036   きょうだい   13.


     そうなりたいと思った。 そうだったら良いと思った。 
     憧れだった。 

     けれど軽蔑した。 

     誰よりもなによりも、あんなふうになるくらいならと身を竦め、
     羨望の裏側で、いつも嫌悪していた。

     だけど、俺たちは、
     だけど、



 「おまえの親父って、過保護?」

踏みつけた体育館履きの踵。 折り癖の着いたそれを伸ばしつつ、ダレたストレッチをするナガサワが、屈んだ膝の間から逆さにこちらを見つめ唐突にそう切り出した。 視界の端、数人の女子が短髪の女教師に呼びつけられ そんなでボールが打てるか と、長すぎる爪を咎められている。 茶パツで背の高い一人が甲高い声を上げた。 「マジ、うぜぇよ!」。

 「電話さ、掛かってきたんだ、昨日、俺は出てねぇけどお袋が出てさ、いつも世話になってます〜って挨拶されたらしい。」

瞬時にミナトだと思った。 ミナトがナガサワに直にコンタクトをとったのだと思った。

 「そ、その電話って向こうが 「父親です」 言ったのか? もしかして結構、若い男からじゃなかったか?」

 「知らねぇよ俺出てねぇから、で 今日もそちらに御邪魔してるのでしょうか? とかさ、お袋素直に来てねぇって言っちゃったらしいけど、不味かったか? なんかおまえ親父に隠し事でもしてんの?」

 「そんなじゃねぇよ、隠し事って言うかちょっと色々あったんだけど、」

 「ふぅん、ま、どうでも構わねぇけどせめて俺には声くらいかけとけよ、協力するから。で、電話、声だけじゃアレだけど、あんま若かねぇと思う。 ていうか、あぁこれ気ィ悪くすんなよ、お袋言ってたんだけどガサガサして凄く聞き取り難い声だったって、かなりドモッてたから何度か聞き返しちゃったって言ってたけど。 なに? え? 親父じゃねぇの?」

  誰?

「あ、ぶねぇ〜!」 誰かが思わず洩らし、向き合う俺たちの足元にボールがバウンと跳ねた。 

俄かに跳ね上がる心臓の音に、ダムダムいうボールの音が重なる。 弾むボールの軌跡を、ナガサワが目で追っていた。 電話を掛けたのはミナトではない。 ならば誰? S学の? 塾仲間の誰か? いや、そうじゃないだろう。 確かに皆ミナトの味方で、ミナトの頼みならきっと、多少の面倒も厭わず喜んで引き受けるだろう。 がしかし、弟の友人宅に偽名で電話を掛けるなんて、頼み事にしたって余りに非常識ではないか。 いくらミナトでもそんな己の人間性を疑われ兼ねない事を、せっかく手に入れた取り巻き連中に、おいそれと依頼したりはしないだろう。 けれど、電話はこうして掛かったのだ。 

ならばそれは誰が? 

ダムダム床を打つボールの音が、いつまでも耳に着き離れなかった。 
自分の周囲に無数の横穴が開く ――― 穴から覗く得体の知れない何かが、今も、俺を見張っているのだと感じた。


夕方、定刻で戻るミナトを子供部屋で詰問する。

 「ナガサワんちに掛けたのは誰だよ?」

 「何の事?」

 「知ってんだろ? 誰だかわかんねぇけど、誰かに遣らせたんだろ?」

 「言い掛かりは止めて欲しいね。 証拠が有って言ってるの?」

 「ザケンなよ、おまえが仕組んだんだろ? 誰だよ? 言えよ、誰巻き込んでんだよ?」

ちらり一瞥しただけで、ミナトは着替えの手を休めない。 

指先が、するりと器用にネクタイを解いた。 軽くいなされる対応にみるみる冷静さを欠き、また踊らされるのだと煽られる自分を、わかっちゃいるのにもう止める事が出来ない。 シラッとしたミナトは着崩れても居ないシャツを脱ぎ、どうせ洗濯籠に入れるのに素早く几帳面に畳んだ。 薄い身体に被る、だっぽりした黒いパーカー。 俺とは色違いのそれ。 そして俺と同じベージュのカーゴに突っ込んだ、日に当たらぬ白い棒切れみたいな足 ――の腿の付け根辺りに痣の様なものを見たような気がした。 が、それは一瞬の事。 酷く事務的な声が、俺に投げかけられた。

