036   きょうだい   4.

昔、映画が好きだった母親は、外国映画に見る一般家庭のセンスに驚いたという。 

無造作なようで計算されたディスプレイ、綺麗に襞が寄せられたカーテン、まるで部屋の延長のような作り付けのクローゼット。 そして、広い子供部屋は樫の木の焦げ茶、床に散らばるのは美しい彩色の玩具。 窓際にはゼラニウムの鉢、生成りの壁に留められた家族のピンナップと、カラフルなポストカード。 さりげなく上等な生地を使った小さなクッションは、ベッドに掛けられたファブリックと絶妙に色合わせされて、寝そべり見上げれば覗く、天窓からの青空。 そこで、大切な我が子を育てる。 

 「あんな部屋でね、自分の子を育てられたらどんなだろうって思ってたの。 あんな部屋で育てられた子供なら、きっと、綺麗な物や優しい物に敏感になれるって思う。」

そんな母親の強い希望は、祖父母の援助によって立てられた新居に活かされる。 用意された子供部屋は、まさにそんなだった。 母親が好む木の玩具は、ロボットやミニカーより面白くはなかったけど、垢抜けて洒落た作りに、遊びに来た友達は皆一様に驚き、羨む。 そんな雑誌に出てくるみたいな、俺にとって密かな自慢だった子供部屋。 しかし、ミナトが来て部屋は変わった。 

広い部屋にはもう一人分の机と椅子が入り、二分されたクローゼットを補う為、新たな家具が搬入される。 そうなると部屋は、もはや広いとは言えない。 床に置かれたクッションは片付けられ、ファブリックはミナトの「使い道がありません」の一言で取り除かれた。 余分で美しいものを剥がれた部屋は、陰鬱な焦げ茶の殺風景な空間。 必要は満たすが温かみに欠け、空虚でギリギリの空間。 

つまりミナトの心象風景そのものなんだと、一人になった部屋に寝転び、俺は天窓を見上げた。 窓の外には半欠けの月。 青白い月の光が部屋の中を照らし、ここは酷く寒々しく思えた。 しかし、月は美しく、夜空を眺めれば気がそぞろになる。 いつだって俺は、この空を眺め、楽しい空想を廻らせていた。 あの月にだって行ける気がして、特撮ヒーローさながらの冒険を繰り広げる自分を夢見た。 ミナトはこの天窓を見て、何を考えただろう? なにも? ミナトの将来って何だ? 夢は? 

ミナトは、夢を見るんだろうか?


第四週の水曜日、俺はミナトとの面会の為、外来待合室に居た。 ここには俺自身の受診も含め、ほぼ週一で通う。 ならばもう、常連なのだろう。 会釈し合う顔見知りができ、時に長い待ち時間を雑談で凌いだ。 そして、年配の看護婦は俺を 「ハヤタ君」 と名前で呼び、 「学校はどう?」「そろそろ期末じゃないか?」 など母親のように話し掛ける。 ようやく順番が来て面接室に向かえば、カルテから目を離さず、トネガワが 「よお」 と片手を上げた。 

 「なんだかここ来るのも、毎週じゃ大変だな。 なんなら、ちょっと時間ずらそうか? 例えば同じ週に「面会」と「受診」の二回、入れるとか、」

 「いや、いいんです、このままで大丈夫です。 ここ来るとなんか落ち着くんで、俺、毎週来るのは苦じゃないです。」

苦なものか、それどころか楽しみにしてるくらいだ。 

ミナト不在の今、俺の日常は随分気楽になった。 不在の穴を埋めるように、俺も、親も何かとリビングに溜まり、沈黙を避けるように話しを持ちかける。 親子の会話というのなら、以前に比べ段違いに、長くたっぷり持てていると思う。 だけどそれは、概ねミナトに係わる話題だった。 親は、親子面接の様子と自分達の感想を俺に話す。 俺も、ミナトと会ったあの日の遣り取りを親に話す。 俺たちは皆、今後ミナトとどう暮らすか、ミナトとどう接するか、一つ余った椅子を眺め、急くように熱っぽく何度も結論をループさせて話した。 誰も、正しい答えなんて持ってなかった。 ただ、不安で、しょうがなくて、自分の中押さえて置けなくて、堂々巡りの議論を飽きる事無く繰り返す。 

確かにそれは、俺たち家族に必要なプロセスなのだと思う。 だけど、俺は、俺の話しをしたかった。 俺の話しを、俺の考えを、ミナト絡みでなく、俺だけの事を考えてくれる場が欲しかった。 それだから、ここに来るのが苦な筈が無い。 ここにはトネガワが居る。 俺の為の時間を作り、俺の話に耳を傾けるトネガワが居るのだ。 俺にとって、ここでトネガワに話しを聞いて貰う事は、今を生きて行く為に必要不可欠になっていた。 これから俺がミナトを受け入れて行く上でも、トネガワの存在は必要であった。

 「じゃぁ、そう云うならこのままのスケジュールで行くけども、学校の都合や何かあるようならいつでも早めに言ってくれよ?」

トネガワの指がカタカタと走り、デスクトップの画面に、俺の名前とミナトの名前が並ぶ。 カシワギ ミナト・カシワギ ハヤタ 文字で並べば間違いなく、俺たちは兄弟だ。 こんな風に、俺たちは現実でも並べるんだろうか?

 「こないだ、イイ感じだったな、うん、好感触。」

ちょっと目を上げてトネガワが笑う。 

 「いい感じだったぞ。 ハヤタ、意外に大人だよな、あんな言葉が出てくるなんてちょっと驚いた。」

ハヤタ、と、最近トネガワは俺を呼び捨てる時がある。 それはなんか、ホントの兄貴のようで、こそばゆくって嬉しかった。 兄貴って言うのは、こんなだろうなと俺は思う。 その点ミナトは全然違うけれど、でも、

 「気長に頑張ってこうな、」

 「ハイ。」

でも、トネガワとならきっと、俺はミナトと兄弟の絆を結べるような気がする。 多少、普通じゃないかも知れないが、俺とミナトならではの関係が作って行けるような、そんな前向きな希望がむくむくと湧くのだ。 トネガワは俺の支えだった。 トネガワの言う事に、間違いはないのだから。

5分ほど遅れて、ミナトが到着する。 シャワー室の空きがあったので、使って来たのだと言った。 湿った髪の束が、額に張り付いている。 ここでも消毒してから浴室を使うんだろうか? と、思ったが、ミナトには聞けなかった。 ミナトはソワソワして見えた。 前回会った時のような、余裕の無さではなく、言うなれば軽い興奮。 もしかして、ミナトはこの時間に何かしらの期待をしているんじゃないか? 俺がそうだったように。 だとしたら、どんなに良いだろう。 治療は、俺とミナトで進めなければならない。 ミナトが同じ気持ちで居なければ、俺一人がシャカリキになっても駄目なのだから。

対話を始める前、トネガワは俺たちに簡単な取り決めを伝えた。 質問に質問で返さない事。 話の腰を折らない事。 反論は自分の意見を言ってからする事、根拠や理由の無い否定は駄目。 そしてトネガワは「じゃ、始めて、」と席を立つ。 俺たちは、別室でモニタリングされる。 出て行くトネガワを、ミナトが眼で追った。 洗い髪の水滴が、Tシャツの首筋を濡らす。

 「風邪、ひかねぇか?」

 「?」

 「頭、乾かしてくりゃ良かったのに。 ドライヤー持ってんだろ?」

 「あれは……」

確かドライヤーは母親が、日用品と共に持ち込んだと思う。 あれ、使えば良いのに。 先を急かしたくなるのを堪え、俺はミナトの言葉を待つ。 

 「あれは、使った事が無いから。 風が出てくるのも何か……汚れが吹き付けられるようで怖い。」

 「汚れ? 大丈夫だよ、ここらの空気が回されてるだけだろ?」

 「……そう、だな、おまえには。 おまえにはこんな事。 だけど、僕はそれを気にしない訳には行かない。 大丈夫だなんて言えない。」

ほんの少し顎を上げ、自嘲気味に語るミナトは、今まで見た事が無い泣き笑いの表情。 そうだ、あぁ、多分ミナトは気付いたのだ。 自分のこだわりが普通でない事に、その矛盾に気付いたからこそ、ぴしゃりと反論する事も出来ず、力無く、言い淀むのだ。 ならば、今なら、正直な答えが期待出来るかも知れない。 ミナトの本音が聞けるかも知れない。 それだから、俺は、前回聞けなかった質問をミナトにぶつけてみた。 

 「あのさ、ミナトにとって汚れってなに? 真っ黒とかドロドロとか、そう言うのはわかるけど、そんでも怖いとかって普通思わないし、何でそんなヤナのかわからない。 床に落ちたもんは触れねぇとか、人が多いから電車乗れねぇとか、そりゃ、清潔じゃないけど手ぇ洗って嗽でもすりゃすれば済むもんじゃん。 てか、一日外で手袋嵌めたまんまの方が、蒸れたりうっとうしいと思うんだけど、それはミナト的にセーフなんだろ? その辺の基準とかもわかんねぇ。」

 「……汚いものは、染み込んで汚す。」

 「え?」

 「ミシヲはそう言った。 穢れを嫌えと言った。 目に見える汚れは身体を汚す、眼に見えない汚れは内に進入し、内部から汚す。 下等な人間は穢れを発するから、選民で居続けるには、そうした澱みの場所には行ってはいけない。 そんな連中の触れた物を、素手で触れてはいけない。 だから、僕はそうして来た。 汚さないように、汚れないように、一度染み込んだ穢れは洗ってもどうしても戻らないから、だから、だからそうしてきた僕には、おまえ達がわからない。」

