036 きょうだい 8.
選りによってという言葉がある。
選りによって、数多の中から選りによって、
選りによってなんで、なんでそれが俺んちなんだろう?
異変はないかと調査員は言った。 あの事件を男が嗅ぎ回っている。 男とは、ミナトを付け回し、幾枚もの盗撮をした例のストーカー男だった。 しかし男は、あの事件と無関係であった筈だ。 なのに何故、今更何を嗅ぎ回る?
意外な後押しを受け、父親は公園での一件を尋ねる切っ掛けを得た。 先月、公園で何があったのか? 何をされた? 何を言われた? あの男は何者か? けれどミナトの返事は答えにならない。
「…… なんにも。」
「急に話し掛けられただけ、」
「急に大きな声を出されて吃驚しただけです。」
「なぁ、ミナト……」 父親は再度ミナトに問う。 有耶無耶にするミナトに向かい、咽喉の奥を詰まらせて語るのだ。
『なぁ、話してくれよ、なぁ、心配なんだ、おまえが心配なんだよ。 みんな、おまえを守りたいんだ。』
『……大丈夫です。』
『ミナト、』
『べつに、何も、無かったんです……』
ダイニングのオレンジがかった照明の下、尚も蒼白いミナトの俯いた頬。 隣に座っていてこんなに近い俺たちは、歯痒いほど、こんなにもこんなにも遠く、
『な、何も無い訳無いだろッ? すっげぇ真っ青だったじゃん? なんかヤナ事言われたんだろ? だろ? だいたい何であの男、おまえを付け回すんだよ? なんで今更、あの事嗅ぎ回るんだよッ?!』
『よしてッ!』
思わず口を挟んだ俺の裏返った声に、悲鳴みたいな母親の叱責が重なった。 そしてテーブル越し、小刻みに震える母親の両の手が伸ばされて、縋るように、手繰り寄せた大切な何かのように、ミナトの小さな頭をそっと抱き締める。 細い身体がビクリと強張った一瞬。 しかし力は緩々と抜け、やけに頼りない母親の腕にミナトは包まれる。
『……ごめんなさい、』
何で謝る? 表情は見えない。
『大丈夫です……ごめんなさい』
だから、おまえが何で謝る? 掠れた声は語尾がくぐもり、母の言葉に遣る瀬無さが滲む。
『…… 謝らないで。 謝らないでちょうだい。 そんなじゃないの。 一人で悩まないで…… ねぇミナト、水臭いでしょ? ねぇ、私たち、家族でしょ?』
けれど、欲しい答えはない。
『ねぇ、家族、なんでしょ?』
家族なのかと問う母親は、当人に問うほどにソレを確信してはいない。 俺も、父親も、母親も、多分ミナト自身も、俺たち誰一人、それを確信しては居ない。 だからこそソレに縋り付き、ソレを己の内に手繰り寄せようと必死だった。 必死さゆえに恐れる、団欒の崩壊。 黙秘するミナトに、またもや俺たちは踏み込めず、留まる事も出来ず飲まれる。 余りに曖昧。 余りに脆い「家族」と云う名の不確かな集団。
―― 語られぬほどにタブー
皮肉な事に、今更の如く思い出すのはトネガワの言葉。 全く意味有りげに、それは今の俺たちを現す。 如何にも、俺たちはタブーで一杯の集団だ。 語れる真実などもう残っちゃいないくらいに、今はただ沈黙の領域のみが残った。 言葉が持てぬならば、態度で現す他あるまい。 そうして俺たちは、不自然な結束を固める。 愛だけでは無い、それぞれの根底にある何かを賭けた意地のような結束を、ミナトという固結びを得て、それぞれの綱を引いた。 例えそれらが見当違いな働きであったにせよ、俺たちは俺たちの何かを賭ける。
まず、父親は万が一に備え、家中数箇所にセキュリティシステムを導入した。 ミナトは安全な場所を手に入れた。 母親は外出を必要最小限に控え、家の中、終日をミナトと共に過ごす。 ミナトは寄り添う保護者を手に入れた。 そして俺は、兄ミナトに対し「何事も無く普通」に振舞う事を最重要課題とする。 ミナトは、変わらぬ日常イコール平穏を手に入れた。 場所と保護者と平穏と、だから安心しろよと俺たちは笑う。 もう大丈夫だからとミナトを囲む。 けれど見てみろ、ミナトときたらば全ての真ん中で竦み上がる。 茶番じゃないか? 誰も安心しちゃいないし、まして大丈夫だなんて思っちゃいないのに。
その一方で、現実は袋小路に嵌っていた。 男は先月初め、ちょうど公園の一件のすぐあとくらいから、所謂行方知れずとなっていた。 そうして姿を眩まして、唐突に出没しては学内関係者の誰かに接触を図る。 それら関係者がどのように選ばれたのか男の基準が分からぬ以上、常にこちらの対応は後手後手にまわった。 男がどこを拠点に、誰をターゲットに動き回っているのか、その足取りは全く掴めなかった。 学園からの情報はそうした事後報告ばかりで、ただ警戒し、動きのとれない状況に俺たちは焦れ、比例してミナトの強迫行動は深刻になって行く。
気付いたの母親だった。
「あの子ね、御箸、口につけてないの。 みんなと同じお皿の物は、食べていないの。」
言われてみればミナトの箸使いが、奇妙な風に変わっていた。 それは握り箸とも何とも云えない指使いで、箸の上の方をぎこちなく掴む。 そんな不安定な箸先で、そろりそろり摘み上げた食べ物を、ミナトは前歯で掠めるようにして口の中に収めた。 箸先は、決して唇に触れない。 そして一度口に運んだ箸は、素早く汁物の椀の中で漱がれて、また、そろりそろりぎこちない動きで食べ物を摘む。 勿論、口にするのは個別盛りの小皿料理に限られた。 目の前の小皿を必死で往復する不安定な箸、ささくれの出来た薄赤いカサカサの指。
気付いてからの母親は、大皿料理を出さなくなった。 「ミニ懐石風」などとおどけて並べる小皿料理は、食べ易く、小さく、腹に貯まり難いツマミみたいな数種。 それぞれにそれぞれの分を盛り合わせて、一見品数が増えたテーブルは華やかにはなったが、俺たちに食事を愉しむゆとりは無くなっていた。 寧ろ、苦痛。 誰も口にしないけど、ミナトとこの空気を分かち合いこの場で過ごす団欒は、後ろめたく、息苦しく、叫び出したいほどの苦痛だったのだ。
だからこそ、俺は馬鹿みたいに喋る。 学校の事、近所の誰某の事、昼の弁当がどうの、通学途中の米屋の犬がどうの、思いつく限りのアレコレを、俺はハイテンションで喋り捲る。 何故ならそれが俺の役割だからだ。 ―― 何事も無く普通 ―― 正直普通なもんか、幾ら俺だって日頃ここまでの馬鹿陽気なんかじゃない。 けども、このピリピリした緊張はどうだ? これを吹き飛ばす方法なんて、何事も無い食卓にする方法なんて、俺にはそれしか出来そうになかった。 だから、喋り捲れ、笑え、はしゃげと声がする。 声は母親にも父親にも聞えたらしい。 俺の話はいつでも大受けだった。 父が笑い、母が大袈裟に身振りをつける。 ずらりと並んだ皿に、笑いの絶えない食卓―― 全く素晴らしいだろ?
