036   きょうだい   7.

    それでも夏は終わる。 そして、新学期が始まった。 

学校に戻った俺は「焼けたな」といわれ、「アニキどう?」と聞かれ、「決まったか?」と差し出された進路調査用紙を二つに畳んだ。 さして変わらぬ日常。 学校帰りに駅前を抜け、某進学塾の真っ白なビルに足を運び、受取った入試プログラムの水色の用紙に名前を記入した。 それが変化といえば変化。 朝のトレーニング、学校、帰宅部の俺は真っ直ぐ家に戻り、火・木・土の週三回17時からの2時間、駅前のゼミで講習を受ける。 極普通の、中二の日常。 

尤も普通の定義なんて、正直分からない。 蜜に慣れた舌は、微かな痺れと苦味を感じ、今が幸せなのかどうか定かではない曖昧さ。 もう、俺たちは普通だと念を押す、もう、この家は幸せだと念を押す、念を押さねば安心出来ないそれが果たして「普通」で「幸せ」なのか。 


結局、ミナトは学校には戻らなかった。 九月になって、学校が始まっても、ミナトの日常は家の中で始まり、終わる。 朝、オハヨウと挨拶して公園に向かう俺。 小一時間して汗だくで家に戻れば、門柱脇に腰掛けたミナトが、お帰りと言う。 家族四人の朝食、たわいもない会話、俺と父親は家を出て、母親とミナトは家に残る。 母親は週に1〜2回、トールペインティングを教えに二駅先の教室へ向かい、ミナトはその間一人で留守番をした。 一人きりの、誰も居ない日常。 ミナトは自室で勉強をし、用意された昼食を一人ダイニングで食べた。 

出掛ける事はない。 ずっと家に居る。 しかし、しょうが無いと思った。 あんな事があれば。 それに退院して間もないのだから、だからこれで十分だと言う理由がミナトにはあった。

「ちゃんと、お皿洗っといてくれるのよ」 母は嬉しそうに父に言う。 帰宅した父に、ミナトは勉強を教わる。 「学習方法に、隙が無いんだよなぁ」と父は感嘆する。 俺は、家に戻れば穏やかなミナトが「お帰り」と言う日常にホッとする。 そして和やかな夕食。 皆の話に聞き入り、時に留守中の出来事をにこやかに語るミナト。 寝る前の数時間、俺達は音楽を聴き、お喋りをして、攻略途中のゲームを互いのナビで進めた。 二人で寝そべり見上げる天窓の夜。

『毎ンちさ、退屈しねぇの?』
『ン……別に、』
『家で何してんの?』
『参考書、順番にやって、あと本読んで…… こないだ、変な親子が来たよ。』
『親子?』
『うん、小さい子と母親。 雑誌とかチラシとか出してきて、選ばれた人は天国に行けるって……。』
『ソレ、宗教だろ?』
『分からない。 でも、そんなの嘘ですよって行ったら変な顔して帰ってった。 ……あの子、やっぱり大人になったら同じ事言うのかな、選ばれた人は天国に行けるって、』

そっと窺うミナトは、ボンヤリと天窓を見つめている。 ベッドに投げ出された腕、Tシャツから伸びた腕は月明かりを弾く白。 その白が、最近薄っすら粉を吹くような有り様なのを、俺は気が付かない振りをする。 風呂に入れば一時間以上出てこないミナト。 女じゃあるまいし、塗ったり揉んだりでもないものだが、何をしてるかなんて知りたくないし、でも、そんな風に昼間も一人で風呂に入ってるんじゃないかと思うと、そのガサガサに油の抜けた腕を、足を、目の端に映せばギュッと、腹の底が縮んだ。 

俺たちは、それぞれの思惑を日々の喧騒に紛らわし、日常をこなしていたから。 だから俺は、ミナトを日常に埋没させる。 あの、公園での遣り取り以来、僅かに開いた距離を埋められぬまま、俺はミナトを風景の一部にする。 そこに居る、そこで当たり前に過ごす、それは極普通の景色、在り来たりのただのミナトなのだと、俺は自分に念を押すのだった。 そして母親のこんな言葉に身を竦める。

『ねぇ、ボディソープ、もう足りなくなったの? こないだ替えたばっかりなのに、』

俺が、ビクビクする事ないだろう? ミナトがしらっとしてるンなら、ビクビクするなよ、こう暑くちゃいつもより皆、多めに使うんだろ? そうだろ? くだらねぇよ、だからソレがどうしたよ? そんで、何でソレ、俺に聞くんだよ?