 「悪いけど、そういう推理ごっこに付き合う余裕が僕には無い。 明日が何の日だかわかるだろ?」

 「明日? だからなんだよ、鑑定受けんの怖いから全部無かった事にしてくれッてか? 冗談じゃねぇ、ソレとコレとは別問題だろ? なぁ、何か企んでるんだろ? 言えよ! 最近どっかウロウロしてんのはソレか? キタノノヤマくんだりで作戦会議に大忙しか?」

 「馬鹿馬鹿しい、」

 「どっちがだよ? ヤッパおまえおかしいよ。 普通、人使ってまでイタ電掛けるか? そこまでして人のプライバシー覗き見したいのか? そんなんするの普通じゃねぇよ。」

 「家族に嘘吐いて、裏工作までして医者通ってるハヤタに、それ言われたくないけど、」

 「うるせぇッ、」

 「そうやって、すぐ怒鳴る……。 僕は心配してるんだよ? 二言目にはトネガワトネガワって、あんな他人に良い様に振り回されて、ハヤタにはそれがわからないの? 可哀想に、だからこうして早くこっちに引き戻してやらなきゃ、騙されてるのに気付かせてあげなきゃって僕は手を尽くしてるだけなのに、なのにハヤタは全然わかってないんだね? 兄弟だからだろ? 弟が心配だからこうして、」

 「弟なんかじゃねぇよッ!」

 「ハヤタ?」

ミナトの白い顔から一切の表情が消えた。 だけども俺は―― もう言うな、終いまで言うな ―― 警告する良心を振り切り、どろりと溢れ出し止まらぬ失言をうろたえる自分を他人事のように感じつつ吐き捨てる。

 「俺はおまえの弟なんかじゃねぇし俺の兄貴はおまえなんかじゃねぇよ。 なにが兄弟だ? 身内だ? うぜぇよ、ふざけんな、おまえみたいな身内なんかいらねぇよ、お断りだ! ンなのよかトネガワの方がよっぽど頼りになるんだよ、俺はな、トネガワみたいな兄貴が欲しかったんだよッ! おまえなんか冗談じゃねぇよッ!」

言い捨てた後、紙みたいに白いミナトの顔を意地のように睨み付け、そして絶対目を反らすまいと思った。 失言だった。 絶対言うべきではない事を、言うべきでないタイミングで俺は言ってしまったのだった。 そしてそれが概ね本心である事も、事態をより最悪に至らしめていた。 怒鳴れ!言い返せ! 今更の謝罪の言葉も言えず、目の前のミナトに心でそう念じる。 

やがて目を反らしたミナトが何も言い返さなかった事こそ、向き合うべき取り返しのつかない現実であるのだと、むくむく湧き上がる自己嫌悪に硬くきつく、拳を握り締めるのだった。


しかし意外にも、ミナトは家族に俺の嘘を言わなかった。 

てっきり糾弾されると思った夕食時はいつも通りのそれであり、翌日、険悪で気まずい沈黙のまま、ミナトは父親に付き添われ都内の病院へ出掛ける。 鑑定は口の中の粘膜により判定され、僅か10日後にはほぼ90%以上の確率で、対象との血縁関係の有無が判定出来るらしい。 こんなに苦しんだ年月が、僅か数分の処置と、たかが10日の待機時間でポンと一山を越える。 そしてその10日間は多分、俺にとっても正念場なのだと思った。

明後日からは春休みが始まり、その翌々日にはゼミの一斉模試が行われる。 模試は市内にある私立高校の校舎の一部を借り、同系列の塾生らと合同で行われる全国規模の大掛かりなものであった。 とはいえ受験票の前後は同じゼミ仲間が占め、他愛の無い会話を合間合間に楽しむイベントとしての面白さもあった。 一つ二つ試験を終え、皆は口々にミナトの予想が当たったズバリだという。 あの放心状態でも手回しの良い事だとミナトの外交手腕に改めて感心し、けれど弟たる自分には何一つレクチャーが無かった事に それこそ兄の役目だろう? と自分勝手に腹を立てたりもした。 でも、自分なりに手応えを感じた模試であった。 


模試から三日後、ゼミで結果を受取る。 

プリントアウトされた文字は 【R商業 合格率80%〜】 


やった! やったッ! 立ち上がり誰彼に吹聴したいのを堪え、目玉の裏がジンと熱くなるのを感じた。 もしかしたら、自分の努力で何かを実らすのはこれが初めてかも知れない。 俺は初めて、自分で何かを掴んだ。 これなら親を説得出来る。 これなら俺は、自分の未来に進める。 高揚する気持ちを持て余し、この好結果をトネガワに電話しようと思った。 前回の面接の終わり不安で一杯の俺に「五時過ぎに外来が終わって、それから8時頃までは医局に居る筈だから、その頃電話して貰えれば構わないよ」と、トネガワは言ったのだ。 しかし見上げる壁時計はまだ三時を廻ったばかり。 仲間との会話もハイテンション気味に飛ばし、喜びに意気揚々とした俺は少し緊張しつつ家の玄関を入った。 

覗き込む台所ではミナトと母親が、もやしの髭を毟っていた。 あぁ御帰り と母親は言ったが、ミナトは無言のまま作業を続けていた。 強張った顔でチマチマ作業をするミナトは滑稽で、本当なら冗談めかしてからかってやりたくなる類だったが、俺は何一つ気の利いた言葉を言えず、それどころかさっきまでの高揚がシュルシュル萎んで行くのを感じた。 鑑定結果が出るまで後四日。 ミナトに余裕が無いのは承知していた。 しかも、それに鞭打つような失言を俺はミナトにしていた。 

あの遣り取り以来、ミナトは俺を避けていた。 怒り誇示するような無視とは違う、気付くと俺の視界から外れるような、そんな微妙な避け方をミナトはしていた。 何度か謝ろうとはしてみたが声を掛けるタイミングが合わず、というより意図的に外されてしまい叶わなかった。 取り付く島も無く、青白い憔悴した顔は、まともに俺を見る事すらしなかった。

やがて父親が帰宅し、夕食が始まる。 皆が食事を食べ終えた頃を見計らい、そそくさ隣室の居間に走った俺は、用意してあったR商業の入学パンフレットと今回の模試結果を、皆の注目の中、下膳後のテーブルの真ん中に広げた。 母親がパンフレットに手を伸ばしたのを見て『ちょっと聞いて欲しい』と声を掛けた。

 「いきなりこんな事言って皆吃驚するだろうけど、俺、この学校に行きたい。」
 「待ってよッ!」

ミナトが切迫した声を上げる。 しかしそれを遮り俺は続けた。 

 「俺、本気なんだ。これ決めてから本気で勉強したし、自分の将来の事、初めてちゃんと考えたんだ。 隠してたのは悪いと思うけど、言ったらまた色々面倒になるだろ? だから、ちゃんと本気をわかってもらえるように、結果を出してからって決めてて、それで今日になっちゃったんだ。」

指し示した模試結果を父親がしげしげと眺める。 やだ凄い! と母親が相好を崩した。 が、ミナトは目を見開き、机をドンと打つ。

 「何で? S学に行くって言ったじゃない? 同じ学校に行きたいって、ハヤタが自分で言ったじゃない?」

 「あの時はそう思ったんだ、でも、」

 「どうして? だってこれからじゃない? 籍の問題だってもうすぐ解決するし僕ら漸くちゃんと兄弟になれるんだろ? 家族なんだろ? これからずっと兄弟は一緒なんだろ? なのにハヤタ、どうして? 何で逃げるような事今になって、あぁつまりこう云う事? その場凌ぎでハヤタ僕に嘘吐いてた訳?」

 「違うッ、嘘じゃない、あの時はホントにそう思ったんだ、あの時は毎日楽しくて俺、学校でもずっと浮いてたし腹の中晒す相手も居なかったし、だからミナトと話したりゲームしたりあの時はホントに毎日楽しくて、ミナトと兄弟でホントに良かったって、それは全然嘘じゃぁないんだ。 けど、俺は俺だし、ミナトはミナトだし。 兄弟だからって一生引っ付いてる訳にも行かないだろ? 自分の将来は自分で決めて、一人で進んでかなきゃなんないもんじゃねぇの?」