勿論、素晴らしく思わない人間もいた。 トネガワだった。
すっぽかしあとの家族面接。 仕切り直しのその場に於いて、俺たちがどんなにみっともなく綻び直しをしたか想像して欲しい。
「さて、久し振りになりますね。」 口火を切るトネガワに「あの」だの「その」だの、聞かれてもいない前回のすっぽかし理由を改めてしどもど話す父親。 負けじ「アレが出来た」「コレも出来た」と幼児を誉めるが如く場繋ぎ的にミナトを持ち上げる母親。 俺は俺で、さぁ話せさぁ捲くし立てろと息せき切って、ミナト絡みのおよそ益体も無い日常茶飯をコレでもかコレでもかと空回りして話す。 訪れる沈黙に本当を見透かされそうで、怖くて不安で、駆り立てられるように喋り、言葉を押さえられない。
そうしておいて俺たちは、当の本人に本人の話題を振れずに居た。 うんうんとやたら穏やかなトネガワの顔を、ビクビク横目で伺いつつ「ねぇ」だの「なぁ」だの「だろ?」だのと、そう俺たちが問い掛けるミナトは強張った表情のまま膝の上で拳を握り、浅く腰掛けたパイプ椅子、そこがいつか倒れるとでも言うように身を硬くして、終始緊張を解こうとはしなかった。 そんなの見れば一発で、俺らの滑稽な嘘っ八がバレバレだ。
ひとしきり俺たちに喋らせて、トネガワはミナトに問うた。
『厳しい顔をしているね?』
『・・・・・・』
ビクリと、ミナトが身体を硬くしたのが傍目にもわかった。 トネガワは膝に乗せたミナトの拳に手を伸ばす。 瞬間さっと腕を縮め手を引いたミナトに苦笑し、宙に浮いた手の平をひらひら翳すと「触られると思ったのか?」と尋ねた。
『僕に触られると思った?』
『・・・・・・いいえ。』
『でも、かなり慌ててたね。』
『・・・・・・そんな事無いです。』
『みんなは君との生活は楽しくて何も困る事なんて無いって言ってるけども、でもミナト君、君、手も顔もかっさかさじゃないか? それどうしたの?』
『何でもないです。』
『はは、今度は即答か。 じゃ僕も即、質問で返すけど、君が普通に生活していたら君の肌はそんな風にはならない。 それは必要以上に水を使い、洗い、過剰に皮脂を落とした皮膚の有り様だな。』
『違います、』
ミナトの口調がきつくなる。 こちらからは見えないが、暴こうとするトネガワを、ミナトは非難し苛立ち睨んでいるに違いない。 しかしトネガワは少しも引かず、質問の矛先をこちらにまわした。
『率直に感想を言えば、彼が楽しく穏やかに御家族との生活を過ごされているとは、僕にはとても思えません。 彼は、酷く緊張して辛そうに見えます。 前回、そう、たかだか一ヶ月ちょっとの間に随分痩せたんじゃありませんか? 君、自分で気付いてる?そのズボンもシャツも、前は丁度良かったのに、今じゃ中身が踊ってるじゃないか。 』
『あ、あの、夏バテもしてたようですが、』
堪らず口を挟む母親にトネガワは微笑み、やんわり方向を正す。
『夏バテですか? あぁ、それも恐らく有ったかも知れませんね。でもそれだけではない事を、きっとお母様は御存知だと思いますよ。』
そう言われて俯いたのが母親の本音。 母親だけじゃぁない。今やトネガワと目を合わす事を恐れる俺たち皆が、全身で「それだけじゃない」「助けてくれ」と本音を語っている。
『どうぞ、皆さんが知っている事、恐らく気になって心配で堪らない事をここでキチンと話し合って下さい。 ここは、そう云う場です。 疑問を曖昧にせず、質問は本人に、返答も本人に返すのが原則です。 そうしておいて、家族のこれからがどうしたら今有るハードルを乗り切れるのか、どうすれば誰かが辛くならずに済むのかを皆の共通テーマとして考えて行きましょう。』
『・・・僕は辛くなんて無いんです。』
