036   きょうだい   5.

     子供は、始まりを意識せず、終わりに気付かない。 

ふとした切っ掛けで、たまたま居合わせた誰かと遊びに興じ、あとは、日も暮れ暗くなり、苛立つ母親に呼び戻され漸く、もう遊びは終わったのだと気付く。 夢中って言うのは、そんなだ。 周りが見えない。 周りどころか自分すら見えず、ただ、その行為に魂を奪われる。 その証拠に、ほとぼりが冷めた頃振り返ればこう思う筈だ。

  「何やってたんだろう?」 

 何を、やってたんだろう? 俺たちは、あのとき、何をしていたんだろう?



甲高い子供の声に 遅刻か? と、慌てて布団を跳ね除けた。 が、クローゼットのノブ、ハンガーに吊るされた制服の姿は無い。 昨日クリーニングに出したそれを思い出し、ベッドサイド、まだ七時前の目覚ましに舌打ちし、あぁ、休みじゃないかと、もう一度転がった。 未明までの雨は、嘘のように上がっている。 カーテンの隙間、差し込む陽光の白い熱。 閉じた瞼の向こう、浮遊しては弾ける光の粒が白、黄色オレンジに変わるのを眼球は愉しむ。 朝からシャカリキな蝉に体感温度は数度上がり、合図のような自転車のチリンチリンが、笑い、怒鳴り、はしゃぐ声に重なる。 夏休みが、始まっていた。 そして今日は、家族の新しい始まりでもあった。 

いよいよだな。 
いよいよ、今日、ミナトが退院する。 

九ヶ月、俺は中学二年になり14歳になったけど、ミナトは高一で時間を止めて九ヵ月を白い部屋で過ごした。 そして今日、ミナトの時間が動き出す。 ミナトは今日、この部屋へ戻って来る。 もう一度潜る布団の中、俺はソワソワした残眠と子供じみた再会のシュミレーションを愉しんでいた。

 よお! と玄関先、車から降りるミナトを歓迎する俺。 ミナトは何て言うだろう? ミナトはきっと、薄墨色のTシャツを着て戻って来る。 Tシャツは先日、母親が持って行った。 数日前 「色が白いから、ね、似合うと思うでしょ?」 と、買い物から戻った母は微妙な色合いのそれを広げ、得意気に俺と父親に話す。 確かにそれは、日焼けしないミナトに似合いそうだと思った。 そう思った俺を見越したか、 「焦げてるあなたにはこっちよ」 と脇に置いた袋を手繰り寄せ、チカチカ目に染みるブルーのTシャツを取り出した。 差し出しついでに 「まぁまぁよね」 と俺の首の下にあてがい 「値段の割に、映えるわよ」 と満足げに頷く。 

見れば薄墨のそれと同じブランドの同シリーズ、つまり御揃いではないか? 俺ら幾つだと思ってるんだよ! 肩を竦め眉を顰めて見せたが、俺は、笑っていた。 「お揃い? いいじゃないか!」 寛いだ表情の父親が言う。 「兄弟なんですもの、お揃いが基本でしょう?」 芝居がかった口調で母親がそれに続いた。 団欒? そう。 和み安らぎ、少し浮ついて俺たちは語らう。 


俺たちは家族と言う欠片集めに夢中だった。 それぞれがそれぞれの欠片集めに夢中で、周りなんて見ちゃいなかった。 埋め込まれるピース、新たに発見したピース、のめり込んで、有頂天で、けれどその手元で何が出来上がろうとしているのか、それを、知ろうとはしなかった。 俺たちが躍起になって取り戻したかった団欒。 かつての俺たちには到底手の届かぬものであり、また、そこに気付いちゃいけないタブーであったそれは、ミナトの治療が進むにつれ俄かに手の届く希望となり、俺たちの鼻先にぶら下げられた。 

無理なら諦めただろう。 だけど今度は違う。 キーパーソンたるミナトは、自ら崩したそれを、再び俺たちに差し出そうとしている。 差し出されたそれはそこに、ほんのすぐそこにあるのだ、あるように見えた、ならば手を伸ばす。 手を延ばし数ミリの背伸びをし、数センチの無茶をしても手に入れようとするだろう? 俺たちは、そうして、団欒を求めた。 家族という幻に、取り付かれてしまっていた。 日が暮れても、俺たちを呼び戻す声は、聞こえはしなかった。


尤も、俺たちだって見込みの無い期待はしちゃいない。 面接、外出、外泊、慎重に段階を踏み、ミナトの退院は決まる。 トネガワとの攻防、親二人との歩みより、そして俺と二人で話すそれは回を追う毎に穏やかに。 連休明けの五月、ミナトは初外出で一時帰宅をした。 

浮かれる俺たちは総出でミナトを迎えに行き、四人を乗せた車は自宅までの約三十分を走る。 初めての家族ドライブ。 やや強張った顔のミナトは、後部席で俺と並んだ。 途中、渋滞を避け車が高速を降りたその時、ミナトは俺に尋ねる。 「ここは、観光地なのか?」 ミナトが指差すのはホテル街の一群。 ありゃラブホだろ? と言い掛け、でも、それがミナトに通じるか迷い、生真面目な表情に俺は言葉を返せなくなる。 「あれはね、恋人同士が密会に使う旅館なの」 と、助け舟を出したのは意外にも母親だった。 腑に落ちぬ表情で通過した一群を追うミナトは、 「密会しなきゃならない恋人達は、あんなに居るんですか?」 と母に返す。 

以降、自宅までの十数分、母に代わり、父は四苦八苦してあれらをミナトにレクチャーする。 子供のように、世間を知らないミナト、しかし、ミナトは大人だから厄介だ。 それも、楽しい想い出、家族が和やかだった想い出。 そして外出のメインは家族揃っての昼食。 ミナトは皆と同じ食卓で、ひんやりしたトマトのパスタとデザートのフルーツババロアを食べる。 「御馳走さま」 の言葉に、母親は泣いていた。 「次、ね、また週末帰ってらっしゃいよ、」 帰りしな、車中で母親は繰り返す。 ミナトはただ、微笑んでいた。 持たされた着替えと、書籍の入った紙袋を手に、空いた左手を軽く上げて病棟に戻って行った。 俺たちは、ミナトの不在に寂しさを募らせて、欠けたピースを夢中で探る。

翌週、その翌週と、週末毎の外出を滞りなくこなし、六月、ミナトは初外泊を行う。 その頃既に、ミナトは当たり前の日常を家の中でこなしていた。 皆と食べ、過ごし、普通に風呂を使い、寝しな天窓を眺め俺と話し込む。 

 「ハヤタは、良いな、」

 「俺が? 何で?」

 「ハヤタは良い。 ハヤタは正しいから、迷わない。」

 「え? なにそれ? 俺、正しいとか言われた事ねぇよ」

 「……でも、ハヤタは良いな。 僕は、ハヤタみたいになりたかった。」

 「かぁ〜〜ッ! ミナトみたく見た目も頭もイイ奴にそれ言われんの? なんかそれ、変だよ、逆だよ!」

ミナトは、クスクスと笑う。 俺もミナトにつられて笑う。 ミナトと同じ夜空を見上げこんな風に笑い話す今が不思議で、嬉しくて、俺はミナトに、早く戻って来いと伝えた。 

 ―― 早く退院しろよ、ずっと一緒に居ようよ、
  俺、ミナトともっと喋りたいし、俺の知ってる事もっとミナトに教えてやるよ、



翌週の外泊、二泊目の午前中、ミナトは俺と二人、散髪に出かける。 朝食時、俺に散髪を促していた母親が、ふと思いついたように 「ミナトも行ってくれば?」 と誘った。 

ギョッとしたのは俺だった。 何故なら、ミナトは床屋に行った事が無い。 ミナトはいつも、鋏をさっと消毒し、器用に鏡を用い自ら伸びた箇所を切る。 おおよそぞんざいな切り方であったが、ミナトの整った容貌に掛かると、不揃いな分わざとかなと思わせる仕上がりとなり、ちょっと目を惹くヘアスタイルであった。 しかしそれも、長い入院で伸びきり、肩に掛かるほどのそれは看護婦が気を利かせたか、たいてい一本で後ろに括られていた。 剥き出しになった額と、細く伸びた首筋が当時CMに出ていた若手舞踏家のそれを思わせる。 何れにしろ伸び過ぎたなら、自分でまた切るんだろうと俺は差して気に留めては居なかったが、母親はそうではなかったらしい。 

