6.メランコリック





囚われているつもりはなかった。
いちど壊れてしまった、にどと戻ることのない、だからこそ美しいままでいるものを、ただ懐かしんで生きるのはまだ早いだろう。
けれど脆さを知ってしまえば、臆病になるには十分だ。
「――ゾロがね」
ナミの声でサンジは顔だけをあげた。仔猫のような、いたずらを含んだ大きな眸がガラス越しにサンジをじっと見つめている。
中腰でショーケースに手を入れたままだった。ひんやりとした冷気の降りかかるそこから、空になったトレイを引き出して立ち上がる。クランベリーソースをかけたヨーグルトのムースは、今月に入ってから店で出しはじめたもので、新作がいつもそうであるように昼過ぎには売り切れてしまうのだった。真っ白な陶器のカップも、食べたあとにも使えるとなかなかの人気だ。甘みを抑えたこの味つけに決めたとき、たしかに緑の短髪を思い浮かべた。
トレイを後ろの棚にとりあえず置き、値札を外しその隣に伏せてからサンジは振り返った。ナミは相変わらず、好奇心を隠そうともせずにこちらを見ている。
「どうした?ナミさん」
「サンジくんこそ。いま起きた、って顔してるわ」
ゾロの名前は効果抜群ね、とにっこりと微笑むのに、サンジは何も言わずただ眉尻を下げて苦く笑った。それほどぼんやりしていたのだろうか、女性はいくつであっても聡いものだけれど。
イートインスペースでは、ウソップとルフィが笑い声をあげている。試作品や消費期限の近い焼き菓子をただで貰うのを、育ちざかりの彼らは楽しみにしていたし、サンジとしても無駄にならずに助かっていた。並んだ濃紺のブレザー、そのなかに見慣れた姿勢の良い背中はない。
新学期は昨日から始まっているはずだった。ゾロのピアスは、まだサンジの手元にある。
「自分からは訊かないのね」
「何をだい?」
「ふうん、しらばっくれるんだ」
少し頬を膨らませてナミが不服そうに言った。どこまで知っているのかわからないから、サンジとしても迂闊なことは言えないのだ。ゾロは饒舌な方ではけしてないし、女友達相手に恋愛相談をするようなタイプには思えないが、ナミが突っ込めば存外にあっさり白状してしまうような気もする。
じいと目を逸らさないナミに、どう答えるか悩んでサンジはそのまま口を噤むことを選んだ。今月の新作はもう売り切れちゃったけどと、別のケーキを指差すとナミは軽く肩を竦めた。合格ということだろう、ナミの好みはすでに把握している。
もういちどケースに手を入れて、コアントローの香るオレンジケーキをひとつ取り出した。皿に盛って横にミントと生クリームを飾る。ショーケースの上にフォークと共に置くと、ありがとう、とナミはさきほどより態度を緩めて言った。
「やっぱり手強いわね、あいつらみたいには行かないわ」
だから大人の男って嫌よ。
視線の先には年相応、いやそれ以下のようにはしゃぐルフィ達の姿がある。サンジはくすりと笑ってこめかみを指で掻いた。
「そりゃあまあ、生きてきた長さが違うしね。一緒じゃ困るよ」
「そうなんだろうけど」
「けど?」
「だからって、子供をなめてもらっちゃ困るの」
「……なめてないよ」
そう?と首を傾げ、ならいいんだけどねとナミはふいに華奢な手をこちらに伸ばした。皿の横に置いたままだった左手、その薬指にはめられた金属の表面を、ナミは指先でするりとなぞった。すぐに離れていった、桃色の爪をサンジは目で追った。
同じ道を志すもの同士が恋に落ちて、結婚し、やがて別れる。どこにでも転がっているよくある話ではあるのだろう。まだ下積みだったからお互い多忙で、すれ違う時間は少しずつ関係をねじれさせ、気がついたときにはもう戻れない形に変わっていた。そして、彼女は修復を拒んだ。
離別は自然な成り行きだとみなが言ったし、誰もどちらも責めなかったけれど、サンジには自分を許すことがどうしても出来なかった。
外さぬ指輪の理由、未練ではなく、繰り返さないという自戒。
そればかりではなかったのだと、気がついたのはつい最近のことだ。

かちゃりと音がしてサンジは我に返った。いつのまにか皿を両手で持って、ナミは顔だけをサンジのほうへと向けていた。くすんだ冬の景色にふいに落とされた絵の具のような、鮮やかなオレンジの髪は手元のケーキよりもずっとみずみずしい色をしている。
眩しいと、なぜかそう思いサンジはわずかに目を眇めた。
「甘くみないほうがいいわ」
せいぜいそうやって、鎧をしっかり着こむことね、サンジくん。
何をとも誰をとも言わずあでやかに笑う、どこか勇ましげなその顔には素直に両手を上げてしまいたくなる。まったく、敵う気がしない。
「降参だな」
「潔いのは好きよ。よろしい、じゃあ、訊きたいことはある?」
「……ゾロはどうしてる?」
名を呼ぶときに、少し声が掠れる。
それが伝わったのだろう、ナミは満足げに笑みを深めて、あら、もう脱げかけてるのねと追い打ちをかけた。


鍵はいつもかけてねえから。
そう言ったゾロの言葉はほんとうで、ドアはなんの抵抗もなくするりと開いた。いくら平和そうな住宅街とはいえ不用心すぎるだろう。ミホークとかいう男はちゃんと教育をしているのかと、サンジはため息を吐きながら広い玄関で靴を脱いだ。
つるつるとした材質の床は土汚れが目立ちそうだが、顔が映りそうなくらいに美しく磨きこまれている。ゾロがこういうところにまで気を配れるとは思えないから、定期的に掃除に入る者がいるのかもしれないとサンジは思った。
「ゾロ、入るぞ」
いちおうその場で声をかけてみたが返答は無く、事前に言われたとおりつきあたりの部屋へと向かう。左手に持ったビニールの立てる音を聞きながら、サンジは冷気が足元にわだかまる廊下を歩いた。
始業式の昨日から、ゾロは風邪で学校を休んでいたらしい。馬鹿はなんとやらなのに知恵熱かしらと、一言からかうのを忘れずにナミが教えてくれた。
寝ているかもしれないと、直接かけるか迷ってメールを送ったら、しばらくしてゾロのほうから電話があった。たいしたことねえ、まだろくな授業もねえから休んだだけだ、と話すゾロの声はしかしがらがらで、おまけに家には誰もいないと言うからサンジが黙っていられるわけはなかった。
一番奥のドアを開ければそこはリビングだった。暖房の効いた部屋の隅、大きな観葉植物の隣で加湿器が白い煙を吐いている。あまり表に物の出ていないすっきりとした空間はミホークの趣味なのだろうが、家具やカーテンは豪奢で金がかかっているのがサンジにもわかった。かと思えば誰かの土産だろうか、ところどころに動物の像やカラフルな瓶といった大きな置き物があって、そのひとつひとつには統一感がまったく無いのに、部屋全体としてはうまく調和しているのが不思議だった。
「……んなとこで寝やがって」
壁掛けの大型テレビの前、ソファからスウェットの足がはみだしている。近づけばクッションを枕がわりにして、ゾロはそこで寝息を立てていた。
ブランケットが申し訳ていどに腹を覆い、サンジはふたたび深く息を吐いて持っていた買い物袋を床に下ろした。いちど手に取って広げてからかけ直してやる。顎の近くまでひっぱりあげていると、ゾロがゆっくりと目を開けた。
焦点の合わない瞳がふらりと泳ぎ、やがて、サンジを捉えるのがわかった。やはり熱があるのか、目元がいつもより腫れぼったく、眼球の表面が水の膜を張って潤んでいる。
「悪い、起こしちまったか。すぐお粥作ってやるからちょっと、」
待ってろ、と言いかけたとき、ブランケットを握ったままだった、ちょうどゾロの肩にあたっていた手をゾロが掴んだ。強い力だった。
サンジのてのひらを引き寄せ自分の頬にあてると、冷てえ、と呟くように言い、ゾロはふたたび瞼を閉じた。顔をすこし横向け、サンジの手を握ったまま、指先に鼻を押しあてるようにしてすう、と寝息を深めていく。
安心しきった、無防備な表情だった。
「――ゾロ」
返事は無かった。皮膚に伝わる体温はとても高い。
指を動かしてみると、それに抗うようにゾロの指に力がこもった。離すまいと、まるで親の指を掴む赤ん坊の反射のようだと、思えば口元に笑みが浮かぶのを感じた。
時計に目をやって時刻を確認する。カーテンが開いたままになった窓から見える空は、さきほどよりも藍を濃くして夜の気配を深めている。明日の朝も早い、食べるものを作ったらすぐに帰るつもりだったけれど。
「……まあ、いいか」
ふかりとした毛足の長い絨毯に、腰を下ろしてゾロの寝顔をサンジは眺めた。こめかみに小さな汗の粒が浮いているのを、空いたほうの手でそっと拭ってやる。そのまま、短い髪に指を入れて梳いた。頭皮もうっすらと汗をかいて濡れていた。
「熱、下がりかけてんだな」
また、わかったことがあった。
この少年の体温はひどく心地よい。

ふ、とゾロが心地よさげに息を吐く。
熱い湿り気がサンジの手首をくすぐった。
しゅんしゅんという蒸気の音を聞きながら、ゾロが起きるまでずっと、そうしていた。







                                         (11.07.06)



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