人には本能的な欲求がある。
生きてゆく為に必要な糧を得ようとする食欲。
疲弊した肉体を休めリセットする為の睡眠。
種の存続、繁栄に不可欠な性欲。
欲求は単体であり連携している。同時に、と言うケースもあるけれど大体は身体が最も欲していることから満たされようとしていて、一つが昇華されれば次点に控えている欲求が主張し始めるもので、空腹が満たされた御剣が次に欲したのは睡眠だった。
でろでろに疲れた身体と、限界まで磨耗した神経と、それらを克明に刻んだ顔色を見て取ればその欲求は正直なものだと理解できる。
「御剣っ!ぼく、今からさっと風呂入ってくるけど寝るんだったら布団に行けよ。そんなところで寝るなよ?運ぶの大変だから」
食事の前半は良かった。スプーンを扱う手つきはしっかりしていたし、それなりに会話も出来ていた。それが覚束無くなってきたのはオムライスのキャンバスが半分ちょっと削られ、そこに書いてある文字のほとんどが腹に収まり、残すはぼくの愛情を表したハートマークだけになったころ。
顔つきに精細さがなくなり、瞼がとろんと重たげに下がり始める。ただでさえ不器用な手が何度かスプーンを取り落としては拾い上げ、電池の切れ掛かったおもちゃみたいに動きが遅くなってきた。辛うじて口に入れたケチャップご飯を咀嚼するけれど飲み込むまでにかなりの時間がかかる。
投稿ビデオなんかで睡魔と闘う幼児というのがあるけれど、アノ状況がノンフィクションだと目の前で教えられてる気分。まさか、このまま顔面から皿に突っ込むことはないのだろうケド‥ソレばっかりは大人の意地で堪えるんだろうケド‥見ているほうがドキドキのハラハラだったりして。
何度か声を張り、落ちかける意識を呼び戻して完食までこぎつけた成歩堂は御剣の手からスプーンを抜き取り、空になった食器類をひとまず流しに放り込んでパジャマ類を抱え、無駄かもしれないと思いながら一声かけユニットバスへと駆け込んだ。
表面的にしか彼を知らない者はありえない光景だと思うだろう。
常に冷静沈着な敏腕検事、精巧に造られたヒューマノイド的人間、彼をそんなそんな風にしか評価しない大多数の人が幼児並みに睡魔と闘っている光景を見たら驚いて固まるか、腰を抜かすかも。
それだけならまだしもうっかり可愛いとかお世話したいとか‥成歩堂が抱いている庇護欲と同じ構いたいと言う欲求を刺激されたりして‥。
大いに有り得る周囲の認識の変化を想像し、ガシガシシャンプーを頭で泡立てながら成歩堂は「私生活を皆にも見せてあげたいよ」少し前に口にした台詞を力いっぱい撤回した。
誰にも見せたくない。
誰にも教えたくない。
誤解なら誤解されたまんまでいい。
かつて、淡い恋をした時分には公言して憚らなかった恋人の全て。口にすることで誉れとなる、そんな錯覚の中での普及活動。今思い返せば色んな意味で舞い上がってたと羞恥に駆られる自らの言動。彼女に恋していた‥気でいた‥本当は恋に恋していた青臭いあの頃には理解できなかった独占欲。
決してキレイなものではないけれど‥得てしてそれは醜く浅ましい感情なのだろうけれど‥キレイなばかりが恋じゃないと知った今なら受け入れることが出来る。
バスルームのすりガラスのドア越しに人影が映り、洗面台の前で動いていた。
眠い目を擦りながら歯でも磨いているのだろう。どこまで意識がはっきりしているのかは疑問だけれど、多分御剣専用の歯ブラシを使っている。置きっぱなしになっていた歯ブラシは、夢のような今の関係が現実だという証。日に少なくとも二回は必ず利用する洗面台で赤色のもち手のそれは鮮やかに存在を主張していた。毎日、毎日、そこに在ることを証明する‥確かな証拠。
きっと御剣は知らない。
成歩堂がどんな思いでそれを見続けているのか。
不確かでいつまで経っても現実味が薄く、朝起きたら始まる前の状態に戻っているかもしれない‥失う恐ろしさを、想いが白紙に戻る怖さをきっと知らない。
独占欲だけが膨れ上がり二人の歩調にずれが生じる恐怖を少しも知ることはない。

