*オフ再録「サニーイエロウ・サーズデイ」の続きです。





とししたの男の子





1.



一番欲しいものは何か、なんて、そんなのは。


「へえ、そうなの」
ナミはそのタイミングで、ひときわ高い声をあげた。とどめのように、飲みかけのココアを音を立てて机に置く。
口調も動作もいささか演技じみているけれど、それがナミの気づかいなのか、それともからかいなのかは定かではない。グレーの安っぽい事務机は、よく見れば細かい傷がいくつも走っており、そこに揃えられた五つの爪は、きれいにデコレイトされた菓子のようだ。視線を感じナミの顔を見れば、いかにも楽しげに微笑んでいる。サンジもつられてへにゃりと笑った。どうやら、後者がメインらしい。
「うん、そうなんだよ」
応じながらサンジは、研究室の中央あたりに置かれたソファに目をやった。くすんだ茶色の革、その奥の低いテーブルには英語論文と、ノートタイプのパソコンが一台。スライドを表示するそれを覗き込むようにして、ゾロとミホークが並んで話をしていた。思惑に反して、ゾロがこちらを振り向く気配はまったく無い。代わりにミホークが、ちら、というよりぎら、と尖った視線を寄こす。
うるさい。目で物を言うとはこういうことだろう。
講義単位も無事に取れそうだし、ミホークは正直どうでもいいのだが、ゾロの邪魔はなるべくならしたくない。ミホークとゾロは今度の学会発表の打ち合わせをしているらしかった。サンジにはよくわからないが、かなり規模の大きな学会なのらしく、ゾロがこのひと月ほど熱心にその準備をしていたことをサンジは知っている。
けれど今ばかりは、サンジとて必死なのだ。
「早生まれなのね、サンジくんは」
「うん」
「3月……ええと、何日だったっけ?」
「3月2日」
「ああ、そうよ、3月、2日」
一語一語、区切るようにナミは言った。わざとらしさに顔が熱くなるが、そのくらい強調してほしいのもたしかだから何も言えない。
もうすぐね。うん、そう、もうすぐなんだ。
ミホークがごほんと咳払いをし、書類をばさばさと束ねてから席を立つ。ゾロがパソコンをシャットダウンして閉じるのが見てとれた。講義が終わりいつものようにゾロを迎えにきたら、唐突にミホークがのそりと現れたのだ。最終チェックは明日のはずだったが、予定が入ったから今からやる。そう厳然と言い放つと、有無を言わさぬ態度でソファにどかりと座りこんだ。
それから約一時間。長かった、ようやく終わった、早く帰れと思いつつ、同時にミホークのこの来訪にサンジは感謝もしていた。
おかげで、ナミとのなにげない会話の流れから、間接的にではあるけれど、自分の誕生日が近いことをゾロに伝えることが出来たのだから。