 「そうよ、ついでじゃない? ハヤタと行って来れば良いのよ。 仲良く行って来なさいよ、スッキリするわよ。」

 「や、でもミナトは、」

急かし過ぎだと口を挟む俺だったが、本人は呆気なく言うのだ。

 「そうですね、ハヤタと行って来ます。」

 「そ、そう? ちょっと歩くよ?」

 「ハヤタに歩ける距離なんだろ?」

 「だな、10分弱?」

 「なら、かまわない。」

かまわないなら、まぁいいけれど。 俺らは仲良し兄弟宜しく、並んでテクテク床屋へと向かう。 床屋よりも、初めて出歩く近所にミナトは黙り込み、比喩表現でなくぴったり真横に並び歩くのは恐らく迷子の不安だろうと思った。 そんな様子に俺は益々、自分がなんとかせねばとミナトを守ろう気持ちに拍車をかける。 言わば逆転した兄弟の立場、兄と弟の両方を演じる新しい試みに、俺は夢中になっていたのだ。 

そして、理髪台の前、若い二代目は 「どうなさいますか?」 とミナトに問う。 ミナトの答えは簡単。

 「ハヤタと同じにしてください。」

 「え? 伸ばしてるんじゃないの? それ、」


かれこれ数ヶ月、俺はここでは短髪しかしていない。 数十センチのカットに、店長は念を押すが、ミナトは平然としていた。 斯くして俺たちは、お揃いの短髪で帰路に着く。 短髪のミナトは、長い頃よりもなんだか中性的になっていた。 短髪と言うよりはベリーショート、曝された項や耳の裏、そして形の小さな頭骸骨に整った顔がくっつくと、同じ髪型でも体育会系仕様の俺とは全くイメージは変わる。 しかし、父親は言った。

 「そうしてみると、おまえ達似てるぞ、」

似てないだろう? しかし母も続いた。

 「後ろ向いて御覧なさいよ、多少ハヤタがガッシリしてて黒いのはあれだけど、でも、基本的に骨細。 うん、兄弟って感じするわよ?」

えぇ〜ッと声を上げた俺にミナトが真顔で問う。

 「似てるのは、嫌か?」

 「いや、嫌ってあの嫌なんじゃなくて、」

 「兄弟に見えるのは嫌か?」

 「やじゃないよ、って、なんかあの、照れるんだよ、」

 「僕は、嬉しい。」

直球な言葉にたじろぐ。 それが偽り無い言葉だとわかるから、尚更俺はたじろいだ。 ミナトは本当に、嬉しそうだった。 あんなに、嬉しそうなミナトを見たのは初めてだった。 父親が、自慢のデジカメを取り出す。

 「そら、お揃い兄弟! こっち向いて笑え!」

戸惑うミナトはフラッシュに身を硬くする。 カチコチの肩を引き寄せればすっと強張りが抜けた。 頭二つくっつけ、並べ、画面の中俺たちは収まる。 ぎこちない笑みのミナトとくしゃくしゃ笑いの俺。 それは間違いなく、兄弟だった。 家族合わせに浮かれ、浮かされていたのはミナトとて同じ。 寧ろ、ミナトこそ、一番に団欒を求めていたのではないか? 最も持ち札の少ないミナトだから、必死に欠片を集めたのではないか? 今となっては憶測に過ぎないが、俺はそう信じたい。 俺たちは、あの時兄弟だった。


やがて、外泊も最長の一週間をこなし、家族四人による家族療法を経て、ミナトの退院は決まる。 

 「焦らず気長にやってゆきましょう。 何しろ出逢って4年目の家族です。 そして、仕切り直しのスタートはここからですから、」

最後の家族療法の席でトネガワは、退院後、三週に一度の外来受診をミナトに促した。 浮き足立つ俺たちに、針ほどの釘を刺したのかも知れない。 と云うのも、ミナトにはまだ未解決の問題が残っていた。 

修羅のような入院治療を通し、ミナトが克服した課題は数多く、中でも日常生活におけるこだわりの改善には目を見張るものがあった。 いまや、家族と過ごす日常生活に、支障を来す要因は無い。 あれほどミナトの行動を阻害した 「汚れへの恐怖」 、それはすっかり身を潜め、僅かに強張る指先やその表情に、微弱な余波を窺う程度だった。 それだから俺たちはミナトと語らい、ミナトの居る食卓で団欒する。 その点で、ミナトはもう 「時別」 ではない。 がしかし、例外はあった。 13歳まで過ごしたアパートでの生活、そして、あの事件。 ミナトは入院後から今日に至るまでの終始、それらに関しては完全な黙秘を通していた 断片的に洩らすミシヲの名前は苦く、もう一度問えば貝のように黙る。