『わかんねぇ、』

黙々と突付く生姜焼きが、ゴムみたいに思えた。 「ふうん」と言う母親がおずおずとミナトを盗み見る。 父親は新聞を広げてる。 家庭欄なんか見てどうするよと思うが、さも興味深げにそこを開いたまま動かない。 そして知らん振りのミナトは、ゆっくりレタスを咀嚼する。 こんな瞬間、俺たちは目を瞑るのだ。 目を瞑り、また開けばまた始まるソレを「普通」で「幸福」と俺たちは呼んだ。 

でなきゃなんて呼べば良い? 俺たちはどうしたら良い?



『…… なんか、見えてきたかな?』

『なんかって、何?』

眠たげな空調の音、学校帰りの外来診察室で、開口一番にトネガワが言う。 俺を普通でないとするならば、未だ精神科通いのこの現状。 けれど、この場で語る日常こそ、歪みを取り去って残る日常こそ、最も今の真実に近かった。 そして、真実は苦い。

『なんかって、何か。 自分の事、周りの事、自分と家族の色々。』

『ミナトが風呂ばっか入ってる。』

『え?』

『一時間以上出て来ない。 休み中は昼間も入ってた。 二回とか三回とか、でも、今は分からない。 でも、ボディソープが一週間とかで無くなるし腕なんかガサガサに白いんだ、でも、ミナトはシラッとしてる。 何も言わない。 何も言わないしそれ意外では普通だから、俺、俺とか、親とかみんな言えない。 みんなミナトにどうしたのかって言えない。 怖いんだよ。 どうしよう、先生、ミナト、変なんだよ、』

変だと口に出せば、もう、後戻りできなかった。 ミナトは、変。 ミナトは今、おかしい。 素早く文字を打つトネガワの指を見つめ、あの日、公園での出来事を話す。 

『揉めてたの?』

『分からない、言い合ってた。 ミナト、真っ青だった。 でも何でもないって。 でも、家帰って風呂入って出て来なかった。 腕が真っ赤になってた。』

『…… これは、本人に、聞くしかないね。』

『聞けねぇよッ!』

『どうして?』

『どうして?!』

『変だろ? おかしいんだろ? ならば、それ訊くのは普通だろ?』

『訊けねぇよッ!』

『だから、どうしてだろう?』

どうして? ソレは、怖いからだ。 聞いちゃいけない気がするからだ。 訊いてもっと酷い結果になるのが怖いからだ。 訊いたところでミナトは何でもないと言うだろう。 本人がそう言うなら、それ以上どうしたら良い? でも、と突っ込むほど俺たちはミナトと……

『近くないじゃん……』

『何が?』

『俺ら、俺も、親も、ミナトの中入るほど、近いトコに居ないじゃん。 そりゃ、家族だし、兄弟だし、そう云うのはホントだけど、でも、やっぱまだ知らない事多すぎるし、俺ら、ミナトに近くないんだよ。 ミナトだって俺ら、近いと思ってない気がして、したら、訊けねぇよ。 ミナトがさ、そう云う時遠いんだよ、そこに居ても知らない人みたく遠いんだ。』

『こないだまで、その距離感じてた? ハヤタ、ずっと一緒に遊んでたろ?』

『ううん……あの時は、そうじゃない。』

あの時は、ミナトと俺はぴったり貼り付く毎日を過ごしていた。 ソレは全く苦ではなく、俺らは仲良しの、兄弟の、親友だったりもした。 何故なら、ミナトが笑ってくれるから、話してくれるから、普通にしててくれるから、

