからこそ信頼の置ける第三者、つまり医師トネガワの力を借り、自分自身のこれからを模索している途中なのだ。 誰か一人を悪者にしよう気は無いが、批判無しにそれらの問題をを説明する事が俺には難しい。 

だけどこの場の沈黙は、俺から家族への言葉の無い批判となった。 両親が息を詰め、俺を見つめる。 今までミナトの影になっていた俺への、ほんの少しの後ろめたさかも知れないし、自分らに係わる何かを恐れてなのかも知れない。 そしてミナトは、上手い後押しをする。

「・・・・・・ごめん、答えられないよね、今更だもの、今までどうしようもなく迷惑掛けてしまったし、ハヤタには厭な思いもさせてしまったし、それなのに今更協力したいとか言っても都合の良い話だよね。」
「や、違う、俺はそう云うんじゃ、」
「ううん、ハヤタの準備も無しに、自分が解決したからってこう言う抜き打ちみたいな話の降り方は、やっぱり違うと思う。 ゴメン。 でも、僕はホントに皆に助けて支えて貰ったから、だから今度はそのお返しがしたいと思ったんだ。 それはホントだから、だから、」

こうなればミナトの独壇場だった。 声を詰まらせ語るミナトは、親二人の心をガッチリ掴んで揺さ振る。 だから母親は、意図せずミナトの脇を固める。

「ハヤタ、わたし達じゃ力になれない?」
「そうじゃない、」

そうじゃないが、結果的に、俺は家族に言えない何かを、トネガワにだけ話しているのだと認めた事になった。 この先治療を続ける上で、常に後ろめたさが付き纏うだろう事が決まった。

「まぁ、おいおい話して行ければ良いよな、」

父親がそう括り、心配する兄の顔をしてミナトが小さく頷く。 
母親は何か言いたげに俺を見つめ、しかし、なにも語らなかった。


いまだからそう思うが、この時、俺はこの話し合いを終わらすべきではなかった。 腹の内に抱えたミナト絡みの諸事情を、後先なんて考えず、ここで、家族の居る場で、OPENにすべきだった。 俺を騙り、想い出を盗んだ卑怯で異常なミナト。 何でも話せと俺に言うならば、そうした非常識をここでぶちまけてしまえば良かったのだ。 けれど問題は、ミナトにとってそれらが何の問題点にもなっていないという事だった。 ミナトの価値観は俺たちのそれと、恐らく大きく違う。 

俺の失敗は、ミナトの異常を解決する筈が無いと諦めた点にある。 家族は最も結束の固い個人の集まりなのだ、互いが利益を搾取しあう寄生植物のような共存関係ではないのだと、ミナトに伝えるべきだったのだ。 ミナトの弟として、家族の一員として、この先俺たちがこの場で家庭を団欒を作って行くとするならば、今ここでそれぞれの在り方を、立場を、ミナトに語るべきではなかったか? 

でも、俺は、俺たちはそうしなかった。 一度修羅を知ってしまったから、今更そこに戻りたくはなかった。 やっと平穏を掴んだのに、寝た子を起すような事はしたくなかったのだ。 あの時あれほど何度もそれで失敗したのに、やはり同じ轍を踏んだのだった。

そうして俺は何度か 「ナガサワ家」 へ出掛け、始業式前の金曜、私鉄で二駅離れたところにある、こじんまりしたクリニックの一室に居た。


「ここまで来るのは遠いだろう?」
「や、いいんです。無理言ってすみません。」
「無理じゃないけど、そろそろ受験とかで忙しいんじゃないの?」
「うん、その事もちょっと色々考えてて、」

去年の暮れ、俺は外来を一度休んだ。 予約キャンセルの電話で ―― 塾の補習が受診日と重なるから、出来れば曜日を変えて欲しい、何なら出向先のクリニックの方に行っても構わない――  そう持ち掛けて、トネガワの出向先であるこの小さな個人クリニックの外来へと、俺は通う事になった。 つまり 「ナガサワの家」 という口実は、この目的の為に張られた伏線であった。 これで丸く収まるじゃないか?

――― ミナトも頑張っているし、俺もみんなの力を借りてみようと思う―― 

そう言って予定の外来受診に行かなかった俺をミナトは嬉しそうに見つめ、得意の 「助け合おう」 「兄弟だもの」 を連呼した。 そして、親二人が一瞬だがほっとした顔をしたのを、俺は見逃さなかった。 それだから、嘘に一つも後悔はない。 引っ掛かりがあるとするなら、トネガワにまで嘘を吐いている事実だけであった。 

ミナトの付き纏い、嘘、俺の領域にずかずか踏み込む異常について、俺は何でもトネガワに話し、どうしたら良いかと尋ねた。 けれどミナトが、トネガワにネガティブな感情を抱いている事は何故か言えなかった。 あの、家族をも味方につけたカウンセリング中断の一件も、その矛先が自分に向いていてここに来るにも嘘を吐かねばならぬのだと、俺はトネガワに告白する事が出来なかった。 

「自我境界が弱いのかな・・・・」
「え?」
「自我、つまり自分という存在の枠組みがね、ミナト君の場合まだちょっと曖昧なのかも知れないね。 自他の境界が曖昧で、曖昧な分、自分の外の何かを読み取るのが容易いから、自分以外に染まる・演じるのが驚くほど上手い。 しかも本人、それを意識しては居ない事が殆んどだから、わざとらしさが微塵も無かったりする。 当事者である君は、辛いだろうけれど、周りは・・・・・まぁ、これはミナト君自身の治療に必要な話だから、ハヤタ君がどうこうする事ではないけれど、大事なのはね、君がきちんと君である事なんだよ。」
「俺は俺って事?」
「そう。 意外と難しいよ。 君は君なんだから、君の記憶をミナト君が拝借したら、その場で《それは僕のだぞ》と言わなきゃならない。 ミナト君が〜〜すべきと言っても、君がそう思わないならキチンとその旨を伝えなければならない。 とにかく巻き込まれて二人で流された挙句、トモダオレっていうのだけは避けたい。 ミナト君は境界が曖昧だから良い流れに沿うのも上手いけど、悪い流れにも同じように馴染んでしまう。 それが病理所以なのだけど、君自身が悪い流れの一つになってはいけない。 ハヤタはハヤタの人生を進むのだと、身をもって示してゆく他に無いね。 出来そう?」

そう、嘘を吐くからには目的がある。 俺には誰にも話してない、大きな目標があった。 

「俺さ、行きたい学校があるんだ。」

それは学区外にある県立の高校で、学力的には中の上といったランクだったが、そこの陸上部は県内外から実力者が集まる県下一のレベルを誇っていた。 俺は、そこで自分を試したいと思った。 勿論スポーツ入学の枠では無理だろう、中学三年間の実績がゼロなのだから。 だけど普通に越境入学して、それから陸上部に入部するならば、まだ俺にも希望があるんじゃないだろうか。 

「もう一度、ちゃんと走って見たいんだよね。 そりゃ、そんなスッゴイところ行ったら俺なんてケチョンケチョンなのは目に見えてるけども、でも、それはそれで俺の結果なんだと思える。 けど、皆、俺はS学に行くと思ってるだろ? 俺自身、同じ学校へ行くんだってミナトに夏、言っちゃったんだ。 でも、でもやっぱ俺、ミナトと離れてた方が良いように思う。 それに俺のしたい事はそこに無い。」
「それが、ハヤタの選んだ未来なら、そう進むのが一番だと思うよ」
「うん、そうしたい、俺は走りたい。 だけど、今S学に行かないなんて言ったら猛反対で揉めると思うんだ。 ましてや学区外だし、ミナトがなんか言えばきっとこじれると思う。 だから三月の模試で入学可能な結果を出して、俺が本気だって認めて貰ってから進路変更の話しをしようと思ってる。」
「簡単じゃ・・・ないと思うけれど、出来そうかな?」

出来そうかだなんて、膝に乗せた掌に汗がじんわり滲むくらいに俺は緊張して、心臓が跳ね上がりそうで、

「・・・・・・てか・・・そこで引いたらきっと、進めなくなんだろうけど・・・・けど、そッから先は自分で頑張るから、先生、そこまでだから、後もうちょっとだから、まだ支えが欲しい。 親はそんなの学校で相談出来る事だって言うけど、俺にはまだココが必要だし。 だから、」

だから、もう少し、

「もう少し、ここで治療を続けさせてください。 あとほんの一押しだから、俺、親とか言うようにホントはもう病気じゃないのかも知れないけども、でも、不安だから、まだ自分に自信ないから、だから、」

だから、

「俺、ココで治療をまだ、続けてても良いだろ?」

穴が開くほど眺めたトネガワは、ちょっとも厭な顔やイライラを見せなかった。

「ハヤタがもう充分と思うまで、治療は続くんだよ。 必要なだけ力を貸すのが、僕の役目だろ?」


こうして新たな計画は始動した。 

その片棒をトネガワに担いで貰い、俺は洋々と一歩を踏み出す。 これで、誰も傷付く事が無い。 苛立つ事も無い。 親の保険証を使うのだから、いずれバレてしまうかも知れないが、その頃にはきっと、俺だって一人で進む事が出来る。 それぞれの進路へとそれぞれが進み、そこで精一杯出来る事をすればきっと、ミナトも自分の本当を見つける事が出来るだろう。 だから逃げなんかじゃない。 距離をおいたのだ。 これは今現在の、最良の手段なのだ。

現金なもので、自分にゆとりが出来ると細かい事に苛つくこともない。 家に着くと案の定、玄関先でミナトが俺を待っていた。 だけど、そんなの余裕じゃないか。

「ただいま、」

余裕だからほら。
いつから待ってたかわからないミナトにだって、こうして笑って《ただいま》が言える。

「おかえり・・・・・何か良い事あったの?」
「そ、隠しキャラの出し方がわかってさァ、」

先手を打ち、会話の主導権を握るのは俺だ。 そんな俺にミナトはおやという顔をしたが、敢えてそれ以上を、根掘り葉掘り聞き込んで来る事はなかった。 いずれにせよ、これからが勝負、遣る事は山ほどあるのだから些細な事でおたおたしては居られない。 表向き和やかに過ごし、時折 《ナガサワ家》 に出掛け、やがて始まった新学期、学校が始まればこっちのものだ。


放課後の二時間ばかりを図書室で過ごし、模試に向けての勉強をする。 滅多行かない進路相談室のファイルから、密かな志望校であるR商業の過去問題も、こっそりコピーして手に入れた。 そうして大事なそれらは帰り掛け学校のロッカーに仕舞い、何事もない顔の俺はミナトの待つ家に帰る。 親もミナトも模試の事は知っているから、放課後、俺が図書室で勉強して来たとしても別に不自然な話ではない。 クリニックに行くにしても図書室の居残りで十分口実はつくし、石橋を叩くなら例の 《ナガサワ家》 を使うのが安全だろう。 

大丈夫。 大丈夫、巧く行く。 

そんなふうに、たいした杞憂もなく俺は目的に向かう。 口数が増えた俺に、調子良いじゃないのと母親は言い、 《自分は自分》 何かあれば言ってやるぞと構えている時に限って、何故か当のミナトは穏やかで、嘘を吐いたり不穏な行動をしたりする事はない。 

つまり平穏だった。 

そして俺はその平穏な微温湯に、すっかり油断していた。 平穏に甘え、毎日上手く遣り過ごす事に浮かれ、難なく二月の受診もクリアーして、俺はますます現状の温さに溺れた。 ゼミや学校の小テストに於いて、勉強の成果が着々と見えて来た事も、俺を有頂天にする一因となった。 予兆など数多くあった筈なのに、俺はそれに気付く事が出来なかった。 三月始めのこんな予兆さえ、俺は軽く見逃していたのだ。


「そういやさ、こないだミナトさん見たよ。」

駐輪場でムロチがそう言ったとき、ふうんと俺は流した。

「キタノノヤマのバス通りを歩いてたんだけど、ミナトさんバス通?」
「や、電車。」
「だよねぇ、やさぁ、S学だったら南口だからバス通りと逆じゃん、だからアレレって思ったんだよ、駅と反対に歩いてたしさ、」
「歩いてみたかったんじゃねぇの?」
「アハハ、散歩? なんかあの人ありそうだけど、そうかぁ?」

ミナトはずっとハイテンションだった。 ここ暫くは特に俺に付き纏う訳でもなくどちらかといえば単独で、何やかやと忙しそうにしている事が多かった。 だから、ムロチの話におやと思ったけれど、きっと本人なりに情報収集がてら駅周辺を散策していたんだろうと高を括ってしまった。 


何故、気付かなかったんだろう? 何故それに気付かなかったんだろう?

多分、俺の嘘が崩れたのはその瞬間だった筈だ。





                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい