――オムライス
御剣からの返事は成歩堂がそうだろうと踏んでいたメニューだった。
適当な材料を適当に刻み出来上がったケチャップライスを卵でくるんだオムライス。
いつだったか、御剣と休日を過ごした際何気なく作ったそれは、見た目不恰好でところどころ破れていたけれど初めて一緒に口にした”うちごはん”。
遊び心で卵の表面にケチャップで描いたハートマークに爪楊枝で作ったお手製の旗を立て、へらり笑ってテーブルに置いた。
「私は子供か‥」眉間に浅い皺を寄せ仏頂面で食した恋人は、見た目はともかく味は良かったと照れの滲む仏頂面で呟いた。
ささやかな出来事。
ささやかだったけどそれがぽろり笑顔がこぼれる思い出になったのは遊び心で作った爪楊枝製の旗を、食器棚の片隅で見つけた時。ごみ箱へ直行してもいいものを残していた事を知った時。
そして「なに食べたい?」と訊くと少し時間を置いた後「オムライス」の答え。
15年間更新されることのなかった思い出が少しづつ、少しづつ、積み重なってゆくことを実感した時。
ささやかだけど、少しづつだけど、確実に時間は経過し、一人一つしか持たない時間の流れが所々交差し平行して流れているのだと分かった時。
硬く閉ざされた心の檻が開かれてきているのではないかと錯覚すら覚える。

「おかえり、早かったね」
格好から見て仕事場から直行したと分かる御剣を笑顔で迎え入れ、成歩堂はほっと安堵の息を漏らした。
「ム、思ったよりも早く調書が片付いたのだ」
失礼する、と軽く一礼し玄関のドアをくぐる御剣を奥へと促す。
「おかえりの後にはただいまって返すって言ったじゃん」
「そうか‥た‥‥いや、だがしかし余所様の家に上がる時は礼儀正しくするものではないか」
「ん?だってここ、余所様の家じゃないでしょ?だから、ただいまが正解。次からちゃんと言うんだよ」
「ぜ、善処する」
こんなやり取りですらささやかだけど幸せなものだった。
自分だけ置き場所が分かればいい…整理整頓とは無縁だった居間も、取り合えずここにおいておこうと積み上げられてゆく机の上の書類とか雑誌とか何かの領収書とかも、御剣が訊ねてくるようになってから少しはマシな状態になったし、こもったような埃っぽい室内の空気も以前よりは薄くなった…ような気がする。
見栄とかじゃなくて、二人分の容積を確保する為の掃除、片付け、換気はちょっと楽しくてちょっと胸が弾む。
御剣のマンションみたいにツヤツヤのピカピカ、必要なものだけしか置かれていない空間とは180度違う部屋でも恥じたりなんかしない。ありのままの自分を何食わぬ顔で受け入れてくれ、多少の苦言は零しても強要はしない。
危惧していたこととは裏腹に存外、この程度の環境にも順応している風でもあるっぽいから、これはこれで丁度いい案配なんじゃないかとすら思う。
「ご飯の前にお風呂入ってきなよ。消化の為にはそっちの方がいいから‥着替えもタオルも用意してあるからね」
上着を脱ぐ御剣にハンガーを渡しながら促して、疲弊の色の濃い表情を見詰めた。
すまない…そう口にする時の伏せた睫毛に安堵が零れる。
緊張を解き溜まっていた仕事疲れをその横顔に、背中に、足取りに、表すだけの気安い関係を得ている事実に安心が生まれる。
磨かれた陶器色の皮膚に日差しを受けた印象のない、お世辞にも健康的だとは言えない顔色。そこに薄い紅が差せばいい。あたたかい湯船に浸かるように、冷えた心にもぬくもりの色が差せばいい。
ほかほかと
ほかほかと
肌から湯気を立ち上らせ、一時でも安寧に満たされればいい。
弾みをつけ、ぽんと浮き上がらせたフライパンの中で黄色い卵の塊がぎこちない弧を描き回転する様子を、息を詰め見守って、少し崩れた端を菜ばしで突付く。
一つは少し破けた。一つは何とか破けずに済んだ。
形のキレイなオムライスを君に…微笑みは当然とそれを選んだ。
「あ、早かったね。ちゃんと肩まで浸かって100まで数えた?」
ダイニングテーブルなんてこ洒落た家具なんか無いから…冬はコタツに変わる居間の机にできたてのオムライスの乗った皿を並べる成歩堂は、思ったとおりホコホコあたたかい湯気を立てながら浴室から出てきた御剣に笑顔を向ける。