2月はごく短い。
バレンタインの日、帰りに一緒に寄ったコンビニでチョコを買ってもらい、それが何の変哲もない板チョコだったにせよ、無言でサンジのポケットにねじ込まれただけにせよ、地面から10センチくらい足が浮いた状態でいたらいつのまにか一週間ほど過ぎていた。
ふと気がつけば2月は去ろうとしている。誕生日が日に日に近づくというのに、サンジはゾロにそれを伝えることが出来ずにいた。
自分から言い出したらプレゼントを催促するみたいだ。いやまあ欲しいんだけど、なんだかがっついてるみたいで格好悪い。たとえはたから見たらそう見えなくても、ゾロがどのように思っていたとしても、サンジの心持ちとしては自分のほうがゾロの彼氏だ。ゾロの前ではとりわけ格好つけていたいサンジである。
かといって、ただでさえ日頃からぎこちない会話の中、スムーズにお互いの誕生日に話を持っていくのも難しい。話術には長けているほうだと思っていた。とりわけ女の子相手ならば、雰囲気作りなどはお手のものだ。けれど、ゾロを前にしたら、これまでの恋の手管など何ひとつ役には立たないのだった。
そのような経緯を踏まえたうえ、今日あたり直球を投げるかと覚悟を決めていた。そうしたら、タイミングのよいことに、雑誌の星占いコーナーを見ていたナミと星座の話になった。
うお座だと答えると、ああ、なんか、わかるわ、とナミはなにやら半笑った風情でうんうんと頷いた。続いて、まるで心を読んだように誕生日を尋ねられたとき、やっぱりナミさんは女神だとサンジは思った。
小声で3月2日、と答えたサンジの態度を見て、ナミは事情を察したのらしい。片目を魅惑的にぱちりと瞑ると、まかせて、とサンジと同じように小声で囁いたのだった。
「邪魔したな」
声を向けられサンジはミホークを見た。ゾロ以上に表情は読めない。機嫌が良いのか悪いのかさえも、だ。直接話したことはほとんどないが、講義以外でも、ここで顔を合わせたことはすでに何度もある。やたら入り浸っている理由を問われたことはなかった。事務員目当ての軽薄な学生くらいの印象だろうか。
「いいえ、こちらこそ。邪魔をしてしまってすみませんでした」
ゾロの上司だから一応頭を下げる。つむじの辺りにふ、と笑う気配を感じた。驚いて顔をあげると、たしかにミホークは笑っていた。
「3月2日か」
「……え?」
「誕生日なんだろう」
違うのか、とてのひらで書類をくるりとまとめながらミホークは重ねて言う。
「あ、……は、はい」
「らしいぞ、ロロノア。3月、2日」
おかしそうな顔のまま、いまだ座っているゾロの肩を丸めたそれでぽん、と叩く。ゾロは返事をしなかった。背中はぴきりと固まっている。意外にも幼いような全開の笑顔で、わははは、とさも愉快げに笑いながらミホークは出て行った。
ばたんとドアが閉まる、廊下からの冷気が温かな部屋にするりと流れ込む。
「……え?」
ドアを見つめてサンジは呆けた。鉄面皮と揶揄されるミホークの笑顔を見たせいもあるけれど、意味ありげにゾロに向けた、あの言葉。
「……あのねえサンジくん、ゾロじゃないんだから。そりゃあ、教授にもばれてるわよ」
ため息をつき、ナミが今度はサンジの肩を軽く叩く。ばれてんの。うん、まちがいなく。そんなに俺わかりやすい。うん、ものすごく。サンジのみが呆然としたやりとりのあいだ、背を向けたままのゾロはやはり動かなかった。
「もうこんな時間ね、じゃあ、私も帰るわ」
戸締りよろしく、と腕時計を見ながらナミはサンジに鍵を手渡した。近ごろもっぱら戸締りはサンジの役目だ。金目のものも特に無いし、おかげでちょっとでも早く帰れて助かるわとナミは笑い、でも研究室を変なことに使わないでねとからかうのも忘れない。サンジはいつも苦笑いで応えるしかなかった。何も言えないのはやましいからではなくて、変なこと、など何もないからだ。いろんな意味で、とても残念な話だけれど。
仕事中の歩きやすい靴から、ナミはロッカーに入れていたブーツを取り出して履き変えた。鏡を見ながら丁寧に化粧を直し、雨もう止んだかしらね、と一人ごちる。サンジは外を見やった。窓には水滴がぽつぽつとついているが、昼すぎから降り出した雨の気配はもう無いようだった。
「止んでるみたいだよ」
「よかった、今日は傘を持ってないの」
「いまからデート?」
「ふふ、わかる?」
振り向いたナミに、わかるよ、とサンジは微笑んだ。なんとなく浮き足だったような雰囲気は、恋をしている女の子特有のそれだ。女性はみな愛おしいものだけれど、恋する女性はまた格別なものだとサンジは思う。見ているだけで、こちらの心まで明るくしてくれる。
楽しんで、サンジが言うと、内側から輝くような笑顔をナミは見せた。
「ありがとう、じゃあね、サンジくん。ゾロも」
また明日、夜道に気をつけてねと、サンジは預けられた鍵を肩の辺りに掲げ振ってみせた。いまだソファに座ったままのゾロも、おう、とナミに顔を向け片手をあげる。ナミはゾロの顔を見てなぜだかぷ、とちいさく噴きだした。サンジの位置からは丸っこい緑の後ろ頭しか見えない。
「なんだよ」
「べっつにー」
男でもびびりそうなドスの利いたゾロの声も、慣れっこなのかナミはどこ吹く風だ。可憐なオレンジの髪が揺れ、ドアの向こうに消えるのを見届けた。
「いいなあ、デート」
思わず本音を口に出してから、サンジはソファに視線を戻した。ゾロはようやく机の上を片づけ始めているが、その動きはどことなくぎこちない。ミホークにばれているとわかったことが、よほどこたえたのだろうかと、自分で考えておきながらそれに気持ちがもやりと曇った。俺は、べつに誰にばれたって構わねえんだけど、な。
「……帰るか」
ようやく支度を終えたゾロが立ち上がる。
「はい、せんせい」
サンジが笑みを作ると、ゾロは振り返りしばしサンジを見て、それからほんのわずか、眉間に皺を刻んだように見えた。行くぞ、と言うとゾロは壁にかけていたコートを着て、ドアノブに手をかける。サンジも鞄を掴み慌ててその後を追った。
好きだと告白をした。決死の覚悟だった。
こっちを見てくれと頼んだけれど、ゾロはそれは出来ねえと頑なで、それでもあらわな耳朶は真っ赤に染まっていて、俺もだとかすれた返事をしてくれた。まるきり奇跡だ、それで十分だと思っていたはずなのに。
欲深になるのは、きっと、まだ遠い気がするからだ。



