8.5回目のコール





アドレスを呼びだしてからためらったのはひさしぶりだ。フィルターを噛んだまま、まだ櫛も通していない絡まった髪にサンジは指を入れる。いつもならとうに仕事場にいる時刻、起きるのが遅れたのは休みのせいばかりではなかった。寝不足の目でディスプレイに映し出された名を見つめ、一度天井を見あげてから指先に少しだけ力を込める。
舌打ちが出そうだ。愛想の欠片もない携帯のコール音を、これほど鼓動を速め数えるのもいつぶりだろうか。身に馴染んだはずのニコチンと、淹れたてのコーヒーの香りでも鎮まらないほどの。
「――俺だけど」
少し間があって、おう、と掠れた声がする。まだベッドのなかなのだろう、ゾロの声が途絶えると鼓膜を震わす音は他になく、電話の向こうは静まり返っているのが伝わった。
「やっぱ寝てたか」
「もう起きるとこだった」
「そうかい」
「……なんだそれ」
憮然とした声に、試みはどうにかうまくいったのだとほっとした。カーテンを開けたらしき音が聞こえてきて、ゾロが携帯を持ったまま寝床を出たのがわかった。午前のまだ澄んだ冬の光が、その髪に降り注ぐのを想像する。
す、と軽く煙を吸いこんでから、あと一時間だぜとサンジは続けた。
「知ってる。何度も言ったじゃねえか、あんた」
ガキ扱いすんな、といつもの台詞をゾロは言い、覚えてたかよとサンジは笑った。
「覚えてるに決まってる」
「店の前で待ってるよ。……一時間後」
「わかった」
「遅れんじゃねえぞ」
「おう」
返事を聞いて電話を切ろうとしたとき、あ、と短い声がする。どうした、と尋ねれば、言い忘れてた、とゾロは答えた。
「なにを」
「おはよう」
やけにはっきりとした口調だった。離れているのに、すぐ近くからあの強い目で見つめられているような感覚を覚えた。なぜだか顔が熱くなって、見えるはずもないのにサンジはごまかすように顎を少し上げて煙を吐いた。
「……ああ、おはよう」
じゃあ後で、とゾロは言って、それきり電話は切れた。ポケットに収めてから、カップに手を伸ばしぐびりとコーヒーを飲んだ。湯気はもう消えているけれど、のどを通り抜けるそれはまだ熱を残している。立ったままで半分ほど飲んでから、椅子を荒く引いてそこに腰を下ろした。
「馬鹿じゃねえの俺……」
一人ごち、まだ熱い頬をてのひらでこする。待ち合わせるのは正月を含め二度目だったが、自分の感情に気づいてからはこれがはじめてになる。からかうような口調も、余裕を匂わせる態度をあえて取るのも、こんな子供じみた高揚を悟られたくないからだった。
「あー……」
低く呻いて、サンジは髪を掻きあげた。相応に乾き荒れたこの髪を、ゾロはぼうと眺めていることがある。触れたそうな顔だ。そう気がついたとき、自分も同じようにゾロに触れたいのだとようやくわかった。
まったく年甲斐もない恥ずかしい話だ。
わざわざ電話をしたのだって、ただ少しでも早く、その声が聞きたかっただけだなどと。


バレンタインとホワイトデーのあいま、日々忙しくしていたサンジに誕生日を思い出させたのはゾロだった。
「……まるきり忘れてた」
「言ってた通りだ」
ナミが、とゾロはぼそりと言う。そういえば以前いつだと訊かれた覚えがあり、ナミはきっちりそれをゾロに伝えていたのらしい。
「毎年忙しい時期だからな、忘れがちでよ」
「ひとの誕生日は祝うのにか」
「バースデーケーキのことか?まあ、そうだよな、言われてみりゃ」
はは、と笑ってゾロのほうをふと見れば、睨みつけるようにしてこちらを見ている。何怒ってんだ、と言うと別に、とその表情のままに言い、食べ終えたばかりのケーキの皿にかつりと硬い音を立ててフォークを置いた。
宣言通りあれ以来、ゾロはサンジの作ったケーキを食べるようになり、問えば簡単ではあるが感想も伝えてくれる。訪れるたびになるべく違うものを出しているのは、嗜好の傾向を知るためでもあった。
「別に、って顔じゃねえぜ、それ」
「――休み」
「ん?」
「今度の休み、空いてるか」
相変わらず何かに憤慨したような顔には違いないが、頬骨の辺りは少しだけ朱を刷いているように見えて、それでようやくゾロの意図がわかってサンジは急に動揺した。店休日は月に四日、火曜と日曜を交互にしていて、最も近い休みは日曜だ。
「なに、おめえもしかしてプレゼントは俺とか、って、」
迂闊だった。
一瞬でぐらついた感情を、いつものようにからかいでごまかそうとして失敗した。
ゾロはみるみる顔を赤くして、それとは裏腹のひどく険しい顔つきになって黙り込んだ。まだ好きだと言われたわけでも言ったわけでもなく、お互いたぶん気持ちに気づいていながら距離を測りあぐねている、そんな繊細な時期に言う台詞ではとうてい無かったのだ。
「ごめん、今のは俺が悪かった」
「……空いてねえならいい」
「空いてるよ。空いてるから」
「あんたが」
「うん」
「欲しいもんとか、してえことなんてわかんねえけど」
「……ああ」
声がいつもより掠れて聞き取りにくかった。自分に置き換えて考えてみれば、言い出すまでにもよほどの決心が要ったのに違いなく、そう考えたときに込みあげたのは言い様のない愛おしさだった。じゃあ、俺とデートしてくれねえかと微笑んだサンジを、ゾロは驚いた顔でしばし見上げ、それから黙ったままにぎこちなく頷いた。
「――何にやにやしてんだ」
思い出していたら、横から声をかけられて煙草を落としそうになる。薄曇りの灰色がかった背景に、その短い髪だけが春のように暖かだ。白い息を吐いて、鼻の頭を赤くして、私服のゾロが目の前に立っている。サンジは取り繕うようにこほんと咳をして表情を引き締めた。
「お、ジャスト」
腕時計を見て言うと、あんたはいつからいたんだとゾロが尋ねる。五分前だよと嘘をついた。ほんとうは電話のあと、居ても立ってもおられず急いで身支度を整えたことなど言えやしない。
寝癖の取れきっていない短い髪に指を伸ばす。摘んだ髪は束になっていた。手の甲に冷たいものが落ち、鈍重な空を見上げれば雪が降り始めたようで、これがこの冬最後かもしれないなとなんとなく思う。
「……どっか行きてえとこあるか?」
「任せる」
あんたのための日だろ、あんたがしてえようにしたらいい。
変わらぬ淀みのない眸で、そんなことを言われればたまらなくて、顔が一気に火照るのを自覚した。目を逸らし煙草の火を消した、横顔には不審げな視線を感じている。
「どうかしたのか」
「そういうこと、さらっと言っちまうんだからなァ」
「?なんだよ」
「無防備にもほどがあるって話」
「は?」
平然と両手を広げ真正面からこんな隙を見せて、こいつはいったい俺をどうする気なのだろう。
「参った」
「なにが」
「あんまひさしぶりでよ、てか、……お前だからかもしんねえが」
「だから何の、」
「好きだよ」
不意打ちにぽかりと口を開けたまま、だんだんと首までを色濃く染めるその様が、きっと今日何よりの贈り物だとサンジは思い、まるでまだ寝起きのようにぼんやりしているゾロの温かな手を握って歩き出した。







(11.08.27)



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