『あぁ、つまり、ミナト君の受け入れがあって、それに君達が応える ……そういう形なんだね。』

『受け入れ?』

『うん。 まず、ミナト君の意向があって、GOサインが出た時だけ進む。 思い出して御覧、君は、そしてご両親も、ミナト君の要求を断ったことがあるかい?』

ない。 なかった。 逆はあったけど、ソレはなかった。 

『でも、』

『イケナインじゃない。 そうじゃなくて、何で、彼の言葉に沿うのか、何で逆らえないのか考えて欲しいんだ。 このままの関係は、他人の域を出ない。 所謂、距離がある関係。』

『だって、言って駄目になったらどうすんだよッ! また逆戻りしたらどうするんだよッ!』

『やり直せば良い。 それだけだよ。』

『簡単に言うな、医者のクセに、』

『医者だからだよ。 前回、言ったよね? 最初の喧嘩は大事だよって。 

『こ、怖いんだよッ!』 

『揉めろと言うんじゃないけれど、意見をぶつける機会がなくっちゃ先には進めない。 主導権がミナト君にある以上、彼はずっとお客様で腫れ物だろう? あの家で、ミナト君は、まだ家族になっていない。 顔色を見ながら、遠慮しながら、気に入るように物事進めるんじゃ、到底家族とは言えないだろ?』

『ミナトが怖いんだ、ミナトが、俺にわかんないナンカ抱えてるのがワーッと俺に来たら、俺、そんなミナトは怖い、怖いよ。』

『他人の壁を崩さなければ、ミナト君の重みを分かち合うことが出来なきゃ、君も、この先には進めない。 それが、ココから先の課題だね。』


パチンと乾いたクリックの音。 ラップトップの画面が、蒼い水の波紋に似た壁紙に変わるのをボンヤリと眺めた。 丸椅子から立ち上がると、眼鏡を外したトネガワが「正念場だよ」と、意外に丸っこい目を瞬かせて言う。 頷く俺だが、返事は出来ない。 正念場、そう、ココから先の大事、そりゃ分かってる。 でも、だけど、俺にそれが出来るのかほとんど自信が無かった。 一度崩れたそれが果たして元に戻るのか、そんな危険な切っ掛けを自分が作るのは嫌だった。

―― だって、今、ミナトと巧く行ってるだろ?

そう口に出し、いっそう白々しく響く己の言葉に首の裏が冷えた。 そしてモヤモヤと家に戻れば、ミナトが「お帰り」と言う。 「疲れた?」と覗き込む顔は穏やかで、もう、以前の硬い無表情とは重ならないミナト。 ほらな、ミナトは思い遣りだってあるじゃんか? 俺ら巧く遣ってるさ、俺ら、兄弟らしいだろ? ……らしい? 本物じゃない? 「大丈夫だよ」と、俺は言う。 「大丈夫、ちょっと疲れたけど、腹減っただけだから」と、俺は言う。 「酢豚だってさ」と背を向けるミナトの背中、Tシャツの中泳ぐ細い背中に叫びそうになった。 

大丈夫だろ? おまえ、全然大丈夫なんだろ?


その晩、俺はトネガワとの話しを両親に言った。 公園での出来事から今日に至るまで、ミナトが少しずつおかしいのだと、親に初めて言った。 ミナトと話合おう、俺たちは他人行儀だと、そう言ったつもりだった。 が、俺は親の地雷を踏んだらしい。 立ち入り禁止に踏み込んだ俺は、糾弾される立場に立っていた。 

『おかしいとか言わないで!』

『だって、』

『あなた薄情よ、あの子、ただ、お風呂入るってだけでしょ? ゴシゴシ洗いたいのだって夏だもの、神経質な子なら、だって、別にそれッて、そんなにおかしい事ないじゃない?』

『てか、お袋だってわかってるだろ?』

『わからないわよッ! あなた、兄弟でしょ? 兄弟なのに、何で? 何で、ミナトを信頼出来ないの?』

『そうじゃないッ!』

そうじゃない、俺は、俺はもっと考えなきゃいけないと思ったのだ。 もっと、これからの事を、俺たちの事を考えなきゃいけないと思ったのだが、母親にしてみればそうじゃない。 俺は、言わなくて良い事を口にした馬鹿者だった。 平穏を、わざわざ揺すって乱す愚か者であった。 