なおも食下がるミナトの頬がやけに蒼い。 眼鏡の奥トネガワの目が数回瞬きをした。 困ったような哀れむような、曖昧な笑みを浮かべ、トネガワはミナトに語り掛ける。
『そう・・・・・・君は、辛くないって思うんだね。 じゃぁ、何で僕がそう思うのか改めて君に伝えたいと思うよ。 純粋な疑問としてね。 まず、さっきも言ったけど君の手肌の荒れ具合が僕は気になっている。 真冬なら分からないでもないけれど、今はまだそう云う時期じゃぁ無い。かと云って、大汗を掻いて引っ切り無しに入浴したとしても、浴びるだけの行水でそんな風にはならない。僕の考えでは、それは、君が引っ切り無しに石鹸なんかで洗い続けた結果じゃないかと思う。 僕は間違っているかい?』
『・・・・・・』
『・・・・・・じゃ、もう一つね。 拳をさ、そうしてギュッとして膝に乗せて、身を硬くして、椅子にはほんのちょっとしかお尻を乗せないで座っているだろ? つまりどこにも触れたくない、そこに腰掛けるのも厭って風で。 君がそうして座っているのって、ここ何ヶ月か見ていなかったから。 その座り方は、君がまだこだわりや強迫観念を内側に溜め込んでいた時期の座り方だ。 まだ入院中、そうした病んだ部分を誰にも話せないで居た頃、初めての外出を計画していたあの辺りまで君はそう云う風だった。 でも、それは直に消えたんだ。 現に退院後最初の面接で、君はその椅子の背凭れを軋ませて思いっきり伸びをしたね? うん、そうだよ、ハヤタと夜中までゲームをしちゃってって君、眠そうに嬉しそうにしてたもの。 つまり、その頃君は嬉しそうな顔が出来た。 君の中の何かが、軽くなっていたんだろうと僕は思う。 でも、今はどうだい? そうじゃないんじゃないかな? 僕には君が、入院中のあの頃に逆戻りした気がする。 何か大きな辛い事を抱えてそうに思えるんだけど、ミナト君、僕は間違っているかな?』
指先が冷たくなる緊張。
トネガワの問いに耳をそばだて、ミナトの返答に神経を集中させる。
ミナトの肩がすとんと落ちる。
ゆっくり、緩慢に、ミナトが俯き被りを振った。
『・・・・・・汚れが、広がってきているんです。』
『?』
『そんなのは間違っていると、頭じゃ分かっているのに、目に見えない汚れがジワジワジワジワ、布に広がる染みのように、皮膚の、ほんの少し下の、より内側に近い所で、ジワジワジワジワ、広がっている気がして・・・そう思うと怖くて、落ち着かなくて、そんな事考える自分にも着いて行けなくって・・・・・・だけど、汚れたら洗わなきゃならない。 だけど、洗っても落ちない気がします。 そうですよね、汚れなんて目に見えないのだから。 でも、そこは汚れてるんです。 汚れてるのに落ちないんです。 ・・・怖い・・・どうなってしまうのか、穢れる自分はどんな酷い事になるのか、考えたくはないけれど頭から離れなくて、怖い・・・怖くて・・・・・・僕は、怖くて・・・・・』
汚れは広がってきているのだとミナトは言った。 汚れはミナトから、ミナトの周囲へと広がり、今ではあらゆる物が穢れてしまっていると、それはきっと汚れに回った自分に責任があるのだとミナトは言い、小刻みに震えた。
『だけど、』
少し身を乗り出した母親は懇願するように問い掛ける。
『だけど、ねぇ、そうじゃなかったでしょ? 汚れたとか穢れとか、だってあれはもう・・・・・・それにあなたそんなじゃなかったでしょ? ほら、一緒に手巻き寿司食べたじゃない? 二回目の外泊だったかしら、お昼、庭にテーブル出して、あなた刺身は食べた事ないとか言ってアボガドばっかり続けて食べて、ね? あなた普通だったわよね?・・・・・・普通だったじゃないの、』
『・・・ごめんなさい』
『そうじゃないのよ、謝るとかそう云うんじゃ』