「100…まで数えては無いが充分温まった。馳走になったな…」
タオルドライされた髪は程よく湿り気を帯び、セットされていない髪型は飾らない素の御剣そのまま。分け目こそついてはいても気丈に持ち上がってなどいなくて、パラパラと顔にかかる前髪で若干年若い印象を与える。
上気した頬も赤色のスーツを脱いだ姿も険の緩んだ表情もどこか人間らしさを感じさせ
「いい加減、御剣のパジャマ‥用意しないとダメだなぁ」
構いたくなるから不思議だ。
背格好はほとんど同じでも何故か袖丈や裾が足りないパジャマは、成歩堂のもので
「ム‥これはこれで一向に構わないのだが」
ざっと全身に目を走らせた御剣は気にする風も無く口にした。
「そのパジャマがぴったりサイズのぼくがヘコムんだよ‥ま、今に始まったことじゃないんだけどさ」
苦笑気味に肩を竦ませ首から提げていたタオルを掴んだ。
「耳の中まで拭かないとダメだろ‥ったく、こーゆーところが大雑把な検事さまの私生活を皆にも見せてあげたいよ」
きっと別人だって驚くから。ブツブツ小言を言いながらほんのりピンクに染まった耳朶の、内側に残る水滴をタオルでふき取る彼だって、お世辞にもきちんと身の回りのことが出来ているとはいえないけれど‥。
「君にそこまで言われるのは心外だ」
不満をたれても眉を顰めされるがまま‥ダイの大人である御剣は細かく世話を焼く男の手を叩き落とすことは無かった。
「あ、歯ブラシはこの間コンビニで買ったのそのまんま、置いてあるからそれを使うんだよ?」
「うム、先ほど洗面台で見た」
「整髪料も同じの買っといたから‥朝のしたくも出来るよね?」
「‥‥ぜ、善処する」
「善処じゃなくて‥‥まぁ、いいや。そこんところは御剣の好きにして。でも、朝までいてくれたらぼくが朝食ご馳走するよ。トーストと目玉焼きぐらいだろうケド」
「‥‥考えておく」
お互いの家を行き来する仲でも成歩堂の家に泊まる際、一度として朝まで居たことの無い御剣にあまり心惹かれることは無いであろう餌をちらつかせ打診する。
何故、とは言わない。
どうして、とも訊かない。
強要したところでどうになかることじゃない。
門限なんてないはずの相手を寝ているふりをしながら見送る虚しさを、口にすることはない。
いつか、そう出来たらいいという希望だけを抱いて‥
「さ、ご飯にしよう。君のリクエスト通り、夕食はオムライスにしたよ」
にっこり笑顔でささやかな晩餐が用意されている机へと視線を向けた。

「そこで訊きたいんだけど‥選択肢は三つ。名前とハートマークそれともぼくからの愛の言葉、どれがいい?」
ふっくら黄色のオムライスとレタスを適当にちぎってトマトをばら撒いたサラダ。コンソメの素を溶かした野菜のスープ。ステンレスのスプーン、フォークが待ち構える前に腰を下ろす御剣に成歩堂はわざとらしい笑顔を浮かべ手にした赤色の容器を掲げ訊ねた。
「‥またそれか。いい加減、食べ物で遊ぶ悪い癖は直せないのか」
はぁ、と呆れたように嘆息吐くが
「楽しい雰囲気は食事を美味しくさせるって知らないのかい?遊び心も立派な調味料なんだから選べよ」
一向に気にしない成歩堂は答えを急かす。
こういうオシの強さというか‥減らず口は法廷外でも健在で、いちいち反論していては折角の夕食も冷めてしまうと観念した御剣は
「どれも断る。普通にしてくれ」
引かないだろうと分かっていても異議を唱える。
「ぼくんちの普通はこれだろ?さあ、どれ?選ばないんなら全部ってことで塗り潰してやる」
「ム‥‥待て‥名前‥名前にしてくれ」
赤色の容器は中身が透けているから赤色で、中身はケチャップ。遊び心と言い張るのはオムライスへかけるケチャップで文字や記号を書くという子供相手の手法。本当の子供なら遊び心を素直に汲んで楽しみもするだろうが、そういう時代は当の昔に過ぎてしまっている大人には何か割り切れない思いがする。
そうと渋っても流石にケチャップべっとりのオムライスは食欲を削ぐものだったし、ハートマークも然り。ぼくからの愛の言葉なんて書かれた日には皿どころか机ごとひっくり返してしまいそうで‥コメカミに青筋を立てながら選択したのは何とか心の平静を保てるであろう名前だった。