 「それほどに、タブーなんでしょうね、彼の中では。 まして、あなた方御家族との日常を受け入れれば受け入れるほど、彼自身、それら病的な歪みは痛切に感じると思います。 沈黙を、一つの意思表示と見てあげて下さい。 彼は今、沈黙して居たいんです。 けれど、それは腫れ物に触れるなと言うのではありません。 あえてその話題を避けるとか、言葉にピリピリするとかの 『特別』 は必要ありません。 例えばそのような話題を振り、彼が何かしら反応を示したとして、それこそ彼の返事ですから、どうぞ、彼が沈黙や拒否や、怒り、あるいは反論、そして告白するチャンスは奪わないで下さい。 有りの侭で良いんです。」

ならばそう難しくは無いだろうと、俺たちは高をくくった。 語られぬほどにタブー、トネガワの語る言葉の重みをその半分も理解せず、目の前の好条件にただ浮かれていた。 

だって見たろ? ミナトがどんなだか見ただろ? 

夕暮れの台所、俺たちはテーブルを囲み揚げたての天麩羅を突付き 「おう、そこ!」 父親がそう言えばミナトはリモコンでチャンネルを変え、「掻揚げいるか?」と差し出せば、突き出した俺の箸の先、近付いた歯は潔くサクリと齧り、熱いと目を細め水滴の浮く麦茶を飲み干した。 

なぁ、コレのどこに歪みがある? 

湯上りの熱を持余し、寝そべるフローリングには山と詰まれたCD. 一枚取ってはデッキに押し込み、俺はそれを片ッ端から流しミナトに聞かせる。

 「コレは?」「いまいち」「これお勧め、」「あぁ?」「良くない?」「……これって、何語?」「日本語だろ?!」 

天窓には逆さ三日月、夜更かしの蝉、夜明かしする気の虫の音は湿った夜風に乗り、さながらキャンプの夜の非日常を俺たちは味わうから、

 「俺、S学受験する事にした」

 「……そうか、」

 「嫌か? 俺、あまし評判良くねぇし、同じ学校に俺来るの嫌か?」

 「違う、それは、僕は、おまえが嫌かと思って。 僕なんかが兄弟だなんて、言ってて良いのかなと思って。」

考え考え話す気弱なミナトは、月の光の斜めのラインに、合格ディスクを順繰りに並べる。 並べたそれは、カセットに入れよう、カセットで纏めて、病院へ戻るミナトに持たせよう、病院に戻っても忘れないように、ここで俺らこうした事を忘れないように、俺らが兄弟だってミナトがちゃんと自信持てるように、

 「俺、ミナトと兄弟で良かった。」

本当だった。

 「学校、一緒のとこ行きたいと思った。」

嘘なんかじゃなかった。 嘘偽り無く、俺らはあぁしていつまでも話し込み、いつまでもワクワクし続けて居たかった。

 「お揃いだな、」

ミナトが呟く。 呟いた口元が笑っているのを知っている。

 「兄弟、お揃いだな、」

照れくさくて転がった真上、月の航路はもはや葉桜の向こう、まだ明けない夜に俺たちは想い、やがて聞える新聞配達のバイクに白む空を知り、語りきれぬ名残を軽操状態の頭に残しつつ、 「じゃ、お休み」 の一言を互いに言いそびれて、気だるい薄明かりを黙りこくり浴びる。

それを、歪みと言うのだろうか? 



二度伸び上がり、弾みをつけ起き上がる。 茹だる一日を予告して、天窓の空はスカイブルー。 俺のTシャツと同じ、目に染みる鮮やかなスカイブルー。 10時になったら車に乗って、父は待ち侘びるミナトを迎えに行くだろう。 母は、バラ寿司を作っている。ミナトの好きな綺麗なご飯を作っている。 11時になれば俺は門柱横に座り、先の十字路、シルバーのセルシオが近付くのを虎視眈々と待つ。 ミナトが戻って来るのを待つ、兄が、戻って来るのを待つ俺に、世界はスカイブルーの鮮やかさ。 

そこに、見えない闇のある事など、知る筈もなく。 薄墨の陰りなど、見える筈がなかった。 

戻って来いと呼ぶ声も、俺には聞こえやしなかった。







                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい