036   きょうだい   14.


  その日、母親は朝から祖父宅へ出掛けていた。 

主の居ない家の掃除や何やらで、帰りは夕方になるだろうと母親は言った。 けれど、途中駅ビルの地下に寄り、滅多食べれない御馳走を買ってきてあげるから、と、出掛けの台所で俺たちに笑った。 一方父親は仕事が早く上がりそうだと言い、ならば豪華な夕飯は一緒に喰えるな と食後のコーヒーに口をつけたのだが、二人とも今日のミナトを気遣っているのが傍目にも良くわかった。 その気遣われているミナトは、あの口論の一日を除き一見穏やかに過ごしていた。 

一日の内に何時間か、ふらりと外出する事はあったが、だからと云って俺に何か言ってくる訳でもなく、進路について蒸し返すこともせず、どちらかと言えば機嫌の良い雰囲気で、ミナトは日常をこなしていた。 そんな有り様に、裏があるのではと思う俺は素直でない自分を情けなく思ったが、でも、ピリピリしながらの毎日よりかはずっと、今の方がましだった。 こんななら、ずっとこのままなら俺はここで遣って行けるのでは無いかと、ふと思ってみたりもした。

春休みはまだ、暢気にたっぷり時間を俺達に注ぐ。 ミナトは午前中一杯机に向かい、新しく買った参考書を機械のようなペースで順繰りに問いていた。 俺は小一時間机に向かったところで飽き、居間でゲームをして、昼には母親の用意したサンドウィッチをミナトと二人で黙々と食べた。 向き合えば微妙な緊張感で、静かさに息苦しくなる。 

だけど最初に口を開いたのはミナトだった。 

 「今日、夕方にデスクトップを使う?」

 「夕方?」

ミナトはスープをスプーンで掬う。

 「そう。 3時半から鈴木君たちとチャットする予定なんだけど、始まったら一時間とかは掛かると思うし、もしハヤタが使うんなら今の内に断ろうと思って」

 「いや、俺は使わない。 てかこれ喰って少し休んだら、図書館に行くつもりだったんだ。 帰りにバス通りの本屋とビデオ屋に寄ってくからちょっと遅くなるかも知れないけど、どうせお袋もそんくらいに遅いだろ?」

 「そう、なら良いんだけど。」

俺は慎重にミナトの様子を窺う。 
行儀良く食事を続けるミナトに、別段変化は見て取れなかった。 

また嘘をついたと気が咎めなくもないが、でも俺は、こうしてミナトに便乗してクリニックに行く口実を伝えることができた。 二時過ぎ、出掛けに見たミナトは本を読んでいた。 居間のソファーに寝転び、足を伸ばし、背中に宛てたクッションに埋もれるようにしてページを捲るミナトは、いつもにしたら随分行儀が悪かったのだが。 でも何故か、そんな風に寛ぐ姿に和やかだった夏の一コマを重ね、急にじんわりした俺は 「なるべく早目に戻るから、」 とミナトに告げた。 ミナトは小さく頷いて、またページに視線を戻した。 

こんな日に。 今日ばかりは傍にいて、一緒に過ごしてやれば良いじゃないか? 
ミナトだってあんな結果を待つのは恐いんだろうし、心細いだろうし、
なのにこんな日にミナトを置いて俺は、泣き言を言いに行くのか? 

そう思うとさも悪い事をしている気持ちになり、罪悪感に押し潰されそうになった。 けれど数分後、俺は薄曇のバス通りを自転車で疾走する。 先に進む為に遣っているのだと、このままでは俺もミナトもどっちも駄目になるのだと、ぐいぐいペダルを踏み締める度に、進め!進め!と心の中で掛け声を掛け、まだ肌寒い風を全身で受けた。 途中、大型書店とビデオ屋に寄り、雑誌と漫画を買ってビデオを一本借りる。 こうしておけばクリニックから、直帰で戻って夕食に間に合う。 そして言い訳にもなる。