雨の匂いが濃く残っている。街灯に照らされた道はしとりと濡れていた。
ところどころに水溜りがあるのを避けながら歩くから、隣にいるゾロとの距離は近づいたり離れたりして、ああこういうとき手でも握ったらと思いはするけれど、振り払われでもしたら地の底に沈んでしまいたくなるだろう。
大きな月が出ているのをサンジは見あげる。風は弱いけれど湿り気を含んで冷えていた。ちらと横を見れば、ゾロの短い襟足の寒々しさが気になって、サンジは自分の首に巻いていたマフラーに手にかけた。
ゾロ、と声をかけると、ゾロが立ちどまる。呼び方はせんせい、だったり名前だったり、まだそのときによってまちまちだ。
「どうした」
「うん、ちょっと、じっとしてて」
向かいに立って、くるくると、たぶん自分より太い首周りにターコイズブルーのマフラーを巻いていく。結び目を作ってから、はい、出来た、とサンジは言った。指先がゾロのコートの襟元に触れていて、手を離すのを名残り惜しく思った。このまま顔を近づけて、唇を重ねることを想像する。それだけで信じられないくらい、心臓はどくどくと早鐘を打った。だめだ、好きすぎてどうにかなっちまいそうだ。
「こんな、女にするみてえなこと」
抑えた声でゾロは言った。憮然とした口調に聞こえた。
「……そういうんじゃないです。俺にとっては、好きなひとにすることだよ」
サンジの言葉に返答はなかった。怒っている顔には見えないけれど、すでに闇に慣れた目でも、細かい表情まではよくわからなかった。ただでさえゾロの内情は読みとりにくい。誰にでもこうなのだろうか、とふと思う。ひと回り以上年上のひと、これまでどんな恋を、考えてしまい墓穴を掘った。
ゾロの誤解もわからないではなかった。男同士でつきあうということの難しさを、サンジも感じはじめている。何もかもが女の子相手とは違っていた。ただ大事にしたいだけだった。
ふたたび並んで歩きだす。文句を言いつつ、マフラーを外そうという気はないらしく、ゾロがときどきすん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。煙草臭かったかな、とサンジは心配になる。ゾロのマンションは大学から徒歩圏内にあった。送ってから、その先の最寄駅に向かうのがサンジの日課だった。
二人とも黙ったままで、五階建ての茶色い建物が近づいてくる。部屋にあがったのはこれまで三回、いずれも週末で、ぎこちない空気をつまみに終電までビールを飲んだ。先週の金曜、こたつの中で足が触れたとき、ゾロはあからさまにびくんと身体を震わせた。それをどういう方向に捉えていいかわからず、あえて尋ねるのもどうか、これはゴーサインとしていっとくべきところだろうか、いや待てしかし、などとためらっているうちにいつもの帰る時間を迎えてしまった。
今日は木曜日だ。講義を受けていたとき、毎週、その日をどんなにか待ち遠しく思ったものだった。今は、明日が待ち遠しくてしかたない。
「さっきの」
ゾロがぼそりと言い、サンジは顔を向けた。エントランスはもう目の前にあり、低い階段の前でふたたび立ちどまった。ゾロの横を、住人だろうか、スーツを着た若い男性が通りすぎて中に入っていく。
「お前、誕生日もうすぐなのか」
「……はい」
「3月2日」
はい、ともう一度サンジは答える。ゾロは白い息を吐いた。ため息なのかどうかは判然としない。まっすぐに前を向いたままで、鋭利な横顔は感情を読み取りにくく、よけいにサンジを心細くさせる。
「なんで、もっと早く言わねえ」
「忙しそうだったし、なんか、」
「なんだ」
「押しつけがましいみたいで」
押しつけがましい。ゾロが繰り返す。声は不穏に荒く、催促してるみたいで、と続ける声はちいさくなる。ゾロは、はあ、と今度こそ、それとわかるため息をついた。腹の底が冷え冷えとする感じがする。嫌だ、呆れたりしねえで。泣きなど意地でもしないが泣きたいような心持ちにはなる。
「祝ってやりてえと、俺が思わないとでも思ってんのか」
「……」
「何やっていいかなんて、わからねえけどよ。こんなギリギリまで黙ってんじゃねえ」
「……怒ってんの?」
「お前にだけじゃない、言わせねえ自分にもだ」
言って、ゾロは首元に手をやった。マフラーをぎゅ、とたしかめるように握ってから、すぐに離した。それと、とゾロは低く言い、サンジのほうをようやく見た。
エントランスから差す白い明かりで、さっきまではわからなかった表情がはっきりと見える。怒っている、とゾロは言った。けれどその顔はどうみても戸惑ったような、道に迷った子供のような寄るべのないものに見えた。目の下の薄い皮膚は擦ったように赤く染まっていて、それが男らしい風貌を柔らかく彩っていて、サンジは状況を忘れしばしぼうっと見惚れた。
「デートじゃねえのか」
「――え」
「こういうのは、そういうんじゃねえのか」
あ、とサンジは口に出した。いいなあ、デート。ナミを羨んだあの言葉を、ゾロもちゃんと聞いていたのだ。そして、それを気にしていた。
あ、う、と口をぱくぱくとさせていると、馬鹿にしているとでも思ったか、ゾロが赤い顔のまま睨みつけてくる。慌てて片手を大きく振って否定した。そんなふうに思ってくれてたんだと、わかって一気に体温があがった。冬からいきなり春が来たみたいだ。
「そう!うん!デート、デートです!」
声が馬鹿でかくなり、静かな夜の空気にそぐわないほどに響き渡った。人通りは少なかったけれど、サンジはきょろきょろと周囲を見渡した。とくに人影はなく、ほっとして、ふたたびゾロを見てサンジは固まった。
「声、でけえ」
ゾロが笑っている。あけっぴろげな明るいそれは、はじめのころに一度だけ見たものと同じだった。
がっ、と胸をわしづかみにされた、その笑顔。
「学会な、明日の午前中に出発して、あっちに二泊する。帰りは日曜の夜だ」
「明日……?」
「言ってたろう。土日の二日間、どっちも出席だって」
そういわれれば聞いた気もするが、それどころではなかったから記憶はあやふやだった。ということは、ゾロに会えるのは月曜日になるのか。尋ねると、月曜は夕方から講演会が入ってる、その後懇親会だから帰りは遅い、とゾロは答えた。
「じゃあ、会えるのは」
「火曜だな。3月1日」
「――1日」
サンジは指折り数えた。4日間、誕生日の前日まで会えない。あまりのタイミングの悪さに自分の星回り的なものを恨みたくなる。
あからさまにしゅんとなってしまったサンジに、ゾロはまた困ったような顔をした。マフラーを解き、ふわりとサンジの首にかける。柔らかなカシミヤは、ゾロの匂いと体温をほのかに移していた。
「会わないあいだに、考えとけよ」
「なにを?」
「欲しいもの」
顎の下でゾロの手が動く。顔が近かった。ゾロ、とつぶやけば、ゾロは顔をあげた。唇が薄く開いている、隙間から見える歯が濡れていた。濁りのないゾロの瞳はサンジを映して潤んでいる。
サンジは重心を前に傾けた。
「――サ、」
すぐ横を自転車がひゅんと通り過ぎて、サンジはのけぞるようにしてすばやくゾロから離れた。あぶねえ。あやうく往来でキスをするところだった。
「ご、ごめん」
ゾロを見れば、気まずそうに顔を背け、首元まで鮮やかに朱を刷いている。思わず謝ると、べつに、謝ることじゃねえとゾロは言った。突き放すような言いかたはたぶん照れているからだと、解釈するのは都合がよすぎるだろうか。
ゾロはふと腕をあげ時計を見た。サンジも確認する。もういつもなら電車に乗っている時刻だった。今日一日で、なんだか一気に距離が縮まった気がする。いまなら、家に寄りたいと言えば、この先に進めるんじゃねえかな。思いはするけれど、ゾロには明日の準備があるだろう。迷惑をかけるのは嫌だった。
「そろそろ、帰るよ」
「ああ」
「……出張、気をつけて」
いってらっしゃい、と微笑めば、おう、とゾロはまた無防備な笑顔を見せる。
こんなタイミングで離れ離れなんてと、サンジは心底身悶えた。







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