父親が母親の手を握った。 小さな子に言うように、父親は母親にわかってる、わかってると囁いた。 そして母の手を握ったまま父親は、真向かいのミナトに語り始めた。
『誰も、責めてなんかいないんだよ。 責めてなんかいないし、怒ってもいないから、だから、な? もう謝るな。 謝られると辛いよ。 そうだろ? 謝ってる本人が一番辛そうじゃないか? ただ僕らは、お前に何があったのか知りたいんだ。 ・・・そうだな、うん、あの手巻き寿司の時も、そのあと暫くの間も、おまえは普通に楽しくやっていた。 楽しかったな、毎日がああいうんならどんなに良いかって今でも思うよ。 だけど、お前は笑わなくなって・・・なぁ、鎌倉の爺さんだってもう少し艶ッ艶してるぞ? すっかり油が抜けたみたいになって、見る見る痩せて行くじゃないか? まさかダイエットとか言うんじゃないんだろ?』
『・・・もう、大丈夫です』
『大丈夫なものか、思い詰めた顔をして、幽霊みたいにふらふらして、そんなの俺は大丈夫だなんて思わないぞ。 ミナト、前も同じ事聞いたが・・・・・・お前、公園で何かあって、それでそうなったんじゃないか? あの男は一体お前になにをした? 何がお前をそんなに辛そうにさせているのか知りたい。 知って、それを少しでも軽くする方法を一緒に考えたいんだ。 だってそうだろ? 家族じゃないか、こう云う時協力して助け合うのが家族ってもんだろ? お前はミナトの兄で、僕や母さんの息子だ。 息子を守るのは親の大事な役目じゃないか?』
ミナトと両親の遣り取りを頭の遠くで聴きつつ、俺は、家族というものについてぼんやりと考えていた。 こんなに熱くなり、生真面目な話しを照れもせず、こんなに喋る両親を見たのは始めてだ。 心のどこかで、ミナトを羨ましく思った。 ほんの少し、チリリとした痛みと共に、ほら、やっぱミナトは特別じゃん、何時だって特別で、何時だって一番にイイとこ持ってくじゃんと思った。 そう思う自分の方が、よほど汚れてるし穢れてる。 俺は、もやもや湧き上がる感情をどう処理して良いか分からず、一つも喋らずにただ、そこで見ていた。 特別なミナトがどうするか見てやろうじゃないかという、意地の悪い気持ちが確かに、俺の中には存在したのだ。
そして、長い沈黙と溜息を残し、ミナトは語らず面接は終了する。
公園での一件は解からずじまいであったが、取り敢えずミナトの強迫行為について本人から詳細が語られた事を収穫とし、俺たちは家路に着く。 トネガワはミナトの処方を、少し強いものに変えた。 ふわふわ眠いような感じがするだろうから、無理せずのんびり身体を休めるようにとミナトに頷き、一同に視線を流し御疲れ様と言った。
この時、俺たちは軽操状態にあったと思う。 トネガワというチームリーダーの前、思っている事を言えた、ミナトに言うだけは言ったのだと、「やるだけはやった」自己満足に俺たちは浸り、だから先生なんとかしろよと、ほんの少しの責任転嫁に肩の荷を軽くし、一同ほうっと一息吐いていたのだと思う。 出なきゃやって行けないほど、家は遠く、家族はあやふやだから。 先の見えない一団としてソワソワ沈黙のまま俺たちは道中を過ごした。
だけど、現実はそんな軽操を軽々と吹き飛ばす。
面接から数日、家には無言電話がかかるようになった。 数は多くない。 一日に一回とか二回とか。 どこかの公衆電話から掛けているらしい。 それじゃ誰だか分からない。 でも、それはあの男じゃないかと俺たちは踏んでいた。 あの男がミナトに接触しようとしているのだと、俺たちは確信していた。 幸いミナトは電話に出てはいない。 家には母が居た。 ミナトが余計な心配をしないように、俺たちはミナトに電話の件を隠した。 どうせ家には誰かが居る、昼も夜も掛かって来た電話をミナトが取る事等まずないだろう。 そう思った気遣いが、今回まんまと裏目に出たのだが。