書店の駐輪場に自転車を置いたまま、裏口から路地裏を走り二つ先のバス停へと向かった。 間も無く到着したバスに乗り、俺はクリニックへと向かう。 仮に俺を尾行する第三者が居たとして、多分、撒けたんじゃないかと思った。 バスに乗り込む乗客にも、それらしき不審人物は居ない。 年寄りが数人と、子供を連れた主婦、二人連れの若い女、きっちり背広を着た茶パツの若い男、大手進学塾の鞄を下げた小学生が一人。 バスは時折迂回しつつも、N線の路線とほぼ平行に走った。 そしてフタミを過ぎた辺りで緩やかに線路を離れ、オフィスビルと商店が混在する大きな通りのバス停で、俺はバスを降りた。 

逆行する形で交差点に向かう。 クリニックは交差点の斜向かいだった。 脇の駐車場にトネガワのジェッタ−はない。 時刻はまだ20分程早かった。 さすがにクリニックの前で突っ立って待つのも気が引けて、近くのコーヒースタンドに入り、一先ず時間潰しをする事にした。 四時近くとなれば硝子越しの空はみるみる彩度を落とし、大通りの忙しい賑わいに急かされ、ちょっとの待ち時間なのに随分待たされている気持ちになった。 そして水っぽいオレンジジュースが半分より下になった頃、赤い車体が交差点の手前で右折するのを見た。

 トネガワだ。 

飲み掛けのコップをダストに放り込み苛々信号待ちをする俺は、車から出たトネガワがこちらを見ないかと、脇で握ったり閉じたりをしながら手を振る準備をしている。 歩き出したトネガワがポケットにキーを仕舞った。 

そして不意に首を左側に捻る。

黒い塊がトネガワにぶつかる。 トネガワが何事か怒鳴り、塊は大きく後ろによろけ、アスファルトに片膝を着いた。 黒っぽいジャンパーの小柄な男だった。 黒っぽいジャンパーを着た、あれは・・・・・・あれはミナトを追い掛け回していたあの男?

 「ど、どうして・…?」

男がふらつきながら立ち上がる。 酔っ払いのようにグラグラとトネガワが揺れる。 屈みこむようにして、両腕は腹を覆っていた。 そこに、男が再びぶつかる。 二回、三回、およそぞんざいに振り下ろされる腕。 前屈で身を捩るトネガワが数歩後退りして、そしてクニャリと崩れた。 弱々しい夕日に、男の翳すそれが晒される。

 「 …… ッ ……れか、だれかッ、」

振り絞る声は、音を失い、掠れ、膨れ上がるこめかみの緊張が非現実な現実を、やけにリアルに写し網膜へと流す。 捩れて転がるトネガワの足元。 立ち尽くす男のだらりと下げた手。 日没間際の陽光に、反射する刃金の白。 恍惚に似た男の表情には、満足行く仕事を成し遂げた充実と虚脱。 上向いた横顔に広がる不揃いの斑は、照りのあるタールのような黒にも見えた。 

そして路地から顔を出す、風船を持った子供が二人。 勢い良く走り出た子供は、不吉な異変に足を止め母親を振り返る。 若い母親が、甲高い悲鳴を上げた。 ハッと身を竦ませ、男は夢から醒めたように、のろのろと後ろを振り返る。 曝された凶行の跡。 斑に染まる男は、傾く日の下でてらてらしたビニールの質感。 

黒じゃない、あれは、トネガワの赤。

貼り付くズボンの腿の横、緋色に光る刃金は振り子のように揺れた。 
その色に震えを感じ、窄められた咽喉は、もう一度己の使命を果たす。

 「誰かッ!! 誰かッ!! 刺されたッ! あ、アイツに刺されたんだッ!!」

瞬時、雑ビル一階のテナントから、数人が何事かと顔を出す。 

飛び出し、駆け寄る数人の若い男。 が、刃物を持った男に気付き、その直前で止まる。 あとはコマ落としの記憶。 男が刃物を振り上げた。 わッと声をあげ雑ビルの若い男らが後退る。 振り上げた両手をそのままに、中空を仰ぎ見る男は割れて裏返る声で誇らしげに言い放つ。

   ――― わたしは遣り遂げましたッ!! 御覧になりましたかッ!? 
   わたしは遣り遂げましたッ!! わたしは遣り遂げましたッ!!


天に向けた刃先、ゆっくり下ろされたそれは、首筋を真横に引いた。 
赤。 
赤黒い飛沫。 
赤。 
赤。 
噴出すソレは黒い飛沫。 

悲鳴。 

 「ぅあぁあああああああああああア・・・・・・ッッ・・・・・・!!」

母親が子供を腹に押し付け抱き締める。 

悲鳴。 

俺はただ一音を叫ぶ。
誰の物かわからない怒号。 
遠くでサイレンの音。 
遠巻きする渦の中心で男が笑った。 
そこに居ない誰かに手を伸ばし、抱擁をねだる満ち足りた表情で。 
夢見るように笑った。 

笑った。 

赤い世界の溜まりにゆっくり膝をつき、崩れ落ちる刹那まで笑った。 
笑った男の顔が緩々と暗闇に融けていった。

消失する世界の端で 、「人殺し」 と叫ぶ声を聞いた。





 「・・・ヤ・・タ・・・・・・ハヤ…タ・・・・・・ハ・…ヤ・・」

誰かが俺の名を呼んでいる。

 「ハヤタ・・・・・・」

目を開けると天窓が見えた。 
不完全な円の、晧々とした月が覗く、見慣れた子供部屋の天窓を俺はベッドの上から見上げていた。 

 「何か飲みたい? 食べたい? お母さんがポトフを作っておいてくれたから、食べれそうなら暖めてここに持って来ようか?」

ベッドサイドにミナトが居た。 酷く優しい顔をして、心配そうに俺の額を撫でた。 

 「・・・お、俺は・・・・・・」

声はやけに掠れる。 ミナトが口元にスポーツドリンクのボトルをあてた。 糊が剥がれるように、スゥッと水気が染透る気がした。 が、俺は、

 「倒れた時どっか打たなかった? 近くの人が救急車を呼んでくれたんだよ。 一度処置室で目を開けたんだけど大声を出して、その時鎮静剤を使ったから後は死んだみたいに寝てた。 死んだみたいにね。 目が覚めてから戻るつもりだったんだけど、お父さんが駆けつけてそのままそっとここまで来るまで運んだんだ。 向うもバタバタしてたからね。 ふふ、このまま目が覚めないじゃないかと思って、何だか恐くなったよ。」

 「・・死…ん・だ・・・・・・?」

ミナトがクスクスと笑う。 
上体を起こし、まだぐらつく頭をヘッドレストに預け、楽しげに笑うミナトをぼんやり、場違いに間違った何かのように俺は眺める。  間違ってる、だってありえないだろ? 

だって、

 「・・・・・・死んだ・・・・・・のか・・・・・・?」
 「死んだのかって? 死 ん だ の か っ て?」

クスクス笑うミナトが、さも楽しそうに俺の言葉を繰り返した。 
掴み掛かったのは衝動だった。

 「ッ、」

引き寄せた腕、倒れこむ体重を腹に受け、そのまま薄っぺらな身体に乗り上げ捻じ伏せる。 捩れた体勢に顔を顰め、息を詰めるミナトに怒鳴るように問うのはたった一つ、トネガワは? トネガワは、生きてるのか?

 「だって一緒に居たじゃない? ハヤタが死んだみたいに寝ているその向う、カーテンで仕切られたその向うのベッドの上に、アイツはだらしなく転がっていたよ。」

 「・……トネガワは、 じゃ、」

 「着いた時は、もう、息が無かったってさ。 ねぇ、ハヤタは知っている? 汚い性根の人間が終わる時って、どんなに醜悪なんだかってねぇ、ハヤタは知らないでしょう? あぁ本当に、あんな終わりはどうしようもないと思ったよ、厭だ厭だ、」

 「・・黙れ・・・・・・」

 「下賎な生き物の癖に、身の程をわきまえないで、僕らの繋がりに割り込もうとしてずる賢い策ばかりを立てて、僕たちは同じじゃないと言った。 僕たちは兄弟なのに、違う人間だと言った。ミシヲはキチガイだから間違っていた。 トネガワは見方になってくれたけど、所詮は他人だ。 他人の癖に、余計な口を出す。 俺達の間に、無理矢理入り込もうとする。 その点アイツは分をわきまえていた、最初から自分は下等な奉仕者だと知っていて、口先だけで無くちゃんとその役割を果たした。」

 「あ・・い・つ・・・? ・・・なんでだよ? なんであの男がなんで?!」

 「アレは役に立ちたがってたんだ、汚い自分が全部を背負うから、だからその代わり救済をくれと言ってたんだ。 おかしいだろ?きちがいのミシオにきちがいの奉仕者が居たように、僕にもそういうのがちゃんと用意されてたなんてさ、言う事まで同じなんだからきちがいはうつるんじゃないかって思ったよ。」

 繋がっていた、あの男とミナトが、あの公園の一件も、キタノノヤマを歩いていたミナトも、皆その事実に連なり俺にソレを教えていた筈なのに、なのに俺は、まるで気付かないで、だから、

 「・・・ナガサワんちの電話も、アイツなんだな・・・・・・?」

 「調べてくれって言ったんだよ。 そしたら勝手にやった。 アレはなんでも自分でやるから、それなりに感謝はしてるさ、何しろ僕の為に二人もやってくれたんだから、誉めて欲しいと言われた時、触れさせて欲しいといわれた時、そんなの容易い事だと思ったよ。」

 二人?

 「・・・・・トネガワだけじゃないのか? おまえら何を遣ったんだよ?」

 「おどおどした目をしてあいつは僕に触れた。 じれったいから早く済ませろと言ったら、この手は汚れてるからって唇で触れた。 まぁどっちもどっちだけどね、でも、こんなのならミシオも奉仕者としていた。 同じだよ、謝りながらおどおどしながらあいつらは僕らに触れるんだ。 あれも馬鹿だったんだよ、誉められたいならわきまえればよかったんだ。 せいぜい役に立つ事をしてりゃ良かったんだ。 なのにあれは僕を殴り汚い泥に押し付けて、汚れた両手でベタベタと触った。 おぞましい排泄器官を僕の中に押し込んで、その癖何度も謝りながら泣いた。 泣いて済むものか。 僕はあれを許したくはなかった。 あれに台無しにされた自分を、あれが居なくなれば取り戻せる気すらしていた。 くどくどトネガワは自分も回りも皆僕と同じだなんて気味の悪い事をしつこく言っていたけれど、そんな訳あるものか、同じ線の上に立てるのは血の繋がりのある者だけだ。 あぁでもあれが居なくなりさえすればまた僕は、選ばれた一人として生きて行けるような気がして、あんなの無かった事に出来るような気が、」

ひんやり硬い何かが、俺の全身をがちがちに固める。 

振り払おうにも振り払えない、おぞましく淫らな情景。 見知らぬミシオと奉仕者のそれ、ミナトに圧し掛かる院生の影、それらは次第にミナトとあの男の姿を借り、あまりの猥雑さにゾッと首筋の鳥肌が立った。

 「・・・・あの院生は、じゃあ、自殺なんかじじゃなくて、」

 「夏に公園で会った時、あいつが言ったんだよ。 あれを自分が裁くって。 僕の代わりに裁き、地獄に落としてやるって。 最初は気味悪くてね、恐くて、またあんなのを蒸し返されるんだと思って、そうしたら見る見る忘れてた感触だとか気配だとか痛みだとか、あれにされた事を思い出せば自分が厭な臭いを発して汚らしく、そう、ミシオのように変化する気がして恐かった、気が狂いそうだった。 でも、あいつは嘘吐きではなかった。 あいつはあれを追い詰め、そしてポンと地獄へ背中を押した。 付回されてあれがなんて言ったと思う? 幾ら必要か だってさ! 冗談じゃない。 馬鹿じゃないか? そんなので償えると思ったら大間違いだ。 だから裁かれたんだよ、あれもトネガワも、身の程知らずの罪を正しく裁かれたんだよ。」

途端に湧き上がる感情に、俺は呆気なく溺れる。 
     壊せ! 壊せ! コイツをこれ以上ツケ上がらせるなッ! 