おかえり、ただいまの約束。
定着しつつあるうちごはんに普通と言い張る習慣。
歯ブラシや整髪料、専用の食器類や適度に寛げるスペースの確保。
たまにでも使ってもらえればいい駐車場。
これから追加予定の品々のリスト。
家具の固定位置や物の置き場の記憶。
過去の残像。未来の期待。
なんとなく察する返答。
増える大切な物と思い出。
交わした会話の内容、その時の反応。
二人でいる時のお互いの定位置、顔の向き。
単純に抱いている独占欲。

我が家ですら安らぎの空間としない御剣が唯一安心を得られる場所になればいいと‥物や思い出、そこに居た証や気兼ねなくい続けられる状況を、少しづつ少しづつ増やして行き、一番の拠り所となる存在へとなること。
気長に‥でも確実に、着々と、環境を整える。
せめて外観ぐらいは‥様子を窺いながら心の内側へと入ろうとする‥成歩堂の懸命さを御剣は知らない。
一心に甘やかしたいと笑顔を向ける胸の内の焦りに気づくことはない。

それを哀しいとは思わないけれど‥‥。

バタバタと水滴と落としバスルームから出ればそこに御剣の姿はない。
最後の寝支度、歯を磨くことも済んで布団に入ったのだろうか‥ほんの少し気が抜けたような様子で成歩堂はパジャマを着込み、素足で寝室兼ものおき部屋を覘く。
カーテンすらひかれてないそこは月明かりが蒼白く照らしまったくの暗闇ではない。闇に目が慣れていなくても人の気配があるかどうかは確認でき
「ったく‥一度起きたんだったらなんでこっちにくるかなぁ」
盛大に嘆息吐き歩幅を大きく居間へと足を運ぶ。
「御剣っ!」
気遣いたい気持ち半分、呆れ半分、少し声高に机に突っ伏して転寝している男を呼ぶ。
「ダメだよ、こんなトコで寝ちゃ‥布団行けよっ」
肩を揺すり移動要請。
「ぅ‥ム…」
苦しげに顰められる眉根と半覚醒で吐き出される反応。ホッとするけど気を許せばまた落ちるであろう意識。
「頼むよ。運んであげたいケド腕っ節に自信ないんだから‥ほら、立って」
「‥‥‥すまな、い‥」
指先で目頭を強く押し弾みをつけ立ち上がり、鼻にかかったような声で一言呟くと御剣は動き出す。どこかおぼつかない足取りで隣の部屋に移動し布団の上に膝をつけた。
崩した正座。座り込んで、頭から布団にダイブしたらやっぱり痛いだろうから、控えていた成歩堂の手は徒労に終わったらしい。
「えーと、マッサージは‥」
「‥‥いらない」
「そっか、じゃあ子守唄は?」
「遠慮する」
だろうね、と肩を竦め浅く返事をした成歩堂はぼんやりと座っている御剣の横に腰を下ろす。
背中合わせに近い二人の位置。いつでも距離を取れる微妙な‥布団は一組しか敷いていないから寝るならここだけど。
う〜ん、と唸りながら暗い天井に目を向け首の骨を小さく鳴らす。
今更躊躇う関係じゃない。今よりもっと近い距離で触れ合ったことはあるし、セックスだってそれなりにしてるんだから密着することに許可が要るわけじゃない。当たり前に寄り添うこと、抱きしめること、もっと言うなら押し倒すことだって出来る。
多分、多分、そーゆーことに気持ちが向いても拒まれることはないって裏づけのない自信だけは、なぜかある。多少辛辣な言葉は浴びせられるだろうケド、最終的にその手の願いは成就するのだ。
それは、成歩堂が強引だからだけじゃなく‥ガツガツ喰らいつくからだけじゃなく御剣本人もそーゆー面では寛容と言うか流されやすいと言うか望んでいる節はある‥なんとなく。都合のいい見方だけれど。
そりゃぁ、男だし?その点ではまだまだ枯れてない世代だし…つか、まだ充分現役でしょ?
好きに性欲は直結、一応抑えてはいるけどいつでもOKなのはこの、微妙な間が証明してる。
建前では一緒に寝るだけでいいって言ったけど下心がないっていったら嘘でしょ。ええ、もう嘘だよ。それは認める。触れてない肌でも空気を伝って体温は感じられるわけで、スースーと安らかな寝息なんか聞いちゃったらムラムラ…。
………。
………安らかな寝息?
「お前っ、座って寝るなっ!」
呆れる。ほんと、子供じゃないんだから!
ぐわっと背面に身体を向けながら、哀しい突込みをしてみた。
悪かったよ、悪かった‥すみませんでした‥煩悩を正当化しようとした自分がバカでした。
ああっと自己嫌悪の羞恥心に叫び声を上げ
「ちゃんと布団に横になる!そこ、どいてっ!」
「ム‥」
また一瞬覚醒した御剣は言われるがままごそごそ布団の上を立ち膝で移動し全開になった敷布団に横になる。
「反対だよ、枕はあっち‥‥って、ま、どっちでもいいや」
大きく嘆息吐きながら、間逆の位置で寝ようとする御剣への言葉を飲み込んだ。薄手の上掛けを手繰り寄せ方まですっぽり被せた時
「‥‥ねは?」
御剣はもごもごと何かを口にした。
なに?聞き返し屈む成歩堂へ
「添い寝は?」
そう言えば、そんなことも約束したなぁなことを睡魔と闘いながら言う。今更必要ないでしょう?なことだけど
「添い寝をすると言ったではないか」
提言されれば頷くしかない。
嗚呼、もしかして‥もしかして‥。
寝支度も全て完了したにもかかわらず、わざわざあっちの部屋で転寝していたのは。簡単に睡魔に引き寄せられる状況下、硬い机を枕代わりにしていたのは。布団に落ち転ばないで正座していたのは。もしか‥しなくても‥‥。
ぼくを待っていた――?
睫毛の僅かな隙間から覗く薄茶色の瞳は色のない光を浅く反射していてなにか、言いたそう。動かすのも億劫であろう唇を懸命に動かし、その後に続く言葉の代わりに指先は軽くシーツを摘む。
全力で否定したいよ。
御剣に感情がないと、冷淡だと、作り物みたいだと、機械的だと言ってのける連中に力いっぱい異議を申し立てたい。手の骨が砕けるほど机を叩き睨みつけ、こんなにも人間臭く不器用でもちゃんと感情を表す御剣を知りもしないで勝手なことを抜かすなと‥決定的な証拠を突きつけたい。
勿体無くて見せらんないって気持ちもあるケド。
自分だけが知ってる優越に顔がにやけるケド。
「ったく、甘えてんなぁ」
不平を溢しながらもカワイイカワイイと撫で繰り回したい衝動に駆られる。
男で、自分と同じ年の男で、普段は憎たらしいくらい理知的に見える天才検事サマだけど、意外に天然の入ったオトボケっぷり満載のカワイイヤツなんだって理解してることが嬉しい。
一つの布団を共有し、上掛けで作られた一つの空間を共有し、ぬくもりに溶ける体温を共有し、互いを抱きしめあって眠りにつく幸せは何にも替えがたいほど。
セックスなんかなくてもいいじゃん。
居間の明かりがつけっぱなしでもいいじゃん。
こうして日常のアレやコレが積み重なって、塵ほどの出来事が積み重なって、いつか御剣の心に科せられた被虐と言う名の檻がなくなればいいと思う。
硬いからで守らなければ砕けてしまう心が、柔らかく脆いむき出しの心に素手で触れることが出来るのならば、全てを知ったあの日の傷跡も悔恨と疑念に綴られた十五年の歳月も懐かしい過去の出来事と思えるようになるのだと。
安心からか一足早く夢の世界に旅立った御剣の静かな寝息を子守唄代わりに、成歩堂も深い眠りに落ちる。
濃霧の向こう側に見える光。キラキラ、キラキラ、千紫万紅、目も眩む光。
カラフルな虹が遠くの空にかかる。
もしかしたら、あの虹の架け橋を二人一緒に渡れる日が来るのかも‥。
もしかしたら、あの虹の向こう側の世界に行ける日が来るのかも‥。

淡い期待の光。
淡い未来の色。

月明かりに照らされる室内に動く人影。
消えかけるぬくもりと抱えるもののなくなった腕。
開けてはいけない瞼、気配だけをしっかり拾おうと冴える聴覚。
居間の電気が消され、玄関のドアが静かに閉じる音。
暗闇に目を開ければ確かに見たはずの虹がその残像だけ色もなく広がり、広くなった布団に寝返りを打つ成歩堂の溜め息だけが聞こえた。

焦っちゃダメだ。
少しづつ、安らぎの場所を作っていけばいいんだ。
哀しくなんかない、少し寂しいけれど哀しくなんかはない。
まだ、始まったばかりなんだからと‥
御剣の残り香だけが漂う室内で、成歩堂は色の無い虹の残像にそっと手を伸ばした。





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2007/10/11
mahiro