9.背のび





帰るか、と言われたときに思わず袖口を握っていた。凍てついた外気と遮られた陽射しの下、振り向いたサンジの髪はいつもより褪せた色に見えている。
コートの肩あたりにふわりと落ちた氷の結晶は、布地に触れた途端に溶けて見えなくなってしまった。雪は降ったり止んだりを繰り返し、傘を差すほどひどくなることはないままに、ただ体を湿らせてじわりと体温を奪っていくようだ。それでも身の内に点るこの熱が、なんのせいかくらいはゾロも自覚している。
よし、思いっきり定番デートしようぜとサンジは言って、ゾロが一人ではけして入らないような洒落たレストランで早めの昼食を取り、それから今話題だとかいう映画を観に行った。何ひとつ口を出さなかったのはサンジのための日だと思っていたのもあるけれど、定番、と言われてもゾロにはよくわからないし、どのみちサンジと一緒ならば何でもよかったからだ。
映画の途中で眠ってしまったゾロを、しかしサンジが常のように咎めることはなかった。並んで歩く道で、向かい合ったテーブルで、映画館のチケット売り場で、他人の視線が注がれるのをときおり強く感じ、そしてそれはすべて女性からのものだった。
「どうした」
柔らかく、だが少し困ったように笑うサンジを見て、いや、なんでもねえとゾロは言い指を離した。サンジを困らせるのは嫌だ。仕方ねえなといつものように子供扱いをされるのも。
黙り込んだゾロの頭に、サンジのてのひらがぽふりと置かれる。ほらこうやってまたと睨みつけようとして、いつもそこにあった金属の感触を今日も感じないことに気がついて、それから、店の前で好きだと言われたことを急に思い出し息が詰まった。
「まだ帰りたくねえ?」
「……」
「あたり、か」
白い息とともに長く吐いた煙が、サンジの表情を曇らせ隠してしまった。呆れられただろうか。もう少し一緒にいたいのは俺だけだろうか。告げられた思いを疑うわけではないけれど、あれだけ女の視線を浴びていたサンジがと考えれば、まだうまく信じられないような気がしてしまう。
店にもサンジ目当ての女性客はいるようだった。黙ってれば男前だからね、それに優しいしと、ナミが評していたことを思い出す。大の女好きの、その気になれば相手にはけして困らないはずの、ずいぶんと年上の男。たぶん俺はまだ混乱しているのだとゾロは思う。
「帰してえのか」
低く問えばすこし間があって、そのつもりだったよとサンジは言った。その諭すような静かな口調にかっと頭に血がのぼった。
「俺がガキだからかよ」
「え?」
「それとも男だからか」
「……お前、馬鹿だね」
「あァ!?」
「ああ、違うか、鈍いんだな」
まあ俺としちゃあ助かるけどなァ、とサンジは言い、唇に挟まれたままの、短くなった煙草のフィルターを指で摘むようにして目を眇める。そうして最後に名残惜しそうに深く吸いこむ、それはゾロがとても気に入っているサンジの仕草のひとつだった。
思わずぼんやり眺めていると、あんま見んな、とサンジは空いたほうの指でゾロの額をぴんと弾いた。それから目をすいと逸らし煙草を消してから、じゃあ俺んち来るか、と何気ない調子で言った。
「……いいのか」
「いいよ、夕飯まで食ってけば。けど、ちゃんと親父さんに電話しとけよ。俺と今日会ってんの知ってんだろ」
「知ってる。でも別に電話なんざ」
「しとけって。心配するかもしんねえだろうが、……いろいろとよ」
「?なにを」
言えばサンジは大きく息をつき、なんだよ、とさらに問えばなんでもねえよと微笑んで、少し背を丸めるようにして新しい煙草に火をつけた。



マンションに着く前に雪は本降りになった。刻々と密度を濃くする重い空を見上げ、これ以上ひどくなんなきゃいいけどなとサンジは呟いた。
鍵を差し込むその長い指、短い爪は寒さのためか白っぽく変色していて、ゾロは自分の血色の良いそれにふと目をやった。生ぬるい玄関の空気と外気が混ざり合い、下からふわりと吹きあげるように肌を撫でる。後ろでドアの閉まる音がして、そうすると、訪れるのは二度目のはずのここがまったく見知らぬ場所のように思えた。
静かだった。サンジが靴を脱ぐ音が浮き立つようにくっきりと聞こえ、目の前でしきりに煙草の匂いをさせる背中がやけに近しい。ガラス張りのあの店では、二人でいても二人きりという感じはあまりしないのだとゾロはいまさら気がついた。
扉一枚隔てた内と外、沁みてくる冷気を足元に感じる。けぶるように降る細かな雪は、すべての音を吸いやがて街を白銀で覆い隠すのだろうか。
「……ひどくなったら、帰れねえかもな」
何気なく言ったのは願望のつもりではなかったけれど、口に出してしまえば、自分はそれを望んでいるのかもしれないと思った。そばに長くいられればと考えたことは何度もある。叶うわけもないとずっと思っていた。
すでに廊下に足を踏み入れていたサンジはぎょっとしたような顔で振り向きゾロを見つめた。はじめて見る冷静さを欠いたサンジの様子にゾロも言葉を失い、急に静まりかえったこの場所では、自分の呼吸の音さえ聞こえそうだった。
「――やっぱ、やめだ」
先に口を開いたのはサンジだった。その声ではっとしたとき、もうサンジはいつもの諭すような大人の顔をしていた。一瞬だけたしかに見たはずの、動揺しきった表情はどこにも残っていなかった。
「やめって、……帰れってことか」
「そうだ」
「嫌だ」
「送るからよ、今日はもう」
「嫌だ、帰らねえ」
「――ゾロ、聞きわけろ、」
「なんでだよ」
遮るように言いサンジの服をまた掴む。青い視線が少しだけ揺らぐのがわかった。
「……帰れなくなったら困るだろ」
「困らねえし」
「困るんだよ、俺がな」
「俺がいんのは迷惑か」
「馬鹿、違うよ。……わかんねえんだろ、お前には」
だからだよと抑えた声でサンジは言う。またそうやって突き放すのかと、目の前が暗くなるような感じがする。好きだと言われた。俺だって好きだ。もっと近づきたいと思って何がいけないというのだろう。
「――ゾ、っ」
ぐい、と握りしめた服を思いきり手前に引いた。一段高い場所にいるサンジはバランスを崩すように前のめりになり、ゾロはそれを受け止めるようにして背中に腕を回した。
肩口あたりに顔を押しつけるような形になる。吸いこんだ乾いた空気は、甘い菓子の香りを纏っていないサンジ自身の匂いがいっぱいにして、めまいがしそうでそれを逃がすようにゾロは震える息を吐いた。着痩せするのだろう、細いとばかり思っていた体はしなやかな筋肉に覆われ、てのひらには布の下のたしかな体温が伝わってくる。
「あんたは、……あんたは、ずりい。そうやっていつも年上ヅラしてよ」
「ゾロ」
「好きだっつったの嘘か」
「なわけねえだろう」
「じゃあなんで」
「困らせねえでくれ、ゾロ」
頼むから、と押し出すような懇願するような声でサンジは続ける。サンジのこんな苦しげな声を聞いたのもはじめてで、ゾロの体にその腕が回される気配は無かった。まったくわからない、それでも困らせるなと言われれば聞くしかなく、ゾロは唇を噛みしめた。
「やっぱ、あんたずりいな」
腕を離し視線を上げた。サンジは片手で背けた顔を覆い隠していて、その隙間からのぞく、さきほどまで色を失っていた皮膚が赤く上気しているのがわかった。は、と指のあいだからサンジは息を吐いた。
「……畜生、みっともねえ」
「……」
「ずるくでもしねえとな、やってられねえんだ」
「――サンジ」
「なんだよ。てめえがなんつっても帰すぞ、今日は」
「サンジ」
「だか、ら、……」
離していた指で今度はその胸倉を掴み、引き寄せながらゾロは踵を上げた。伸びをするようにして頬に唇を押しあてる。なぜだろう、こんなに年上の、手が届かないと思っていたはずのこの男をひどく可愛いと思ってしまった。
唇にサンジの皮膚の感触を感じて、離れるのが惜しくてそのままそこに頬を押しつけた。ひたりと濡れたのは自分の唾液でだ。サンジの頬はゾロよりもずっと熱い。
「――クソガキが」
耳元で罵倒するサンジの声は、けれど掠れてゾロには甘かった。ざり、と髭があたる感触がして、それからゆっくりと唇が重なる。何度も繰り返し、触れるだけのキスをサンジは続けた。湿った音が響き、背中に強く腕が回されるのを感じる。息が苦しい、肺が潰れそうだ、体が溶けてばらばらになってしまいそうだ。
「息、が、――は、」
「苦しい?」
「……おう」
俺もだよ、とサンジは言う。
そうして不自然な体勢で長いこと、数えきれないほどの、煙草の味のするはじめてのくちづけを繰り返した。







(11.08.31)



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