とししたの男の子





2.



どうやら、恋とはひどく恥ずかしいものらしい。


5分おきにアラームを鳴らす携帯を、ゾロは手探りで何度か止めた。上掛けにくるまったままあくびをし、ゆっくりと伸びをしてから、心地よく身を包む寝床にようやく別れを告げる。ぼんやりとした頭で歯を磨いていたらチャイムの音がした。こんな時間に、といぶかしく思いつつ、しゃかしゃかと歯ブラシを動かしながらリビングに戻る。
モニターに映っている人物を見て、ゾロはとっさに、ごくんと口の中のものを飲み込んでしまった。白黒の荒い画像でも、その顔を見間違うはずはない。歯ブラシを抜いて受話器を取る。ほっとした顔と口調で、よかった、起きてた、とサンジの声がした。
優しく甘い声音がダイレクトに耳に届いて、それだけで腹の辺りがきゅう、と押さえつけたように痛くなる。いつものことながら、馬鹿な、とゾロは自分の反応に自分で呆れた。こんなんで、こんなとか、修行がまるで足りてねえ。
おつきあい、というらしきものをはじめて数カ月が経つ。動悸、胸痛、発汗、顔面の紅潮。そろそろ慣れてきてもいいころだと思うのに、サンジと接したときの、おかしな自律神経症状は前よりもむしろ悪化している。恋の病。誰が言い出したかは知らないが、実に正しい表現だとゾロは思う。
「ちょっと、渡したいものがあって」
「……おう」
エントランスからマンション内に入るドアのロックを解除する。ゾロの部屋は5階だった。洗面所に戻って口をゆすぎ、パジャマから着替えをしようとしていたらもう玄関のチャイムが鳴る。早い。
そのままの格好でドアを開けたら、息を切らしたサンジが立っていた。エレベーターもあるのだけれど、どうやら階段を駆けあがって来たらしい。
近ごろ会うのはほとんどが日が暮れてからで、朝の淡い陽を受けて輝く金髪に、ゾロはまだ講義をしていたころのことを思い出した。その日の天気によって、淡く色調を変えるその光を、とてもきれいだとずっと思っていた。触ってみたい、そう願っていたはずなのに、いまだ指ひとつ伸ばすことが出来ずにいる。
「おはよう、ございます」
さっき言い忘れた、と笑うサンジに、おはよう、と返す口調は我ながら素っ気ない。まただ、どうしてもこうなってしまう。ごめん、すぐ帰るから、とサンジはかすかに表情を強ばらせた。
ちがう、そうじゃねえ。のど元辺りまでせりあがる言葉は、いつだって外に出ることは叶わず、それがもどかしくて黙りこんでしまうから、ますますサンジを困惑させるのはわかっている。頭と身体がうまく繋がらない、自分で自分を制御できない、我ながらとても腹立たしい。
2月も末といっても朝晩はまだ冷える。サンジの白い肌はところどころ赤く染まっている。首元には見慣れたマフラーをしており、ゾロは昨晩のことを思い出した。マフラーからはサンジの匂いがした。息を吸うたびに、頭がくらりとした。
「準備、もう終わりました?」
「あとは着替えだけだ」
「そっか」
「……なか、入るか」
ゾロは言った。ろくなことは喋れなくても、暖かな部屋でコーヒーくらいは飲ませられる。一限が始まるにはまだ時間があるはずだった。ここに寄るために、サンジは電車を早めたのだろう。けれど、サンジは慌てたように首を横に振った。
「いや、ありがたいけど、ほんとすぐだから」
しばらく会えないから、もっかい顔が見ときたくて。
眉を下げる柔らかな笑顔、頬にはうっすらと朱を刷いて、そんなことを言うものだからゾロはまたきゅうと腹を痛める。その反応を追い払うように顔を顰めた。それがはたから見れば、不機嫌きわまりない表情に見えるのに、ゾロは気がついていない。
「学会って、北のほうであるんですよね」
「ああ、日本酒がうめえらしい」
「はじめにそれが出るって、せんせいらしいよ」
「そうかよ」
「……あの、これ、持ってってください」
サンジがマフラーを昨日のようにはずす。差し出され、ゾロは手を伸ばした。指先の皮膚が擦るように触れる。目が合った。昨夜と同じような状況に顔が熱くなる。さすがのゾロでも、あれがくちづけの予感だったことくらいはわかるのだ。
しばし見つめあい、けれど、サンジは距離を詰めてはこなかった。
「寒いだろうし」
「……」
「えっと、離れてるあいだ、俺だと思って」
俺のこと、ちょっとでも考えて。
言った直後、サンジはぼっと音が出そうなくらい一気に顔を赤くした。そ、それじゃ、とうわずった声で言うと、ゾロがぼうっとしているうちにくるりと背を向けて走り出す。靴音が離れていくのにようやくはっとして、ゾロは裸足で廊下に出た。背中はあっというまに小さくなり、やはり階段のほうへと消えるまで、そこに立ちつくした。
姿が見えなくなってから、ゾロは玄関に戻りしゃがみこんだ。くしゃりと膝元で丸めたマフラーにぼふりと熱い顔を突っ込む。
俺にひとめ会うために、たったこれだけのために、わざわざここに?
なんなんだ、あのかわいらしい生き物は。
「――ち、くしょう……」
絞りだした声は震えた。
顔から湯気でも出ている気がする。
三十路を過ぎて落ちた恋の根深さに、ゾロはあえかな息を吐いた。