 「言い訳だよ。 僕はそれを待っていたのに、ハヤタがS学に来るのを楽しみにしてたのに、ハヤタは兄弟の約束より自分だけの事を優先するんだ。」

 「そうじゃないッ、別に俺は・・・・・・確かに血の繋がりはずっとだけど、将来や生き方は全く違っても当たり前なんじゃねぇ? 俺は陸上をやりたい。 一度逃げ出した事だけど、やっぱ走りたいし結果がどうあれ自分をちゃんと試してみたい。 それに、学校の事だって俺、今度こそ普通に友達作って普通に学校生活を楽しんで、自業自得だけど今のままじゃ皆俺の悪かった事ばかり思い出して今の俺をちゃんと見てはくれないし、どんなに頑張っても最初にそれ言われるともう先が続かなくなる。 だから俺は俺の事知らないとこで遣り直したいんだ、だから他県のR商業で試すのは俺にとってチャンスだと思うんだ。 だからミナトにもわかって欲しい。」

中腰で身を乗り出したまま言葉を失うミナトの背に、母親がそっと手を添えた。 
それがスウィッチであったかのように、ミナトは椅子に沈む。 

呆然とした顔で肩を落とすその有り様に、心が動かされなかった訳ではない。 御大層な進路希望の根底にミナトからの逃亡がある事など、俺自身、十分にわかってはいるのだ。 その後ろ暗さを、察しの良いミナトが感付かない筈が無い。 しかし、今度こそ引いてはいけないのだ。

「本気なんだな……」

父親が言った。 

「どうやって通うんだ?」

「寮がある。 県外からの生徒は優先的に入れるらしいから。」

「この家を、離れるのか?」

「……そう、しようと思ってる。」

母親の視線が一瞬、俯くミナトに向けられたのを察し、慌てて言葉を繋げた。

「良い機会だと思うんだ。 好きとか嫌いとかそう云うんじゃなくて、俺はもう長い間ずっとミナトと対でないと自分を考える事が出来なかった。 だってそうだろ? 俺の問題には大抵ミナトが絡んでいたし、ミナト自身に何かあればすぐに、俺にも降りかかっていた。 家族で話し合うことも沢山あったけど、それって皆ミナト中心だろ? 俺の事、俺だけの事皆で話し合ったり考えた事あったか? 無いだろ? 俺自身、自分中心の何かを考える機会って無かった。 だから、このチャンスに俺は乗りたい。 我侭承知で言ってるんだ、今度こそがむしゃらに陸上をやりたい。 自分で決めた進路を、納得行くまで進んでみたい。 このままじゃ、俺もミナトも相手を巻き込んでばかりだ。 ミナトは俺の真似なんかしてちゃけないし、俺もミナトに囚われていちゃぁ駄目だ。 自分がちゃんとして、それからお互いなんか良い関係になるんじゃないか?」


冒険かも知れない と、母親は言った。 
遣るだけ遣って見ろ と父親は言った。 
そしてミナトは黙って席を立った。 


出て行く後姿に罪悪感が生まれ、咄嗟にゴメンと謝罪の言葉が咽喉元に上がる。 しかし多少の卑怯はあったにせよ、俺は別に間違った事をした訳ではない。 だから、グラグラする自分に 「これで良かったのだ」 と言い聞かせ、遅かれ早かれこの遣り取りは避けられないものだったのだと結論をつけた。 スッキリした結果では無い。 だが俺は言いたい事を言えた。 親もあれで理解してくれたと思えた。 そもそも自分自身の事を自分で決めただけなのだから、不愉快だろうが不服だろうがミナトもこれ以上は言って来ないだろうと思った。 