かつて、ミナトは俺を虫か物を見るように見た。 あの、冷ややかで侮蔑の混じる視線、その正体を今知った。 あれは、異物を見る目。 理解し難い、不可解な、愚かな、別世界の生き物を見るそういう視線だったのだ。 それならわかる、それだからあの視線には一つも共感が無かった。 そもそもミナトにとって、常識の範疇を超えた存在だったろう俺たちは、高見で眺めるしかない、言わば動物園の珍獣。 そして、同じ理由故に、俺も、ミナトをそうした目で見ていたのではないか? それじゃ、わかり合えた訳が無い、向き合う事も、歩み寄る事も出来やしないだろう。 それぞれの常識を、俺たちは決して譲らなかったから。 

そして今、揺らぎつつある常識に、ミナトは足元を掬われる。

 「……わからないよ。 どうして馴れ合う? 何で馬鹿騒ぎを好む? 無益な行為に嬉々として興じる、おまえ達の愚かさが理解出来ない。 穢れを、穢れと思わない鈍感さが理解出来ない。 どうして、穢れを恐れずそうやって生きて行ける?」

俺は、ミナトにミナトの常識を説明しろと言った。 がしかし、ミナトの常識を俺は理解しかねている。 そして、ミナトも俺に、俺の常識を問うた。 俺たちの常識は、互いの当たり前が余りにかけ離れている。 俺は俺の常識をミナトに説明出来るんだろうか? 

 「どうしてって、それは……死にゃぁしないからかな。 穢れとか汚れとか良くわかんねぇけど、例えばそうなったとして死ぬ訳じゃないだろ? かといってソンナン簡単に病気になるとか、死ぬとか聞いた事無いし、じゃ、別にどうって事ないじゃん。 それ以上に困る事なんてないだろ?」

困る事は一つもない。 人生変わるとか、普通は思ったりしない。 「汚れ」「穢れ」 、それをミナトが恐れる理由にやはりミシヲは係わっていたが、あのアパートで一体、どんな風にミナトは育ったのだろう? 今もこれほどに囚われ続けるミナトを思うと、そう教え込んだ環境と人の病み様にゾッとする。 言葉を捜すミナトは、両手を膝の上で握り締めていた。 そうか、ミナトは手袋を嵌めていない。 ミナトはあぁして膝の上、両手をどこにも触れぬように握り締め、それでも穢れの恐怖に震えるのだ。 何で、あんなにした? 何で、ミナトにあんなくだらない事吹き込んだ?

 「ハヤタは、死にさえしなければ下等に落ちても良いのか?」

 「その、下等とかなんか、一体誰が決めんだよ。 それに俺なんかガキの頃、ドブに足突っ込んで平気で遊んでたぜ。 したら汚れッぱなしで、とっくにもう下等だろう?」

 「だって、」

 「考えてみろよ、」

 「僕は、」

ミナト、考えろ。 何が正しくて、何がおかしいのか、おまえ、気付いてるんだろ? 
ミナトは今迷っている。 何が正しいのか己で判断しようとして、迷っている。 

 「昔おまえが誰にどう言われたか、それは俺の知るところじゃない。 でも、今は自分で考える事が出来るだろ? 俺はね、自分は、選民でも下等でもないと思ってるよ。 俺は俺だと思ってる。 ミナト、おまえは俺を、下等だとか思うか?」

出来るだけ優しい口調で言った。 子供顔でおろおろするミナトを怖がらせないように、怒られてるみたいに思わないように、ゆっくり、優しい口調で俺は話した。 ミナトの拳が握られたまま震えている。 と、その時、不意に口元に微かな笑みが浮かんだ。 しかしそれは力無い溜息に変り、俯いたままの唇から小さな呟きが洩れた。

 「……ハヤタも、トネガワみたいな事を言うね。」

 「え?」

急にトネガワの名を出され、俺の心臓はみっともなく飛び上がる。 あぁ、何だそうだ、そりゃそうだ、俺は俺だけが特別にトネガワと話していると、どこか勘違いをしていたようだ。 が、トネガワは俺とミナトの主治医だ。 俺と話すように、トネガワはミナトとも接しているに違いない。 俺に問い掛けるのと同じ穏やかな口調で、気さくな笑みを浮かべミナトの話しを聞き、もしもミナトが辛くなれば、俺に言ったのと同じように労いの言葉を掛けるに違いない。 俺は馬鹿だ、自分が特別だと勘違いしていた。 馬鹿じゃないか? 特別なものか、オメデタイ滑稽な勘違い。 

けれど、どうだろう、 「選民」 と言うのはまさにこういう感覚なんじゃないだろうか? 誰かより自分が勝っている、自分だけが特別の特権を翳す 「選民」 ? ならば合点が行く。 あぁもミナトが傲慢を通せたのを、なるほど、常にこう云う自分を意識してたならそりゃ、すんなり見下せる事だろう。 いや、見下す? 俺は、ミナトを見下していたのか? 一人開放された優越感に浸り、足掻き地を這うミナトを、上から諭してやろうとか思ってたんじゃないか? 

急速に頭の中が冷えた。 そしてもう一つ、ミナトは当に、この手の話しをトネガワとしているのだと気付く。 あのトネガワが、この話題を流して通る筈が無い。 なのに俺と来たら、ミナトを自分一人で直してやろう、救ってやろうなどと考えていた。 今こうしてミナトが自分を語ろうとする事も、俺の誠意がここまでミナトを引き上げたとか、見当違いでとんだ思い上がりをしていた。 

 「……ハヤタ?」

 「や、ごめん。」

 「何?」

 「いや、ごめん。 ミナト、こう云う話し、俺にするのは嫌か?」

 「え?」

 「この手の話はもう、先生との面接でも話してるんだろう? だから、ミナトん中では整理ついてる事かも知れないし、なら、もしも俺には言いたくないならそれは、無理に言わなくても良いんじゃないかって。 俺、そんな重い大事な話し、当たり前みたく訊いちゃって良いのかなって思って。」

ミナトは、急に覇気の無くなった俺を、いぶかしむ表情で見つめる。 やがてゆっくりかぶりを振り、 「かまわないよ、」 と言った。 

 「……かまわないよ。 確かにね、話し易くはないけど、言えない内容ではないから。 僕は、生まれながらに 「選民」 だと言われて、ずっと、自分はそうだと信じていた。 世の中は人を動かす 「選民」 と、それに奉仕する 「下等」 に分かれているのだと、そう言われていたから。 あぁ、勿論それは正しくない。 間違った考えだ。 でも、そう気付いても尚、僕は汚れる事を恐れる。 穢れて 「下等」 に落ちるのが怖い。 怖くてどうしようもなくなる。 …… もっとも…… 今更ではあるけれど、」

 「ミナト?」

ゆっくり閉じられた目は、ぎゅっと一瞬眉根を寄せ、再び見上げる視線は俺を素通りして何かに向かう。

 「…… 知ってるだろ? ……皮肉だね、あれほど気を付けてきたのに、穢れまいとして滑稽じゃないか? これ以上の汚れ様も無い。 よりによって、 」

中途に切った言葉の端、ミナトは続けようとはせず、スウィッチが切れたように静止した。 
僅かに傾けた首、視線の先にはさわさわ揺れる胡桃の木。 

-- これ以上汚れ様も無いだろうけど -- ミナトはそう言った。 ミナトはあの事を言っている。 なのに、使えない俺はこんな時、なんて言って良いかわからない。 ミナトは汚れちゃいない と、言ってやるべきなのに、舌が縮まったように固まり喋れない。 ミナトの抱える重さを、俺は甘く見過ぎていた。 何でも話せと言いながら、いざ訊けば手に負えなくなるなんてどうしようもない、俺はどうしようもなくガキだった。 ガキの俺はただワタワタとし、ミナトはぼんやり胡桃の木を眺める。 いつの間にか、髪は乾いて、窓越しの光に薄く透けた。 ミナトは、汚れてなんかいない。

 ―― ハイ、お疲れ様です、終了ですよ!

インターフォンで、トネガワが終了を告げる。 静止を解かれたミナトは、うたた寝から醒めるように身動ぎ、軽く息を吐く。 そして、すと、目が合った。 

 「き、綺麗だからッ、」

 「?」

 「だ、だから、」

馬鹿だ、何を言っている? うろたえる俺が言葉を捜すより早く、ガチャリとドアが開きトネガワが顔を出す。 トネガワは 「疲れたろう?」 と、俺たちを伺い 「でも、良い話し合いだったね」 と、デスクトップのボードに指を走らせた。 まだ混乱収まらない俺は、トネガワが、次回の予定とスケジュールを話すのを上の空で聞く。 最後に、トネガワが 「では、次回」 と席を立ち、入れ違いにまだ学生みたいな病棟看護婦が、面接後のミナトを迎えにやって来た。 無表情に戻り、看護婦に続くミナト。 そして退室間際、まだモタモタする俺を、振り返り小声で言った。

 「……ありがとう。」

俺は、馬鹿みたいに突っ立つ。 
初めてもらったミナトからの感謝に、リアクションすら返せず、俺は立ち尽くしていた。






                                              :: つづく ::



百のお題  036 きょうだい