「ほう」
駅で待ち合わせたミホークは、ゾロが現れるなりそう言った。顎に片手をやり、こすりながらゾロをじろじろと見る。
「なんだよ」
挑むように睨みあげると、ほう、とさきほどとはわずかに違う表情でミホークは言う。目線は明らかに首周りに向かっていたが、ゾロはあえて無視をすることにした。なるほど、一種のマーキングだな。専門分野らしい感想を述べるのにも、腹立たしいが聞こえないふりをする。
道理で見合い話を受けないわけだと、したり顔で頷かれたのはもうひと月ほど前になる。ナミならわかるが、ミホークからこうも早く悟られるとは思いもしなかった。40過ぎて未婚、剣道と研究に心血を注ぎ、とくに浮いた噂も聞いたことがない、大学きっての堅物と評される上司である。自分と同じように恋愛ごとには疎いのかとばかり思っていた。
「行くぞ」
切り捨てるように言い、すたすたと先に歩きだすとロロノア、と後ろから声をかけられた。
「改札はこっちだ」
ゾロが向かっていたほうとは間逆の方向を、ミホークは表情ひとつ変えず指差した。

グリーン車は空いていた。新幹線で数時間の道中ではあるが、騒々しいより静かなほうが快適には違いない。体格のよいミホークは狭苦しいのを嫌い、出張の際はこうしてグリーン車や、飛行機のときはビジネスクラスを選ぶ。経費で落ちるからと、無駄な出費にうるさいナミもそこのところには寛容だった。
出発前に大学でするはずだった、発表原稿の最終チェックも昨日済んでおり、駅弁を食べたら他にすることはなくなった。ミホークは隣で文庫本を読んでいる。二人ともけして饒舌なほうではないから、用でも無ければ話が弾むことはない。けれど、それを気に病むこともおたがい無かった。サンジといるときに漂う沈黙の質とはまるきり違っている。
窓の外は延々と田舎の単調な風景が続いていた。緑が目に優しい。外は晴れて、柔らかな陽射しは春の予感を含んでいる。満腹と心地よい振動は眠気を誘い、ゾロは眠りに落ちる一歩手前の、かすんだ頭で今朝のことを思い出していた。
ふと、サンジは俺といてつまらなくはないのだろうかとゾロは思う。いったい、俺のどこがあんなに好きなんだ。ナミが聞けばのろけかと殴られそうなことをゾロは真剣に考える。
サンジが女子生徒に人気があるのは見ていてわかった。そして、ナミなどへのしまりのない態度を見れば、サンジ自身が女好き(しかも重度の)であることも一目瞭然だ。自分と違って、きっと、たくさんの恋をしてきたのだろう。は、と知らず浅い息を吐く。やきもちというよりは焦燥に近い感情だった。仮にもゾロは、サンジよりひとまわり以上年上なのだ。
ゾロとてこれまで寄って来る女がいなかったわけではなかった。短く浅いつきあいをしたことは何度かある。けれどこんな、自制出来ないような感情を覚えるのは始めてだった。ずいぶん年の離れた、しかも男に。世の中なにがあるかわからねえもんだ。はじめてサンジへの感情を自覚してから、何度となく抱いた感慨をゾロは反芻した。
「よい青年のようだな」
唐突にミホークが言い、ゾロは半分閉じかけていた瞼を開けた。
ぱらりと紙を繰るミホークの視線は、活字に落ちたままだった。ゾロはその横顔を見て、それから、膝に置いたままの青いマフラーに目をやった。鮮やかな濃いブルーは、サンジの蜜色の金髪によく映える。
「まあな」
「認めたか」
「いまさら隠してもしょうがねえだろう」
居直りでなくゾロは言う。男同士で講師と学生、それが世間一般的にどう見られるかはよくわかっている。もちろん大っぴらに吹聴する気はさらさらないが、サンジとのことをごく近い周りの者にまで隠すのは嫌だった。
ミホークの口から、今日三度めのほう、が出た。からかうような表情でも浮かべているかと思えば、鷹に喩えられるほどの鋭い双眸には存外に温かな色が浮かび、ゾロはしばし言葉を失った。
「お前は、どこか生真面目すぎるところがある。硬い。剣の道でも、学術の面でもな」
あの青年に柔を学ぶとよかろう。
厳かに言い、本を両手でぱたんと閉じる。たしかにそれは自覚しているところだった。学生時代からの長いあいだ、両方の面でミホークはゾロの師にあたる。敵わない理由。いつか超えるべき存在はまだ遠いが、ずばりと指摘されると腹は立つものだ。
「……大きな世話だ」
「恋の道ひとつも知らぬようでは、一人前の男とは言えんぞ」
「あんたの口から、そんな言葉を聞くとはな」
はん、と鼻で笑ってゾロはミホークを見た。ミホークはじっとゾロを見据えている。負けねえ。ゾロもまばたきもせずに見返した。
「ロロノアよ」
「なんだよ」
「未熟者めが」
「あァ!?」
はん、とミホークはゾロを真似たように鼻で笑い、閉じていた本をふたたび静かに開いた。



