7.砂のお城 「これならいけんだろ」 ん、と突きだされたスプーンの、まっすぐな柄が視界の端で銀を光らせた。ゾロは眉間の皺を知らず深める。丸い先端に乗せられ、表面張力で盛りあがったそれは、自分の知るものよりもずいぶんと濃い色をしていた。 そこから、こめかみあたりが痺れるような甘ったるい匂いが漂ってくる。唇をきゅっと引き結んだまま、つやりとした表面の光沢を見つめていると味見、とサンジが言い添えた。 「野郎にゃ苦手なやつも多いだろうからな、お前の意見は貴重なんだよ」 視線をずらしサンジの顔を見れば、請うような口調とは裏腹におもしろそうに眉を上げてこちらを見ている。な、と軽く首を傾げられて腹の内がかっと熱くなった。 食べることが嫌なのではけしてない。 からかわれているのだろうか、こんな幼子にするような、もしくは、まるで親密な恋人にでもするような。 知っているくせに、と思えばスプーンを奪うことも出来ない。俺があんたをどう思ってるか、誰よりもよく知ってるくせに。勘違いすることよりもっと苛立つのは、勘違いでは無いのかもしれないと浅ましく期待する自分にだ。 ほら、と気に入りの笑顔で追い打ちをかけられ、渋々と頷けばサンジはスプーンをさらに近づけた。湯煎をかけたばかりの、まだ形を成さないチョコレート。二月のこの時期にだけ店で出すその菓子は、毎年改良を重ねているのだという。ボウルに挿されたままの、スパチュラ、と呼ぶらしい器具をしゃもじみてえだと言ったら、もともとの意味はそれで合ってるんだぜとサンジは笑い、そうだ、と呟いてスプーンで浅いところを少しだけ掬ってゾロのほうへと向けたのだった。 店の窓ガラスには、赤やピンクを基調にデザインされたポスターが貼ってある。バレンタインチョコ御予約受付中。ちょうど入れ違いに店から出て来た若い女が、立ち止まってそのポスターを見ていたから自然ゾロの目にも留まった。 今日はケーキの完売がいつもよりも早く、残照が長く射し込む出入口にサンジは早々と閉店の札をぶら下げた。帰ろうかと立ちあがりかけたゾロに、朱色に染まった背を向けたまま時間あるかとサンジは言った。食うのは男のほうだ、喜んでもらえりゃ女の子も嬉しいだろう、だからおめえで試させろよと、そう言ってゾロを引き止めた。 店内からも見えるように、それとも店内が見えるように、なのだろうか、ガラス張りになったこの厨房にゾロが入るのははじめてのことだった。ステンレス製らしい大きな作業台の前に立つサンジを盗み見るとき、その透明な仕切りをもどかしく思ったりもするのだけれど、いざこうして隣に立つとなるとなんだか落ち着かない気分になる。 ここは、サンジの領域なのだ。ゾロにはどうにも形勢が不利である。 「……甘え」 少し顔を仰け反らせるようにすると、サンジがさらにぐいと踏み込んでくる。どうしたことだろう、自分が近寄るばかりだったのに、このごろのサンジは少し変わったようにゾロには思える。それが、よけいに戸惑いを生むのだった。 「まだ食ってねえだろが」 「匂いが」 「まあ、そればっかりは仕方ねえけど」 俺の、食ってくれるんじゃねえの。 声に甘えが混じったような気がするのは錯覚だろうか。目尻の穏やかな撓みに、指で触れてみたくてまたくらり、と目眩がする。なんて手練れだ、畜生おっさんめと心のなかだけで悪態をついて、これケーキじゃねえしとぼそりと言えば、はは、とサンジは軽やかな笑い声を立てた。 「やっぱ無理か?」 「――わかったから」 「から?」 「スプーンを、」 寄越せよ、と言う前に、下唇の上にひやりと硬質な感触が触れた。こつん、と合図のように前歯にあたり、ゾロは意識せぬままそこを開いていた。 舌に落ちるとろりとした液体は、はじめは甘く、それから適度な苦味がじわりと広がっていく。飲み下した音が、自分の喉もとからやたらに大きく聞こえた。サンジが顔を覗き込んで来る。近え、と押しのけることはやはり出来なかった。 「どうだ?」 「……うめえ」 「苦味が強すぎねえか」 「俺はとくに気にならねえけど」 「そうか、じゃあこれでいくかね」 ご協力ありがとよ、とサンジは破顔した。そしてふと思いついたように、ゾロの口に入ったばかりのスプーンの裏を舌先でぺろりと舐めた。うん、うめえな、さすが俺、と一人ごち、作業のときは大抵はめている透明な手袋を外すと、背を向けて使った調理器具を壁際の洗い場のほうへと運んだ。サンジが戻ってくるまで、ゾロはうつむき身じろぎも出来ずにぴかぴかと光る天板を見つめていた。 顔中が熱くなっている。きっとサンジは無意識にやったことなのだろう。自分の未熟さが嫌になるのはこんなときだった。まともに恋をしたこともない、らしくもない感情の振幅に為す術もなくこうして翻弄されることしか出来ない。 「ゾロ」 サンジがすぐ隣に立った。焦げそうな耳元に視線が注がれているのがわかった。まさかたったあれだけのことでと、思われているのだろうと考えれば気恥ずかしくも悔しくもあった。 「大丈夫か?」 頬に触れようとする手を、ゾロは思わず跳ねのけ顔を背けた。 馬鹿にすんじゃねえ、押し出した声は嗄れてしまう。大型の冷蔵庫が立てる音が、静寂を乱してくれるのがありがたかった。 「……してないよ」 「嘘つけ」 「本当、そういう意味じゃねえって」 「じゃあ何だよ」 「うーん」 参っちまったな、と続けるから、やはり馬鹿にされているのだとかっとなってサンジを振り仰いだ。予想していたのはからかいを含んだ表情だったが、ゾロが目にしたのはそれとはまったく異なったものだった。 すこし細めた片目の下、頬骨の高いところ、ゾロよりは白い肌が赤味を帯びて見えている。けれど視線が絡んだ瞬間、それは錯覚かと思うほどにすぐに消え、かわりのようにサンジが軽く息を吐くのがわかった。 片手をあげて自分のうなじに手をやりながら、なんつうか、とぼそりとサンジは言う。 「なんか、お前さ、……たまんない気持ちにさせるね」 長えこと忘れてたんだけどなァ、こういうの。 耳触りのよい低い声は、まるで自分に話しかけるような独白めいた調子だった。さきほどの表情の変化といい、ゾロにはまったく意味が掴めない。 「こういうの?」 「はー、こりゃやべえかもな俺」 「さっきから何言ってんだ」 「お前さ、俺にチョコくれるの」 不意打ちだ。 せっかく引いた熱がまた一気にあがった。 ひとのために作ってばかりなのよ、誰かにもらうのはきっとうれしいわ。昨日、ナミから忠告を装った指図を受けたばかりだ。さすがにサンジくんの店でって訳にもいかないでしょう、何なら一緒に選んであげるわよと、そこはさも楽しげだったから半分以上はおもしろがっているのだろう。俺は女じゃねえんだと悪態を吐くと、そんなの見ればわかるわとナミは笑った。 嘘をつくのも言いわけも不得手だ。黙り込んでいると、今度こそサンジのてのひらが頬に触れてゾロは肩を揺らした。思ったよりもずっと荒れた感触、洗ったばかりの皮膚はかすかに湿って、すうと心地良くゾロの熱を吸い取った。 伸びてきたのは左手だった。 そのときはじめて、サンジが指輪をしていないことに気がついた。 「――あんたは、」 「ん?」 「あんたは、俺にもらったらうれしいか」 声が震えるのを抑えるのに苦労した。駆け引きなど出来るはずもない、わからないなら尋ねるしかないだろう、まっすぐにしか進めないのだ、俺は、どうしたって。 ゾロの頬に手を置いたまま、サンジはまた、ゾロにはよくわからない表情になった。けれど今度は、目元に鮮やかに刷かれた赤はなかなか消えることはなかった。指先から煙草の匂いがして、ぬるまった熱が混ざりあってくるのを感じる。 その顔のまま、うれしいよとサンジは言った。 (11.07.12) ←6 8→ |