汗ばむ九月のダイニング。
ひんやりした空気に拳を握り締め、俺たちはそれ以上を諦める。 

母親が小さく嗚咽した。 廊下の向こう、ガシャリと浴室のドアの軋む音がする。 それを合図に、黙していた父親が 「もう少し、様子を見よう」 と纏めた。 もう少しが何時までかはわからない。 「様子を見る」が「黙認する」に摩り替わる今を、父親だって気付いていて尚、避けたのだ。 だけど、父親を卑怯とは誰も責められなかった。 そうして先延ばしにする俺たちは、まさにミナトに振り回されていたのだが、抜け出ようと切っ掛けを作る最初には、誰もなりたがらなかった。 

だから、ミナトの「なんでもない」の先に、俺たちは踏み込めない。 ミナトという存在が沖に漂うブイのように、行きつ戻りつ近づき離れるのをただ、眺め、手も足も出ず一喜一憂するばかりだった。 波に煽られ不規則に漂う日常は、平穏な岸に錨を下ろさず、より不穏な潮流に乗り、二度と引き返せない沖合いへと向かう。 

尤もそこに、助け舟が無かった訳ではない。 船はトネガワだった。 唯一のサルベージたるトネガワは、ミナトを通し久し振りの家族面接を促した。 「ここらで揃って話し合いましょうって、」 さらりと言うミナトに動揺はない。 あぁならば、漸く俺たちはこの日常に錨を下ろせる。 漂う日常から陸に上がり、地に足をつけ、落ち着く事が出来る。 面接という大義名分があるならば、誰一人気不味くなる事も無く「ところでねぇ」とミナトに疑問をぶつけられる。 

腹に言葉を溜めたまま、俺たちは長い二週間を待つ。 言いたい事は山ほどあるのだ。 気になる事も、訊きたい事も、飲み込み続けた言葉は家中に溢れ、俺たちは息苦しく溺れそうにもがく。 けれど、地雷を踏みたくは無かった。 卑怯かも知れない。 詰まる所俺たちは幸せになりたかったし、それはミナトという存在をかけがえのない家族として愛していたからに他ならない。 そう、ミナトを愛していた。 そして、ミナトも俺たちを愛しているだろう暖かな手ごたえを感じ始めていた。 なら、もっと欲が出る。 ミナトの事を知りたい、ミナトの喜ぶ顔を見たい、笑い、語り、共に悩み、何よりミナトに自分を良く思って貰いたかった。 

いつかトネガワは「恋愛」と言ったが、まさにその通りかも知れない。 せっかく生まれたそれを、誰だって自分からは壊したくは無い。 わざわざ余計な波風を立てたくはない。 盲目的に相手に夢中になり、ふとしたとき見えたその粗を、自分が悪く思われぬよう伝えればなどというのは些か都合が良過ぎたのだろうか? 

ミナトのガサガサした腕を眺め、ひっきりなしに減る石鹸だの風呂の水だのを黙認し、話し合いという決着の錨を下ろす日をジリジリと待った。 そしていよいよ訪れたその日、ミナトは頭痛を訴え朝から部屋に篭る。 なんで? 仮病? みんなきっと、そう思った筈だ。 だけども痛みを訴えベッドに横たわるミナトは、様子を見に来た母親に「大事な日なのにすみません」と謝る。 

ならば、それ以上どうしろというんだろう? どうしようもない。 


俺たちは、そうして、再び暗い海原に取り残されて行った。 おりしも、そこには新たな潮流が流れ込む。 逆巻く流れは素早く、否応なしに海原の俺たちを攫おうとしていた。 


学園から、父親に連絡が入った。 不審な男が、ミナトのあの事件を探っていると。 生徒たちを詰問し、時に学園内部に侵入し、あの日、何があったか、誰が何をしていたかを訊き回っていると。


「そちら異変はありませんか?」


大有りだろう? 



                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい