とししたの男の子





3.



いったいどんだけ、どきどきしたらいいんだろう?



「おかえりなさい」
うまく笑顔を作れているだろうか。いまさらだけど、と言い置いてからサンジは、受け取ったマフラーを首に巻きかけ、思い直して丁寧に畳んだ。昨日から急に気温が上がっていて、今朝は着るものに少し迷うくらいだった。さきほど歩いた渡り廊下もほの暖かく、マフラーは必要なさそうだと思ったのだ。もう三月になった、そろそろ春が来る、サンジの脳には一足先に訪れている。
ただいま、と返すゾロの声は素っ気ないけれど、それが常態であるからいつもとの違いはわからなかった。人間観察は得意なほうだと自負している。他人の心情を読み取り、それに応じて柔軟に立ち回るのも。けれど相手がゾロとなると、主観が混じりすぎるせいかいつもうまくいかない。たぶん俺は、ゾロが好きすぎる。いつも思うことを、なかば自分に呆れつつまた思った。
研究室には二人きりだ。気を利かせたのかそれともデートなのか、サンジがここを訪れたとき、すでにナミの姿は無く、教授室の札も裏返しになっていた。
「発表、どうでした?」
「ああ、とくに問題ねえ」
「そっか。……よかった」
日本酒飲んだの。旨かったぜ、一本買ってきた。でもさ、地元で飲むのが不思議と一番旨いんだよね。ああ、たしかにな。
会話はときおりぶつぶつと途切れるが、これもいつものことだった。定時になり、ゾロが帰り支度をするのをサンジは見ていた。姿勢の良い美しい背中、すっとした短い襟足、締まった体躯から連なるしなやかな手足。いくら見ても見飽きない。
窓の外は見事な茜空で、西日が低く射し込み、ゾロの短い髪や、わずかに覗く皮膚を違う色に見せている。
「――なに、見てんだ」
後ろ姿のままゾロが言う。手は休めない。じっ、と鞄のファスナーを閉める音が聞こえる。
あからさま過ぎただろうか。陽に焼けたうなじが、違う理由で赤く染まるさまをたしかに想像した。だってしかたない、期待、してしまう。
「あ、いや、久しぶりだから、つい」
「おもしれえか」
「?おもしろいって」
「俺みてえな、どっから見ても男見て、お前、おもしれえのか」
「おもしろいっていうか……うまく説明できねえけど。でも、見ていたいです」
「……」
なぜそんなことを訊くのだろう、ゾロの真意がいつも以上にわからない。ゾロはそれきり黙り、サンジは机に置いていたマフラーを鞄に入れた。隙間に突っ込むときに、持ってきたものが目に入り指が止まった。頬が熱くなる。
もし、欲しいものはと尋ねられたら。もうそばにあるからと、そう伝えるつもりだったのだ。誕生日は一緒に食事でもして、いつもより長い時間を過ごせればそれでうれしいと。真剣に考えたけれど、ゾロに買ってほしいものなどひとつも思いつきはしなかった。
けれど昨夜の電話だ。ゾロは一日を、自分のために空けてくれると言う。そのとき、どういう意味か訊けばよかったのに尋ね損ねて、一晩中それはそれはいろんな思惑が頭をよぎった。
泊まれる準備をしてきていた。そういう意味なのかもと思ったのだった。でも、今日ゾロに会ったらよくわからなくなった。ひどい勘違い、なのかもしれない。そう思うとなんだか恥ずかしくなってきた。
自分で思っていたより、俺はたぶん焦ってんだ。
もっと近づきたい、触れてみたいと、心底サンジは願っているけれど、そう思うのがゾロも同じだとは限らない。
「今日――」
浮ついていた気分がぶくぶくと沈みそうになったとき、ゾロがぼそりと言った。サンジは顔をあげ、目を細める。ゾロはいつのまにか振り向き、こちらを見ていた。逆光でその表情はよくわからないが、声はいつも通りの放るような、ぶっきらぼうなそれだ。すぐそばにいるのに、やはり遠い、もどかしい。
「……ゾロ?」
「――今日の夜な、泊まってけ」
え、と思わずあげた、声の大きさに自分で驚いた。ゾロはわずかに腕を揺らしたように見えたが気のせいだったろうか。椅子に置いていた鞄を肩にかけ、すっと背を向けた。
「もう、行くぞ」
歩き出すゾロの、手首をとっさに掴んでいた。指先に自分よりずっと高い熱が触れ、そのまま前に回りこんで壁に身体を押しつける。
わからねえんだ、顔が見てえ、いま、どんな顔でそんなことを。
ゾロは抗わなかった。首を捻るようにして、肩に置かれたサンジの手を見ていた。夕陽のせいだけじゃない真っ赤な顔、眉根を苦しげにきゅうと寄せて、は、と震えるように漏らした息が、サンジの手首の辺りを滑り落ちる。
「どういう、意味」
尋ねる声が掠れてしまった。心臓の音がうるさい。ゾロが唇を開くのが、スローモーションみたいに見えた。
「――違うのか」
「なに、が」
「訊くな、……ばか」
察しろ、とゾロは無茶を言い、水気を帯びた瞳でサンジを見た。足の力がいまにも抜けそうで、サンジは立っているのがやっとだった。指を伸ばし、頬にそっと触れてみる。ゾロは今度こそびくんと体を跳ねさせた。とても熱かった。あのときも、あの告白のときも、ゾロはこんな顔をしていたのかもしれない。
なんだか泣きそうになった。一人で空回って、俺は大馬鹿だ。
「せんせい」
「なんだよ」
「せんせい、――ゾロ」
「だからなんなんだ、……にやにやすんじゃ、ねえ」
「だってよ、すっげえ、かわいん、――ッ!」
途中で遮られたのは、いきなりごいん、と頭突きを食らったからだった。



夕食はサンジが作ることを申し出た。どっか食いに行かなくていいのか、とゾロは言ってくれたけれど、腕を振るうよい機会を逃したくない。それに、その辺のレストランよりずっと旨い料理を作る自信はあった。
パプリカを選び、カートに乗せたかごに入れる。つやりと光る黄色い皮は肉厚で、鮮度もまずまずのようだ。鶏肉の煮込み料理を作る予定だった。買い物に寄る途中、ケーキ買ってねえ、といまさらゾロが言うから、明日一緒に買いに行こう、とサンジは笑った。思いついてくれるのがうれしかった。
「俺ね、家がレストランなんだ。……て、前に少し話したよな」
「ああ、聞いた」
「じじいがやってて、小せえ頃から手伝ってる。だから腕は確かだぜ」
レストランを継ぐ気だったサンジに、大学までは出ろと言ったのはゼフだ。出来る時にしっかり勉強しとけ、選択肢は多いほうがいい、それでもおめえがやりてえと思うならやりゃあいい。そう言われて大学へと進み、結果としてゾロと出会ったのだから、進路決定のときの大喧嘩は無駄ではなかったわけだ。
「ああ、昨日の電話の」
クソじじい。
ゾロは言い、にやりと笑う。
「あんがい、血の気多いのな」
「それはゾロもじゃん」
さきほど強打された額をさすりながら言うと、あれはお前が悪い、とゾロは居直った。どうやら、かわいいは禁句らしい。年上のプライドだろうか、たくさん言いたいのに残念だ。むうと不服げに下唇を突き出したいまだって、そんな子供みたいなひどい無防備さを見せて。
「うし、あと肉で終わり。早く帰らねえとな。腹、減ってきたろ?」
缶詰のコーナーでホールトマトを買い、かごの隅に立てると、精肉コーナーを見やってサンジは言った。ふと、横顔にゾロの視線を感じる。
「なに?」
「言葉づかい」
言われ気がついた。すっかり、友人にするもののようにくだけていた。さっきの頭突きのあと思わず痛えよと怒鳴ってから、肩の力が抜けたらしい。
「あ、ごめん」
「いや、そのままでいい」
それがいつものお前なんだろ、とゾロは言い、そういや腹減ってきたなと、なんだかひどくうれしげに笑った。