「だけど運が良いじゃないか? 薄汚い事をした癖に、恥知らずの癖に、誰にもそれを知られずに単におぞましい形で死んだんだから、運が良い、感謝されても良いくらいだ。    ぁッ!? 」

いっそ折ってしまえと。

細い首筋に巻きつけた指に体重を掛け、更に、俺は締め付けていた。 ヒュッと笛のような呼気を吐き、蒼白い筈のミナトの顔がみるみるどす黒い赤に変わる。 だけどそんなのに何の感慨もない。 締め上げた首をそのままに二回三回吊り上げ揺すぶり、解放され咽こむ横顔を張り倒し、成すがままの手応えに苛立ち、もう一度裏拳で張った。

 「・・・・・・ャ・・・・タ・・・・」

洩らされた言葉が呼び水となり、どす黒い渦が轟々と腹の中を満たす。 殴りつけ、殴りつけ、縮まり床に転げ落ちた身体を容赦なく蹴り上げ、鷲掴む髪ごと床に叩きつけ、苦痛に歪む顔がもっと痛めつけろと煽り、懇願しない強情に更なる暴力がアブクのように生まれ弾ける。 見る間に腫れ上がる瞼、鼻や唇から溢れ出る彩度の低い赤、それらはやがてシグナルとなり、明確な殺意を俺に教えた。 

      殺せ! 殺せ! 殺せ! 

ぐったりした痩躯に馬乗りになり、ちゃちな首筋にもう一度指を巻きつける。 殺すのなんて馬鹿みたいに容易い。 現に二人も死んでるじゃないか? 一人のキチガイに振り回されて、キチガイの家来に馬鹿みたいに簡単に殺されてるじゃないか? 

くぅッと仔犬のような声が、狭められた咽頭から洩れた。 

 「ハ、ヤタ……」

張り付いた黒い髪の隙間、俺を見つめる黒い暗い眼。

 「ハヤタ……」

 「見るなッ!」

黒い眼は俺を糾弾し、暗い眼は死にかけの癖に尚も俺を哀れむ。 

      見るなよッ! 呼ぶなよッ! 黙ってもう死ねよッ! 

      なんで、
      なんでおまえ、俺を引き摺るんだよ? 

図らずも緩めた指先、触れる嚥下の引き攣りと、不規則に短い呼吸。 解けた不甲斐ない指を、霧散した殺意を、ソレを甘んじる俺の弱さを見透かすように、ロクに開かぬ瞼を震わせ、瞳は、笑った。

 「・・・・・きょうだい、だろ・・・」

 「もう、死んじゃえよッ」

 「・・・聞いて、僕はね、僕はミシヲから生まれたんだ、ミシヲから生まれた僕は間違いなくハヤタと繋がってるんだ。   わかる? ハヤタは僕と繋がってるんだよ、僕と、ミシヲと、僕らはちゃんと選ばれてたんだよ・・・・・・ だから、ハヤタ、」

吐き捨て、目を伏せた小さな頭蓋を床に叩きつけたのは、遣る瀬無い憤りを振り切らんとする為。 呻き声が一つ、空気を震わせた。 グンニャリ弛緩したソレから目を背け、のろのろ身を起こし、鉛のような身体をベッドに沈める。 

      助けてくれよ、誰かここから助けてくれよ。

暴力的な鼓動に息を詰め、握り締めた拳を眼窩に押し当てれば、黒い、細い髪の毛が数本、べたつく指の間に絡む。 絡みつく黒い糸。 

糸の先はコイツに? 

擦過音の混ざる囁きは、呪詛のように鼓膜を焼く。
 

――― きょうだい、だろ? ―――


きょうだい、きょうだい? 


     あぁどうにもならない。 俺たちはもう、どうにもならない、
     それがどこに繋がってようと、
     俺たちがどこに向かおうと、


やがて床を擦る緩慢な気配。 

深く長い溜息。 

それは暫しの静止を経て、足音もなくベッドサイドに佇み、仰臥する俺を斜め上から見下ろす。 
閉じた瞼の向こうに、意識する、僅かな人体の熱。 
そして逡巡の末、それは、おずおずと俺の頬に触れた。 

輪郭を写し取るように、ひんやりした指先の僅かなかさつきが、静かに、幾度も、そこに確かな証拠でも在るかの如く、それはまどろっこしい確認行為を続けるのだった。 目を瞑る俺は、ホタホタと顔に滴る暖かさを感じる。 


だから俺は目を開ける訳には行かない。 
それを見る訳には行かない。 

ホタホタと、それはいつまでもいつまでも俺の顔を濡らす。





噛み締めた口の中、痺れのような鉄錆が広がった。







                                              :: 終 ::



百のお題  036 きょうだい