その日、教室のある母親は昼過ぎに家を出る。 教室は2時から3時半、車で片道十分ちょっと、二時間程度の外出だったが母親は雨戸まできっちり閉め戸締りに隙はなかった。 そうしておいて出掛け、ミナトにはこう伝えたと言う。 「この時間はセールスの電話ばかりだから、掛かって来ても出ないで無視して頂戴。 私は御教室が終わる3時半頃に掛けるから。 番号通知が出るでしょ? それ確かめて出るのよ。」 万事、抜かりなし。 家は安全だった。 保護者不在の二時間なんて、たかがと呼ばれる二時間だった。 ミナトは安心して留守番をし、母は不安を残しながらも家を後にする。
やがて静かに時間は過ぎ、自室に居たミナトは電話が鳴るのを聞き、咄嗟に壁時計を眺めた。 3時36分、ならばそれは母だろうと躊躇する事無く手を伸ばし、近くの子機を取る。 わざわざ番号を調べる為に、リビングの親機まで足を運ぼうとはしなかった。 それは別に、特別怠惰な事でもない。 けれどその一手間で、何かが避けられたのは事実。
3時40分、繋がらない電話に母親は蒼くなりアクセルを踏む。 閉められた雨戸、鍵が掛かったままの門、家は何ら変わりなくそれが一層不安を掻き立てる。 ドアには出て来た時同様、鍵も掛かっていた。 せかせかとドアを開け、ただいまと叫ぶ家の中に返事は無い。 ミナト、ミナトと名を呼び室内を探す母親は、奥の子供部屋、転がった子機、床に座り込みガクガク震え宙を凝視するミナトをついに見つける。 しかしミナトに母親は見えていない。 呼びかけても反応しないミナトは、パニックを起こしていた。
母親はパニック時の頓服をミナトの口元に運び、口に含ませると咽喉をゆっくり撫でながら慎重にそれを飲ませた。 そうして嚥下を確認すると、ミナトをそっと抱き締める。 小さな子供にするように、頭を抱え込むようにして、ポンポンと背中にそっと触れ、大丈夫大丈夫・・・・・・繰り返し繰り返し伝えた。 それはいつか外来看護婦に教わった子供のパニック時の対処方法だったが、母と子と御互いが速やかに落ち着くには体温と拍動を共感するのが一番早いのだと、その看護婦は言っていた。 大丈夫、大丈夫、大丈夫、それは母が自らにかける暗示。 やがてだらりと下がっていた腕が母親の背中に回され、思いもかけぬ強い力でしがみ付いて来たミナトは、掠れ震える声で、助けて、怖いよ、怖いよと母に縋り泣いた。 怖がる子供に母親は、ただただ抱き締める事しか出来なかった。
その夜、ミナトは急な発熱で早くに床に就く。 例の電話は矢張り、男からのものだった。 熱に浮かされたミナトは 「あいつは何でも知っているんだよ、」 と震えた。 父親は仕事を切り上げ日暮れ前に帰宅する。 そして不審はないかと一時間毎、家の周囲を見廻ったが、不審物も不審人物も見当たらず、拍子抜けするほどにいつも通りの夜であった。 翌日も念を入れ仕事を休んだ父親と共に、家族は家の中虎視眈々とする。 ミナトはまだ熱が引かず、自室で繭玉のように眠る。 尤も繭はいつか孵化するものだ。 美しい蝶だろうが、気味の悪い蛾だろうが、何か今より立派な物に変わるのが繭だ。 けれども、ミナトはどうなってしまうのだろう。
平日の白昼、家族が顔を突き合わす非日常。 親たちがどう思っていたかは分からないが、俺は、ミナトに対し微かな苛立ちを感じていた。 ミナトはこのままどうなってしまうんだろう? このまま俺たちに不安と緊張と焦燥を味合わせておいて、ミナト自身はこのままどんな風に変われるんだろう? まさかずっとなんて? あぁ勿論それが身勝手なエゴだと俺にだってわかっている。 ミナトがあぁなのは分かっていた事だ。 それでも家族なのだ。 そんなミナトを支えて行こうとあれほどに熱く語り、今だってこうして一致団結している、それが家族というものなんだ。 だけれど俺はもう音をあげている。