「ほんとに、いいの」
「……いい」
「でもよ、俺らまだ」
「まだ、なんだよ」
「その、さ、」
「なんだよ」
サンジは口を開きかけて、迷ってから閉じた。ゾロは戦いを挑むような目でサンジを見ていて、ほんとにわかってんのかな、と少し心配になる。なにせゾロよ、ゾロなのよ、サンジくん。ナミが口癖のように言うから、ゾロにはいわゆる常識が通じないのだと刷り込まれている。
夕食を食べて、二人で片づけをして、何本かビールを飲んだあと別々に風呂に入った。はじめは和やかな雰囲気だったのだけれど、風呂に入るあたりから雲行きがおかしくなった。いつも以上にぎこちない空気、ゾロは常よりさらに言葉少なになり、それとともにサンジの緊張もいやおうなしに高まってくる。
風呂からあがってみると、ゾロはリビングにパジャマ姿で仁王立ちしていた。なんなのかはよくわからないが、気合に満ちた風情であった。そしてサンジを認め、寝るぞ、とひとこと言い、おもむろに明かりを消すとすたすたと部屋を出て行った。
わけがわからないまま後を追い、入った場所は箪笥とベッドしかない部屋で、男二人にはやや狭そうなマットレスを見てサンジの頭は一瞬真っ白になった。無理だ。ゾロの言う寝るが睡眠の意だとすれば俺には無理だ。
ゾロ、ちょっと、待って。すでにシーツに片膝を乗り上げていたゾロに声をかけた。スタンドだけの淡い光が、ひとつしかない枕の辺りを照らしていて、なんだか艶めかしくて目を逸らしてしまう。風呂場から出たとき、時刻は11時半だった。たぶんあと少しで日付が変わるというのに、冷たい床に座って問答をしている。
「なんだよ」
もう一度ゾロが言う。声が低くなり、怒気が孕み始めているのがわかった。せっかくの誕生日が、よりによって喧嘩で幕を開けるのは避けたい。
「寝るって、ここに一緒に、だろ。えっと……、あー」
サンジは半乾きの髪を掻き回した。遠回しなやりかたではゾロには伝わらないだろう。そのくらいはもう学習した。意を決して、正直に話すことにする。
「俺さ、なんもしねえ自信ないよ。もちろん無理強いとかはしないけど、ほんとのとこ、ゾロに触りたくてしかたねえし、だから、ゾロがそういうつもりが無いんなら、俺は一緒には寝れない」
ひと息に言う。恥ずかしさに顔が火照った。そうだ、昨日からそんなことばっかり考えている。だけど、思っていたよりずっと不器用で、恋愛に不慣れらしいゾロを大事にしたいのも本当だった。たしかに先には進みたいけれど、勢いや流れでそうなるのは嫌だ。
「そういうつもりが無いなんて、誰が言った」
「いや言ってねえけど、キスもまだなのにさ、それどころか手も……て、え、……ちょ、ま、ある、の――」
指先に硬い、けれど温かなものが触れ目を落とした。ゾロの指が指に絡んだ、と思ったら、唇に濡れた柔らかな感触がそっと押しつけられた。
ちゅ、と軽く吸う音、間近にゾロの顔、存外に長い睫毛が震えたのを見た。
唇はすぐに遠ざかった。
たしかめるように指で触れれば、まだ唾液の湿り気を残している。
「――ゾ」
「いま、した」
両方、とぼそりと言い、それからふと壁のほうを見る。サンジもぼうっとした頭でつられるようにそこを見た。壁掛けの時計は静かに時を刻んでいる。
「誕生日、おめでとう」
時刻は0時を過ぎていた。皮の厚いてのひらが耳のうえを滑る。指で髪を梳きながら、触りてえのはお前だけじゃねえよ、とゾロは言った。
その手首を握る、抱き寄せて今度は自分からくちづけた。硬く閉じられた歯列を何度か舌でなぞると、そこは受けいれるように開いて、サンジは甘い口内を貪った。ふ、ん、とお互い声を漏らして舌を舐める。唾液の立てる音にますます頭がぼやけていく。
「ちくしょう、キス、うめえな」
「……誰と比べてんの」
ばーか、とゾロは言う。暗さに慣れた目で見れば顔は夕方に見たのと同じくらい真っ赤だ。昨日ひと晩で、腹ァ決まってんだ。男らしく言うのも、ただただいじらしくかわいらしい。それに見知らぬ男が一枚噛んでいるなどと、サンジが知る由もなかった。
縺れるようにベッドに飛び込み、お互いのパジャマを脱がせた。指が震える。心臓が外に飛び出そうで胸が痛い、しんじゃいそうだ。ゾロも同じだろうかと、触れた胸はどくどくと拍動し、滑らかな肌は吸いつくようにしっとりと汗ばんでいた。
「せんせいが、欲しいです」
うやうやしく手の甲にくちづけて言うと、なんでそこだけ敬語だとゾロは声を小さくし、熱い息を細く吐いた。
なるほど。
そういうところはとても察しのよいサンジは、恥じらい涙を浮かべ身を撓らせる耳元で、せんせい、すきです、と幾度も囁いた。



睡眠不足と過剰な運動が祟って、目が覚めたのは夕方に近かった。時計を何度も確認する。なんてことだ、誕生日をほぼ睡眠と性行為で費やしたことになる。
起きあがろうとするとゾロの腕が胴回りに絡んだ。力が強い。ゾロ、と声をかけてもむにゃむにゃと何か言うばかりで、一向に目を覚まさない。寝起きはあまりよくないようだ。
「ゾロ、起きて。ケーキ買いに行くって」
「あー……」
「だからケーキ」
「いらねえ」
「いや、いらねえって、俺の、――!」
ぐい、と乱暴に押さえこまれぎゅうぎゅうと胸板に押しつけられる。髪に鼻を埋めるようにして、ゾロはまた寝息を立てはじめた。起きていたらあり得ない行為だろう、完全に寝ぼけている。カーテンの隙間からは白い陽射し、部屋は暖かい、きっと外は早春の日和だ。息づかいがだんだんと遅くなる。眠りが深くなっても、ゾロはサンジを放そうとはしなかった。
もうすこし時間が経ったら、いたずらをしかけて起こしてやろう。サンジを抱きしめて眠っていたことに気がついて、ゾロはまた染めたように真っ赤な顔をするのだろう。そんな顔をされたら、そりゃあもう、何度だって。想像して、顔がへらりと緩んでしまう。調子に乗らせたのは、他でもないゾロなのだ。
サンジはひとつ息を吐き、それから、ゆっくりと目を閉じた。
すぐそばには心から愛しいひとの体温。
ケーキなどなくても、ひどく幸せな誕生日には違いない。







                              (11.03.02)



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はーなんとか間に合った。サンジ、お誕生日おめでとう、ゾロと末永くお幸せに。だいすきだー。
ところで、この話の裏テーマは「朝チュン」でした。
おれがんばったよ。ちょっとつらかったよ。