離れている4日間、メールのやりとりは4回ずつ。夜になると送られてくる、顔文字などが多用された文面に、ゾロはそれぞれ簡素で短い返事を返した。
月曜の夜はゾロのほうから送った。プレゼント考えたか、とそれだけを。考えました、とめずらしく一言だけのメッセージが返ってくる。懇親会の途中、トイレに立った帰りにゾロはそれを読んだ。
電話は苦手だった。顔が見えないぶん、言葉足らずなゾロでは余計に誤解を生むことがあるし、それに、あの声は電話越しだとさらに破壊力がある。けれどゾロは意を決して、登録しているサンジの携帯番号を探した。離れているあいだ、ゾロなりにいろいろ考えた。不得手だからと逃げるのは嫌いだ、何事も為せば為る。ボタンを押す前にひとつ、深呼吸をする。
「――ゾロ?」
繋がるなり、俺だ、と言う前にサンジが名を呼んだ。ひさしぶりに聞く、すこし驚いたようなその声に酔いが回ったように身体が熱くなる。
「いま、平気か」
声がかすれないよう気をつけて喋る。廊下の壁にもたれたゾロの前を、メニューを脇に挟んだ店員が急ぎ足で通りすぎた。居酒屋の喧騒で、はい、と答えるサンジの声はやけに遠く聞こえる。
「訊きたいことがあってよ、電話した」
「うん」
「明後日の、その、お前の誕生日な」
「……うん」
「お前、一日空けれるか」
「え」
「講義、一回くらい出なくても大丈夫なやつか」
講師という立場上、こんな問いかけは不本意だったがこの場合しかたない。サンジは返事をしなかった。聞こえなかったのかもしれない。おい、聞こえてるか。声をかけると、あ、ああ、うん、聞こえて、ます、となぜだかどもりながらサンジは答えた。
誕生日にプレゼントをやるのはいいが、欲しいものを聞いても買いに行く暇が当日しかない。ならばサンジと一緒に買い物に行けばいいのだと、ゾロは思いついたのだった。そうしたら、サンジの言うデート、にもなるだろう。ゾロにしては最大級に気の利いた発想である。
「どうなんだよ」
「あの、その前に訊いてもいい?」
肯定の意を伝えると、またすこし間が空いた。
「ゾロも、その日、休み取ってくれてんの?」
「おう、有給取った」
答えるなり、受話器の向こうから何かが割れるような派手な音がして、るせえぞチビナス!と低音の怒鳴り声が続く。黙ってろクソじじい!それにサンジが罵声で応じた。あんがい気が短いらしい。サンジのまだ知らない一面をかいま見た気がする。
「大丈夫か?」
「ご、ごめん、大丈夫、ちょっとコップ落としただけだから。怪我とかもねえし」
「ならいいけどよ」
「ゾロ、も一個だけ訊いていいかな」
「あ?」
「明日の夕方は、いつもどおり迎えに行っていいんだよね」
「だな」
「家まで、送ってっていいんだよね」
なぜそんなことをわざわざ尋ねるのか不思議だったが、当たり前だ、と答えると、いい、んだ、とまた途切れがちな返答がある。息混じりのようなきれぎれなそれに、意図を尋ねようかと思ったとき、角の向こうから人影が現れた。見知った人物と目が合い頭を下げる、そういえばあまり長い不在もまずいだろう。
「悪ィ、そろそろ戻らねえと」
「……うん、おやすみ」
飲みすぎねえで、と釘を刺されてから電話を切った。携帯をポケットに収めながら、けっきょく肝心の欲しいものを訊き忘れ、誕生日当日の予定も話しそびれたことに気がついた。まあいい、どうせ明日にはわかることだ。
ふと視線を感じて見れば、さきほどの人影の正体である赤い髪を認めた。今日の講演会はミホークが座長を務めたが、その演者だった男で、ゾロが席を立つ前はミホークの隣に座り話し込んでいた。どう好意的に見てもやくざにしか見えない風貌に反し、若くして大学教授である男はミホークとは旧知の仲らしい。柔軟な視点、一風変わった型破りの研究は、講演を聴いていてもなかなかに興味深いものだった。
目が合うと、男は破顔した。そのまま近づいてきて、お前、ミホークんとこの秘蔵っ子だよな、といきなり親しげに話しかけてくる。
「弟子じゃああるが、俺はガキじゃねえ」
反論すると男は目を見開き、それから、おもしろいねえお前!とばんばんとゾロの肩を叩いた。やけに馴れ馴れしい。吐く息は酒臭かったが、視線はしっかりと定まっており、酔っているふうではないから元々明るい性格なのだろう。こういう人物と、あのミホークに交流があるとは意外だった。
「俺はシャンクス、って、さっきの講演で自己紹介したか」
「ロロノア・ゾロだ。ミホークとは友人か?」
「友人っつうか、……まあ、ミホークに訊いてくれよ」
にやりと笑い、ところでゾロ、と一歩踏み込んでくる。眦はいたずらを企むように撓んでいてどこか子供っぽい。講演をしているときの精悍なさまとはずいぶん落差があった。
「さっきの相手は恋人だろ?明後日、誕生日なんだ?」
はじめから聞いていたのか、シャンクスは愉快げにそう問うてきた。仮にも他大学の教授、ミホークの知人でもあるなら無下には出来ないが、盗み聞きは気に食わない。
質問は無視して背を向け歩き出すと、ゾロ、と呼び捨てられゾロは立ち止まった。振り向いて睨みつける。いい眼をするね。シャンクスはまったく意に介さず、にやにやとしたまま額に落ちかかった髪をかきあげた。
「プレゼントは、わ、た、し、ってな」
「……は?」
「定番だろう?」
――ああ、でも、そりゃあ彼氏の誕生日にあげるもんか。
シャンクスが笑みを深める。ゾロはしばらく、は、の形のまま口を開けて呆然としていた。ようやく意味が掴めると、さきほどのサンジの反応がよみがえり、あ、う、と呻き声のようなものが出る。指先がじんじんと痺れ、体温が急上昇するのがわかった。
「じゃあね、ゾロ、まあ、がんばって」
ひらひらと片手を振る。
くるりと背を向け、あのときミホークがしたように、わははは、とシャンクスは快活に笑った。







                                        (11.02.27)



    →3



さりげにシャンミホ。