なぁトネガワ聞いてくれ、俺は確かにあの時、ミナトとの毎日が楽しかった。 他に何も要らないと思うほどに毎日楽しく満ち足りていた。 それは本当だ、嘘じゃない、本当なんだ、本当なんだけれど今ここで、逃げ出したい俺も本当なんだ。 まるで恋愛だとトネガワは言ったが、ならばこれは心変わりなんだろうか? 恋愛の始まりは分からないけども、心変わりの理由なら俺にだって分かる。 相手が厭になったのだ。 嫌いとかそう云うのではないにせよ、相手の何かに、少しづつ少しづつ嫌気がさしたのだ。
だけど、トネガワには分かって欲しい。 俺は、ミナトが嫌いじゃない。 今だってミナトが嫌いじゃない。 だけど確実に俺の中でミナトへの「嫌気」が膨らんでいる。 ミナトが怖いのかも知れない。 ミナトに引き摺られる自分が怖い、そう、それだ、俺はあいつに引き摺られるのが怖いんだ。 ミナトの抱える底無しの不安、得体の知れない強迫観念に引き摺られ、自分がとんでもない何かに変わるのが怖い。 もう普通の生活に戻れなくなるのが怖い。 だから俺は、だから、
『おい、ノノヤマってそこの私鉄の駅だよな? 自殺だ。 S学の院生が飛び込んだらしい。』
広げた新聞をテーブル越しこちらに差し向け、父親が「親は遣り切れないな」と溜息を吐く。 「院生じゃ顔見たってわからないわね、」と母親は記事から目を上げ「何も死ぬ事はないのに・・・・・」と俺に目をやった。 ただ、そこに居たから見たんだろう。 でも一瞬、糾弾されているのかと思った。 俺はその名も知らない院生にミナトを重ねて、いつかミナトも死んでしまうのではないかと、ミナトの自殺を漠然と想像していた。 死ねと願っている訳じゃない。 だけれどそう云うのがミナトの道筋のように、ふと思えてしまったのだ。 そんな自分の後ろめたさに耐えられず、俺は子供部屋に向かった。
ミナトは、眠っていた。 思えばミナトの寝顔は、あまり見た事がなかった。 子供のような大人のような、女みたいじゃないけど「男」というほどに男臭くはない不思議な中性的な顔。 少し寂しそうな寝顔だと思った。 寂しい一人ぼっちの子供が大きくなり、こんな風に眠るのだろうか。 なんだか胸がギュゥッとなり、ミナトが憐れでならなかった。 ごめん、ミナトごめん・・・・・・さっきまでの薄情な気持ちが跡形もなく消え、かわりに湧き起こるのは多分憐憫という感情。 ベッドサイドに座り込み、背中をベッドに預けてずっと俺はそこにいた。 ミナトを見ていたかったから。 そこでミナトを見ている限り、薄情な心は生まれないだろうと、一人になれば簡単に人でなしになる自分を恐れて俺は、そこに一人座り続けた。
そして、電話が鳴る。
学園からだった。 自殺した院生の自宅から、遺書が見つかったと言う。 遺書は、ルーズリーフ一枚に落ち着きのない乱れた文字で、ただ一言「許して下さい」と。 四つに畳まれた余白の白には、ミナトの名前が記されていたと言う。 父親は、呼びかけに緩々目を開けたミナトの目の高さに屈み、静かな声で問う。
『寝起きのところ悪いけれど、今日、ノノヤマの駅で飛び込みがあったんだよ。 S学の院生で、モリサキって人なんだけども、モリサキジュンジ・・・・・・覚えがある?』
その時の表情を俺は忘れないだろう。
大きく開かれた目がすっと細くなり父親を通り越し、宙空のどこか、
見えない何かに焦点を集め、
そして笑った。
夢から醒めたように、うっとりと、蝶が蛹から孵るように、艶やかに笑ったのだ。
:: つづく ::
百のお題 036 きょうだい
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