まあいい‥食べてしまえば同じことだ。苦し紛れ、自分に言い聞かせ
「了解っ」
鼻歌でも口ずさみそうな笑顔で楽しげに成歩堂はオムライスのキャンバスにケチャップ文字を走らせる。
関係が終盤の夫婦ではこういうことはないのだろう。枯れかけた老夫婦も‥母子の関係なら納得いくが、それはそれで気持ちが悪い。
そこで思い浮かぶのは成歩堂が胸を張って言い切った『出来立てほやほやカップルみたいなの』で‥それはこんなママゴトのようなことをして楽しむのかと疑念が拭えない。
自分は兎も角、成歩堂は。
ついに書いてる文字を口に出し、にやけている様子を目の当たりにし、そういうものなのかと首を傾げながらも頷いた。『出来立てほやほやカップルみたいなの』という定義は不思議なことがいっぱいだ。
「待て、選択肢は名前だったはずなのに何故そのようなマークまでつくのだ」
キャンバスに綴られる内容は許可した内容以上のおまけがついてきた。
「ん?何故って、コレはぼくの愛情だよ」
「だがしかし、それは選択肢の一つにあったものではないか」
「君がハートマークを選んだならそれが二重になるだけさ。愛の言葉でも同じだよ‥どれを選んでもぼくの愛情は問答無用でついてくるんだからね」
できた、と言って差し出されるオムライスには”れいじ”の赤い文字。そして末尾にはしっかりハートマーク。
納得がいかないと塗りつぶしてしまってもいいソレを、至極嬉しそうに成歩堂は見詰めていて、そんな行為すら子供じみているのかと思う自分がいた。
へたに反応してもなんだかんだと反論されてしまうのも目に見えていた。口先三寸の詭弁は成歩堂の得意とする分野だから
「‥‥ム‥仕様がない、いただくとする」
渋々と御剣はスプーンに手を伸ばす。
「あっ、待った‥これ、忘れてる」
振り下ろされるスプーンより早く成歩堂はオムライスのど真ん中めがけてソレを衝き立てた。コレが最後の仕上げとばかりにセンターを陣取る万国旗?
「‥‥なんだ‥どこの国の旗だ」
爪楊枝にくるりとまかれている紙切れには見たこともないマークが描かれていて、そっちの方が気になってしまう。
「国旗じゃないよ。ロウジュウの家紋‥中々上手く描けてるでしょ?」
「ム、劇場版限定の悪役か」
「そう、結局御剣ってば意地張って観に行かなかったんだから」
「う、煩い‥」
「もう一種類あるんだよ。ほら、オニワバンの八方手裏剣の絵柄‥ちょっとイビツだけど」
「それは、限定キャラの武器だな」
「まきびしとか小刀とかもあるんだけど難しくて描けなかった」
摘んでくるくると回す手製の小さな旗を、興味深げに見詰める御剣を可愛いなぁと思うけれどソレを口にした瞬間、手にしている爪楊枝の旗が額につきたてられるだろう。自爆する為に内職したわけじゃないから思うだけでやめておいた。
「そんなに気に入ったんなら持ってかえってコレクションに加えてよ。成歩堂お手製旗コレクションにさ‥それとも二本立てる?」
「いや、汚れてしまうからそのままで‥折角だからいただいて行く」
オムライス皿の横にきちんと並べて置く爪楊枝の旗を、食後ハンカチでくるみ大切そうに壁にかかったジャケットにしまうであろう御剣を可愛いではなくいとおしいと思う。何日か後に御剣のマンションに遊びに行き、食器棚のアノ場所‥スプーンやナイフ、フォークが納まっているアノ引き出しを開ければこれまで捧げてきた旗の数々の中にソレが加わっているだろう、その確かな事実が何よりも嬉しいことだった。
機嫌よく、ケチャップ文字の書かれたオムライスを口にする。
もぐもぐと咀嚼し付け合せにと出されたサラダにも手を伸ばし、野菜スープも口にする。
ささやかで、他愛もない晩餐の情景。
枯れかけの老夫婦でも終わりかけの夫婦でも出来立てほやほやカップルでも、何でもいい。どんな表現をされても構わない。
ただ、二人一緒の時間を過ごすことが何よりも尊く、当たり前になりかけている時間が何よりも望んでいたことだから。
「また、リクエストしてくれたらいつでも作ってあげるよ」
その言葉に軽く頷く御剣の姿が記憶に焼きついて離れなかった。





    



2007/10/10
mahiro