だが、そんなに容易くは行かなかった。

部屋に入るなり、ミナトの蒸し返しが始まる。


「ズルイよ。 ハヤタには裏切られたね。 自分だけ逃げ出して、自分だけ全部無かった事にして、」

「俺は、」

「駄目だよ。 ハヤタ駄目だ、そんなの僕は認めない、ねぇ、どうして? どうして急にそんな事言うの? 僕が? 僕が正式に身内になるのが厭なの? そうなの?」

「違うッ、そうじゃ、」

「だってそうだろ? 急じゃないか? ハヤタは一言もそんな事言わなかったじゃないか? なのに僕には何でも話してくれって? それは僕への同情?」

「そんなじゃぁない! ただ、なんか言えなかったんだよ、」

「へぇ、トネガワには言えるのに? 兄弟には言えないって事? なんで? あぁ確かに多少ハヤタに干渉し過ぎたかも知れないけどだけどそれはハヤタが好きだから何でも知りたいと思ったからで僕にとってのハヤタはこうあるべき存在であって、でも、もしハヤタが何か気に入らない事が有るならそれは直すつもりだしこれからは兄弟仲良く遣っていこうと思うし、」

「じゃないんだよッ、言ったろ? 違うんだ。 わかってねぇよ。 なぁ、そんな風にミナトが俺中心に色んな事決めたり目指したりするのはなんか少し間違ってんじゃないかと思う。 そんなん違うんだよ、ミナトのこれからはミナトがどうしたいかだろ? 俺がどうしたとかそういうんじゃねぇだろ? けどミナトはいつもそうじゃないか? 自分が無いんだよ、自分が無いから俺の真似ばかりして俺ばかり意識して干渉して自分のルールに俺を嵌めようとかして、そんでうまく行かなくなるとすぐに自分じゃなくて俺を捻じ曲げようとかするんだろ? 今みたいにさ。 ハッキリ言ってミナトがどうこう云う問題じゃないんだ。 俺はR商業に行く、決めたんだよ、これが俺の将来なんだよ、だからもう俺に背負わせんなよ、ナンもカンも、背負わせんな、重いよ、もう重いんだよ、」

助けてくれと思った。 もう助けてくれ、何でこんなに噛み合わないんだろう? 
どうしてこんなにわかって貰えないんだろう? 

ザルで水を掬うが如く、説明は説明として役割を果たさなかった。 話は堂々巡りで終結せず、スライドするミナトの論点は、何週かして思わぬ方向に飛び火する。

「・・・・・・トネガワが、そう言ったの?」

「え?」

「トネガワなんだね?」

「や、トネガワは」

「あぁ、何て厚かましいんだろう、重宝がられてればいい気になって他人の癖に兄弟の話しに首突っ込んで勝手な入れ知恵して、どこまで人の邪魔すれば気が」

「違うッ、トネガワは関係ねぇよ、俺が決めたんだ、俺の将来なんだ、」

「わざわざ要らない口出しして、わざわざ僕らが離れるように画策して、冗談じゃない、僕らは上手くいってたのに、僕らは良い兄弟だったのに、僕らはこれからもずっと一緒に補い合って二人でずっと遣っていける筈だったのに、僕はハヤタという存在に巡り会えて漸くミシオの支配から逃げられると思ったのに。 正直納得出来ない事も不条理に感じた事もあったけれど、信頼できる身近な健康な対象に自分を置き換えて見ろって言われてその通りにしただけなのに、なのにそれは模倣に過ぎないとか本当ではないとかハヤタにスポイルされ過ぎてるとか問題の摩り替えだとか、ねぇハヤタ、ハヤタが今言ったのは皆トネガワの受け売りじゃない? 自分が無いのはそら、ハヤタも同じなんだよ? わかるだろ、僕もおまえも結局あいつに踊らされてるんだよ、良いように操られてるんだよ、考えればわかるだろ? ・・・・・・騙されてるんだよ。 トネガワに騙されてるんだよ。 僕らはね、アイツの被害者なんだ、アイツのせいで台無しにされているんだ、」


喋るミナトをそのままに、俺は子供部屋を出る。

話しになんねぇよ と、思った。 正直、ミナトが気味悪かった。 本当のキチガイかも知れないと思った。 ドロドロした何かが、べったりミナトを覆い尽くしている感じがして、その場に居る自分までもベッタリした何かに埋もれてしまうような気持ちがした。 廊下に出て、硝子越しに眺める台所の時計は調度八時になった所。 ハッとし、トネガワに電話をしなければと玄関脇の電話台へと向かう。 

まだ居てくれ、まだ居残っていてくれ、そしてこのモヤモヤした気持ちを全部吐き出させてくれ。

ダイヤルなんて空で思い出せた。 交換を通し、呼び出し音が二回鳴り、やぁと気の抜けた声を出すトネガワは 「模試、どうだった?」 と問い 「キーホルダーは見つかったのか?」 と付け加えた。

「キーホルダ−?」

「あれから帰りしな、もう一度看護婦のウエノさんと探したんだけど、やっぱりあそこには無かったぞ?」

「……って、あの、何の話?」

「え? 電話掛けて来たろ? 面接終わってすぐ、診察室にキーホルダーが落ちてないかって、」

「俺じゃない」

それは、俺じゃぁない。 

「じゃ、」

「電話、どもってなかった? 凄いガサガサ声とか」

「いや、ウエノさんがハヤタからだって言ってたくらいだから、そんな声じゃぁなかったと思うけど、」

「じゃ、ミナトだ。」

「ミナト君?」

ミナトだ、ミナトが嘘の電話を掛けた。 何者かがナガサワの家に探りの電話を掛け、ミナトはクリニックに電話を掛け、そうして俺の行き場所を、拠り所を、虱潰しに根こそぎ奪って行くつもりなのだ。 何で? 何の権利があって? 怒りと悔しさと何だかわからない痛みに揉みくちゃにされ―― 助けてくれ、助けてくれ ――俺は無意識に繰り返し呟やく。 

「助けて、助けてよ、先生、話がしたいんだ、聞いて欲しいんだ。」

「何? どうした? 」

「話がしたい。 聞いて欲しい。 俺、間違ってないだろ? 俺、せめてトネガワだけにでもわかって欲しい。 共感して欲しい。 でないともう、俺、また、自信が無くなってミナトに飲み込まれてしまう。」

「ハヤタ? 泣いてんのか?」

話しながら、俺は自分が泣いているのに気付いた。 手の平でワシワシ拭っても拭っても、蛇口が壊れたように涙は止め処なく流れ、トレーナーの首筋をじっとりと濡らす。

「やっぱ、ミナトはおかしいんだ、もう俺には一つもアイツの事わかんねぇし、気味悪い事ばっかするし、言うし、なぁ、時間なんて何時でも良いから、次の面接まで待っていられそうにないから、」

「何があったんだ? ミナト君が何かしたのか?」

「どうもこうも、ずっとだよ! 真似したり、探ったり、嘘吐いたり、もう俺どうして良いかわかんねぇよ、俺もうずっとこのままなのかな? ミナトに見張られてミナトの持ち物みたいに良いように使われて、大事な物なんてもう、」

沈黙していた受話器の向う 「明後日の四時」 と、トネガワが言った。 

「四時?」

「そう、明後日の四時、夕方だけど大丈夫?」

「うん、うん、」

何時だってかまやしない。 俺は必ず、そこに行くだろう。 

トネガワは俺にとって唯一の安全地帯だった。 そこは、どこよりも安心出来る場所だった。 そしてその場所は、必ず俺を受け入れてくれるのだ。 卑怯で臆病な俺すらも、そこは丸ごと迎え入れてくれるのだ。

「本来クリニックは午前中だけど、学会の資料を取りに夕方そっちへ行くから、その時に時間を作るから。 だから落ち着こう、今後の事も含め一緒に確認していこう。 明後日までは、あんまり波風立てるなよ。 口論になればきっと、流されるのはハヤタだよ。」

「わかってる、」

「明後日に、な? 焦らず進めれば、きっと道筋が出来るから、今まで頑張って来ただろ?今度もそうすれば良いさ、協力するから、な? 大丈夫だろ? ハヤタ、」

―― 大丈夫だろ? ハヤタ、

その言葉に何故か即答する事が出来ず、有り難うとだけ言い、俺は受話器を降ろした。 

立ち尽くす背後、パタンと戸の閉まる音が聞こえ、振り返れば浴室へ向かうミナトの後姿が見えた。 途端に膝が笑い、ズルズル壁を背にしゃがみ込む俺は、暫く、ぼんやり玄関のシクラメンを眺める。 項垂れたように咲くその花は、華やかな色合いなのに何故か陰鬱で、俯く花々を見れば頑張っても報われないのだと言われているようで、ますます一人、遣り切れない気持ちになった。 

そして、明後日とは。


明後日はミナトの鑑定結果が出る日ではないかと、今頃になって俺は気付くのだった。






                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい