036   きょうだい   12.


     虚しさは、執着に比例する。

思い入れが強ければ強いほど、失った時の虚しさは底無しの暗闇を創る。 失う事の寂しさとは、そこにない(居ない)、何か(誰か)を思う、やり場が無く取り返しのつかない思いなのではないか? 多分、そうに違いない。 最近、そんなふうに思う。


それまで、俺には深刻な喪失体験が無かった。 勿論、大事にしていたトレカを無くしてしまったとか仲の良かった友達が離れて行っただとか、自分の中に在ればそれでも相当深いだろう喪失を、多少経験してわかるつもりにはなっていた。 しかし、生きる先にはもっと乗り越えねばならぬ苦しみがあり、もっと内臓がギュッと絞られる痛みがあるなどとは、到底考えもつかない甘ったれの子供に過ぎなかった。 

例えば家族を失ったら? わが子を失ったら? 
例えばより気掛かりな背景を持つ子供を、ある日突然、まして失った事すら曖昧に、成す術も無くただ遣り切れなさと焦燥を持て余し、長い長い時間を経てしまったのだとしたら。 

カシワギの家は、未だ終わりの来ない曖昧な喪失に漂い、宙ぶらりんのまま二十余年を過ぎようとしていた。

俺は、喪失という言葉の意味を、わかっていたのだろうか?



世間一般から、カシワギ家は経営者と教育者の一族と言われていた。 しかしその歴史は意外にも浅く、僅か四代遡れば途切れるまだ始まったばかりの歴史だった。 四代前、都落ちをした武家一家の長男たる初代カシワギは土地の豪農の娘と恋に落ち、何もかもを捨てて二人は村を去る。 二人を祝福する者は、誰も居なかった。 誰からも祝福されず、しかし自分達の行く先を信じ、二人は故郷を遠く離れた土地で九人の子供を産み、そこで新しい血筋を繋げた。 やがてその息子娘らの何人かは父親譲りの賢さを発揮し、母親譲りの如際無さで商売人としての才覚を現した。 そしてその彼らの子らの多くもまた、恵まれた才覚を初代から譲り受け、それぞれに見合う分野へと進んだ。

つまり、カシワギ家のルーツとは、自ら血筋を切り離した若い二人の物語に端を発するのだった。 自分たちの未来と希望の為、既存の繋がりを切り離し決別し、新たな血筋を繋げ新たな始まりを創り出した二人。 そして皮肉な事に現在当主である祖父カシワギタケヨシの生涯とは、途切れた自らの血筋を必死で手繰り寄せる困難に費やされた歴史であり、今その人生が終わりに近付いたこの時でさえ、あやふやな血筋を結び直す事に追われ、静かに眠る事すらも出来ずにいる。 

三ヶ月前病に倒れた祖父カシワギは、ジワジワその命を使い果たそうとしていた。 けれど燃え尽きる前、一族の長として、一人の父親として或る苦渋の選択を下す。 それが、ミナトのDNA鑑定だった。 諸々のリスクを懸念し、先送りにしていたその手段だったが、もはや悠長な事は言っておれない状況になっていた。 ミナトの出自、父親探しはこれまで通りに継続されてはいたが、しかしその結果を待てずに祖父が亡くなれば、ミナトを養子に迎える算段もまた面倒な事になるだろう。 


 「なぁ、難しく考える事は無いさ。 これは、つまり単に戸籍を作る上での手続きみたいなものなんだから。」

父は、ミナトにそう言った。 嘘ではない。 出生届の無いミナトの場合、戸籍を作るには法務省の管轄を突破せねばならず、ミナトが身内であればそれは有利に働くだろうし、そうでなければ単純に養子として、鑑定結果の有無に係わらず、祖父はミナトの戸籍を作り養子としてカシワギの籍に迎えるだろう。 そうして書類上、ミナトは俺の叔父になり、一人息子だった父親はこの年で兄弟が増える事になる。 奇妙な流れだが、それが今出来る最良であった。 ミナトを家族にする為の、数少ない方法であった。 

 「結果がどうあれ、おまえが家族である事に変わりない。 おまえは親父の養子に入り、まぁ、書類上のややこしさはあるが、なんら今までと変わる訳でもない。 変わらないさ。 だから、一つも心配する事は無い。 ミナト、おまえはカシワギの人間だ。」

父を凝視していたミナトはやがて小さく肯いたが、それが承諾なのか諦めなのか、白っぽく表情の抜けた顔はそのどちらとも判断がつかない曖昧さだった。 それより何よりも、突きつけられた決断に俺自身、思いがけぬ動揺でやり場の無い感情を持て余していた。 俺たちは、家族なんだろうか? これまでも、いやこれからも、こんな俺たちは家族としてどうすべきなんだろうか? 

果たしてミナトとは血の繋がる身内なのか? 
或いはミシヲに似てるというだけの、赤の他人なのか。

ミナトと俺、俺たちとミナト、今尚も続く長い葛藤と落ち着く事を許さぬ不安定な揺らぎ。 厭な出来事を思い起こせばそれこそ、ゾッとするあれこれを即座に思い浮かべる事ができる。 背中が冷える虫を見るような目とか、人を人とも思わぬ感情の欠片も無い酷薄さだとか。 思い出せば、そら、心拍数が上がる。 ミナトと過ごした時間には、それら病的な閉塞感が付き纏い、そして家族をも巻き込んだ長い年月には驚くほど安寧というものが無かった。 しかし、そのささやかに存在する安寧こそ、俺たちが今もミナトを信じよう庇護しようとするたった一つの根拠なのだった。 

つまり、あの夏、ミナトがこの家に現れたあの一瞬に俺たちは囚われ、そしてあの夏、ミナトが初めて「家族」として存在し得た甘い夢のような団欒が有ったからこそ、俺たちはこうして未来に期待しもがくのだった。 なんでこうも上手く行かないのだろう? ミナトが普通じゃないから? そのミナトに俺たちは、なんでこうも執着するのか? 例えば、仮に最初から出自がはっきりした 「ミシヲの遺児」 もしくは 「血の繋がりはない養子」 というミナトが現れたとしたら、俺たちはどうだったんだろうか? 同じように葛藤し、同じように揺らいで今日までを過ごしただろうか? 

そうじゃないだろう、きっと違う。 そこに揺らぎや葛藤が有ったとしても今のそれとは大きく異なると思う。 既に 「家族」 である葛藤と、 「他人」 であるが上の葛藤は大きく違う。 そしてミナトはそのどちらとも言えなかった。 それが、全てに共通する不燃感の元であるのだと思う。

ミナトは家族であるようでそうではなかった。 出自の問題もあるが、何よりミナト自身が宇宙人のような異質として存在していた。 理解し難い存在として、しかし 「家族の一員」 と云う配役で存在したミナトに対し、俺たちは過剰な気遣いと遠慮をもってして係わってきたように思える。 それは、もしかしたら他人かも知れないという後ろめたい距離感が、それぞれの中にあったからではないだろうか。 他人かも知れないが、身内かも知れない。 そんな疑念を抱く自分たちが後ろめたいから、過剰に期待したのかも知れない。 病的な諸々に振り回されつつも、だけど 「可哀想な他人」 だと思うから、容認して遣り過ごせていたのかも知れない。 

じゃあ、血の繋がる身内だとはっきりして尚、俺たちはそんな風に寛容に、あらゆる面で譲歩しつつ遣って行けるんだろうか? 正直、俺にはその自信がなかった。 卑怯だと思う。 自分は心が狭いと思う。 だけど、名実ともに 「兄」 となったミナトと、 「弟」 たる俺はどう付き合って行けば良いのだろう?


そうして、 「変わらないさ」 という父親の言葉通り、取り立てた変化もなく、俺たちは皆腹の内を明かさず家族であり続けていた。 何事もなく何事もなく、この家では馴染みのその呪文を俺たちは必死で唱える。 どうしようもない息苦しさに大声を上げ、どこかここでない場所へ逃げ出してしまいたかったが、逃げる場所なんてどこにも無い事を皆知っていた。 そして誰よりも逃げ出したかったろうミナトは鑑定を八日後に控え、失った表情のままゲージの鼠の様に落ち着きない一日を過ごした。 

朝はまだ薄暗い部屋の中、何をする訳でもなく硬い表情のまま机に向かっていた。 俺も決して寝坊ではないが、それでも日が昇るより前にミナトが起きているのは確実であった。 かといって夜は夜でデスクトップの前に座り、画面がスクリーンセーバーに変わっても、硝子みたいな目は意味の無いモニターをいつまでもぼんやり見つめるばかりであった。 勉強している風でも、ペン先は微動だにせず、ただ、そんな形をポーズしているだけの上の空であった。 無表情の自動人形の様に、機械的に日常をこなすミナト。 しかし何もかもがミナトの上っ面を滑り、何もその心には届いていないように思えた。 あれほど俺の言動を事細かに確認していたミナトだったのに、ここ数日碌に話もしていない。 学校へは休まず通っていたが、何故だか帰りが遅くなっていた。 通常より一時間、二時間遅く帰宅し、放心したような表情でスゥッと自室に引篭もるミナトには、なんだか声が掛けられない距離があった。 

確かに、今は俺なんかの事に構っちゃおれないのだろう。 なら良いじゃないか。 ほっといてくれとあれほど願ってたじゃないか。 現に俺自身の生活はまずまずのバランスを保ち、ほぼ思い通りの方向へ進み始めている。 日々の過干渉はあるものの上手くミナトを遣り過ごし、学校と塾と 「ナガサワ家」 で適当な息抜きをして、誰にも知られる事なくフタミのクリニックへも通う事が出来ている。 一番の不安だった成績も、何度か行われた小テストの結果を見る限り、徐々に成果が出始めている手応えを感じていた。 春休み目前の今、このまま進めば模試もそれなりの結果が期待出来るだろうし、ならばR商業への受験を切り出すにも、俺には都合の良い流れになる筈だと思えた。 

なのに、もやっとした気持ちは酷く俺を落ち着かなくさせる。 可笑しなものであんなにあからさまだった纏わり付きがなくなってみると、なぜか無性にミナトをこちらに振り向かせたくなった。 

「あのさ、ミナト、ちゃんと寝てるのか?」

「うん。 寝てるけど、眠れないんだよ」

答えるミナトは机に向かい、広げたノートの上にシャーペンの先を休ませている。 一見すれば勉強途中の小休止だが、そのペン先がずっとそのままなのを俺は知っていた。 俺は自分のベッドに座り、漫画を読んでる振りをしながらそんなミナトをずっと見ていたから、ミナトが上の空なのをとっくに知っていた。 そんなミナトは嫌だ。 覇気の無い顔を叩き 「お前はそんなじゃないだろう?」 と揺すぶり、弱音の一つも吐かせて遣りたくなる。

「帰りだってここんとこやけに遅いじゃん。 部活とかしてないのに、何であんな遅いんだよ。」

「僕だって、寄り道くらいするよ。 ハヤタだって、いつも真っ直ぐは帰らないだろう?」

「じゃ聞くけど、寄り道ってどこ寄ってんだよ、買い物してる訳でもないし、誰かんちで溜まってた訳でもないんだろ?」

「何でもないよ。 べつに、何でもないから。 ただ落ち着かなくって、落ち着かないからそこらをぶらついて帰ってくる・・・・・・それだけだから。」

背中を向けたままのミナトが、背中を向けたまま話しを断ち切る。 どんな顔をしている? きっと表情の抜けた白っぽい顔で、水の中で聞く雑音くらいにしか届いちゃいない俺の言葉を、半ば反射的に答えているのだろうと思った。 俺は、それが辛い。 俺自身がこの焦燥に耐えられず、なによりその本人が白々しているのが耐えられない。 いっそ泣き叫んだり八つ当たったり、もっと取り乱して欲しかった。 もっともっと取り乱して、それを、俺は慰めたかった。 そうして自分を落ち着かせたかった。 

けれどミナトは取り乱さず、ただ、内側でもろもろと崩れる何かを自分一人で抱えている。 以前の様に食べたり洗ったりといった病的な兆候が出る事はなかったが、言わばガス抜きのようなそれら症状が出ない今、ミナトの内側はパンパンに張りつめ弾ける前の風船のようだと思えた。 だからつい、必要以上に近付いてしまう。 そうやってまた巻き込まれる事がわかっていても、俺は自からミナトに巻き込まれようと近付く。 だってしょうがない、だって見ちゃ居られない? ジリジリその結果を待つ事が、俺には耐えられない苦痛だった。

「なんか、なんかさ、」

何か言って欲しい。

「なんかさ、俺じゃアレだろうけどでも、なんか話してくれよ。 なんか、なんかさ、」

だから、取り敢えずなんか話して欲しい、そんな風に言う自分が実は卑怯なのを知っている。 俺はミナトを心底心配してる訳じゃない。 抱え込むミナトを見守る自分が耐えられないだけなのだ。 結局自分の弱さを棚に上げて人を支える振りをしようとするから、いい加減に流され、巻き込まれ、わざわざ袋小路に嵌る。 だからそら見た事か、いざこんな風にミナトに言われれば、もう、卑怯者は言葉を失い固まるのだ。

 「・・・・・・僕は、何かな?」

 「え?」

 「ハヤタはカシワギ家の長男の息子。 そして孫であったり甥であったりする訳だろ? それは別に特別な事じゃないし、普通、皆、家族の中に位置があってそこを拠点にそれぞれの社会で自分の役割を担う。 だから、自分を定める事が出来るし、自分は自分であると、その定位置に戻る事で自分のポジションを再確認することが出来る。 家族って言うのは、いわば道標みたいなものだと思うんだ。 そこを見失わないように、生きて行く為のね。 だけど、ねぇハヤタ、僕はなんなんだろう?」

 「み、ミナトはミナトだろ?」

 「そう、僕は僕だ。 それは間違いない事だけれど、僕はその自分自身への疑念を拭い切れない。 僕は何故生まれたのか、誰が僕をこの世に送り出したのか? 僕は、何の為に生まれてきたのか?」

 「そりゃ、誰がってミシヲさんなんだろ? ミシヲさんはミナトのお母さんなんだろ? 家族じゃないか、事情はわからないけど、きっと子供が欲しかったから産んだんだろうし、自分の子供だからちゃんと名前だってミナトって、」

 「違う。」

ミナトが、言葉を遮った。 短く発せられ、否定は、シンと一瞬で俺たちの周りを冷やす。 そして後向きの薄べったい肩が吐き出す溜め息にゆっくり上下して、もう一度同じ否定を繰り返した。

 「・・・・・・違う。 それは、多分違うよ。」

 「なに・・が・・・・・・?」

その時、ミナトが小さく笑った気がした。 愉しくも何ともない、遣り切れない時に思わず零れるような笑いを、咽喉の奥、くぐもるように発した気がした。

 「ハヤタは、何でハヤタって名前なの?」

 「え? お、俺?」

 「うん。 子供の名前って普通、希望とか願いとか色んな思いを託してつけるものなんだろ?」

そう、俺の名前は家族と一族の願いを込めた名前だった。 長い暗い年月が、早く明るく開けるよう、早く幸福の種が発芽するよう、早く早くそして太く揺ぎ無い物であれとつけた名前がハヤタ、俺の名前だった。 がしかし、それを特別に思った事はない。 子供の名前なんて普通そんなだろう? 有りっ丈の願いや思いを託し、少々大袈裟過ぎるくらいに期待した意味をつけるのが常だと俺は思っていた。 事実、廻りもそんなだった。 しかし、普通の外には例外があるのだ。 単に、世間知らずの俺が気付かぬ所に、物事の例外はちゃんと存在していた。 

机に半身を預け、ミナトがこちらに身体を捻る。 真っ直ぐこちらを見る目がやけに光っている気がした。 光る目をして、血の気の無い顔に曖昧な笑みを浮かべ、ミナトは御伽噺を読み聞かせる口調で、その残酷な話しを語り始めた。

 「最初の記憶はね、真っ白な部屋なんだ。 真っ白な部屋で白い服を着た女の人が本を読んでいる。 髪の長い、女の人だった。 マントみたいに首から下を白ですっぽり覆ってね、白い手袋を嵌めて、その人は大きな本を読んでいる。 そして僕はそれを見ているんだ。 僕は、檻の中に居た。 あれは何だろうね、犬か何かを閉じ込めるそれだったんだろうか? 天井が僕の頭よりも高い、金属の柵が嵌った檻の中に僕は居た。 そしてそこからその人を見ていた。 ただ見てたんだよ。 そこに行きたかったけれど、行ってはいけないのを僕は何故か知っていた。 その人を呼ぶ事すらしなかった。 ていうより、そう、僕はその人の名を知らなかった。 僕はそうやって、名前の知らない女の人を眺めてずっと、そこに居いたんだ。 ずっとね。

やがてある時、その人が 「ミシヲ」 と云う名なのだとわかる。 かと云ってその人に教わった訳じゃない。 それを僕に教えたのは男だ。 男は僕らの身の回りの全てを任されていた。 男は僕らを食べさせ、身綺麗にして、その部屋を過不足なく保った。 言ってしまえば僕はその男に育てられたような物だ。 衣食住の全ては、その男に掛かっていたから。 その男がある日、僕を檻から出してくれたんだ。 尤も、その頃僕にその檻は小さく、腰を屈めなければ立っていられないほどだったからね。 そして檻から僕を出した男は僕にこう言った。 

 『あなたは色々学ばなければならない。 私はあなたに色々教えねばならない。 そして、大事な約束ですよ、何があっても、ミシヲ様には触れてはいけない。』

だから、僕はその人がミシヲだと知った。 そして男自身は自分を 「奉仕者 」だと名乗った。 奉仕者は、僕に教育を施した。 いわゆる勉強に関しては今随分助かっているけども、それ以外はね・・・・・・。 でも、その時点で僕はまだ自分の名を知らない。 自分に名前がある事すら知らなかったし、それが問題かどうかもわからなかった。 だって誰も、僕を呼ばなかったから。 呼ばれない名前なんて必要ないだろ? そうして更に長い事そんなだったよ。 僕と、ミシヲと、奉仕者と、三人の生活は当時それが普通だと思っていたし、疑問を感じる事すらなかった。 だけどいよいよ名前を知るチャンスが来た。 

それは長い事雨が降り、蒸し暑い季節だったよ。 僕は水疱瘡に罹り、普段物置になっていた狭い三畳へ隔離された。 さすがに不味いと思ったんだろうね。 男はそこに医者を呼んだ。 あぁ、僕にしてみたらミシヲと奉仕者以外に見る、初めての人間だった。 驚いたよ。 白い頭をした老医師で、深い目尻の皺だとか削げた頬だとか、初めて見る老人はなんだか違う生き物みたいで怖くってね。 皺とシミが汚れみたいに見えた。 血管が浮いた手で触れられて、僕は息を詰めたまま口も利けなかった。 「名前は?」 多分、医師はそんな事を聞いたんだと思う。 だけど黙り込んだ僕に代わり、奉仕者が医師にこう言った。 

 『名前はミナトです』

医師はそれを聞き合点が行ったという表情で、僕に一々その名前を告げた。 ミナト君、ミナト君、何度も聞かされる内、僕はそれが自分のことを指す名なのだとわかった。 そして僕は、自分がその時6歳である事を知った。 でもまぁね、カレンダーも無い毎日だから、そこから先、どのくらい経ったのかはまるでわからなかったけれど。 でも、僕は自分に名前があった事が嬉しかった。 嬉しくて奉仕者に、僕の名はミナトなんですねと聞いた。 するとどうだろう、奉仕者は眉根を寄せちょっと困った顔をして言うんだ 『もし、人に聞かれたらそうこたえてください』 と。 子供ながらすぐに悟ったよ、この名は本当の名前ではないんだって、だからきっとこの名前で呼んでは貰えないんだろうって。 でも、なんでだろう? その疑問はすぐに解けた。 

医師が帰った後、奉仕者は僕に薬を飲ませ、ボトルに入った水を枕元に置くと、来た時同様に何も言わず部屋を出て行った。 一人になった僕は、もやもやしながらも、ミナトと言う名前に少し浮かれていたのかも知れない。 ミナト、ミナト、それが船の行き来する海の駅だという事を僕は知っていた。 僕はミナト、僕はどこにでも行けて皆僕の所に集まる。 ミナト、ミナト、なんて良い名前なんだろう、たとえ呼んで貰えなくってもこんな名前を僕にくれたのは、もしかしてミシヲなんじゃないか? 上機嫌の僕は、枕元のボトルを手にして一口飲み込んだ。 熱っぽくすぐ乾く舌に、水はひんやり気持ち良く流れる。 そしてボトルの口を閉めようとしたその時、僕は、それを見てしまう。 

   ―― みなと食品 ――

ボトルに巻かれたラベルに印刷されていた、決して小さくはない濃紺の文字。 あの時、奉仕者は僕の背後に座り、医者の言葉を聞いていた。 そして多分、医者に名を問われ、これを見て答えたのだろう。 僕は、そう確信した。 意味なんて何もない、その場凌ぎの名前。 やはり、自分には名が無いと、その時僕は確信したんだ。

後はずっと同じだよ。 僕はミシヲと奉仕者と暮らした。 誰も僕の名を呼ばなかった。 そしてある時、奉仕者が出て行ったきり戻って来なくなった。 そして一人で何も出来ないミシヲは、本当に何もしなくなってしまった。 布団に横たわったきり、飲まず食わずで憔悴していった。 だけど不思議なんだ、僕はそれをただ見ていたんだ。 哀れだとか何とかせねばとか、ミシヲに関してそうした感情は一つも起こらなかった。 僕にとってミシヲとは、そう在るべき絶対で、そこにつまらない感情を挟む事なんて許されない事なんだ。 だから、そう在るべき事なのだと、衰えてゆくミシヲを僕は眺めていた。 

寧ろ戻って来ない奉仕者に、 「役立たずめ」 と憤っていたよ。 でも、そこから動くつもりなんて無かった。 何故なら外は穢れているのだから、そこより他に安心出来る場所は無いだろう? やがてミシヲは排泄すらままならなくなり、部屋の中は荒み、厭な臭いで一杯になった。 でも、僕はそれを不潔だとは思わなかった。 掃除をしなければとか、そういう方には考えもつかなかった。 単に、ミシヲが穢れ始めたのだと思った。 だから、ミシヲには触れずにおこうと思った。 だけど穢れた人間がどうなって行くかちゃんと見なければならないとも思った。 だからそこに居た、僕はずっとそのままそこに居た。 そして僕はそこに留まり、ある日、見知らぬ大人が数人部屋に入って来て、僕の名前を尋ねた。 「ミナト」 と、僕は答えた。 そしてここに来た。

わかるかい? 本来ミナトという人間は存在しないんだ。 僕は自分が誰から生まれたかを知らない。 あの部屋で育ったのは確かだけれど、あれが家族なのだとは到底思えないし、まして 「母親」 と云う言葉とミシヲがイコールで結ばれる何て事、僕の中では有り得ないんだ。 ねぇ、ハヤタ、こんな不確かな自分を道標に、僕はどこに行けば良い? 僕は、何なんだろう?」


真っ直ぐな目は俺に問い掛けて、長い長い話しを終えた。 真っ直ぐな目は、間抜け面で呆ける俺を、どんな風に見たんだろう? 俺は、何一つ力になんてなれなかった。 励ます事も出来ず、相談に乗る事も出来ず、ミナトは、ミナトなのだと、問い掛けるミナト自身に答える事すらも出来なかった。 

そしてミナトが立ち上がり 「顔を洗って来るから」 と部屋を出たのを見計らい、俺は大きく息を吐いた。 あんなの聞かなきゃ良かったと思った。 とても自分の手に負えないと痛感した。 ミナトの背景は重過ぎて怖い。 そんな重荷を抱えたミナトに、俺如き何の力になれる? いや、それは言い訳だろうとどこかで声がした。 ミナトの告白を聞き、より一層ここから離れよう、何がなんでも県外のR商業へ合格してやろうという気持ちが固まったのを感じた。 つまり、俺は逃げたかったのだ。 かつて御先祖様がそうしたように、逃げて、逃げて、俺は俺の幸せを優先したいのだ。 果たしてそれは、いけない事なんだろうか?

自分だけ幸せになるのは、許されない事なんだろうか?


翌々日の放課後、俺は暢気な路線バスに揺られ、キタノノヤマのバス通りを走っていた。 バスケの試合を見に来いと言われ、地区予選の行われるムロチの中学へと向かう途中だった。 バスに乗り込んだキタノノヤマの駅は、ちょうど下校するS学の制服で溢れ返っていた。 もしやミナトに会えるかなと思ったが、S学ならこちら北口でなく南口の方を通るだろう。 賑やかな商店街が連なる南口と正反対に、こちら北口はまばらな商店と、侘しい感じのする平屋建てが点々と並ぶどことなく寂しい町並みであった。

 ―― そういやさ、こないだミナトさん見たよ。 ―― 

突然思い出したムロチの言葉。 ミナトは、この辺を歩いていたんだろうか? くすんだ板塀に、張り紙と落書き。 手入れの届かない雑草だらけの路肩に、乗り捨てられた自転車。 御世辞にも、歩いて楽しい場所とは思えなかった。 やがてバスは大きく通りを反れ、道二つ隔てた国道を意気揚々と走り出す。 大型量販店が並ぶそこならば、何やら見所も有りそうだと思ったが、しかし、標識の地名は既にノノヤマ中央になっていた。 

―― キタノノヤマのバス通りを歩いてたんだけど、 ――

あんな侘しい場所で、ミナトは何をしていたんだろう? ここ最近帰りが遅いミナト、それは今も、ここらを歩き回っているせいなんだろうか? 


試合を観戦し、家に戻ったのはとうに六時を廻っていたのだが、ミナトが戻ったのはそれより更に遅い七時近くになってからだった。 その少し前、祖父の病院から戻ったばかりの母親はせかせかと台所で夕食の支度に取り掛かっていたが、慌てふためく母親に、ミナトは 「先にシャワーだけでも浴びたいので、皆で先に食べてて下さい」 と告げ、そのまま浴室へと向かった。 呆然としたような、どこか上の空のミナトに母親は、何かあったのか? と問うたが 「ちょっと疲れ気味なんです」 と作り笑いを浮かべ、ミナトに取り付く島はなかった。


そうして、もう寝るばかりの子供部屋、勉強してるのかしてる振りだけなのかわからぬミナトに、俺はこう尋ねる。

 「今日さ、キタノノヤマに行ったんだけど、ミナトの寄り道ってその辺?」

キタノノヤマという地名を口にした時、振り返ったミナトの視線が僅かにきつくなった気がしたのだが、やはりどことなくぼんやりした表情でミナトは言った。

 「うぅん、違うけど。 でも何で?」

 「ちょっと前にさ、ムロチがミナトを見たって言ったから。 北口のバス通りをミナトが歩いていたって、」

 「あぁ、ちょっと前にね、あの辺の地理を知らな過ぎるから、何度か少し歩いた事はあったよ。 どうせする事もないし。・・・・・・そうか、今日はムロチ君の試合だったんだね。」

 「うん、イイ線行ったんだけど二試合目で負けた」

 「そう、」

生返事のミナトに拍子抜けしたが、ムロチの試合を知っていたミナトに、何故だか少しホッとした。 情報源がどこからかは知らないが、そうした事に気を配れる位にはちゃんとしてられるんだろうと安心し、まだぼんやりしてるミナトを放って俺は布団に潜り込んだ。 うとうととしながらも何か引っ掛かるものを感じてはいたのだが、それ以上に眠気は抗い難く、ここ数日の疲れも俺の思考を散漫にした。 

だから俺はミナトが毎日どこに寄り道をするのか、復学後からの多動、そしてここ数日の上の空な有様を、鑑定前の感傷なのだと都合の良い同情で誤魔化し、ならしょうがないだろうと暢気に眠ってしまった自分を後々後悔する羽目になる。 ミナトはミナトだったのだ。 俺ほど甘っちょろい感傷に、浸ってなどいなかったのだ。


その日、トネガワのクリニックでは久々に自分中心に話を進め、心地良い充実感に俺は浸っていた。 ミナトのDNA鑑定に対する、自分の卑怯な気持ちにも向き合う事が出来、その一方で、ミナトに煩わされる事なく着々と受験に備える自分というのもトネガワに評価して貰う事が出来た。 唯一言えなかったのは、ミナトが告白したあの一連の残酷な話で、しかしあれは、本人が言うべき内容だとなんとなく躊躇し、俺は敢えてそれをトネガワに伝えなかったのだと自分で解釈していた。 つまり、俺はとても満足した面接を終え、家路に着いたのだった。 まさかそんな出迎えが待っているとは、思いもしなかったのだった。

ただいまと玄関を上がり、部屋に入るとそこにミナトが居た。 ミナトはデスクトップに向かい、何やら打ち込みをしていた。 部屋に入った俺をチラリとも見ず、読めない表情のミナトがお帰りと、言葉だけを投げた。


 「お帰り。」

 「あ、あぁ、ただいま。 今日は早いじゃん、寄り道はナシ?」

俺の問いには答えず、漸くこちらを見たミナトが唇の端だけで笑った。 何か、含みのある厭な笑いだった。

 「ハヤタはゆっくりだったね、ナガサワ君ち? 余程気が合うんだね。 でも大変じゃないか? ナガサワ君ちにはずいぶん交通費が掛かるんだろ?」

 「な、に?」

 「わざわざ貯金通帳を持って行くんだもの、それに自転車で二見まで行くのは大変だよね? それともわざわざ途中で一つ手前のナガワの駅前に停めて、そこから電車に乗って行くんだとか、」

浮かれた体温が、一気に下がるのを感じた。 バレている。 ミナトに全てバレている。 
何で? どうしてあれがバレた? 

 「世間知らずの僕にはわからないけど友達の家って、保険証が必要なんだね?」

 「・・・・・・なんで知ってる・・・・・・何コソコソ嗅ぎまわってんだよ?」

発した声は、咽喉に張り付き変にしゃがれていた。 目玉の奥が何だか知れない憤りでチカチカ点滅を始めた。 その憤りは目の前、薄ら笑いのミナトへと当たり前のようにぶつけられる。
 
 「何で、何でお前そんな事知ってるんだよ、何でだよ? 聞いたのか? 誰が? 誰からそんな事聞いたんだよ? 証拠はあるのかよ?」

 「証拠って ・・・・・・そんな風に、恐い顔して詰問して来るのが証拠なんじゃないの? 僕はハヤタの事なら何でも知ってるんだよ。 だって兄弟だろ? 大事な弟の事、兄は知るべきだよ。」

 「なに言ってんの?」

 「嘘を吐いてまでトネガワに会いたいの?」

 「黙れッ!」

 「もう充分じゃないか?」

 「何がだよ?」

 「僕の事ならもう、大丈夫だって言ってるじゃないか。 僕がハヤタを苦しめたって言うんだろ? あぁ確かにそれは認めるよ、だけどそれは僕も同じ事。 あれは御互い悩んであぁなったんだ、だけど僕はもう普通に暮らす事が出来ている。 僕が普通なんだから、ならばがハヤタこれ以上トネガワに相談する理由なんて無い筈だろ?」

普通? 普通だって? 
熱に浮かされたような光る眼をして、憔悴した顔のミナトは変な高揚感を纏い尚も言葉を続ける。

 「ねぇ、ハヤタはこの際、家族に頼るべきだよ。 せっかくの家族なんだからね。 お父さんお母さんも相談に乗れるだろうし、僕だってここの家族なんだろ? 兄弟で相談する事だって出来るじゃないか?」

 「滅茶苦茶だろ? ・・・・・・そりゃミナトの件は終わったんだろうけど、オレのはまだ続いてンだよ。 俺の治療なんだから、ミナトがとやかく言うことじゃねぇし、」

 「なんで? ハヤタは健康だろ? 健康で普通じゃないか!」

 「いいだろッ! 俺は俺で色々考えたい事や悩むことがあるんだよ、お前ほどじゃねぇけどちゃんとあるんだよ!」

 「じゃ、僕に相談すれば良いじゃないか。 いつか僕が困った時みたいに、今度はハヤタが相談すれば良いだろ? なにも医者にかかるほどの理由なんてないじゃないか」

 「無理なんだよ」

 「何で?」

 「何でって、そのまんまだよ 。誰だって家族に言えない相談はあるだろ? あるんだよ、俺にはある。 でもそれはミナトに関係ねぇだろッ?」

関係ないと言葉にした瞬間、スッとする気持ちと同時に、同じくらいの後ろめたさが心臓を締め付けた気がした。 それはミナトの動揺に煽られて、一層、酷い事をした自分を実感する。

 「・・・・・・何で?・・・兄弟なのに関係ないってハヤタは言うの?」

 「そうだよ、兄弟だって秘密くらいはあるだろ?」

 「・・・・・・おかしいよ、兄弟なのに、」

 「親兄弟でも言いたくねぇ事とかあって普通なんだよ、」

 「でも、トネガワには秘密じゃないんだね、」 

 「トネガワは医者だろ?」

 「他人の癖に、」

お前だって他人かも知れないだろうと、咽喉元に上がった言葉を、俺は必死で飲み込む。

 「親には言うな」

 「それ命令? 僕に言っているの?」

 「そうだよ、おまえにだよ、ミナト、言うなよ、余計な告げ口わざわざすんなよ、」

 「・・・・そう云うのはお願いじゃないの? 人に物を頼むときはお伺いを立ててお願するんじゃなかったっけ? ねぇ確かハヤタ僕に、そう、病気の僕にハヤタがそう教えてくれたんだよね、・・・・・なのに今はハヤタが病気なの?」

 「言ったら許さねぇからなッ!」

許すもんか、ここまで来て俺の将来を、未来を、台無しになんて絶対させるもんか。 
睨み付ける俺をやれやれとミナトは見つめ、そして急に温度差のある硝子の目で、歌うように言うのだった。


 「ハヤタ、ハヤタは何にもわかっちゃいないんだね。 わからないまま、それでもここまで来れたんだねぇ。  だから教えてあげるけど・・・・・・人はそう簡単に、許されたりなんてしないんだよ。 許される事なんて、滅多有る筈がない。  そんなのは、例えばそう、僕らが選ばれた人間じゃあない限りね・・・・・・」

   

   ミナトのDNA鑑定は、二日後に迫っていた。






                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい